東京都高度育成高等学校へ向かう路線バスは、朝の通勤時間帯ということもあって、かなりの混雑を見せていた。
車内には出勤途中と思われる会社員たちに混じり、真新しい制服に身を包んだ男女の姿がちらほらと見受けられる。おそらく、そのほとんどが自分と同じ学校へ向かう新入生なのだろう。
綾小路清隆は窓際の座席に腰掛けながら、流れていく街並みをぼんやりと眺めていた。
今日から始まる高校生活について、特別大きな期待を抱いているわけではない。しかし、これまでとは違う環境で、誰にも干渉されることなく生活できるという事実には、それなりの魅力を感じていた。
普通に授業を受け、友人を作り、休日には気の合う相手と遊びに出かける。できることなら面倒事には巻き込まれず、平穏な三年間を過ごしたい。それが綾小路の望む学校生活だった。
バスが途中の停留所に停車した際、一人の老婦人が乗り込んできた。
車内は既に満席で、空いている座席は見当たらない。老婦人は周囲を一度見渡したものの、誰かに席を譲ってもらうよう求めることはせず、近くのつり革へ手を伸ばした。
その様子を見かねたのか、一人の女性客が優先席に座っていた男子生徒へ声をかけた。
「ねえ、あなた。お年寄りが立っているんだから、席を譲ってあげたらどうかしら?」
声をかけられた男子生徒は、手にしていた鏡からゆっくりと視線を上げた。整った顔立ちに、綺麗に整えられた金髪。制服の上からでもわかるほど恵まれた体格を持つその男は、周囲から向けられる視線など少しも気にしていない様子だった。
「ふむ。私に言っているのかい?」
「そうよ。そこは優先席でしょう? お年寄りが立っているのだから、譲るのが普通じゃないかしら」
「なるほど。君の言いたいことは理解したよ」
男は一度頷いたものの、席を立つ気配はまったく見せなかった。
「しかし、私はここに座っていたいのだがね。自分の快適さを犠牲にしてまで、他人へ席を譲る必要性を感じないのさ」
あまりにも堂々とした返答に、女性客は言葉を失った。自分勝手な言い分であることは間違いないが、当の本人には悪びれる様子が一切ない。
そこへ、同じ学校の制服を着た女子生徒が会話に加わった。
「でも、困っている人がいるなら、助けてあげてもいいんじゃないかな?」
明るい茶色の髪をした、人懐っこそうな女子生徒だった。彼女はできる限り柔らかな口調で説得を試みたものの、優先席の男は自分の考えを変えようとはしなかった。
やがて女子生徒は周囲の乗客にも協力を求め始めたが、反応は芳しくない。綾小路もまた、その様子を眺めているだけだった。
そうして車内に気まずい沈黙が流れ始めた、その時だった。
「ハッハー!」
突然、車内に豪快な笑い声が響き渡った。あまりにも場違いな大声に、乗客たちが一斉に振り返る。視線の先にいたのは、優先席の男とは別の金髪の青年だった。
肩に届くほどの髪を揺らしながら立ち上がった彼は、周囲の視線を気にする様子もなく、まっすぐ老婦人のもとへ歩み寄った。
「そこの美女! 俺の席を使うといい!」
突然声をかけられた老婦人は、キョロキョロした後に驚いたように目を瞬かせた。
「……もしかし私のことなの……?」
無論まさか自分が呼ばれているとは思いもしていないのか恐る恐る聞き返す。
「当たり前だ!ほら座れ」
青年の声はよく通り、その態度には妙な迫力がある。席を譲ってくれるという申し出自体はありがたかったものの、初対面の相手にこれほど堂々と話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
「あら……でも、学生さんに席を譲っていただくのは申し訳ないわ」
「何を言う! 美女に席を譲らんなど、そんな無粋な真似はせん!」
「……美女?」
老婦人は、思わず聞き返した。
「……さっきも言ってたけど……私のようなお婆ちゃんが、美女だと言うの?」
「当然だ!」
青年は一切の迷いなく言い切った。
「可憐な女も、気品のある女も、歳を重ねた女も、それぞれ違った魅力がある! 女たちはみな美女だ! 違うか!?」
あまりにも真っ直ぐな物言いだった。
お世辞を言っているようにも、相手をからかっているようにも見えない。少なくとも、本人は心の底からそう考えているらしかった。
老婦人はしばらく呆気に取られていたが、やがて口元を押さえて小さく笑った。
「ふふ……まあ、随分と変わった学生さんね」
「ハッハー! その笑顔が欲しかった!」
青年は満足そうに笑うと、老婦人を自分の座っていた席へ案内した。
「どうぞ。ありがとうね」
「礼などいらん! 俺が欲しいものを手に入れただけだ!」
それを見ていた茶髪の女子生徒も、ほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとう! 本当に助かっちゃった!」
「フゥン! もちろん貴様の笑顔も欲しかったからな!」
「えっ?」
突然そんなことを言われた女子生徒は、思わず固まった。
しかし、青年は彼女の困惑など気にする様子もなく、胸を張って言葉を続けた。
「俺は美女の笑顔をみなすべからく欲しい! 何しろ、世界一欲張りな男だからな!」
「え、ええっと……そ、そうなんだ。とにかく、ありがとう!」
女子生徒は困惑しながらも笑顔を浮かべたが、青年はそれを見て、再び満足そうに頷いた。
綾小路は、そんなやり取りを無言で眺めていた。
随分と変わった男だ。
自分が正しいことをしたと誇示するわけでも、周囲に感謝を求めるわけでもない。むしろ、他人のために行動したことさえ、自分自身の欲望を満たすためだったと堂々と公言している。
そう考えていると、優先席から小さな笑い声が聞こえてきた。
「フフ……君は相変わらずだね、七海ボーイ」
その声に、金髪の青年が振り返る。
「おお! 高円寺ではないか!」
「やあ。こんな場所で君に会うとは思わなかったよ」
「ハッハー! それはこちらの台詞だ! まさか貴様もこのバスに乗っているとはな!」
どうやら二人は以前からの知り合いらしい。
高円寺と呼ばれた男は、手鏡を制服のポケットへしまうと、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「それにしても意外だね。日本有数の財閥である七海家の御曹司が、わざわざ一般の路線バスを利用するとは」
「初登校だぞ! 他の生徒と同じ景色を見てみたいじゃないか! それに、貴様こそ人のことを言えんだろう!」
「私は単に、こうして登校するのも悪くないと思っただけさ」
「ハッハー! ならば同じだ!」
七海龍水と高円寺六助。
二人が初めて顔を合わせたのは、数年前に開かれた財界関係者の交流会だった。七海財閥と高円寺家は、いずれも日本の経済界で大きな影響力を持つ一族である。そのため、両家の子息が同じ社交の場に招かれること自体は珍しくなかった。
もっとも、二人とも世間一般で想像されるような、礼儀正しく従順な御曹司とは言い難かったが。
「ところで、七海ボーイ」
高円寺は足を組み直しながら、愉快そうに問いかけた。
「君は、私が席を譲らなかったことについて、何か言いたいことでもあるのかな?」
「なぜだ?」
龍水は不思議そうに首を傾げた。
「貴様はその席に座っていたかった。だから座っている。それだけだろう?」
「その通りだよ」
「ならば何も言うことはない!」
龍水は迷いなく答えた。
「俺はあの美女の笑顔が欲しかった! だから席を譲った! 貴様は自分の快適な時間が欲しかった! それぞれ欲しいものが違っただけだ!」
「フフ……実に君らしい考え方だね。ただし、私は君のように他人の幸福まで欲しがるつもりはないよ」
「ハッハー! 違うな、高円寺!」
龍水は愉快そうに笑い、相手へ人差し指を向けた。
「俺はあの美女の笑顔が欲しかっただけだ! 俺は俺の欲望を満たしているに過ぎん!」
「相変わらず七海ボーイは」
「ハッハー! 当然だ!」
二人のやり取りを聞いていた綾小路は、奇妙な共通点と相違点を感じ取っていた。
どちらも自分の欲求に忠実で、周囲の評価に左右されることを嫌っている。しかし、高円寺が自分自身の満足を最優先にしているのに対し、七海という男は他人の笑顔や成功さえ、自分の欲望として取り込んでしまうらしい。
その考え方がどこまで本気なのかはわからない。
ただ、少なくとも彼は、他人へ善意を示すことに特別な義務感を抱いているわけではなさそうだった。
やがて車内に学校前への到着を告げるアナウンスが流れ、バスはゆっくりと停留所へ滑り込んだ。
綾小路が乗客の流れに従って下車すると、先ほどまで近くの席に座っていた黒髪の女子生徒が、突然こちらへ声をかけてきた。
「あなた、さっき私のことを見ていたわね」
振り返ると、長い黒髪を持つ少女が、どこか警戒するような目でこちらを見ていた。
どうやら彼女は、先ほど自分が席を譲らなかったことについて、綾小路に何か思われていると考えているらしい。
「いや、別に責めるつもりはないんだが」
「そう。なら結構よ。私も、あなたに何か言われる筋合いはないもの」
「……それには同意する」
どうやら初対面の相手との会話というものは、想像していた以上に難しいらしい。
結局、二人のやり取りが友好的なものになることはなく、互いにそれ以上深入りしないまま校舎へと向かうことになった。
そして綾小路は、後になって知ることとなる。
彼女の名前が堀北鈴音であること。
そして、これから自分と同じ一年Dクラスに所属することになるという事実を。
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龍水は昇降口に向かう。横にはクラス分けの紙が貼られていた。
「ハッハー!俺は1-Dか!」
クラス分けを確認する生徒たちが急に発せられた大きな声に驚いて龍水の方をむくが。本人は全く気にせずに教室にむかう。
一年Dクラス。
教室の扉の上に掲げられたプレートを見上げ、七海龍水は満足そうに口元を吊り上げた。これから三年間を過ごすことになるのが、この教室だった。
「ハッハー! ここが俺たちのクラスか!」
龍水が勢いよく扉を開けると、既に集まっていた生徒たちが驚いたように振り返った。
真新しい制服を身につけた男女が、互いに様子を窺いながら会話を交わしている。そんな教室の光景を眺め、龍水はますます楽しそうに笑った。
「随分と賑やかな男が来たと思ったら、君か」
背後から声をかけてきたのは、高円寺六助だった。
「おお、高円寺! 貴様もDクラスだったな!」
「そのようだね。まあ、私にとってはどのクラスに配属されようと、大した問題ではないけれど」
「ハッハー! 違いない!」
「では、私は自分の席に向かうとしよう。君もあまり騒ぎすぎないことだね」
「フゥン! それは約束できんな!」
「だろうね」
高円寺は小さく笑い、教室の奥へと歩いていった。
龍水も座席表を確認して自分の席へ向かおうとしたが、その途中で一人の女子生徒と目が合った。
長い黒髪に整った顔立ちをした、どこか近寄りがたい雰囲気の少女だった。
「おお! 確か貴様もバスにいただろう!」
突然の呼びかけに、少女が眉をひそめる。
「……私のこと?」
「当然だ! ハッハー! 実に素晴らしい美女じゃないか!」
「……そう。ありがとう」
少女はそれだけ答えると、すぐに視線を逸らした。どうやら会話を続けるつもりはないらしい。
龍水はそれを気にすることなく笑うと、近くの自分の席へ腰を下ろした。
「ハッハー! これからの学校生活が実に楽しみだ! 貴様もそう思わんか?」
「私はまだ、そこまで楽観的にはなれないわね」
「フゥン! ならばこれから楽しめばいい! 貴様も何か欲しいものがあって、この学校へ来たんだろう?」
少女は一瞬だけ目を細めた。
「……そうね。目的はあるわ」
「ならば結構! そのために動けばいい!」
あまりにも単純明快な返答に、彼女は呆れたように息を吐いた。
「あなた、本当に変わっているわね」
「ハッハー! よく言われる!」
それ以上会話を続ける気がなさそうだったため、龍水も無理に話しかけることはしなかった。
少し離れた席からそのやり取りを見ていた綾小路清隆は、内心で小さくため息をついた。
バスの中でも思ったことだが、七海という男は随分と強烈な性格をしている。ただ、相手の反応を見ずに行動しているわけではなさそうだった。
少なくとも、単純に無神経な男というわけではないらしい。
そんなことを考えていると、前方の扉が開いた。
入ってきたのは、長い髪を後ろで束ねた一人の女性だった。
彼女は教卓へ教材を置くと、生徒たちを一通り見渡した。
「全員、席についているな。私は一年Dクラスの担任を務める茶柱佐枝だ。これから一年間、よろしく頼む」
茶柱は簡潔に自己紹介を済ませると、そのまま学校生活についての説明を始めた。
高度育成高等学校では、生徒全員が敷地内の寮で生活することになる。外出や外部との連絡には制限が設けられているものの、校内には生活に必要な施設がほとんど揃っているという。
そして、生徒たちの関心を最も引いたのが、独自のポイント制度だった。
「この学校では原則として現金を使用しない。代わりにプライベートポイントを使用してもらう。一ポイントは一円に相当し、校内ではポイントを使ってなんでも買うことができる」
生徒たちは説明に従い、それぞれ学生証を確認した。
その直後、教室のあちこちから驚きの声が上がる。
「えっ、十万!?」
「マジかよ! 十万円も入ってるぞ!」
「これ、全部使っていいのか!?」
学生証には十万ポイントが振り込まれていた。
池や山内は早速何を買うか相談し始め、女子生徒たちも服や化粧品、校内の飲食店について話し始めている。
しかし、龍水が興味を示したのは、十万円という金額そのものではなかった。
「おい! 美女!」
突然、教室中に大きな声が響き渡った。
一瞬静まり返った教室で、茶柱は苦い顔をしながら龍水の方を向く。
「…………なんだ、七海? まさか私のことを言っているのか?」
「フゥン! 照れる必要はないぞ! この世のすべての女性は等しく美しい! 当然、貴様も例外ではない!」
「照れていない。それと、美女ではなく先生と呼べ」
「ハッハー! 善処しよう! それでだ、このポイントは生徒同士で譲渡することも可能か?」
茶柱は軽く額を押さえた。
入学前から問題児としての評価を受けていた生徒だったが、どうやら資料以上に扱いが難しそうだった。
「……可能だ。学生証を使って送金できる」
「フゥン! ならば商品やサービスの対価として受け取ることもできるわけだな?」
「校則に抵触しない範囲なら、使い道は自由だ」
「ハッハー! 面白い!」
龍水は学生証を掲げ、満足そうに笑った。
「これは単なる小遣いではない! この学校は独自の通貨を発行しているわけだ!」
「……それがどうしたというの?」
近くに座っていた黒髪の少女が問いかける。
「大違いだぞ、黒髪の美女! 物にも、情報にも、労働にも値段をつけられる! 欲しがる人間と提供できる人間がいれば、そこに商売が成立する!」
少女は改めて学生証へ視線を落とした。
確かに、言われてみればその通りだった。しかし、突然十万円を与えられて、その流通構造について真っ先に考える人間など、そう多くはいないだろう。
「美女! もう一つ!」
「……今度はなんだ」
「外部の銀行口座から送金し、このポイントへ交換することは可能か?」
「できない。親族からの送金も認められていない」
「なるほど! つまり、外でどれほど金を持っていようと、ここでは直接使えんわけだ!」
その言葉に、高円寺が愉快そうに笑った。
「おやおや。君の得意な資金力が封じられてしまったようだね、七海ボーイ」
「ハッハー! 貴様も同じだろう、高円寺!」
「私は困らないよ。自分の美しさを維持する程度なら、学校の支給額で十分だからね」
「俺も困らん! 金が足りなければ稼げばいいだけだ!」
「……随分と簡単に言うのね」
黒髪の少女が呆れたように口を開く。
「簡単かどうかは、やってみなければわからん! だが、商売の機会はいくらでもあるはずだ! 違うか!?」
龍水は本当に楽しそうだった。
教卓からその様子を眺めていた茶柱は、二人の資産家出身の生徒を興味深く観察していた。
高円寺は自分の快適な生活を当然のものとして受け入れている。一方の龍水は、外部資金を封じられたことさえ、新たな挑戦として楽しんでいるようだった。
「美女!」
再び響いた声に、茶柱は露骨に顔をしかめた。
「……まだあるのか」
「最後に一つだけだ!」
龍水は学生証を指先で持ち上げた。
「この学校では、プライベートポイントでなんでも買えると言っていたな?」
「……ああ」
「ならば、一般的には学校で購入できないものも、その『なんでも』に含まれているのか?」
「具体的には?」
龍水はニヤリと笑った。
「例えば、成績やテストの点数などだ!」
その瞬間、教室がざわめいた。
「は? テストの点数?」
赤髪の男子生徒が声を上げる。
「そんなもん買えるわけねえだろ! だったら勉強する意味ねえじゃん!」
「普通に考えればそうでしょうね」
黒髪の少女も同意した。
「試験は学力を測るためのものよ。それをお金で買えるようにしたら、試験として成立しないじゃない」
「ハッハー! 一般的にはその通りだ! だが、ここは普通の学校ではない!」
龍水は茶柱へ視線を戻した。
「どうなんだ、美女?」
茶柱は腕を組み、数秒ほど沈黙した。
「……時と場合による、と言っておこう」
教室が再びざわめく。
「えっ!? 買えるの!?」
「マジかよ!」
そんな声を聞きながら、龍水は心底愉快そうに笑った。
「ハッハー! 否定しないのか! 実に面白い!」
「七海。私は購入できると断言したわけではないぞ」
「わかっているとも! だが、絶対に不可能とも言わなかった!」
茶柱はそれ以上答えなかった。
しかし、龍水は既に十分な収穫を得たと判断したらしく、満足そうに学生証をしまった。
「七海。もう質問は終わりでいいか?」
「おお! 構わんぞ、美女!」
「……先生と呼べ」
「ハッハー! 善処しよう!」
茶柱は深いため息をついた。
それからポイントの管理についていくつか注意を伝え、最後に毎月の支給額は学校の規定に従って決まると説明した。
龍水はその言葉にも興味を示したが、今度は質問を控えた。
必ず十万ポイントが振り込まれるとは限らない。何らかの条件が存在する可能性はあるが、現時点では情報が足りなかった。
ならば、学校生活の中で確かめていけばいい。
「それでは、私からの説明は以上だ。入学式までは自由に過ごして構わない」
茶柱はそう告げると、教室を後にした。
扉が閉まると同時に、生徒たちの会話が一斉に再開される。
そんな中、一人の男子生徒が立ち上がった。
「みんな、ちょっといいかな?」
爽やかな顔立ちをした男子生徒だった。
「せっかく同じクラスになったんだし、よかったらみんなで自己紹介をしないかな? これから一緒に学校生活を送るんだから、少しでもお互いのことを知っておきたいんだ」
その提案に、何人かの生徒が賛同した。
しかし、全員がそう思っていたわけではなかった。
「……あ?」
教室の後方から、不機嫌そうな声が上がる。
赤髪の男子生徒だった。
「なんで俺がそんなことしなきゃなんねえんだよ」
「えっと、無理にとは言わないけど……」
「だったら俺はやらねえ。馴れ合いたい奴らだけで勝手にやってろ」
男はそう吐き捨てると、鞄を肩にかけて教室を出ていった。
それをきっかけに、何人かの生徒も席を立ち始める。
そして、その中には龍水が先ほど話しかけていた黒髪の少女もいた。
「……お前も行くのか?」
隣に座っていた綾小路が声をかける。
「ええ。私は友達を作るために、この学校へ来たわけではないもの」
彼女は淡々と答えた。
そんな二人の会話を聞いていた龍水が、楽しそうに口を開く。
「おお! 黒髪の美女! 貴様も自己紹介はしたくないのか!」
「……そうだけれど」
「ハッハー! ならば好きにすればいい! 無論、俺は貴様のことをめちゃくちゃ知りたいがな!」
少女は嫌そうに目を細めた。
「……軽薄な誘い文句はやめてくれるかしら」
「フゥン! 軽薄とは心外だな! 俺は常に本気だ! 貴様も欲しいぞ!」
龍水は悪びれもせずに笑った。
「……余計に質が悪いわね」
「ハッハー! だが、貴様が嫌だと言うなら無理に手に入れようとはせん! 欲しいと思うことと、相手の意思を踏みにじることは別物だからな!」
龍水はそこで一度笑みを深めた。
「とはいえ、俺は貴様のことをもっと知りたい! 気が向いたらいつでも話しかけてくるといい! せめて名前くらいは欲しいところだ!」
少女は呆れたように龍水を見つめた。
これほど強引に自分の欲望を口にしておきながら、相手が拒絶すればあっさりと受け入れる。その態度が、どうにも理解しがたかった。
「……本当に変わっているわね。堀北鈴音よ」
「堀北鈴音か! ハッハー! いい名前だ!」
「……どうも」
堀北は小さくため息をつくと、そのまま教室を後にした。
その背中を見送っていた男子生徒が、申し訳なさそうに口を開いた。
「……ごめん。みんなに無理をさせるつもりはなかったんだけど」
「そんなことないよ!」
先ほど龍水と話していた茶髪の女子生徒が、すぐに声をかけた。
「残ったみんなで続ければいいと思うな!」
「ハッハー! その通りだ!」
龍水も笑いながら頷いた。
「全員が同じものを欲しがるわけではない! 貴様はみんなと仲良くなりたい! だが、そう思わん奴もいる! それだけの話だ!」
男子生徒は少し驚いたように龍水を見つめ、それから柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。確かにそうだね」
「ハッハー! 当然だ!」
そのやり取りによって教室の空気も少し和らぎ、自己紹介は改めて始まることになった。
「それじゃあ、まずは僕から。平田洋介です。中学ではサッカーをやっていました。高校でも部活動や勉強を頑張りたいけど、それ以上にみんなと楽しく学校生活を送れたら嬉しいです。よろしくお願いします」
平田が笑顔で頭を下げると、自然と拍手が起こった。
その落ち着いた物腰と周囲への気配りに、龍水は興味深そうに頷いた。
「フゥン……いい男だな。欲しい!」
「……何を?」
近くの生徒が思わず聞き返す。
「決まっている! あの男のすべてだ!」
あまりにも堂々とした発言に、周囲の生徒たちが一瞬言葉を失った。
「……すべてって、どういう意味?」
「ハッハー! 人望も、能力も、あの男自身もだ! あれほど自然に人をまとめられる男は貴重だぞ! 俺はああいう人材が欲しい!」
龍水は楽しそうに笑った。
「もちろん、本人が望まんならそれまでだがな!」
近くで聞いていた平田は、少し照れたように笑みを浮かべた。
「……なんだか、すごく評価してもらえたみたいだね。ありがとう、七海くん」
「ハッハー! 礼には及ばん!」
その後も自己紹介は順調に進んでいった。
山内春樹はスポーツで華々しい実績を残したと自慢し、周囲を少々困惑させた。池寛治は彼女が欲しいと堂々と宣言し、女子生徒たちから笑いを取っている。
龍水はそんな池の姿を見て、嬉しそうに笑った。
「ハッハー! いいぞ、池! 欲しいものを堂々と口にするとは素晴らしい!」
「おっ! 七海、お前わかってくれるのか!」
「当然だ! 俺も世界中の美女が欲しい!」
「お前もやっぱり顔が大事なんだな!」
その言葉に、龍水は不思議そうに首を傾げた。
「フゥン? 貴様は何を言っている?」
「え?」
「タイプは違えど、女たちはみな美女だぜ! 違うか!?」
あまりにも堂々とした返答に、教室が一瞬静かになった。
「お、おおぅ……そうかもな」
池は予想外の答えに戸惑っていた。
一般的に美人と言われる女性を好むのかと思っていたが、どうやらこの男の女性観は自分が想像していたものとは随分と違うらしい。
龍水はそんな池の反応を気にすることなく、満足そうに笑った。
続いて立ち上がったのは、茶髪の女子生徒だった。
「櫛田桔梗です! 私はこの学校でたくさん友達を作りたいと思っています! みんなと仲良くなれたら嬉しいです。よろしくお願いします!」
櫛田は教室中を見渡しながら明るく微笑んだ。
その愛らしい容姿と人懐っこい態度に、男子生徒たちから感心したような声が漏れる。
「ハッハー! バスの時の美女じゃないか! 素晴らしい笑顔だ! やはり美女は笑顔がいいな! 欲しいぞ、貴様も!」
「あはは……すごいこと言うね、七海くんは……」
櫛田は少し困惑しながらも笑顔を崩さなかった。
「まあ……ありがとう!」
「ハッハー! その笑顔が実にいい!」
櫛田は照れたように笑ったが、内心では少々驚いていた。
初対面の女性に対して、これほど堂々と好意を口にする男子生徒は珍しい。しかも、本人には相手を口説いているという自覚があるのかどうかさえ怪しかった。
やがて自己紹介は高円寺へと回ってきた。
「私の名前は高円寺六助。高円寺家の後継者であり、何よりも自分自身の美しさを大切にしている。諸君も私の邪魔さえしなければ、問題なく付き合っていけるだろうね」
あまりにも堂々とした自己紹介に、教室が静まり返った。
「ハッハー! 相変わらずだな、貴様!」
「おや、七海ボーイ。私の美しさに改めて感動したのかな?」
「その揺るぎない自信が実にいい! やはり欲しいぞ!」
「ふふ。私ほど価値のある人間なのだから当然さ」
二人のやり取りを聞きながら、綾小路は内心で小さくため息をついた。
どうやら、このクラスには相当に個性的な人間が集まっているらしい。
そして、次に指名されたのが龍水だった。
「それじゃあ、七海くんもお願いできるかな?」
「ハッハー! もちろんだ!」
龍水は勢いよく立ち上がり、教室を見渡した。
「俺は七海龍水! 七海財閥の御曹司だ!」
その名前に、何人かの生徒が驚いたように顔を上げた。
七海財閥といえば、日本でも有数の巨大財閥である。その御曹司が同じクラスにいるという事実に、興味を抱いた生徒も少なくなかった。
しかし、龍水はそんな周囲の反応を気にすることなく続けた。
「趣味は航海、商売、そしてこの世のあらゆる面白いものを手に入れることだ!」
龍水は胸を張った。
「金が欲しい! 勝利が欲しい! 世界中の美女が欲しい! まだ見ぬ景色も、未知の技も!世界の全てが欲しい!」
教室のあちこちから笑い声が漏れる。
しかし、龍水は構わず続けた。
「そして貴様らの才能も欲しい! 何が得意で、何をしたいのか! 何を手に入れたいと思っているのか! 俺は全部知りたい!」
龍水は満面の笑みを浮かべた。
「だから遠慮するな! 欲しいものがあるなら堂々と欲しがれ! ハッハー! 欲しい=正義だ!」
その豪快な自己紹介には、教室中から拍手と笑い声が上がった。
「七海くんって、本当に面白いね!」
櫛田が笑いながら声をかける。
「ハッハー! 櫛田だったか! 美女にそう言ってもらえると嬉しいぞ!」
「もう、また美女って……」
櫛田は苦笑したが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
龍水は誰に対しても同じ調子で、自分の感じたことを隠そうともしない。相手の外見や立場によって態度を変えているわけでもなさそうだった。
平田も楽しそうに笑った。
「七海くんは本当にやりたいことがたくさんあるんだね」
「当然だ! 人生は一度きりだぞ! 欲しいものを欲しがらずに終わるなど、勿体ないじゃないか!」
平田は素直に感心したようだった。
その一方、綾小路は自分の番が近づいていることに、少しばかり不安を覚えていた。
これほど強烈な自己紹介の後で、一体何を話せばいいのだろうか。
「じゃあ、次は綾小路くんかな?」
案の定、平田から名前を呼ばれた。
綾小路は仕方なく立ち上がった。
「……綾小路清隆です。特にこれといった趣味はないんだけど、普通に学校生活を送れたらいいと思っています。……よろしく」
何とも微妙な沈黙が流れる。
「うん、ありがとう、綾小路くん!」
平田がすぐにフォローしてくれたものの、本人としてはあまり上手くいった気がしなかった。
しかし、そんな綾小路に龍水が声をかけた。
「フゥン! 綾小路!」
「……なんだ?」
「普通の学校生活が欲しいのか!」
「まあ、そうだな」
「ハッハー! いいじゃないか!」
龍水は楽しそうに笑った。
「平穏な生活も立派な欲望だ! 貴様がそれを欲しがるなら、遠慮なく欲しがればいい!」
綾小路は少し意外に思った。
龍水ほど活動的な男なら、平凡な学校生活を望む自分のことなど、退屈な人間だと評価するのではないかと思っていたからだ。
しかし、どうやら彼にとっては、他人が何を欲しがるかということ自体に優劣はないらしい。
「……そうか。ありがとう」
「礼には及ばん!」
龍水は笑って席に戻った。
その後も自己紹介は続き、やがて入学式の集合時間が近づいてきた。
全員が参加したわけではなかったが、残った生徒たちは多少なりとも打ち解け始めている。
龍水はそんな教室の光景を眺め、満足そうに頷いた。
平田の人望、櫛田の社交性、池の素直さ、高円寺の揺るぎない自信。そして、教室を出ていった堀北や赤髪の男子にも、それぞれ異なる考え方がある。
まだ彼らの本当の能力を知ったわけではないが、それでも興味は尽きなかった。
何より、この学校には自分の知らない人間が大勢いる。その一人一人がどのような才能を持ち、どのような欲望を抱いているのかを考えるだけでも、胸が躍る。
「ハッハー! 実に面白い!」
龍水は学生証を手に取り、愉快そうに笑った。
「この学校には、まだまだ欲しいものが山ほどあるな!」
その声を聞いた綾小路は、心の中で小さくため息をついた。
どうやら、この男が静かに学校生活を送ることなど、今後も期待できそうにない。
せっかく平穏な三年間を過ごそうと思っていたのに、同じクラスには高円寺や龍水といった、どう考えても普通とは言い難い人間が揃っている。
もっとも、深く関わりさえしなければ、それほど問題にはならないだろう。
少なくとも、今はそう考えておくことにした。
一方、当の龍水は既に今後の学校生活へと思いを巡らせていた。
知らない制度があり、知らない人間がいて、まだ見ぬ可能性がいくらでも眠っている。
この学校では、外の世界で持っていた財力をそのまま使うことはできない。だが、それならば自分の力で新たな富を生み出せばいいだけのことだった。
何もかもが初めての環境だからこそ、手に入れたいものはいくらでもある。
「ハッハー! いいぞ!」
龍水は心底楽しそうに笑った。
「この学校、ますます欲しくなってきたじゃないか!」
高度育成高等学校学生データベース
七海龍水
クラス 1-D
誕生日11月11日
学力 A
知性 A
判断力 A
身体能力 A-
協調性 E-