──魔王城──
「~♪」
ピカピカに磨かれた石造りの廊下を、あどけない笑顔の少女がスキップしていました。
彼女の名前はフェリス。
魔界の長である魔王の末娘です。
頭の右に生えた赤い角には父の、左側に咲いた小さな水色の花には母の面影があります。
そんなフェリスは、小さな身体には少し大きなブラシを両手で抱えています。
スキップするたびに、黒いワンピースがふわりと跳ねました。
「フェリス様、私がお持ちしますよ~?」
少し後ろを歩いていた侍女が声をかけます。
彼女は羊魔族のメルシェ。
ふわふわの白毛と尖った耳が特徴的な、フェリスのお世話係の一人です。
「だいじょうぶ! わえがもつ!」
「そうですか~? ではあの門も開けられますかね~?」
メルシェが指さす先には、見るからに重そうな門がありました。
「ふっふっふ、わえのちからをみせてやろう!」
自信満々に胸を張ったフェリスは、ブラシを脇に抱え、両手を門につきます。
「ふんっ! うおおー! ひらけー!!」
ぐぐぐ、と全身で押します。
しかし門はうんともすんとも言いません。
魔王城の門が五歳児の力で開くはずもありません。
「……《
背後でメルシェがこっそり魔法を唱えました。
フェリスの身体が淡く光り──。
ズズズズ……。
「あ!」
門がゆっくりと開いていきます。
「ひらいた!」
フェリスはぱっと振り返りました。
「めるしぇ! ひとりでできた!!」
満面の笑みです。
もちろん、魔法をかけられたことなど気づいていません。
「見てましたよ~。お見事です~!」
メルシェはニコニコと拍手を送ります。
「ふっふーん!」
褒められたフェリスはドヤ顔です。
メルシェにとって、主の笑顔が守れるのなら真実なんて些細なことなのでしょう。
さて門を抜けて外に出ると、不意に辺りが暗くなりました。
巨大な影が彼女たちを覆ったのです。
──それは五mを優に超える巨躯を持ち、並大抵の兵士ではひとたまりもない。
──その牙から滴る涎には猛毒があり、一滴浴びただけでも普通の魔族なら命を落とす。
──三つ首からは灼熱の炎を吐き、全ての敵を焼き尽くす。
魔王城の恐ろしき番犬、ケルベロス。
「けりゅべろん♪ けりゅべろん♪ あたまがいっぱいけりゅべろん♪ わー!」
フェリスはそんな怪物を恐れることなく、横っ腹にダイブしました。
ぽふっ。
巨大な身体を覆う黒い毛に、フェリスはすっぽりと埋まります。
黒いワンピースまで完全に紛れ、赤い角と水色の花だけがひょこっと覗いていました。
「ぬふふ……!」
一度では足りなかったらしく、フェリスはブラシをぽいっと置きました。
「もういっかい!」
少し離れて、タタタっと駆け出し、また横っ腹に飛び込んでいきます。
ぼふんっ。
ふかふかの毛に受け止められるのは気持ち良さそうです。
「Grrr……」
左の頭はフェリスが怪我をしないよう見守っています。
右の頭は興味なさそうに大きな欠伸。
中央の頭は一切動じることなく、周囲を警戒していました。
しかしその尻尾は機嫌よくぶんぶんと揺れています。
「フェリス様~、ブラッシングしますよ~」
「そうだった!」
メルシェの言葉に目的を思い出し、急いでブラシを拾い上げます。
「ケリュベロン! わえがずきずきにぶりゃっしんぐしてやるぞ!」
魔王のご息女が直々にブラッシングしてくれるそうです。
しかしこの巨体では背中には届きません。
どうするのでしょうか。
「めるしぇ! てつだって!」
「はい~」
メルシェはフェリスをひょいと抱き上げました。
「《
二人の身体は空へと舞い上がっていきました。
フェリスはキャッキャッと笑っています。
「よーし! やるぞー!」
大きな身体に生えた毛もまた大きく、背中を梳くだけでも力も時間も必要です。
「うんしょ、うんしょ」
フェリスが一生懸命ブラシを動かします。
一か所が終わると、メルシェに抱えられて隣へ移動。
そこでまたブラシを動かします。
「うんしょ、うんしょ。どうだ、けりゅべろん。きもちいいか?」
「Gruuu……」
ケルベロスは低く喉を鳴らし、大きな尻尾を左右へ振りました。
どうやら気持ちいいようです。
とはいえこの巨体です。
フェリスだけでは日が暮れてしまいます。
「一気にやっちゃいましょうね~」
メルシェは自分の身体に手を添え、
「
そう唱えると、彼女の白毛がもこもこと膨らみ、ぽんっ、ぽんっと小さなメルシェへ姿を変えていきました。
次々とフェリスと同じくらいの背丈のメルシェが生まれ、地面へ降りていきます。
分身はぞろぞろと倉庫に入っていき、しばらくすると自分たちの背丈ほどもあるブラシを抱えて戻ってきました。
「「「~♪」」」
そして一斉にケルベロスの毛を梳き始めました。
「おおー!」
フェリスも負けじと梳き続けます。
しばらくすると、ケルベロスの周囲には抜けた毛がこんもりと積み上がりました。
「めるしぇ! いつものやって!」
「いいですよ~」
メルシェが毛玉へ手を向けます。
「《
無造作に固められていた毛が、モゾモゾと動きだします。
丸まり、伸び、折れ曲がり──やがて二本の脚で立つ、猫の姿になりました。
「けっちーだ!」
完成したのは、ケットシーの人形でした。
フェリスは腕を組み、うむうむと頷きながら人形を眺めます。
「うーむ、これはなかなかのできばえ……とくにこのしっぽがいい……」
「洗ったら、人形棚に置いておきますね~」
「うむ!」
ケットシー人形は小さなメルシェたちに回収されていきました。
犬の抜け毛で人形を作る羊が魔王城にはいるのです。
「Guuu……Guuu……」
ふと、大きな寝息が聞こえてきます。
心地良かったのでしょう、三つの頭はすっかり寝入ってしまいました。
番犬としてはいかがなものかと思いますが。
「ふわぁ……」
今度は別の欠伸が聞こえてきました。
「フェリス様~、眠くなってきましたか~?」
「まだ……ねむくない……」
そう言いながらも瞼は閉じかけています。
疲れてしまったのでしょう。
フェリスの手から滑り落ちたブラシを、メルシェがすかさず受け止めます。
「フェリス様~、そろそろお昼寝しましょうね~」
「やだ……! まだねない……!」
しかし頭は舟を漕いでいます。
フェリスの前では小さなメルシェたちが右へ左へ、忙しなくブラッシングしていました。
「めるしぇがひとり……めるしぇがふたり……めるしぇが……」
とうとう瞼が完全に閉じました。
「すぅ……すぅ……」
「あら~」
メルシェは小さく笑います。
眠ってしまったフェリスをそっと抱き上げ、ふかふかのケルベロスの背中へ横たえました。
その頭を膝に乗せ、髪を優しく撫でます。
「Guuu……Guuu……」
「すぅ……すぅ……」
魔王城の恐ろしき番犬と小さなお姫様。
今日は一緒にお昼寝です。