絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

9 / 28
今思えば、いい思い出だったかな。なんてね。


8.怖かったことだけにしない

 

 

 

「あ、見えましたよお店」

 

喫茶店の看板が見えたところで、悲鳴が上がった。

 

沙代は足を止めた。

 

前を歩いていた人が振り返る。その向こうで、誰かが転んだ。

 

「下がって!」

 

鋭い声が響いた。

人の流れが、急にこちらへ向かってきた。

沙代は一歩よけようとして、肩をぶつけられる。

 

鞄が腕から滑りかけた。槙島の手が、肘を捉えた。

 

「こちらへ」

 

短い言葉と一緒に、建物の壁際へ引かれる。

ついさっきまで穏やかに歩いていた道が、人の背中で埋まっていた。

 

その隙間に、刃物を持った男が見えた。

腕を振り上げる。逃げようとした人が、車道へ飛び出した。

沙代の呼吸が止まった。槙島が半歩前へ出る。

彼の肩越しにしか、通りが見えなくなった。

 

「倉橋さん」

 

呼ばれても、すぐには顔を向けられなかった。

男が、何か叫んでいる。言葉は聞き取れない。

けれど、その声だけが妙に近かった。

耳の奥に、違う音が重なる。誰かが怒鳴っている。

どこかで、硬い物が倒れる。

息を吸おうとして、うまく入らなかった。

 

 

「……あ」

 

槙島がこちらを見た。

沙代は自分の腕を掴んでいた。

 

指先に力を込めているのに、足元の感覚が薄い。

何を見ているのか、分からなくなりかけた。今、目の前にいるのは槙島だった。

本屋へ一緒に行って、今日も本の話をするはずだった人。

そのことを、頭の中で繰り返す。

 

「歩ける?」

 

彼の声が届いた。

沙代は頷こうとして、首を少し動かした。

 

「……はい」

 

槙島は肘から手を離さず、脇の入口へ向きを変えた。

店員が、扉を開けて中の人を奥へ誘導している。

その横を通って、店内へ入った。

 

「外に出ないでください!」

 

背後で扉が閉まった。

 

 

*

 

 

店の奥へ進むと、通りの様子はほとんど見えなくなった。

沙代は壁に手をついた。身体はここにある。

床も、壁も、触れば分かる。

それなのに、耳の中ではまだ誰かが叫んでいた。

 

「座ろうか」

 

槙島が椅子を引いた。沙代は腰を下ろす。

鞄を膝に置き、その持ち手を両手で握った。

店内でも声が飛び交っていた。

通報する人。外を確認しようとする人。誰かの名前を呼ぶ人。

槙島は入口へ目を向けた後、隣の椅子に座った。

 

「怪我は?」

 

沙代は首を横に振る。

 

「……ないです」

「腕は?」

 

肘を見た。

掴まれていたところに、痛みはなかった。

 

「大丈夫」

 

彼は頷いた。

それから少しの間、何も尋ねなかった。

沙代は鞄の持ち手を見ていた。

縫い目の数を、端から目で辿る。

 

一本。

二本。

途中で、どこまで数えたか分からなくなる。

 

「倉橋さん」

 

顔を上げる。

槙島の目が、こちらを見ていた。

いつもと違って、笑っていない。

 

「僕の声は、聞こえているね」

 

沙代は頷いた。

 

「ここは店の中だ。男は外にいる」

 

扉のほうを見ようとすると、彼が続けた。

 

「確かめに行かなくていい」

 

沙代は視線を戻した。

自分が立とうとしていたことに、その時初めて気づいた。

通りから、騒がしい足音が聞こえた。

店員が入口で誰かと話している。公安が来たらしい。

沙代は顔を上げかけ、また膝へ目を落とした。

もう少ししたら、帰れる。そう思ったのに、胸のあたりが苦しかった。

 

「……ごめんなさい」

 

槙島がこちらを見る。

 

「何に?」

「私、動けなくなって」

「だから、座っている」

 

その返事に、沙代は口を閉じた。

彼は鞄を指さした。

 

「本は、落とさなかった?」

 

沙代は慌てて鞄を開いた。

本があった。紙のしおりも、挟まっている。

表紙に指を置く。

 

「……ありました」

「そう」

 

槙島はそれだけ答えた。

沙代は本を取り出し、膝へ置いた。さっきまで話していた、何度も家へ戻る主人公。

こんな時なのに、妙なところを開いてしまった。

主人公が、忘れた鞄を取りに帰っている。指先の震えで、ページが小さく鳴った。

槙島の視線が、その手元へ落ちる。

 

「今は、読まなくてもいいよ」

「……はい」

 

けれど、しまう気にはなれなかった。

 

 

*

 

 

しばらくして、男の身柄が確保されたと知らされた。

外へ出るには、別の出口を使うよう言われる。

店員が奥の扉を開け、人を少しずつ誘導し始めた。

槙島が立ち上がる。

 

「歩けそう?」

 

沙代は本を鞄へ戻した。

 

「……もう、大丈夫です」

 

立ってみると、膝が頼りなかった。

それでも、一歩ずつなら進める。槙島は先へ急がなかった。

 

裏口から出ると、細い路地に午後の光が差していた。

表通りの声は、建物に遮られて遠かった。

沙代はようやく、長く息を吐いた。

 

「さっき……」

 

言いかけて、止まる。

槙島が待っている。

 

「声が、変に聞こえて」

「男の声?」

 

沙代は頷いた。

 

「でも、何を言ってたかは分からなくて。……それなのに」

 

続きを考えようとすると、また耳の奥がざわついた。

彼女は目を伏せる。

 

「すみません。説明、できないです」

「今、する必要はないよ」

 

槙島は、路地の出口を見た。

 

「今日は帰ろう」

「でも、本の話——」

 

彼の視線が戻ってきた。

 

「本は、君の鞄にある」

 

沙代は持ち手を握った。

 

「また持ってこられるだろう?」

 

「……はい」

 

 

*

 

 

 

駅へ向かう途中、槙島は歩く速さを落とした。

沙代は道の先を見ている。

誰かが大きな声を出すたび、肩がわずかに動いた。

 

火災の記録が、頭をよぎる。何が彼女の中で重なったのか。

その答えを、今ここで尋ねるつもりはなかった。

信号待ちで立ち止まると、沙代が小さく言った。

 

「槙島さん、あまり驚いてなかったですね」

 

彼は彼女を見る。

 

「君には、そう見えた?」

「……私だけ、何も分からなくなっちゃったので」

 

槙島は、通りの向こうへ目を向けた。

 

「分かっていないことは、僕にもあったよ」

「何ですか?」

「君の返事が、急に遠くなったこと」

 

沙代は黙った。

信号が変わる。

槙島はすぐには歩き出さなかった。

彼女がこちらを見るのを待ち、それから言った。

 

「今は、聞こえている?」

 

沙代は頷いた。

 

「聞こえてます」

「では、行こう」

 

二人は、同じ速さで横断歩道を渡った。

 

 

*

 

 

 

歩いた先で、避難してきた人たちの確認が行われていた。

槙島が少し離れて連絡を取る間、沙代は係員に名前を告げ、怪我がないことを答えた。

携帯型のスキャナーが色相を確かめる。問題はないと告げられたが、指先にはまだ力が入っていた。

 

確認が終わる頃、槙島が戻ってきた。

確認を終えて通りへ戻ると、さっきの騒ぎが嘘のように、駅へ向かう人たちが歩いていた。

 

沙代は鞄を肩にかけ直した。

隣に槙島がいることを確かめてから、歩き始める。

少し先で、彼が口を開いた。

 

「君は、トラブルが多すぎるね」

 

沙代は顔を上げた。

 

「えぇ……まだ熱と通り魔だけですよ」

 

槙島がこちらを見る。

 

「まだ?」

「……今のなしです。これから増えるみたい」

 

彼の口元が緩んだ。

 

「短い間に、二度もあった」

「通り魔は、私のせいじゃないです」

「そうだね」

「熱だって、好きで出したわけじゃないし」

「けれど、あれは連絡できただろう」

 

沙代は少し黙った。

そこを言われると、返す言葉がなかった。

 

「……次は送ります」

「それは聞いたよ」

「覚えてます。ちゃんと」

 

彼は頷いた。

歩いているうちに、駅前の案内板が見えてくる。

今日は本の話をするはずだったのに、鞄から出したのは、あの店の中で一度だけだった。

 

沙代は持ち手へ目を落とす。

 

「槙島さんこそ、私といる時に限って、こんなことに巻き込まれてますね」

「僕がいない時には、何もない?」

「……今日は、いない時に起きなくてよかったです」

 

口にしてから、沙代は前を向いた。

一人だったら、あの場所で動けないままだったかもしれない。

肘を掴まれた感覚は、まだ残っていた。隣で、槙島が足を緩める。

 

「なら、今日の予定にも意味はあったね」

 

沙代は彼を見る。

 

「本の話、できてないのに?」

「君がここまで歩いている」

 

それだけ言って、彼は駅の入口へ視線を戻した。

沙代も、つられてそちらを見る。

いつもの階段。改札の音。急いで通り過ぎていく人の足音。

今度は、それぞれがちゃんと別の音に聞こえた。

 

「……次は、何も起きないといいですね」

「主人公には、何か起きるだろうけれど」

 

鞄の本を見て、沙代は小さく笑った。

 

「あの人、もう十分起きてます」

「では、君の話を聞くだけにしよう」

「はい」

 

階段の手前で立ち止まる。

今日はここで別れるのだと思ったが、槙島も一緒に下り始めた。

 

「同じ方向でしたっけ?」

「君の駅まで、付き合うよ」

「……またトラブルが起きると思ってます?」

 

彼が振り向いた。

 

「三度目まで、今日の予定に入れるつもりはないんだけれど」

「私もないです」

 

沙代は少しだけ笑って、隣へ並んだ。

 

 

 

*

 

 

電車を待つ間、沙代はホームの向こうを見ていた。

ここまで来ると、さっきの騒ぎがずいぶん遠く感じられた。

鞄の持ち手を握る指も、もう震えていない。

 

「槙島さんといると楽しいです、すごく」

 

隣で、槙島が顔を向けた。

 

「今日も?」

 

沙代は少し考えた。

 

「怖かったですけど。……そこは、別です」

 

彼は続きを待っていた。

 

「本の話だけじゃなくて、歩いてる時とか。さっきみたいに、ちょっと意地悪を言われるのも」

「意地悪だったかな」

「トラブルが多すぎるって、ひどいです」

 

沙代が笑うと、彼もわずかに口元を緩めた。

 

「でも、あれで普通に返事できたんです。まだ、熱と通り魔だけだって」

 

言いながら、自分でもおかしくなった。

 

「だから、今日も楽しかったところはあります」

 

槙島は、沙代の顔を見ていた。

返事がないので、彼女は少し首を傾ける。

 

「……なんか、変なこと言いました?」

「いや。君は、楽しかったところをちゃんと残すんだね」

 

沙代は鞄へ目を落とした。

 

「怖かったことだけになったら、もったいないので」

 

電車の到着を知らせる音が鳴る。

二人は扉の位置へ歩いた。

 

「槙島さんは?」

「うん?」

「私と話してて、楽しいですか」

 

彼は沙代を見た。

 

「楽しくなければ、何度も誘わないよ」

「あ……そっか」

 

沙代は素直に頷いた。その返事で十分だった。

扉が開くと、乗り込む人の流れに合わせて足を進める。

二人で並んで座ってから、沙代はまた鞄を開いた。

 

「じゃあ、一つだけ話してもいいですか」

「本の?」

「はい。三度目に家へ戻ったところ」

 

 

槙島は、彼女が取り出した本へ視線を落とした。

その横顔には、さっきまであった強張りが少し残っている。

けれど、ページを開く手つきはいつもと同じだった。

 

「聞こうか」

 

沙代がメモを探し始める。

槙島はその間、言いかけていた返事を思い返した。

楽しくなければ、誘わない。間違いではなかった。

ただ、彼女が今知りたかったのは、それより簡単なことだったのかも

しれない。

 

「倉橋さん」

「はい?」

 

顔を上げた彼女へ、槙島は言った。

 

「僕も、君と話すのは楽しいよ」

 

沙代は一度瞬きをして、それから笑った。

 

「……よかった」

 

膝の上で、開いたページを押さえ直す。

 

 

 

*

 

 

 

沙代の話が終わる前に、電車は降りる駅へ着いた。

 

「……もう着いちゃった」

 

開いた本を閉じ、鞄へ戻す。

槙島も立ち上がった。

ホームに下りると、昼間より風が冷たかった。沙代は袖の中へ指先を引っ込める。

 

「ここからは近いので、大丈夫です」

「そう」

 

槙島は改札まで歩いてから、尋ねた。

 

「帰ったら、何をする?」

「何……」

 

少し考えた。

 

「お茶を淹れると思います。あと、本の続きを……あ、もう読み終わったんだった」

 

彼が小さく笑う。

 

「読み返す?」

「たぶん。今日、話せなかったところもあるので」

 

答えながら、沙代は駅の外を見た。

いつも使う道だった。さっきまで通り魔がいた場所とは、離れている。

それでも、横を走っていった人の足音に、肩が少し動いた。

槙島の視線が、そちらへ向いた。

 

「家まで行こうか」

 

沙代は顔を上げる。

 

「……いいんですか?」

「ああ。道も知っている」

「じゃあ、お願いします」

 

今度は、断る理由を探さなかった。

 

 

 

 

 

歩いている途中、槙島の端末が鳴った。

画面を見た彼は、沙代から少し離れて通話に出る。

 

「……用件は」

 

沙代は街路樹の脇で待った。鞄から端末を出し、時刻を確認する。

彼の声が聞こえていたが、言葉までは拾わなかった。

 

「その話は、戻ってからにしよう」

 

短い沈黙。

 

「今は、そちらへ行けない。詳しいことは送らなくていい」

 

通話が終わった。

戻ってきた彼へ、沙代は端末をしまいながら尋ねた。

 

「お仕事?」

「ああ」

「今日は、本当にごめんなさい」

「君が謝る相手は、僕ではないだろうね」

「……通り魔ですか」

「彼に謝るつもりだった?」

 

沙代は目を丸くした。

 

「ないです」

 

槙島が笑う。

 

「では、謝るのはやめておこう」

 

沙代も、少しだけ笑った。何の仕事なのかは、前から知らなかった。

出かける予定があって、人から連絡が来る。

そのくらいしか聞いていない。

尋ねようと思えば、今だったのかもしれない。

けれど今日は、彼が隣へ戻ってきたことのほうがありがたかった。

 

 

*

 

 

玄関を開けると、いつもの部屋があった。

窓際の棚。ソファにかかった膝掛け。

朝、洗って伏せておいたカップ。

沙代は靴を脱いでから、ようやく鞄を肩から下ろした。

 

「……帰ってきた」

 

小さな声が、廊下に落ちる。

槙島は入口に立ったまま、彼女を見ていた。

 

「お茶、飲んでいきますか」

「今日は、君が休むほうが先かな」

 

沙代は頷いた。

誘っておきながら、自分でも少し疲れていた。

 

「じゃあ、また今度」

「ああ」

 

彼は扉の外へ一歩出た。

 

「今夜、何か気になることがあれば連絡して」

 

沙代は彼の顔を見る。

 

「本のことじゃなくても?」

 

槙島は、わずかに眉を動かした。

 

「それは、前にも話したね」

「……そうでした」

 

沙代は笑い、鞄の持ち手を両手で握った。

 

「今日は、ありがとうございました」

「では、また。倉橋さん」

 

扉が閉まる。

鍵をかけ、その場で一度息を吐いた。

さっきまで誰かが隣にいたぶん、部屋の静けさがはっきりした。

けれど、嫌な静けさではなかった。

鞄から本を出し、ソファへ座る。すぐには開かず、表紙に手を置いた。

しばらくして、端末に短く打った。

 

『ちゃんと家に着きました』

 

送ってから、玄関まで来てもらったことを思い出す。

 

『知ってますね』

 

返信は、ほどなく届いた。

 

『うん。見届けたからね』

 

沙代はその文章を読んで、ようやく本を開いた。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

槙島が戻った時、グソンは端末を手に待っていた。

 

「やっと戻りましたか」

「ああ」

「事件に巻き込まれたそうで。怪我は?」

「二人とも、ないよ」

 

グソンは頷き、画面を向けかける。

槙島はその前に、自分の端末を机へ伏せた。

 

「さっきの件は?」

「予定は変えました。ただ、向こうが理由を聞きたがってましてね」

「こちらの都合だと伝えて」

「それは伝えましたよ」

 

グソンは肩をすくめる。

 

「倉橋さんと一緒だったんですか」

「ああ」

「運が悪いですね、彼女も」

 

槙島はコートを脱ぎ、椅子へかけた。

 

「それは、本人にも言ったよ」

「何て?」

「熱と通り魔だけだと」

 

グソンが短く笑った。

 

「十分でしょう」

「そうだね」

 

槙島は机へ座り、差し出された資料を見た。

今日の予定。変更した場所。連絡を取る相手。

沙代と歩いていた道は、そのどこにも載っていない。

 

「彼女の名前は、向こうには出さないでおいて」

 

グソンの表情が少し変わった。

 

「出してませんよ。こちらの話も、彼女には?」

「していない」

「今後も?」

 

槙島は資料から顔を上げた。

 

「彼女に聞かせる必要のある話かな」

 

グソンは一度こちらを見て、それから画面へ視線を戻した。

 

「……了解です」

 

確認は、それで終わった。

 

 

*

 

仕事の話が片づいた後、槙島は伏せていた端末を取った。

沙代から、もう一通届いている。

 

『主人公、最後は家に帰れてよかったと思います』

 

少し考えて、返した。

 

『君も、そう思えたんだね』

 

画面を置き、本棚へ手を伸ばす。

今日、聞けなかった場面を開く。

主人公は長い道を戻り、家の前で鍵を探していた。

彼女がそこをどう読んだのかは、まだ聞いていない。

次に会った時は、その話から始めよう。

 

 

机の反対側には、さっきまで確認していた資料が置かれていた。

槙島は本を開いたまま、資料を引き出しへしまった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。