書いててあまりに相性が良すぎるなって思いました。
四月。
東京都内にある七海家の邸宅では、まだ日が昇りきらないうちから、屋敷に勤める人々が忙しく動き始めていた。
七海財閥。
日本でも有数の資産と事業規模を誇る一族であり、その財力は一人の人間が生涯をかけて使い切ろうとしても、到底使い切れるものではない。
そんな家に生まれた一人の青年が、今日、新たな生活を始めようとしていた。
七海龍水、彼は鏡の前に立ち、真新しい制服の襟元を整えていた。
幼い頃から一流の教育を受け、世界各国の文化に触れ、実業家や投資家たちが集う社交界にも顔を出してきた。一般的な学生では想像もつかない経験を持っている。
しかし、その龍水が今回進学先として選んだのは、七海家と関係の深い海外の名門校でも、財閥の事業を継ぐための専門教育機関でもなかった。
東京都高度育成高等学校。
政府の支援を受け、卒業生の進学・就職において優れた実績を誇るという、特異な教育機関だった。
入学すれば、原則として外部との自由な接触は認められない。
七海家の財産も、側近たちの協力も、これまでのように自由には利用できなくなる。
それでも龍水は、この学校を選んだ。
理由は単純だった。
面白そうだったからである。
「龍水様。お支度が整いました」
静かな声がした。
振り返ると、そこには一人の使用人が控えていた。
フランソワ。龍水が幼い頃から絶大な信頼を寄せている、極めて優秀な人物だった。料理、身の回りの世話、細かな手配に至るまで、その仕事にはほとんど隙がない。
「おお、フランソワ!」
龍水は満足そうに笑った。
「今日の朝食も素晴らしかった! しばらくお前の料理を食えなくなるのが、唯一の心残りだ!」
「光栄でございます」
「ハッハー! 戻ったら、最高の料理を頼むぞ!」
「承知いたしました」
フランソワは一礼した。
それから机の上に置かれた、学校案内の冊子に目を向けた。
「龍水様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ!」
「この学校は、生徒個々人の能力を多角的に評価し、その結果に応じた処遇を与えることを重視しているようです」
「そうだな!」
「龍水様は、そのような教育理念について、どのようにお考えでしょうか」
龍水は手にしていた冊子へ視線を落とした。人間の能力。社会的地位。生まれ持った環境。そして、努力によって得られる結果。
それらについて考えることは、龍水にとって初めてではなかった。
七海家の後継者候補として、幼い頃から何度も議論してきた問題だったからだ。
財産を持つ者と持たない者。優れた才能を持つ者と、そうでない者。
同じ努力をしても、同じ結果を得られるとは限らない。
この社会は、果たして平等なのか。
龍水は静かに冊子を閉じた。そして、口元を吊り上げた。
――この社会は平等か否か?
「ハッハー! 否だ! 生まれも才能も財産も違う! この社会が平等なわけがないだろう!」
龍水は右手を大きく広げた。
「だが、それがどうした? 貧しい者が富を、弱い者が力を欲して何が悪い!」
彼の言葉には、一切の迷いがなかった。
「人は平等ではない! だが、幸福を欲する権利は誰にだってある!」
そして、満面の笑みを浮かべる。
「俺はそんな全員の欲望が叶う世界が欲しい!」
龍水は高らかに笑った。
「ハッハー! 違うか? フランソワ!」
フランソワは静かに頭を下げた。
「はっ、龍水様。仰る通りでございます」
龍水は満足そうに頷いた。その言葉は、七海家で受け継がれてきた帝王学とは、まるで正反対のものだった。喜怒哀楽を慎め。物事に溺れるな。
上に立つ者は感情を統制しろ。一時の欲望に流されてはならない。
龍水は、そう教えられて育ってきた。
その教育の意味は理解している。組織を率いる人間が、感情任せに重大な判断を下せば、多くの人間を危険にさらしかねない。だが、だからといって自分の欲望まで殺す必要があるのか。
龍水の答えは、否だった。
欲しいものがあるから、人は努力する。手に入れたい未来があるから、人は挑戦する。そして、自分だけでは手に入れられないものがあるから、他人の力を必要とする。
世界には、龍水の知らないことが山ほど存在する。自分には造れないものを造る技術者がいる。自分には作れない料理を作る料理人がいる。
自分には思いつかない夢を持つ人間がいる。
そのすべてが、龍水にとっては魅力的だった。
「フランソワ! お前は俺より料理が上手い!」
「恐れ入ります」
「だが、俺がお前より劣っているというわけではない!」
「はい」
「同じように、お前がお前の仕事をしているからといって、俺より価値が低いわけでもない!」
龍水は笑った。
「俺には俺のできることがある! お前にはお前のできることがある! 互いの能力を使えば、一人では手に入らんものまで手に入る!」
フランソワは穏やかに頷いた。
「龍水様が常々仰っているお考えですね」
「そうだ!」
龍水は制服の袖を整えた。
「俺は世界中のすべてが欲しい! 金も、船も、景色も、技術も、才能も!」
そこで、少しだけ声の調子を変えた。
「だが、人間には人間の意思がある。本人が望まんものを無理やり押しつけても、最高の結果にはならん!」
だからこそ、龍水は他人の欲望を知りたがる。何が欲しいのか。何が得意なのか。何をしている時が最も楽しいのか。その答えを知ることで、初めて相手の力を最大限に引き出すことができる。
それが龍水の考える、人を率いる者の仕事だった。
「俺が世界一楽しむ!」
龍水は笑った。
「そして、俺の周りにいる人間にも、欲しいものを手に入れさせる!」
フランソワは一礼した。
「龍水様であれば、きっと多くの方々と素晴らしい出会いをなさることでしょう」
「ハッハー! 欲しい=正義だ!」
龍水は鞄を手に取った。
これから向かう学校には、どんな人間がいるのだろうか。天才もいるだろう。努力家もいるだろう。怠け者もいるかもしれない。あるいは、自分の才能に気づいていない人間もいるかもしれない。
それらを一人ずつ知っていくことを考えるだけで、楽しくて仕方がなかった。
「それでは、龍水様」
フランソワが姿勢を正す。
「いってらっしゃいませ」
龍水は扉の前で振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「行ってくるぞ、フランソワ!」
こうして七海龍水は、新たな航海へと出発した。
目指す先は、東京都高度育成高等学校。
そして、その学校がどれほど異質な場所なのかを、この時の龍水はまだ知らなかった。