色々と前の話を修正していたら思ったより時間がかかってしまいました。
五月一日。
高度育成高等学校に入学してから、およそ一か月が経過した。
授業中に居眠りをしても教師は注意せず、多少の私語なら咎められることもない。放課後になればゲームを買い、友人と外食し、休日には娯楽施設で遊ぶ。厳しい校則に縛られる一般的な学校生活とは、まるで別世界だった。
しかし、その認識は五月最初の朝、あまりにも簡単に覆されることになった。
「おい! ポイントが入ってねえぞ!」
教室の後方から、池寛治の叫び声が響いた。登校したばかりの山内春樹が、面倒くさそうに振り返る。
「はあ? 何言ってんだよ。今日が振込日だろ?」
「だから入ってねえんだって!」
「んなわけ……」
山内は携帯端末を取り出し、自分の残高を確認した。そして数秒後、表情を一変させる。
「……マジじゃねえか!」
二人の騒ぎをきっかけに、教室中の生徒たちが次々と端末を確認し始めた。軽井沢恵も佐藤麻耶と顔を見合わせている。
「えっ、何これ。今日振り込まれるんじゃなかったの?」
「だよね? 私も増えてないんだけど」
「システムの不具合とか?」
そんな声が教室のあちこちから聞こえてくる。須藤健も自分の残高を確認すると、不機嫌そうに舌打ちした。
「ふざけんなよ。俺、もうほとんど残ってねえぞ」
「俺だってそうだよ!」
池が悲鳴を上げる。
「昨日、新しいゲーム買っちまったって!」
「だから使いすぎだって言っただろ」
「お前だって似たようなもんじゃねえか!」
言い争う二人を横目に、平田洋介はクラスメイトたちへ落ち着くよう声をかけていた。しかし、彼自身も状況を正確に把握できているわけではない。
毎月支給されるはずのポイントが、なぜ入っていないのか。その理由を知っている生徒は、教室のどこにもいなかった。
少なくとも、確実に答えられる者はいなかった。
「フゥン……」
そんな騒ぎの中心から少し離れたところで、龍水は自分の端末を眺めていた。龍水の端末にも、今月のポイントは振り込まれていない。
それどころか、四月の一か月間でクラスメイトを何度も食事へ連れて行き、気になった商品や施設に惜しみなくポイントを使っていたため、現在の残高はかなり少なくなっていた。
しかし、本人に困った様子はまったくなかった。むしろ、口元には大きな笑みが浮かんでいる。
「ハッハー! やはり何かあったか!」
池が勢いよく振り返った。
「お前はよく笑ってられるな!」
「当然だ!」
「何が当然なんだよ! 金がねえんだぞ!」
「ハッハー! 面白いじゃないか!」
「面白くねえよ!」
龍水は上機嫌に笑いながら端末をしまった。
入学した当初から、この学校の制度には疑問を抱いていた。何の条件もなく毎月十万円分のポイントを配るという仕組みは、通常の組織運営では考えにくい。
学校側が莫大な資金を投入している以上、その支出には何らかの目的があるはずだった。教育成果を求めているのか。生徒の行動を観察しているのか。あるいは、まだ知らされていない評価制度が存在しているのか。
いずれにしても、何の見返りもなく大金を配布するとは考えにくかった。
もっとも、龍水自身はそうした可能性を承知した上でポイントを使っている。食事に使った金は、クラスメイトとの交流へ変わった。
買い物に使った金は、商品の知識や校内の流通事情を知る機会へ変わった。娯楽に使った金は、そのまま楽しい経験へ変わった。そして、支給が止まるリスクを負ってまで、それらを欲しがったのは自分自身だ。
だから、後悔などしていなかった。むしろ、その判断を下した自分が、これからどのような状況に置かれるのか。龍水はそれすら楽しみにしていた。
やがて教室の扉が開き、担任の茶柱佐枝が入ってきた。
⸻
「随分と騒がしいな」
茶柱はいつもの冷淡な表情で教壇へ立った。
「先生! 今月のポイントが入ってないんだけど!」
「どうなってるんですか!」
「不具合じゃないんですか!?」
生徒たちの質問が一斉に飛ぶ。
茶柱は彼らの言葉を最後まで聞くと、教室のモニターを操作した。
「結論から言えば、不具合ではない」
その一言に、教室が静まり返った。
「今月、お前たちへ新たなプライベートポイントが支給されなかったのは、学校側の評価によるものだ」
「……評価?」
平田が聞き返す。
茶柱はモニターへ数字を表示した。
一年Dクラス クラスポイント:0
「これが現在のお前たちの評価だ」
生徒たちは互いに顔を見合わせた。クラスポイントという言葉自体、初めて聞いた者も少なくない。茶柱は、そんな彼らへ学校独自の評価制度を説明していった。
各クラスにはクラスポイントが存在し、その数値に応じて毎月のプライベートポイントが支給される。クラスポイントは学力だけでなく、授業態度や日常生活における行動など、さまざまな要素によって変動する。
そしてDクラスは、四月の生活態度によって、最初に与えられていた評価をすべて失っていたのだ。
遅刻。居眠り。私語。携帯端末の使用。授業に集中しない生徒たち。教師はそれらを注意しなかった。しかし、何も見ていなかったわけではない。生徒たちの行動は記録され、評価へ反映されていた。
「……つまり」
平田が硬い表情で尋ねる。
「僕たち自身の行動で、ポイントを失ったということですか?」
「そういうことだ」
茶柱はあっさり答えた。
須藤が机を叩く。
「ふざけんなよ! だったら最初から言えよ!」
池も勢いよく同調した。
「そうだよ! 言われてたらちゃんとやってたって!」
茶柱の表情は変わらない。
「言われなければ何をしても構わないと思ったのか?」
「そういう問題じゃねえだろ!」
「お前たちは自由を与えられた。そして、その自由をどう使うかは各自に委ねられていた。結果は今、目の前に示されている」
誰もすぐには言い返せなかった。一か月間、自由を満喫していた代償。
それがクラスポイントゼロという数字だった。
「フゥン……実に面白い仕組みだ!」
重苦しい教室の中で、龍水が口を開いた。茶柱が視線を向ける。
「何が面白い、七海」
「自由を与え、選択させ、その結果を評価する! 実に合理的だ!」
龍水は笑った。
「最初に十万ポイントを配ったのは、生徒の欲望と行動を見るためでもあったわけか!」
「好きに解釈すればいい」
「ハッハー! いい学校じゃないか!」
堀北鈴音が呆れたように龍水を見る。
「あなたも相当ポイントを使っていたでしょう?」
「無論だ!」
「来月の支給がなくなる可能性を考えていたのに?」
「ああ!」
「……それで後悔していないの?」
龍水は心底不思議そうに首を傾げた。
「なぜ後悔する!」
「何ですって?」
「俺は欲しいものに金を使った! 飯も食った! 美女とも遊んだ! クラスの連中とも仲良くなった!」
龍水は豪快に笑う。
「ハッハー! 何一つ無駄ではない!」
「生活費がなくなるかもしれないのよ?」
「その危険は承知していた!」
龍水は迷いなく答えた。
「だが、金を残すことより、今手に入れられるものを優先した! ならば、その結果まで引き受けるだけだ!」
堀北は深いため息をついた。
「本当にあなたは……」
綾小路清隆は、そのやり取りを静かに聞いていた。七海の判断は、必ずしも堅実ではない。だが、単なる無計画な浪費とも違う。彼はリスクを理解している。そのうえで、自分にとって価値の高いものを選択しているのだ。
もちろん、今後の生活に困る可能性はある。
しかし、本人はその危険を許容できると判断した。合理性とは、すべての人間が同じ選択をすることではない。何に価値を置くかによって、最適な行動は変わる。
世の中には想像以上に色んな人間がいることを龍水を見て綾小路は再確認した。
⸻
「さて、次の話だ」
茶柱は生徒たちの動揺が収まるのを待たず、モニターの表示を切り替えた。そこには、四月下旬に実施された小テストの結果が並んでいた。
「これが前回の小テストの成績だ」
生徒たちの視線が一斉に画面へ向く。そして、最上段に表示された名前を見て、驚きの声が上がった。
七海龍水 100点
幸村輝彦 90点
高円寺六助 90点
堀北鈴音 85点
「……えっ?」
池が目を丸くした。
「龍水、百点!?」
山内も驚いたように振り返る。
「お前、そんなに頭良かったのかよ!」
龍水は胸を張った。
「ハッハー! 七海家の英才教育を舐めるな!」
「いや、財閥ってそこまで勉強させられるもんなのか?」
「当然だ! 経済も経営も語学も、知らなければ話にならん!」
龍水は幼少期から、七海家の後継者候補として膨大な教育を受けてきた。
経済学や経営学はもちろん、語学、投資、交渉、航海技術など、その内容は一般的な学校教育の範囲にとどまらない。
そのため、今回の小テスト程度であれば十分に対応できた。もっとも、龍水にとって満点そのものが特別な成果だったわけではない。
問題は、最後に出題された高難度の設問だった。通常の授業内容を確認する試験としては、難易度の幅が大きすぎる。
「……最後の問題まで解けたのか?」
幸村が尋ねる。
「ああ!」
「あれ、かなり難しかっただろ」
「フゥン! なかなか面白い問題だったな!」
幸村は一瞬黙り込んだ。どうやら龍水の実力を少し見直す必要がありそうだった。そんな二人を横目に、堀北は自分の点数を見ていた。
八十五点。
決して悪い成績ではない。しかし、龍水と幸村には及んでいない。彼女の目が僅かに細くなる。
「フゥン、鈴音!」
「……何よ」
「これで下の名前で読んでも問題ないだろう?」
「………勝手にしなさい」
「ハッハー無論だ!」
だが、上位の成績に驚いていられたのも束の間だった。画面を下へ追うにつれて、点数は急激に低くなっていく。中には、満点の半分にも遠く及ばない生徒がいた。須藤、池、山内もその中に含まれている。
茶柱は彼らの成績を確認しながら、冷淡に告げた。
「それにしても、お前たちは運が良かったな。今回の小テストは成績に含まれなかったからいいものの、これが中間試験であれば六人が退学になっていたところだ」
教室が静まり返る。
「……退学?」
池が聞き返した。
「ああ。この学校では、定期試験で赤点を取れば退学となる」
「はあ!?」
須藤が声を上げる。
「何だよそれ! 赤点取っただけで退学だと!?」
「そうだ」
「冗談じゃねえぞ!」
山内も顔を引きつらせた。その後も教室内は阿鼻叫喚月広がっていた。
必要な説明を終えると、茶柱は教室に重い空気を残したまま立ち去っていった。
⸻
茶柱が教室を去ると、生徒たちは再び騒ぎ始めた。
「俺、マジでやばいかもしれねえ」
「今から勉強して間に合うのかな……」
「中間試験って、そんなに難しいの?」
須藤は腕を組んだまま、不機嫌そうに窓の外を見ている。龍水はその姿を確認すると、席を立った。
「健! 前の小テスト、何点だった!」
「……十七点」
「ハッハー! 面白い! 実に面白い点数だ!」
「喧嘩売ってんのか!?」
龍水はまったく怯まない。続けて池と山内を見ると、二人は揃って視線を逸らした。
「フゥン! なるほど!」
「何がなるほどなんだよ!」
池が叫ぶ。
「このままだと貴様ら三人が危ない!」
「分かってるわ!」
「なら話は早い!」
龍水は両手を叩いた。
「勉強するぞ!」
「嫌だ」
須藤が即答した。
「俺もパス」
池も続く。
「勉強会とか絶対だるいって」
山内まで同調した。
三人の返答に、堀北の表情が冷たくなる。
「……あなたたち、本当に危機感がないのね」
須藤が眉をひそめた。
「何だよ」
「本人にやる気がないのなら、無理に助ける意味はないでしょう。足手まといを抱えたままAクラスを目指す方が非効率よ」
「てめえ……」
「事実を言っただけよ」
須藤の目つきが鋭くなる。
だが、龍水は二人のやり取りを興味深そうに聞いていた。
「フゥン!」
「……何よ」
堀北が睨む。
「合理的な判断だな、鈴音!」
意外な返答に、堀北が僅かに目を開く。
「……そうでしょう?」
「ああ! 今すぐの負担だけを考えるなら、学力の低い生徒を切り捨てる方法もある!」
龍水は笑った。
「だが、俺はもっと欲しい!」
「何ですって?」
龍水は須藤を指さした。
「こいつの身体能力は欲しい!」
「またそれかよ」
「寛治! 貴様の人付き合いの良さや、野外活動の知識も使える!」
「お、おう?」
「春樹!」
山内が期待した表情で顔を上げる。
「何だよ!?」
龍水は少し考えた。
「貴様の才能はこれから探す!」
「まだ見つかってねえのかよ!」
教室の何人かが吹き出した。龍水は豪快に笑う。
「ハッハー! 人間は成長する! 今できないことが、半年後にはできるかもしれん!」
そして堀北へ向き直った。
「俺は勝利も欲しい! クラスポイントも欲しい! こいつらの才能も欲しい! 全部だ!」
「……ずいぶん欲張りね」
「無論だ!」
龍水は胸を張った。
「切り捨てるのも一つの手だ! だが、俺ならもっと多くを獲れる方法を探す!」
堀北はしばらく龍水を見つめた。
「……方法がなければ意味がないわ」
「その通りだ!」
龍水は即答する。
「救えもしない人間を救えると言い張るだけなら、ただの無責任だ! だが今回は、まだ試験まで時間がある!」
「つまり?」
「試す価値がある!」
龍水は教室を見渡した。
「必要な点数は高くない! 勉強できる人間もいる! なら、そいつらの力を使えばいい!」
綾小路はその言葉を聞いて、少しだけ龍水への理解を深めた。七海は堀北の判断を、間違っているとは言わなかった。彼女の考えが合理的であることも認めている。ただし、龍水が欲しい結果はそれだけではないのだ。
学力の低い生徒を切り捨てれば、短期的な負担は減る。しかし、その生徒が持っている別の能力や、将来的に成長する可能性も失われる。七海龍水は、それらを含めて欲しがっている。
「まあ、口で言うのは簡単だけどな」
綾小路が呟くと、龍水はすぐに振り返った。
「ハッハー! その通りだ!」
「認めるのか」
「当然だ! だから実行するのだろう!」
そして三人へ向き直る。
「貴様ら! 勉強するぞ!」
「だから嫌だっつってんだろ!」
須藤の怒鳴り声が再び教室へ響いた。どうやら、最初の航海はそう簡単には進まないらしかった。
⸻
その日の放課後。
平田洋介は、クラス全体へ勉強会の開催を提案した。
「中間試験まで時間があまりないし、勉強が苦手な人をみんなで手伝えたらと思ってるんだ」
その提案には多くの生徒が賛同した。
櫛田も笑顔で手を挙げる。
「私も手伝うよ!」
「ありがとう、櫛田さん」
幸村も協力する姿勢を示した。
「教科によっては俺も教えられる」
しかし、肝心の須藤たちは乗り気ではなかった。須藤にはバスケットボール部の練習がある。池と山内も、放課後まで勉強へ時間を使うことには抵抗があった。
「俺はいいわ」
須藤が断る。
「練習があるし」
池も頷いた。
「俺も遠慮しとく」
平田は困ったように眉を下げた。
「でも、今回の試験は本当に危ないと思うんだ」
「分かってるって!」
須藤は苛立ったように答えた。
「試験前に勉強すりゃいいだろ!」
その様子を見ていた龍水が笑う。
「ハッハー! 洋介! いい試みだ!」
「ありがとう、龍水くん」
「人を集め、得意な人間へ仕事を任せる! 実に合理的だ!」
平田は少し照れたように笑った。
「そうかな」
「ああ! 貴様は人をまとめるのが上手い! ますます欲しくなったぞ!」
「……その言い方だけ何とかならないかな」
龍水は平田の提案を高く評価していた。クラス全体に働きかけ、協力できる生徒を集める。人望がある平田だからこそ実行できる方法だった。
しかし、その勉強会に参加しない生徒をどうするかという問題は残っている。
そこで動いたのが堀北だった。Aクラスへの昇格を目指す以上、成績下位の生徒を見捨てることが本当に利益になるとは限らない。退学者が出れば、今後のクラス運営に悪影響が出る可能性もある。
そう考えた彼女は、別の勉強会を開催しようとした。ただし、堀北自身には生徒を集めるだけの人望がない。
そこで協力を求められたのが綾小路と龍水だった。
「ハッハー!いいぞ!貴様もあの三人が欲しくなったのだな!」
「変な言い方はやめてくれるかしら。そんなことよりどうすればあの三人を机に向けさせられるのか考えてちょうだい?」
「ハッハー!ならば桔梗を使えばいいではないか!」
「櫛田さんを?」
「ハッハー!シンプルな話だ!美女に誘われて断る男など!存在しない!あいつは人を惹きつける力があるからな。無論、鈴音貴様も美女だがな!」
「そういう軽薄な褒め言葉やめてくれるかしら」
そんな最中綾小路も口を出す。
「たしかにあの三人を集めるには櫛田が1番手っ取り早いと俺も思う。」
「ハッハー!決まりだな!」
堀北はため息をつきながら今後上手くいくのかどうか心配になって言った。
⸻
放課後の図書館。
「お待たせ!」
櫛田が明るい声で現れた。
その後ろには須藤、池、山内、さらに沖谷京介の姿がある。
「櫛田ちゃんがいるなら、そりゃ参加するしかないだろ!」
池が嬉しそうに言う。
山内も頷いた。
「まあ、勉強するのも悪くないよな!」
須藤は不満そうだったが、椅子へ腰を下ろした。
「……ったく、面倒くせえ」
龍水はその様子を見るなり、大きく笑った。
「ハッハー! 見事だ桔梗!」
「えっ?」
「俺や洋介が誘っても渋っていた連中を、こうも簡単に連れてくるとは!」
櫛田は照れたように笑った。
「そんなことないよ。みんなだって、退学したくないと思ってるから」
「それもあるだろう! だが貴様の社交性も大きい!」
龍水は満足そうに頷く。
「欲しい人材だ!」
「ふふっ。またそれ?」
櫛田が笑いながら席に着く。
堀北は軽く咳払いをした。
「……始めるわよ」
勉強会が始まった。
当初、堀北は自分で用意した問題集を使い、基礎から順番に説明していくつもりだった。
方法としては間違っていない。
しかし、堀北にとって当たり前に理解できる内容が、須藤たちにとってはまったく当たり前ではなかった。
「だから、ここでこの式を使うのよ」
「いや、分かんねえって」
須藤が苛立ったように答える。
「何が分からないの?」
「全部だよ!」
堀北の表情が険しくなる。
「それでは説明のしようがないわ」
「だから最初から教えろって言ってんだろ!」
「今、説明しているでしょう」
二人の声は次第に大きくなっていった。龍水はその様子を眺めながら、問題集へ視線を落とす。堀北の説明は正しい。しかし須藤は、その説明を理解するための基礎が足りていない。教える側と教わる側の前提が一致していなかった。
「鈴音!」
龍水が口を開く。
「須藤はその公式以前の部分で躓いているぞ!」
「それは分かっているわ」
「なら、一度そこへ戻れ!」
「そんなことをしていたら、試験範囲が終わらないでしょう」
「フゥン……それもそうだな!」
龍水は考え込んだ。時間は有限だ。すべてを一から教えていては間に合わない。ならば、どの部分を優先的に補うかを選ぶ必要がある。そう考えた矢先だった。
「そもそも、あなたは自分が置かれている状況を理解しているの?」
堀北が須藤を見据えた。
「何だよ」
「この程度の問題も解けないまま、試験を乗り切れると思っているの?」
「だから勉強してんだろ!」
「それにしては集中していないようだけれど」
須藤の表情が険しくなる。そして、堀北は言ってしまった。
「そんな姿勢で、本当にバスケットボールのプロになれると思っているの? 勉強から逃げてばかりの人が、プロの世界で通用するとは思えないわ。せいぜい身の丈に合った、遊びのバスケットボールで我慢したらどうなの。」
その瞬間、須藤の顔から表情が消えた。
「……あ?」
低い声だった。
「お前、今何つった?」
「事実を言っただけよ」
須藤が勢いよく立ち上がる。
「てめえ……!」
その手が堀北の制服へ伸びる。
「須藤くん!」
櫛田が慌てて止めに入った。綾小路も身体を動かしかける。しかし、須藤は舌打ちすると、乱暴に荷物を掴んだ。
「もういい。帰る」
「須藤くん、待って!」
櫛田が呼び止める。だが、須藤は振り返らなかった。
「こんなところで馬鹿にされるくらいなら、一人で勉強する」
池と山内も気まずそうに顔を見合わせる。
「……俺も今日は帰るわ」
「何か、勉強する気なくなったし」
結局、三人は図書館を出ていってしまった。残された勉強会の空気は、最悪だった。
⸻
「……失敗したね」
櫛田が困ったように呟いた。堀北は腕を組んだまま答える。
「本人にやる気がないのなら、仕方ないでしょう」
「でも、須藤くんは本当にバスケが好きなんだよ?」
「好きなことがあるのと、努力できるかどうかは別よ」
その言葉を聞いて、龍水が口を開いた。
「フゥン……鈴音!」
「何よ」
「欲を否定するとはな!無粋! 実に無粋だな!」
堀北が眉をひそめる。
「……何ですって?」
「貴様は一つ、見誤っている!」
「何を?」
「正論を言えば、相手が納得すると思っていることだ!」
堀北の目が鋭くなった。
「正論の何が悪いの?」
「正論自体は否定しない!」
龍水は即座に答えた。
「だがな! この場でその言葉を使っても、貴様の欲しい結果が得られないことくらい分かるだろう!」
「……」
「貴様は健を勉強させるためにここへ呼んだ! 違うか?」
「そうよ」
「なら、あいつが帰った時点で作戦は失敗だ!」
堀北は反論しかけたが、言葉を止めた。龍水の指摘は、少なくとも結果だけを見れば正しかった。龍水は机の上に置かれた問題集を指さした。
「人を動かすのに必要なのは、正論を並べることではない!」
少しだけ口元を上げる。
「欲だ!」
櫛田が首を傾げた。
「欲しいもの、ってこと?」
「そうだ!」
龍水は頷いた。
「あいつが欲しいのは勉強ではない! バスケットボールだ!」
「だから何?」
堀北が尋ねる。
「その欲を利用すればいい! わざわざ否定する必要があるか!」
「私は現実を教えただけよ」
「だが、健のバスケの才能を測ったわけではないだろう!」
龍水の声は、普段よりも落ち着いていた。
「勉強が苦手だからプロになれんというのは、根拠が足りん!」
堀北は黙った。
「健の学力が低いのは事実だ! モチベーションが低いのも事実。しかし、だからといってバスケの才能まで低いとは限らん!あいつがバスケに本気なことくらいわかるだろう?」
その言葉には、龍水なりの明確な判断があった。彼はすでに体育の授業で須藤の運動能力を確認している。バスケットボール部での練習にも熱心に取り組んでいることを知っていた。
そのうえで、彼の身体能力には十分な価値があると判断していたのだ。もっとも、それだけでプロになれると断言するつもりもない。必要な努力が足りなければ失敗するだろうし、競争相手がさらに優秀なら勝てない可能性もある。
しかし、現時点でその可能性を否定するだけの材料もなかった。
「ハッハー! もっとも、貴様の判断も理解できる! 努力する気のない人間へ時間を使いたくないのだろう!」
堀北は視線を逸らした。
「……当然でしょう」
「だか貴様だってAクラスに行きたいという欲があるのだろう?」
「……まあそうね」
「俺は、あいつの才能まで欲しい! だから別の方法を試す!」
「……どうするつもり?」
「決まっている!」
龍水は椅子から立ち上がった。
「本人が勉強したくなる理由を作る!」
綾小路が小さく頷いた。
「まあ、それができれば一番だろうな」
「ハッハー! そうだ!」
龍水は嬉しそうに笑った。
「人間は欲しいという気持ちで動く! なら、それを利用すればいい!」
堀北はあまり納得していない様子だった。それでも、龍水の言葉を完全に否定することはできなかった。
自分自身もまた、Aクラスへ行きたいという欲望によって動いているからだ。
⸻
数日後。
堀北は櫛田と改めて話し合いの場を設けた。場所は校内のカフェだった。
綾小路も同席し、崩壊した勉強会を立て直すための方法を考える。
「私はAクラスへ行きたいの」
堀北は率直に言った。
「そのために、成績の悪い生徒を助ける必要があると判断したわ」
櫛田は静かに聞いていた。
「だから協力してほしいの」
「うん。いいよ」
予想以上にあっさりした返答だった。堀北は少し意外そうに目を開く。
「……いいの?」
「もちろん。私だって、クラスから退学者が出るのは嫌だもん」
櫛田は微笑んだ。
「それに、堀北さんとももっと仲良くなりたいしね」
「……そう」
堀北はその部分には特に反応しなかった。それでも、勉強会を再開するための協力関係は成立した。その後、堀北は勉強会の方法を変更した。
放課後の長時間学習だけに頼らず、授業の合間の短い休み時間を利用する。各科目の重要な部分を整理し、短時間で復習できるようにする。
バスケットボール部の練習がある須藤にも、可能な限り参加しやすい方法へ変更したのである。その計画を聞いた龍水は、嬉しそうに笑った。
「ハッハー! いいぞ鈴音!」
「……何よ」
「前回の失敗を踏まえ、方法を変えた! 実に合理的だ!」
堀北は少しだけ眉を動かした。
「あなたに言われなくても分かっているわ」
「無論だ!」
龍水は満足そうに頷いた。
「なら、あとはあいつらを机へ向かわせるだけだな!」
その役割では、再び櫛田の存在が大きかった。そして、龍水自身も一つの方法を思いつくことになる。
⸻
再開された勉強会。
須藤たちは以前よりも素直に参加するようになっていたが、依然として勉強への苦手意識は強かった。特に池と山内は、少し難しい問題が出るとすぐに集中を切らしてしまう。
「……あー、もう無理!」
池が机に突っ伏した。
「頭が痛くなってきた!」
山内も問題集を閉じようとする。
「俺も休憩したいわ」
その様子を見ていた龍水が、突然櫛田へ話しかけた。
「なあ、桔梗!」
「なに?」
龍水は胸を張る。
「俺は今回、全教科百点を取る!」
櫛田が目を丸くした。
「えっ?」
「だから桔梗! 俺とデートしろ!」
数秒間、場が静まり返った。
「俺は美女とのデートが欲しい!」
その瞬間。
「はあ!?」
池が勢いよく立ち上がった。
山内も反応する。
「おい龍水! 何抜け駆けしてんだよ!」
櫛田は少し驚いた顔をしたあと、笑った。
「本当に龍水くんは相変わらずだね……ふふっ。いいよ?」
「ハッハー! 交渉成立だ!」
「マジで!?」
池が身を乗り出した。
「じゃあ俺も!」
「俺も俺も!」
山内まで手を挙げる。
櫛田は少し考えたあと、楽しそうに提案した。
「じゃあ、みんなで点数を競ってみる? 今回の試験で一番頑張った人と、私がデートするっていうのはどうかな?」
その瞬間、池と山内の目の色が変わった。
「絶対勝つ!」
「俺だって!」
須藤も、少しだけ顔を上げた。
龍水は満足そうに笑う。
「ハッハー! いいぞ桔梗!」
「龍水くんも参加する?」
「無論だ!」
龍水は即答した。
しかし、そこで綾小路が口を挟んだ。
「七海が全教科百点を取ったら、他の奴らに勝ち目がないんじゃないか?」
「……あ」
池が固まる。
山内も慌てて声を上げた。
「そうじゃん! お前は参加すんなよ!」
「ハッハー!」
龍水は豪快に笑った。
「安心しろ! 俺はすでに桔梗と約束した!」
「ずりい!」
「貴様らは貴様らで勝負しろ!」
櫛田も笑いながら頷いた。
「じゃあ、龍水くんとは別に、みんなは点数の伸び幅で競争するっていうのはどうかな?」
池と山内は少し考えた。前回の小テストよりどれだけ成績が上がったか。
それなら、最初から高得点を取っている龍水に勝つ必要はない。
「それならいける!」
「よし! 絶対勝つ!」
二人は勢いよく問題集を開いた。その様子を見て、綾小路は少しだけ感心していた。龍水は自分が櫛田とデートしたいという欲望を堂々と口にした。
しかし、その行動が結果として池や山内の競争心を刺激している。もちろん龍水自身も、それをある程度計算していたのだろう。彼は満足そうに二人を眺めていた。
「フゥン……いいじゃないか!」
綾小路が小さく尋ねる。
「最初から狙っていたのか?」
「何をだ?」
「池たちのやる気を出させることだ」
龍水は笑った。
「ハッハー! それもある!」
「……それも?」
「無論だ! 俺は桔梗とデートしたい!」
綾小路は一瞬黙った。
「……そうか」
「だが、こいつらが勉強するようになるなら、なお良い!」
龍水は胸を張った。
「一つの行動で二つの欲が満たせる! 最高じゃないか!」
綾小路は小さく息を吐いた。
なるほど。
確かに合理的だった。もっとも、これほど堂々と自分の欲望を表明できる人間は、そう多くないだろう。
「あなたたち、そろそろ勉強を再開してくれる?」
堀北の冷たい声が響いた。全員が慌てて問題集へ向き直る。
そんな中、龍水だけは上機嫌に笑っていた。
⸻
勉強会は、以前よりも順調に進むようになった。しかし、中間試験まで残り僅かとなった頃、新たな問題が発生した。図書館で勉強していた須藤たちの前に、Cクラスの生徒たちが現れたのである。
彼らはDクラスの勉強会を見て、面白がるように声をかけてきた。
「お前ら、ずいぶん頑張ってんじゃん」
須藤が顔をしかめる。
「何だよ、てめえら」
「いや、別に。ただ、その範囲を勉強してて大丈夫なのかなと思ってさ」
堀北の手が止まった。
「……どういう意味?」
相手は笑う。
「さあ? 自分たちの先生に聞いてみたら?」
その言葉に、綾小路が少しだけ眉を動かした。
龍水も問題集から顔を上げる。
「フゥン……」
相手の言い方は、単なる嫌味にしては妙に具体的だった。何かを知っている。少なくとも、そう思わせるには十分だった。やがてCクラスの生徒たちは立ち去ったが、堀北はすぐに問題集を閉じた。
「……確認しましょう」
綾小路が頷く。
「ああ」
須藤は不満そうだった。
「何だよ、あいつら。わざわざ馬鹿にしに来たのか?」
龍水は楽しそうに笑った。
「ハッハー! いい情報をくれたではないか!」
「どこがだよ!」
「本当に範囲が変わっているなら大問題だ!」
龍水は立ち上がった。
「なら確かめるぞ!」
そして一行は、茶柱のいる職員室へ向かった。
⸻
「試験範囲?」
茶柱は堀北の質問を聞き、少しだけ考える素振りを見せた。
「ああ、そういえば変更があったな」
「……変更?」
堀北の声が硬くなった。
「一週間ほど前に変更されていたはずだ」
「……聞いていませんが」
「伝え忘れていた」
数秒間、沈黙が訪れた。
「はあ!?」
須藤が声を上げる。
「ふざけんなよ! 俺たち今まで何のために勉強してたんだよ!」
池も同調した。
「もっと早く教えてくれよ!」
茶柱は表情を変えない。
「今伝えただろう」
「そういう問題じゃねえ!」
堀北は拳を握りしめた。今までの勉強がすべて無駄になるわけではない。しかし、試験範囲が変わった以上、新しく勉強しなければならない部分が発生する。残された時間は少なかった。
「……最悪ね」
堀北が小さく呟いた。
その隣で龍水が口を開く。
「フゥン……そう来たか!」
そして、茶柱へ視線を向けた。
「おい、教師!」
「……七海。何だ?」
「なぜこんなことをした!」
茶柱は眉を動かした。
「どういう意味だ?」
龍水は、いつものように笑ってはいなかった。
「本当に忘れるほど、貴様がそこまでの阿呆ではないことくらい分かるぞ!」
堀北が驚いたように龍水を見る。彼が教師へ率直な物言いをするのは珍しくない。しかし、今回の声にはいつもの軽さがなかった。
「試験範囲の変更を伝えなければ、退学者が出る可能性が上がる! それも勉強に苦労している連中ほど不利になる!」
龍水は茶柱を見据えた。
「貴様、それを理解していないわけではあるまい!」
茶柱は少しだけ目を細めた。
「お前たちなら、何とかできるだろう」
「ハッハー!」
そこでようやく龍水は笑った。
ただし、いつもの豪快な笑いではない。
「随分と根拠のない発言だな!」
「何?」
「俺たちの学力も、残された時間も、貴様は知っているはずだ!」
龍水は笑みを浮かべたまま続ける。
「それなのに、何とかなると断言する! フゥン……実に興味深い!」
茶柱は答えなかった。
龍水はしばらく彼女を見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「まあいい!」
「……何?」
「ここで貴様と議論していても、試験までの時間が増えるわけではない!」
龍水は堀北たちへ振り返った。
「行くぞ、貴様ら! どちらにしろ勉強だ!」
「ちょ、ちょっと待てよ龍水!」
須藤が慌てて追いかける。
「先生にもっと言わなくていいのかよ!」
「言ったところで何が変わる!」
龍水は歩きながら答えた。
「今は試験に合格する方が先だ!」
その判断に、綾小路は少しだけ感心した。七海は教師の不自然な言動を見逃さなかった。しかし、その場で相手を追及し続けることが最善ではないと判断すれば、すぐに行動を切り替える。
感情的に見えて、実際には極めて現実的だった。彼の豪快さは、判断の甘さとは別のものなのだろう。
⸻
その日の勉強会が終わった頃。
龍水はまだ、茶柱の態度について考えていた。
「フゥン……やはり違和感があるな!」
綾小路が顔を上げる。
「試験範囲のことか?」
「ああ!」
龍水は腕を組んだ。
「わざわざ退学者が出る危険に晒すとはな!」
堀北が冷静に答える。
「教師としては無責任ね」
「それもある!」
龍水は頷いた。
「だが、俺が気にしているのはそこだけではない!」
「……何?」
「茶柱先生の目的だ!」
綾小路も少し考えた。
そして、以前聞いた会話を思い出す。
「そういえば、以前Bクラスの担任が茶柱先生に、下克上でも狙っているのかというようなことを言っていたな」
龍水の目が輝いた。
「フゥン! それは面白い!」
堀北が綾小路を見る。
「どういうこと?」
「詳しい事情までは知らない。ただ、茶柱先生がDクラスを上へ行かせたがっている可能性はある」
「ハッハー! なら尚更おかしいじゃないか!」
龍水は机の上へ指を置いた。
「Aクラスが欲しいのなら、Dクラスの成績を上げる方が合理的だ! それなのに、試験範囲の変更を伝えない!」
「確かに、矛盾しているわね」
堀北も頷く。
龍水は考え込んだ。
「フゥン……本当に忘れたのなら話は簡単だ! だか人は欲には勝てん!今回のが意図的だったとしたら?」
綾小路が尋ねる。
「何か目的があると?」
「ああ!当たるぜ、船乗りの勘は!」
「好きだなそれ……例えばどういうのだ?」
「そうだな……」
龍水はしばらく黙った。
茶柱が試験範囲の変更を伝えなかった理由。単純な怠慢か。生徒の自主性を試したのか。あるいは、別の行動へ誘導しようとしたのか。
「フゥン……何かに目を向けさせるため、という可能性もあるな!」
堀北が眉をひそめる。
「目を向けさせる?」
「そうだ!」
龍水は笑った。
「情報だ!」
「情報?」
「学校側がすべてを教えるとは限らん! なら、生徒自身が情報を手に入れることも評価の対象なのではないか!」
綾小路が少しだけ目を細めた。龍水の推測には、一定の合理性がある。もちろん、茶柱が本当にそれを狙っていたかどうかは分からない。しかし、この学校が生徒の自主性を重視していることは事実だった。
「……心当たりがないわけじゃないな」
綾小路が口を開いた。龍水が振り返る。
「フゥン?」
「過去問だ」
「過去問?」
「ああ」
綾小路は考えを説明した。学校が毎年、完全に異なる試験問題を作成しているとは限らない。もし過去の問題を再利用しているなら、それを入手することで、試験対策を大きく進められる可能性がある。
特に、今回のように試験範囲が変更され、勉強時間が足りなくなった状況では、過去問の価値は大きい。
「なるほど!」
龍水の顔が輝いた。
「ハッハー! 過去問か! 欲しいぞ! 俺も!」
堀北は少し考え込んだ。
「でも、本当に手に入るの?」
「分からない」
綾小路は答えた。
「ただ、上級生へ聞いてみる価値はあると思う」
龍水は満足そうに頷いた。
「いいぞ清隆! 実に合理的な発想だ!」
「……そうか?」
「ああ! 試験問題そのものを知れば、勉強の効率は大幅に上がる!」
龍水は笑う。
「一からすべてを覚えるより、何が出るかを知る方が速い! 素晴らしい!」
堀北も頷いた。
「確かに、試す価値はあるわね」
そして綾小路が付け加えた。
「ただ、無料で手に入るとは限らない」
その瞬間。
龍水は端末を取り出した。
残高を確認する。
数秒。
「…………」
堀北が嫌な予感を覚えた。
「七海くん?」
「フゥン……」
龍水は端末をしまった。
そして、何の悪びれもなく胸を張った。
「悪いな! 金は今ない!」
「……は?」
「ない!」
堀北の眉間に皺が寄る。
「あなた、十万ポイントを全部使ったの?」
「全部ではない!」
「では?」
「ほぼ全部だ!」
「同じでしょう!」
龍水は豪快に笑った。
「ハッハー!」
「笑い事じゃないわよ!」
綾小路も思わず尋ねる。
「お前、本当に金持ちなんだよな?」
「無論だ!」
「この学校では、そうでもないみたいだな」
「ハッハー! 違いない!」
龍水はまったく気にしていなかった。
金がないことは事実だ。
しかし、金がないから何もできないと決まったわけではない。
「フゥン! 今から金を稼ぎに行くのも悪くない!」
龍水は、まるで金を稼ぐこと自体は難しくないと言うような口調で続けた。
「校内で商売する方法など、探せばいくらでもあるだろう!」
「……本当にできるの?」
堀北が尋ねる。
「無論だ!」
龍水は即答した。
「だがな!」
そのまま図書館の奥へ視線を向ける。
須藤たちが問題集と格闘している。
「今はこいつらの勉強を見るので忙しいからな!」
そして綾小路と堀北へ向き直った。
「貴様らに任せるぞ!」
堀北が呆れたように答える。
「……なぜそんなに偉そうなの?」
「適材適所だ!」
「単にあなたが浪費しただけでしょう」
「違うな!」
「何が違うの」
「俺は欲しいものに金を使った!」
「それを浪費と言っているのよ」
「後悔はしていない!」
堀北は額を押さえた。だが、綾小路は少しだけ別のことを考えていた。龍水は自分で過去問を探しに行くこともできるだろう。人と交渉する能力なら、むしろ綾小路より龍水の方が得意かもしれない。
しかし現在、龍水は須藤たちの勉強を見る役割を優先している。すべての仕事を自分でやる必要はない。自分にできることでも、他人へ任せた方が結果が良くなるなら任せる。
それが龍水の判断なのだろう。
「……分かった」
綾小路が答える。
「とりあえず、手に入るかどうか調べてみる」
「ハッハー! 任せたぞ!」
龍水は綾小路の肩を叩いた。
「ただし!」
「……何だ?」
「足元を見られるなよ!」
「お前の金じゃないだろ」
「ハッハー! だからこそだ!」
龍水は笑った。
「金を使うなら、価値を見極めろ!」
堀北が小さくため息をつく。
「あなたが言うと説得力があるのかないのか分からないわね」
龍水は気にせず須藤たちの方へ戻っていった。
「さあ健! 続きをやるぞ!」
「まだやんのかよ!」
「無論だ! 貴様の未来がかかっているからな!」
綾小路はそんな二人を眺めながら、櫛田へ声をかけることにした。過去問の入手には、彼女の協力が役立つかもしれない。
⸻
放課後。
龍水は須藤たちの勉強を見ていた。
「寛治! そこは違う!」
「ええ!? また!?」
「ハッハー! 惜しいぞ!」
「どこが惜しいんだよ!」
「考え方は合っている! 最後の計算だけ間違えている!」
池は問題集を見直した。
「……あ、本当だ」
「ならもう一回だ!」
隣では山内が机に突っ伏している。
「龍水、休憩しね?」
「いいぞ!」
「おっ!」
「十分だ!」
「短っ!」
そんなやり取りを続けていたところへ、綾小路と櫛田が戻ってきた。
龍水は二人の姿を見るなり、笑った。
「フゥン! 戻ったか!」
「ああ」
「どうだった!」
綾小路は少しだけ周囲を確認した。
そして龍水へ小声で伝える。
「手に入った」
龍水の目が輝いた。
「ハッハー! 素晴らしい!」
「ただし、試験直前までは伏せておくつもりだ」
「フゥン?」
綾小路は理由を説明した。二年前の小テストと今年の小テストが一致していたこと。そのため、中間試験も過去問と似た内容になる可能性が高いこと。ただし、確証はないため、通常の勉強も続ける必要があること。
龍水は話を聞き終えると、満足そうに頷いた。
「ハッハー! いい判断だ!」
「そうか?」
「ああ! 先に答えがあると分かれば、こいつらは勉強をやめるかもしれん!」
綾小路は少しだけ苦笑した。
「……否定できないな」
龍水は問題集を閉じた。
「フゥン。それにしても、見事だ清隆!」
「大したことはしてないぞ」
「情報を手に入れた! しかも使う時期まで考えている!」
龍水は嬉しそうに笑った。
「実に合理的だ!」
「……褒めても何も出ないぞ」
「ハッハー! ならそれでいい!」
龍水は少し考えたあと、尋ねた。
「ちなみにいくらだった?」
「一万五千ポイントだ」
「フゥン!」
龍水は一瞬だけ目を細めた。
「安くはないな!」
「ああ」
「だが、これで退学者を防げるなら十分に元が取れる!」
龍水は満足そうに頷いた。
「いい買い物だ!」
その後、彼はすぐに須藤たちの勉強へ戻った。過去問を入手したからといって、残りの勉強をやめるつもりはない。綾小路と櫛田が情報を手に入れた。ならば、自分はその情報を最大限活かせる状態へ須藤たちを引き上げる。
それが今、最も合理的な役割分担だった。
⸻
中間試験の前日。木曜日の放課後。
茶柱がホームルームを終えて教室を出ると、櫛田が立ち上がった。
「みんな、ちょっとだけいいかな?」
その声に、生徒たちが振り返る。櫛田は手に持っていたプリントの束を掲げた。
「明日の試験に役立ちそうなものを用意したんだ!」
池が顔を上げる。
「何それ?」
「二年前の中間試験の問題だよ!」
一瞬、教室が静かになった。
そして。
「えええ!?」
池が勢いよく立ち上がった。
「マジで!?」
山内も目を丸くする。
「過去問!?」
「うん!」
櫛田は笑顔で頷いた。
「三年生の先輩から譲ってもらったんだ。前に受けた小テストも二年前のものとほとんど同じだったから、今回の中間試験でも役立つと思う!」
その説明に、教室の空気が一気に明るくなった。
「すげえ!」
「これ覚えればいいってこと!?」
「櫛田ちゃん最高!」
生徒たちから感謝の声が上がる。堀北も驚いたように櫛田を見た。
「……よく手に入れたわね」
「えへへ。ちょっと頑張っちゃった」
櫛田は笑う。
「みんなの役に立てたら嬉しいな」
堀北は少しだけ視線を落とした。そして、静かに言った。
「……ありがとう、櫛田さん」
その言葉に、櫛田の笑顔がほんの一瞬だけ止まった。しかし、すぐにいつもの明るい表情へ戻る。
「ううん! 気にしないで!」
そのやり取りを、綾小路は黙って見ていた。櫛田の裏の顔を知っているからこそ、今の表情が単純な善意だけでできているわけではないと理解していた。それでも、今回の過去問配布がクラス全体へ利益をもたらすことは間違いない。
綾小路にとっては、それで十分だった。一方、龍水も過去問を受け取り、中身を確認していた。
「フゥン……」
数ページめくる。問題の構成。出題形式。難易度。綾小路から話を聞いていたとはいえ、実物を見るとさらに興味深い。
「ハッハー! いいぞ!」
池が振り返る。
「龍水! これ本当に使えると思う?」
「使える可能性は高い!」
「よっしゃ!」
「だが!」
龍水はそこで声を強めた。
「これだけ覚えれば絶対に受かると思うな!」
「……え?」
「同じ問題が出る保証はない!」
龍水はプリントを掲げた。
「過去問は保険だ! 今まで勉強したことまで捨てる必要はない!」
堀北も頷いた。
「その通りよ。今日は最後の確認に使いなさい」
須藤は真剣な表情でプリントを受け取っていた。
「……分かった」
龍水はその様子を見て、満足そうに笑った。
「ハッハー! いいぞ健!」
「何だよ」
「明日は貴様の努力を見せる日だ!」
須藤は少しだけ照れ臭そうに顔を逸らした。
「……分かってるって」
だが、彼の表情にはまだ不安が残っていた。特に英語。これまで勉強してきたものの、完全に理解できたとは言い難い。龍水はその様子を見て、少しだけ声を落とした。
「健」
「……何だ?」
「今日は最後の確認だけにしておけ。無理をして徹夜するな」
「……お前、こういう時は意外と慎重だよな」
「無論だ!」
龍水は笑った。
「疲れた頭で試験を受けても、覚えたものを使えなければ意味がない!」
「……分かったよ」
須藤は頷いた。
⸻
そんなクラスが安心モードに入って。少し気が緩くなっている最中、テスト前日の放課後、龍水は茶柱とあっていた。
「ハッハー!話があるぞ!茶柱。」
「……なんだ七海?」
怪訝そうな顔をする茶柱と裏腹にいつもどうり自信満々な顔のまま龍水は発言する。
「得点を買えるだろう?貴様は入学式の前俺の質問に時と場合によると答えていたからな今回の試験はうってつけという訳だ!」
「……」
「でどうなんだ?」
「……前例がないからな………。だか不可能という訳では無い……。そうだな1点あたり10万ポイントだ」
「ハッハー!随分法外な値段だな!」
「文句があるなら買わなければいい。」
「まあいいぞ!とりあえずは正面突破を目指すつもりだからな!」
そういい龍水はいつも通り胸を張って茶柱の元を去っていった。やはり七海龍水。ただの金遣いの荒い馬鹿では無い。茶柱は小さく息を吐く。
「……本当に、面倒な生徒が入ってきたものだ」
しかし、その口元には、本人も気づかないほど僅かな笑みが浮かんでいた。
龍水なら速攻で金稼ぎするだろ!って思いますよね。自分もそう思います。
まあ金策に関しては次の話で色々と書くつもりなのでとりあえず今は金のない龍水をお楽しみください。