絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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7.伝えたくて

借りた本を読み終えたのは、それから一週間後だった。

最後のページを閉じ、沙代はしばらく表紙を眺めた。

送るつもりのなかった手紙は、結局、書いた本人のところへ戻ってくる。

けれど、一度読まれた言葉まで戻せるわけではなかった。

端末を手に取る。

 

『読み終わりました。これは、話したいことがたくさんあります』

 

少しして、返事が届いた。

 

『では、歩きながら聞こうかな。もう外へ出られそう?』

『はい。今度はちゃんと元気です』

 

待ち合わせは、二日後になった。

 

 

*

 

 

駅前で槙島を見つけた時、彼は本を開いていなかった。

片手に端末を持ち、人の流れを眺めている。

沙代が近づくと、顔を向けた。

 

「こんにちは、倉橋さん」

「こんにちは。お待たせしました」

「時間どおりだよ」

 

鞄から借りた本を取り出す。

 

「ありがとうございました」

 

彼は受け取り、表紙へ一度目を落とした。

 

「折った紙は、そのまま使ったんだね」

 

しおりが端から覗いていた。

沙代は頷く。

 

「どこまで読んだか分かるので。そのまま……」

「君が使っていいよ」

 

紙片を抜いて渡され、小さく頷いて沙代は自分の鞄へしまった。

 

「今日は少し歩くけれど、大丈夫?」

「はい」

 

槙島が歩き始める。沙代も隣に並んだ。

 

 

 

*

 

「あの手紙、出さないほうがよかったんでしょうか」

 

大通りを離れたところで、沙代は尋ねた。

 

「書いた本人は、そう思っていたね」

「でも、届かなかったら相手はずっと知らないままですよね」

「彼は、それを望んでいたんだろう」

「……分かってほしいのに、知られたくないんですね」

 

槙島がこちらを見る。

 

「矛盾している?」

「少し」

「君には、そういうことはない?」

 

答えようとして、言葉が止まった。

自分のことを何も話したくないわけではなかった。

でも、どこから話せばいいか分からないことはある。

 

「……あります」

「なら、彼の気持ちも少しは分かるのかな」

「気持ちは。でも、だからって最後にあんなこと言うのは変です」

 

彼の口元がわずかに緩む。

 

「どの言葉?」

「『忘れてくれ』です」

 

交差点で立ち止まる。

 

「せっかく読んだのに、忘れるかどうかまで決められるの?」

 

言い終えて、沙代は顔を上げた。

 

「……決められるんでしょうか」

 

槙島は、言い直したところには触れなかった。

 

「君なら、何と返す?」

 

沙代は赤い信号を見つめた。

 

「忘れられないかもしれない、って言います」

「彼には、困る返事だね」

「でも、できないことは約束できないので」

 

信号が変わった。隣を歩く彼が、続ける。

 

「ずいぶん正直だ」

「言い方は考えますよ」

「今の言い方では?」

「……少し、怒ってるみたいになるから」

「実際、怒っていたんじゃない?」

 

沙代は思わず笑った。

 

「読んでる時は、ちょっと」

 

 

*

 

新しい本屋は、半地下にあった。

階段を下りると、入口に積まれた本が見える。

前の店より狭く、棚と棚の間を通るには、少し身体を横にする必要があった。

沙代は足を止めた。

 

「ここ、全部見ていいんですか?」

「売り物だからね」

「積んであるのも?」

「気になるものがあれば。ただ、崩さないように」

 

彼が入口の戸を押さえる。

 

沙代は一番上の本へ手を伸ばした。

背表紙に、小さな動物の絵がある。

 

「これ、子供向けかな」

「開いてみたら?」

 

中には短い文章と、細かな挿絵が並んでいた。

絵本より文字が多いけれど、小説ほど詰まっていない。

沙代が数行読んでいる間に、槙島は奥の棚へ移った。同じ店に来ても、ずっと隣にいるわけではない。

それが、思ったより気楽だった。

 

少し読んで戻し、別の本を開く。

今度は最初の一行からよく分からず、早々に閉じた。

三冊目を手にしたところで、背後から声がする。

 

「見つかった?」

 

槙島の手には、すでに二冊あった。

 

「候補が二つあります」

「迷っているんだね」

「はい。こっちは絵が好きで、こっちは続きが気になるので」

 

二冊を並べて見せる。彼はそれぞれの表紙を見た。

 

「両方でもいいんじゃないかな」

「……そうなんですけど」

 

買えない値段ではなかった。でも、一冊ずつ選んで帰るつもりで来たのだ。

 

「今日は一冊にしたいです」

「それなら、どちらを置いて帰るのが惜しい?」

 

沙代は二冊を見比べた。

絵のある本は、また来た時にも同じページを見たくなる。

もう一冊は、このまま帰ったら、登場人物が何をしたのか気になり続けそうだった。

 

「……こっち」

「決まったね」

 

絵のある本を、元の場所へ戻す。

表紙を覚えておこうと、もう一度見た。槙島も、その本へ視線を向けていた。

 

 

*

 

 

店を出ると、階段の上から夕方の光が差していた。

沙代は袋を胸に寄せる。家まで待たず、途中で開いてしまいそうだった。

 

「今日も、ありがとうございました」

「君が選んだ本だよ」

「でも、一人だとこの店には来られなかったです」

「道は覚えた?」

 

槙島は階段を上がりながら言った。

 

「……たぶん」

「帰りに、もう一度確かめよう」

 

沙代も上へ出た。

知らない路地だった。

来る時は本の話に夢中で、曲がった場所をあまり見ていなかった。

 

「ここ、右でしたっけ」

「左」

「あ、逆だ」

 

彼が笑う。

沙代も笑って、今度は角の建物をちゃんと見た。

 

*

 

駅までの道で、槙島は買った本の袋を持ち替えた。

沙代は隣で、今日選ばなかった本の挿絵について話している。

窓の中にも小さな絵があって、ページごとに変わっていたらしい。

 

「次に来たら、あれも買うと思います」

「その時まで残っているといいね」

「はい。……売れちゃってたら、仕方ないですけど」

 

残念そうではあったが、選び直そうとはしなかった。

少し前、手紙の話をしていた時には、敬語が途切れた。

本人は気づいて直したが、話している内容は変わらなかった。

槙島は、その時の声を思い出した。

 

ーー忘れるかどうかまで決められるの。

 

本の人物に向けた、率直な不満だった。

 

「倉橋さん」

「はい?」

「僕と話す時、そんなに言葉を整えなくてもいいよ」

沙代は瞬きをした。

「……変な言い方、してました?」

「そうじゃない。さっき、言い直しただろう」

「ああ……」

 

彼女は少し考え、鞄の持ち手を握り直した。

 

「急に変えると、それはそれで考えちゃいそうです」

「なら、変えなくていい」

「いいんですか?」

「君が話しやすければね」

 

沙代は頷いた。

しばらく歩いてから、袋を見下ろす。

 

「……あの主人公には、もうちょっと考えてから話してほしかったです」

「君には、整えなくていいと言ったばかりなんだけれど」

「それとは別です。あの人は、言った後で相手にどうにかしてもらお

うとするので」

 

槙島は彼女を見た。沙代は続けようとして、彼の表情に気づいた。

 

「……何ですか?」

「続きを聞いているんだよ」

 

それなら、と沙代はまた話し始めた。

今度は途中で、一度も言い直さなかった。

 

 

 

*

 

 

駅が近づくにつれ、人通りが増えてきた。

沙代は本の話をしながら、鞄の持ち手を握り直す。

買ったばかりの本が、中で少し傾いた。

 

「……槙島さんは、ありますか?」

「何が?」

「出した後で、言い直したくなった手紙」

 

彼は前を向いたまま、少し考えた。

 

「手紙に限らなければ、あるよ」

「言い直したんですか?」

「その時には、もう届かない相手だった」

 

沙代は顔を上げた。槙島の声は変わらなかった。

誰のことなのか、いつの話なのかも分からない。

 

「……そうですか」

 

それ以上尋ねずにいると、彼がこちらへ視線を向けた。

 

「聞かないんだね」

「聞いてもいいのか、分からなかったので」

「知りたくない?」

「それとは別です」

 

答えてから、沙代は少し迷った。

 

「本の人には、ちゃんと話せばいいのにって思いますけど。実際に目の前にいる人にも同じことを言えるかっていうと……」

「言えない?」

「話したくないこともあると思うので」

 

彼は沙代の歩調に合わせて、足を緩めた。

 

「君にも?」

 

沙代は頷いた。

 

「話したくないのか、うまく話せないのか、自分でも分からないこともあります」

 

人が横を通り過ぎる。少し端へ寄ると、槙島も隣へ移った。

 

「では、聞かれないほうがいい?」

「……ずっと聞かれないと、それはそれで話すきっかけがないかもしれ

ません」

 

言い終えて、自分で笑ってしまった。

 

「面倒ですね」

「そうかな」

 

彼の返事は短かった。

 

「聞いて、答えがなければ、その時はそこまでにすればいい」

 

沙代は彼を見た。

それなら、答えられない時に黙ってしまってもいいのだろうか。

 

「……私、すぐ答えが出ないこと、多いです」

「知っているよ」

 

その言い方がおかしくて、沙代は笑った。

 

「待つの、長くないですか」

「考えているのが分かるからね」

「分かるんですか?」

「さっきも、同じところを見ていた」

 

彼が視線で示した先には、道沿いの小さな看板があった。

何が書かれていたのか、沙代は覚えていなかった。

 

 

*

 

 

駅前まで来ると、槙島の端末が鳴った。

彼は画面を確認し、沙代へ目を向ける。

 

 

「少し、いいかな」

「はい」

 

離れた場所で通話を始める彼を待ちながら、沙代は案内板を見た。

自分が乗る路線は、階段を下りたところだった。

 

「……ああ。今から戻る」

 

声が、途切れ途切れに届く。

本の話をしている時と同じ声なのに、会話の運びが違った。相手の説明を聞いて、短く返し、必要なことを決めている。

槙島が戻ってきた。

 

「ここで失礼するよ」

「はい。今日はありがとうございました」

 

沙代は鞄へ目を落とした。

 

「また、読んだら送ります」

「ああ」

 

彼は端末をしまい、付け加えた。

 

「読んでいる途中でも」

「分かってます」

 

自然に返してから、沙代は一瞬、口を閉じた。

槙島は特に気にした様子もなく、軽く頷いた。

 

「では、また」

「……また」

 

別れた後、階段を下りながら、沙代は自分の返事を思い返した。

 

ーー分かってます。

 

少し馴れ馴れしかっただろうか。

けれど、彼は続きを待つような顔をしていなかったし、言い直す必要もなかった。

改札を通り、ホームの椅子に座る。

 

鞄から本を取り出した。

折った紙を、最初のページに挟む。今度は、自分で選んだ本だった。

 

 

*

 

 

 

「今日は延びなかったんですね」

 

戻るなり、グソンに言われた。槙島は机へ本を置いた。

 

「待っていたんだろう?」

「ええ。おかげで、今回は先方に言い訳しなくて済みましたよ」

 

資料を向けられ、槙島は椅子に座る。確認を終えるまで、本屋の話はしなかった。

ひと区切りついたところで、グソンが尋ねた。

 

「彼女、もう元気なんですか」

「今日はよく歩いていたよ」

「それなら何よりで」

 

グソンは画面へ向き直りかけ、もう一度こちらを見た。

 

「あの件は、聞いたんです?」

「火災のこと?」

「ええ」

 

槙島は、机の端に置いた本へ手を伸ばした。

 

「聞いていない」

「気になるでしょう。色相があれだけ安定してる理由も」

「君が見つけた記録だけでは、分からないね」

「だから本人に——」

「彼女自身にも、説明できるとは限らないよ」

 

グソンが口を閉じる。槙島は本を開かず、表紙に指を置いた。

今日、沙代は答えを探しながら、道沿いの看板を見ていた。

その後で、自分でも分からないことがあると言った。

その言葉が、火災についてだったかどうかは分からない。

 

「何を覚えていて、何を話せるのか。聞いてみなければ分からないけれど、今は彼女が話していることを聞けば十分だ」

「本の話ですか」

「それも含めてね」

 

グソンは少し黙ってから、肩をすくめた。

 

「ずいぶん、ゆっくりやるんですね」

 

槙島は彼を見た。

 

「何を?」

「……知り合うのをですよ」

 

その言葉に、槙島は小さく笑った。

 

「急ぐ理由があるかな」

 

グソンは返事をせず、作業へ戻った。

 

夜になって、沙代からメッセージが届いた。

 

『今日買った本、主人公がまだ家から出ません』

 

槙島は読んでいたページに指を挟み、続きを開く。

 

『旅に出る話だと思ったのに、荷造りばかりしています』

 

彼は題名を思い出した。

沙代が選んだのは、序盤に長い準備の場面がある小説だった。

 

『何を持っていくか、決まらないんだね』

返すと、ほどなく次が届く。

 

『分かるけど、三回も鞄を詰め直さなくても』

 

槙島は笑った。

画面の文章には、もう謝罪も、丁寧な前置きもなかった。

 

『君なら、何を置いていく?』

 

今度は、少し待った。

沙代が考えているのだろう。

 

『服を減らします。本は一冊だけ持っていきたいです』

『一冊に決められるかな』

『今日は決められました』

 

槙島は、店で二冊を並べていた彼女を思い出した。

 

『そうだったね』

 

返信を送り、本へ戻ろうとする。

もう一通、届いた。

 

『槙島さんなら、何を持っていきますか?』

 

彼は端末を見たまま、椅子の背にもたれた。

自分が尋ねたことを、彼女もこちらへ返してくる。

その答えを、どこまで話すか考える必要があった。しばらくして、入力する。

 

『行き先によるよ。戻るつもりがあるかどうかでも』

 

送信後、画面に小さな表示が出た。沙代が、また何かを書いている。

槙島は本にしおりを挟み、その続きを待った。

 

 

*

 

 

『行き先によるよ。戻るつもりがあるかどうかでも』

 

その返事を、沙代は二度読んだ。

膝の上には、荷造りばかりしている主人公の本がある。

彼は出発前から、帰ってきた後の予定を気にしていた。

 

『戻らないつもりだったら、全部置いていきますか?』

 

送ってから、少し考える。

 

『持っていけなくても、帰る場所にあればいいと思っていたので。戻らないなら、一冊に決めるのは難しそうです』

 

槙島は届いた文章を読み、机の上の本へ目を向けた。

 

『全部は置いていかないと思う。けれど、持っていくものは変わるだろうね』

 

少し間を置いて、続ける。

 

『君が今日選ばなかった本は、あの店にある。それも、帰る場所に置いてあるものに近いのかな』

 

返信を待つ間、グソンが隣の机で椅子を動かした。

 

「何か飲みますか」

「コーヒーを」

「あいよ」

 

端末が光る。

 

『近いかもしれません。また行けると思っているので』

 

もう一通、続いた。

 

『でも、私の本じゃないから、そのつもりでいるのは勝手ですね』

 

槙島は口元を緩めた。

 

『売れていたら、別の本を探せばいいよ』

『それはそうですけど、ちょっと残念です』

『では、次に行く理由ができたね』

 

送ってから、本を開き直した。

数行読んだところで、また通知が来た。

 

『まず、この人に出発してもらいます』

 

槙島は小さく笑った。

 

戻ってきたグソンが、カップを机に置く。

 

「まだ荷造りしてるんですか」

 

槙島が顔を上げる。

 

「見えていた?」

「えぇ、それに、前その本の話をしてましたから」

「今夜中には出るだろうね」

「そいつは何よりで」

 

グソンは自分の席へ戻った。

槙島も、その後はしばらく端末に触れなかった。

 

 

 

 

 

二時間ほど経って、沙代から短い報告が届いた。

 

『出ました』

 

続けて、もう一通。

 

『持っていくつもりだった鞄を、家に忘れました』

 

槙島は本から顔を上げた。

結末までは覚えていないが、その場面には見覚えがある。

 

『君が減らそうと言った服も、そこに入っていた?』

『はい。本も』

『では、彼は今、何を持っているんだろう』

 

沙代の返事はすぐだった。

 

『切符と、お金と、鍵です』

『帰ることはできるね』

 

少し待つ。

 

『戻りました』

 

今度は、声を出して笑ってしまった。

グソンが振り向いたので、槙島は片手を上げた。

 

「失礼」

「楽しそうで」

「ああ」

 

否定する理由はなかった。

画面には、また新しい文章が出ている。

 

『でも、鍵を持っていてよかったです。私なら、戻らないつもりだったら置いてしまうかもしれません』

 

槙島は少し考えてから、入力した。

 

『戻らないと決めても、戻れなくする必要まではないのかもしれないね』

 

 

*

 

 

沙代は、その返事を見つめた。

戻らない。戻れない。

似た言葉なのに、意味は違った。

 

本を膝に置いたまま、部屋の入口へ目を向ける。

鞄には、自分の家の鍵が入っている。

ここへ帰ってくるつもりがなければ、持っていかないと思っていた。

けれど途中で気が変わることも、忘れ物に気づくこともある。

今日の主人公は、まさにそうだった。

 

『本当ですね。決めた後で変えてもいいんですね』

 

返事が届く。

 

『変えたくなったなら』

 

沙代はその文章を読んで、端末を伏せた。

主人公が家へ戻った場面を、もう一度開く。

さっきは、あれだけ準備したのにと思って笑った。

今度は、玄関を開ける手元が気になった。

鍵を回して、中へ入る。置き忘れた鞄を持ち上げる。

それから彼は、椅子に座ってしまった。

 

「……また、出ないの?」

 

沙代は呟き、次のページをめくった。

 

 

 

*

 

 

 

翌日の午後、本を読み終えた沙代は、紙片に書いたメモを見直した。主人公は何度も引き返し、予定していた場所へは辿り着かなかった。

それでも、最後には家を出た時と違うものを持っている。

 

書きたいことは、いくつもあった。

 

一つずつ文章にして送ろうとすると、長くなる。

途中を削れば、何の場面について言っているのか分からなくなった。

沙代は入力した文章を消して、書き直した。

 

『読み終わりました。文章だと長くなりそうなので、今度会った時に

話してもいいですか?』

 

送信してから、カップを台所へ運ぶ。

戻ってきた時には、返事があった。

 

『もちろん。君は、いつが空いている?』

 

予定表を開く。

今週は特に用事がなかった。

 

『私はいつでも大丈夫です。槙島さんの都合がいい時で』

 

すぐには返ってこなかったので、本を棚へ戻した。

並べた背表紙の間に、少し余裕がある。

次に買う本も、まだ入りそうだった。

 

端末が鳴る。

 

『金曜日の午後はどうかな』

 

 

沙代は頷きながら、返事を打った。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

金曜日、槙島は待ち合わせ場所で本を読んでいた。

沙代に気づくと、閉じる前にページの端へ指を挟む。

 

「こんにちは」

「こんにちは。今日は、私のほうから呼んじゃいました」

「そうだね」

 

彼はしおりを挟んだ。

 

「どこから聞こうか」

 

沙代は鞄から本を出す。話す場所は、前と同じ喫茶店に決まっていた。

歩きながら、最初のメモを探す。

 

「まず、帰ったところです」

「最初に? それとも二度目?」

「……三度目」

 

槙島が笑った。

 

「君が選んだ主人公は、なかなか忙しいね」

「私も、こんなに帰るとは思いませんでした」

 

沙代も笑った。店へ向かう道は、もう覚えていた。

本を開いたまま曲がろうとして、槙島に呼び止められる。

 

「そちらは、前の本屋だよ」

「あ」

 

顔を上げる。

 

「覚えたと思ったのに」

「本を閉じてみたら?」

 

沙代は言われたとおりに閉じた。

正しい道へ向き直る。

 

「槙島さんも、読みながら迷うことありますか?」

「立ち止まることはあるね」

「じゃあ、迷わないんですか」

「止まっている間は、道を間違えないから」

 

少し考えて、沙代は彼を見た。

 

「……それ、ずるくないですか」

「君も試していいよ」

 

彼は楽しそうだった。

沙代は本を鞄へしまい、今度こそ隣へ並んだ。




ーー頭でも打ったのか?……これが悪い方向に行かなければいいんですけどね
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