「あ、見えましたよお店」
喫茶店の看板が見えたところで、悲鳴が上がった。
沙代は足を止めた。
前を歩いていた人が振り返る。その向こうで、誰かが転んだ。
「下がって!」
鋭い声が響いた。
人の流れが、急にこちらへ向かってきた。
沙代は一歩よけようとして、肩をぶつけられる。
鞄が腕から滑りかけた。槙島の手が、肘を捉えた。
「こちらへ」
短い言葉と一緒に、建物の壁際へ引かれる。
ついさっきまで穏やかに歩いていた道が、人の背中で埋まっていた。
その隙間に、刃物を持った男が見えた。
腕を振り上げる。逃げようとした人が、車道へ飛び出した。
沙代の呼吸が止まった。槙島が半歩前へ出る。
彼の肩越しにしか、通りが見えなくなった。
「倉橋さん」
呼ばれても、すぐには顔を向けられなかった。
男が、何か叫んでいる。言葉は聞き取れない。
けれど、その声だけが妙に近かった。
耳の奥に、違う音が重なる。誰かが怒鳴っている。
どこかで、硬い物が倒れる。
息を吸おうとして、うまく入らなかった。
「……あ」
槙島がこちらを見た。
沙代は自分の腕を掴んでいた。
指先に力を込めているのに、足元の感覚が薄い。
何を見ているのか、分からなくなりかけた。今、目の前にいるのは槙島だった。
本屋へ一緒に行って、今日も本の話をするはずだった人。
そのことを、頭の中で繰り返す。
「歩ける?」
彼の声が届いた。
沙代は頷こうとして、首を少し動かした。
「……はい」
槙島は肘から手を離さず、脇の入口へ向きを変えた。
店員が、扉を開けて中の人を奥へ誘導している。
その横を通って、店内へ入った。
「外に出ないでください!」
背後で扉が閉まった。
*
店の奥へ進むと、通りの様子はほとんど見えなくなった。
沙代は壁に手をついた。身体はここにある。
床も、壁も、触れば分かる。
それなのに、耳の中ではまだ誰かが叫んでいた。
「座ろうか」
槙島が椅子を引いた。沙代は腰を下ろす。
鞄を膝に置き、その持ち手を両手で握った。
店内でも声が飛び交っていた。
通報する人。外を確認しようとする人。誰かの名前を呼ぶ人。
槙島は入口へ目を向けた後、隣の椅子に座った。
「怪我は?」
沙代は首を横に振る。
「……ないです」
「腕は?」
肘を見た。
掴まれていたところに、痛みはなかった。
「大丈夫」
彼は頷いた。
それから少しの間、何も尋ねなかった。
沙代は鞄の持ち手を見ていた。
縫い目の数を、端から目で辿る。
一本。
二本。
途中で、どこまで数えたか分からなくなる。
「倉橋さん」
顔を上げる。
槙島の目が、こちらを見ていた。
いつもと違って、笑っていない。
「僕の声は、聞こえているね」
沙代は頷いた。
「ここは店の中だ。男は外にいる」
扉のほうを見ようとすると、彼が続けた。
「確かめに行かなくていい」
沙代は視線を戻した。
自分が立とうとしていたことに、その時初めて気づいた。
通りから、騒がしい足音が聞こえた。
店員が入口で誰かと話している。公安が来たらしい。
沙代は顔を上げかけ、また膝へ目を落とした。
もう少ししたら、帰れる。そう思ったのに、胸のあたりが苦しかった。
「……ごめんなさい」
槙島がこちらを見る。
「何に?」
「私、動けなくなって」
「だから、座っている」
その返事に、沙代は口を閉じた。
彼は鞄を指さした。
「本は、落とさなかった?」
沙代は慌てて鞄を開いた。
本があった。紙のしおりも、挟まっている。
表紙に指を置く。
「……ありました」
「そう」
槙島はそれだけ答えた。
沙代は本を取り出し、膝へ置いた。さっきまで話していた、何度も家へ戻る主人公。
こんな時なのに、妙なところを開いてしまった。
主人公が、忘れた鞄を取りに帰っている。指先の震えで、ページが小さく鳴った。
槙島の視線が、その手元へ落ちる。
「今は、読まなくてもいいよ」
「……はい」
けれど、しまう気にはなれなかった。
*
しばらくして、男の身柄が確保されたと知らされた。
外へ出るには、別の出口を使うよう言われる。
店員が奥の扉を開け、人を少しずつ誘導し始めた。
槙島が立ち上がる。
「歩けそう?」
沙代は本を鞄へ戻した。
「……もう、大丈夫です」
立ってみると、膝が頼りなかった。
それでも、一歩ずつなら進める。槙島は先へ急がなかった。
裏口から出ると、細い路地に午後の光が差していた。
表通りの声は、建物に遮られて遠かった。
沙代はようやく、長く息を吐いた。
「さっき……」
言いかけて、止まる。
槙島が待っている。
「声が、変に聞こえて」
「男の声?」
沙代は頷いた。
「でも、何を言ってたかは分からなくて。……それなのに」
続きを考えようとすると、また耳の奥がざわついた。
彼女は目を伏せる。
「すみません。説明、できないです」
「今、する必要はないよ」
槙島は、路地の出口を見た。
「今日は帰ろう」
「でも、本の話——」
彼の視線が戻ってきた。
「本は、君の鞄にある」
沙代は持ち手を握った。
「また持ってこられるだろう?」
「……はい」
*
駅へ向かう途中、槙島は歩く速さを落とした。
沙代は道の先を見ている。
誰かが大きな声を出すたび、肩がわずかに動いた。
火災の記録が、頭をよぎる。何が彼女の中で重なったのか。
その答えを、今ここで尋ねるつもりはなかった。
信号待ちで立ち止まると、沙代が小さく言った。
「槙島さん、あまり驚いてなかったですね」
彼は彼女を見る。
「君には、そう見えた?」
「……私だけ、何も分からなくなっちゃったので」
槙島は、通りの向こうへ目を向けた。
「分かっていないことは、僕にもあったよ」
「何ですか?」
「君の返事が、急に遠くなったこと」
沙代は黙った。
信号が変わる。
槙島はすぐには歩き出さなかった。
彼女がこちらを見るのを待ち、それから言った。
「今は、聞こえている?」
沙代は頷いた。
「聞こえてます」
「では、行こう」
二人は、同じ速さで横断歩道を渡った。
*
歩いた先で、避難してきた人たちの確認が行われていた。
槙島が少し離れて連絡を取る間、沙代は係員に名前を告げ、怪我がないことを答えた。
携帯型のスキャナーが色相を確かめる。問題はないと告げられたが、指先にはまだ力が入っていた。
確認が終わる頃、槙島が戻ってきた。
確認を終えて通りへ戻ると、さっきの騒ぎが嘘のように、駅へ向かう人たちが歩いていた。
沙代は鞄を肩にかけ直した。
隣に槙島がいることを確かめてから、歩き始める。
少し先で、彼が口を開いた。
「君は、トラブルが多すぎるね」
沙代は顔を上げた。
「えぇ……まだ熱と通り魔だけですよ」
槙島がこちらを見る。
「まだ?」
「……今のなしです。これから増えるみたい」
彼の口元が緩んだ。
「短い間に、二度もあった」
「通り魔は、私のせいじゃないです」
「そうだね」
「熱だって、好きで出したわけじゃないし」
「けれど、あれは連絡できただろう」
沙代は少し黙った。
そこを言われると、返す言葉がなかった。
「……次は送ります」
「それは聞いたよ」
「覚えてます。ちゃんと」
彼は頷いた。
歩いているうちに、駅前の案内板が見えてくる。
今日は本の話をするはずだったのに、鞄から出したのは、あの店の中で一度だけだった。
沙代は持ち手へ目を落とす。
「槙島さんこそ、私といる時に限って、こんなことに巻き込まれてますね」
「僕がいない時には、何もない?」
「……今日は、いない時に起きなくてよかったです」
口にしてから、沙代は前を向いた。
一人だったら、あの場所で動けないままだったかもしれない。
肘を掴まれた感覚は、まだ残っていた。隣で、槙島が足を緩める。
「なら、今日の予定にも意味はあったね」
沙代は彼を見る。
「本の話、できてないのに?」
「君がここまで歩いている」
それだけ言って、彼は駅の入口へ視線を戻した。
沙代も、つられてそちらを見る。
いつもの階段。改札の音。急いで通り過ぎていく人の足音。
今度は、それぞれがちゃんと別の音に聞こえた。
「……次は、何も起きないといいですね」
「主人公には、何か起きるだろうけれど」
鞄の本を見て、沙代は小さく笑った。
「あの人、もう十分起きてます」
「では、君の話を聞くだけにしよう」
「はい」
階段の手前で立ち止まる。
今日はここで別れるのだと思ったが、槙島も一緒に下り始めた。
「同じ方向でしたっけ?」
「君の駅まで、付き合うよ」
「……またトラブルが起きると思ってます?」
彼が振り向いた。
「三度目まで、今日の予定に入れるつもりはないんだけれど」
「私もないです」
沙代は少しだけ笑って、隣へ並んだ。
*
電車を待つ間、沙代はホームの向こうを見ていた。
ここまで来ると、さっきの騒ぎがずいぶん遠く感じられた。
鞄の持ち手を握る指も、もう震えていない。
「槙島さんといると楽しいです、すごく」
隣で、槙島が顔を向けた。
「今日も?」
沙代は少し考えた。
「怖かったですけど。……そこは、別です」
彼は続きを待っていた。
「本の話だけじゃなくて、歩いてる時とか。さっきみたいに、ちょっと意地悪を言われるのも」
「意地悪だったかな」
「トラブルが多すぎるって、ひどいです」
沙代が笑うと、彼もわずかに口元を緩めた。
「でも、あれで普通に返事できたんです。まだ、熱と通り魔だけだって」
言いながら、自分でもおかしくなった。
「だから、今日も楽しかったところはあります」
槙島は、沙代の顔を見ていた。
返事がないので、彼女は少し首を傾ける。
「……なんか、変なこと言いました?」
「いや。君は、楽しかったところをちゃんと残すんだね」
沙代は鞄へ目を落とした。
「怖かったことだけになったら、もったいないので」
電車の到着を知らせる音が鳴る。
二人は扉の位置へ歩いた。
「槙島さんは?」
「うん?」
「私と話してて、楽しいですか」
彼は沙代を見た。
「楽しくなければ、何度も誘わないよ」
「あ……そっか」
沙代は素直に頷いた。その返事で十分だった。
扉が開くと、乗り込む人の流れに合わせて足を進める。
二人で並んで座ってから、沙代はまた鞄を開いた。
「じゃあ、一つだけ話してもいいですか」
「本の?」
「はい。三度目に家へ戻ったところ」
槙島は、彼女が取り出した本へ視線を落とした。
その横顔には、さっきまであった強張りが少し残っている。
けれど、ページを開く手つきはいつもと同じだった。
「聞こうか」
沙代がメモを探し始める。
槙島はその間、言いかけていた返事を思い返した。
楽しくなければ、誘わない。間違いではなかった。
ただ、彼女が今知りたかったのは、それより簡単なことだったのかも
しれない。
「倉橋さん」
「はい?」
顔を上げた彼女へ、槙島は言った。
「僕も、君と話すのは楽しいよ」
沙代は一度瞬きをして、それから笑った。
「……よかった」
膝の上で、開いたページを押さえ直す。
*
沙代の話が終わる前に、電車は降りる駅へ着いた。
「……もう着いちゃった」
開いた本を閉じ、鞄へ戻す。
槙島も立ち上がった。
ホームに下りると、昼間より風が冷たかった。沙代は袖の中へ指先を引っ込める。
「ここからは近いので、大丈夫です」
「そう」
槙島は改札まで歩いてから、尋ねた。
「帰ったら、何をする?」
「何……」
少し考えた。
「お茶を淹れると思います。あと、本の続きを……あ、もう読み終わったんだった」
彼が小さく笑う。
「読み返す?」
「たぶん。今日、話せなかったところもあるので」
答えながら、沙代は駅の外を見た。
いつも使う道だった。さっきまで通り魔がいた場所とは、離れている。
それでも、横を走っていった人の足音に、肩が少し動いた。
槙島の視線が、そちらへ向いた。
「家まで行こうか」
沙代は顔を上げる。
「……いいんですか?」
「ああ。道も知っている」
「じゃあ、お願いします」
今度は、断る理由を探さなかった。
歩いている途中、槙島の端末が鳴った。
画面を見た彼は、沙代から少し離れて通話に出る。
「……用件は」
沙代は街路樹の脇で待った。鞄から端末を出し、時刻を確認する。
彼の声が聞こえていたが、言葉までは拾わなかった。
「その話は、戻ってからにしよう」
短い沈黙。
「今は、そちらへ行けない。詳しいことは送らなくていい」
通話が終わった。
戻ってきた彼へ、沙代は端末をしまいながら尋ねた。
「お仕事?」
「ああ」
「今日は、本当にごめんなさい」
「君が謝る相手は、僕ではないだろうね」
「……通り魔ですか」
「彼に謝るつもりだった?」
沙代は目を丸くした。
「ないです」
槙島が笑う。
「では、謝るのはやめておこう」
沙代も、少しだけ笑った。何の仕事なのかは、前から知らなかった。
出かける予定があって、人から連絡が来る。
そのくらいしか聞いていない。
尋ねようと思えば、今だったのかもしれない。
けれど今日は、彼が隣へ戻ってきたことのほうがありがたかった。
*
玄関を開けると、いつもの部屋があった。
窓際の棚。ソファにかかった膝掛け。
朝、洗って伏せておいたカップ。
沙代は靴を脱いでから、ようやく鞄を肩から下ろした。
「……帰ってきた」
小さな声が、廊下に落ちる。
槙島は入口に立ったまま、彼女を見ていた。
「お茶、飲んでいきますか」
「今日は、君が休むほうが先かな」
沙代は頷いた。
誘っておきながら、自分でも少し疲れていた。
「じゃあ、また今度」
「ああ」
彼は扉の外へ一歩出た。
「今夜、何か気になることがあれば連絡して」
沙代は彼の顔を見る。
「本のことじゃなくても?」
槙島は、わずかに眉を動かした。
「それは、前にも話したね」
「……そうでした」
沙代は笑い、鞄の持ち手を両手で握った。
「今日は、ありがとうございました」
「では、また。倉橋さん」
扉が閉まる。
鍵をかけ、その場で一度息を吐いた。
さっきまで誰かが隣にいたぶん、部屋の静けさがはっきりした。
けれど、嫌な静けさではなかった。
鞄から本を出し、ソファへ座る。すぐには開かず、表紙に手を置いた。
しばらくして、端末に短く打った。
『ちゃんと家に着きました』
送ってから、玄関まで来てもらったことを思い出す。
『知ってますね』
返信は、ほどなく届いた。
『うん。見届けたからね』
沙代はその文章を読んで、ようやく本を開いた。
*
槙島が戻った時、グソンは端末を手に待っていた。
「やっと戻りましたか」
「ああ」
「事件に巻き込まれたそうで。怪我は?」
「二人とも、ないよ」
グソンは頷き、画面を向けかける。
槙島はその前に、自分の端末を机へ伏せた。
「さっきの件は?」
「予定は変えました。ただ、向こうが理由を聞きたがってましてね」
「こちらの都合だと伝えて」
「それは伝えましたよ」
グソンは肩をすくめる。
「倉橋さんと一緒だったんですか」
「ああ」
「運が悪いですね、彼女も」
槙島はコートを脱ぎ、椅子へかけた。
「それは、本人にも言ったよ」
「何て?」
「熱と通り魔だけだと」
グソンが短く笑った。
「十分でしょう」
「そうだね」
槙島は机へ座り、差し出された資料を見た。
今日の予定。変更した場所。連絡を取る相手。
沙代と歩いていた道は、そのどこにも載っていない。
「彼女の名前は、向こうには出さないでおいて」
グソンの表情が少し変わった。
「出してませんよ。こちらの話も、彼女には?」
「していない」
「今後も?」
槙島は資料から顔を上げた。
「彼女に聞かせる必要のある話かな」
グソンは一度こちらを見て、それから画面へ視線を戻した。
「……了解です」
確認は、それで終わった。
*
仕事の話が片づいた後、槙島は伏せていた端末を取った。
沙代から、もう一通届いている。
『主人公、最後は家に帰れてよかったと思います』
少し考えて、返した。
『君も、そう思えたんだね』
画面を置き、本棚へ手を伸ばす。
今日、聞けなかった場面を開く。
主人公は長い道を戻り、家の前で鍵を探していた。
彼女がそこをどう読んだのかは、まだ聞いていない。
次に会った時は、その話から始めよう。
机の反対側には、さっきまで確認していた資料が置かれていた。
槙島は本を開いたまま、資料を引き出しへしまった。