「朝田君は進学先決めたの?」
目の前で美少女が、膝の上で広げた弁当をつつきながら、俺に向かって口を開く。
前のボーダー呼び出しの件以降、綾辻さんは本当に俺に話しかけるようになった。あれは社交辞令じゃなかったのかと本気で驚いた。話すたびに周囲の男どもから殺意が刺さるのは本当にやめてほしいけど。
コンビニで買った百円のパンをもそもそと噛みながら答える。
「進学はしない」
「ええ!?なんで!?」
「親もいないし金もない。生活だって支援金頼りなのに、学校に使う金なんかないよ」
今中学に通えているのも、義務教育だからにほかならない。一応ボーダーからの支援や国からの支援で高校に通うこと自体はできるが、そうすると生活が火の車になる。将来を考えると、中卒で就職する以外に道はないのである。実に世知辛い世の中だ。
「……本当にいいの?高校卒業すればもっといい就職先に行けるかもしれないのに」
「そうなるまで生きていられればな。その前に餓死しちゃえば意味がない」
現在の俺の食生活は、朝は飯抜き、昼は安い割引の総菜パンやおにぎり一つ、夜は金があればスーパーのおつとめ品で、なければ早々に寝て空腹をごまかしながら、という状態だ。完璧な栄養不足である。常に腹ペコ、それが俺だ。
「…………やっぱりボーダーに入るべきだよ、朝田君は。お金だって正隊員になれば普通のアルバイトより稼げるし、学費のことだって提携高校なら支援してくれたはず」
「そうか?俺にボーダーは向かないと思うけど」
本心だった。本部に行ったときにそう思った。
「どうして?」
「あそこにいる人はみんな、何か目的とか目標とか、そういうのがある人ばかりだ。誰かを守るとか、復讐するとか、何かを得たいとか。…………俺にはそういうの、一つもない」
「…………朝田君」
唾液で湿ったパンを飲み込む。パンと共に消えた口内の水分を補充し、唇を湿らせた。
「守るべき人もいないし、親の復讐をしたいとも思わない。生きる目的もない方がいい。後腐れないようにしておきたいんだ」
人間いつ死ぬかなんて誰にもわからない。病気にかかるかもしれないし、事故に遭うかもしれない。誰かに殺されることもあるだろうし、あの時みたいに未知の何かに食い殺されるかもわからない。だったら、あらかじめ残るものは減らしておくべきだ、というのが、俺があの災害で学んだことだ。立つ鳥跡を濁さず、ともいうだろう?そういうことだ。
「それは…………なんだか、寂しくない?」
「そうか?」
「だってそれって、死ぬために生きてる、ってことじゃないの?」
「…………そうだな。そうかも」
親に人間扱いされたことのない俺は、生物学的に生きていても、人間として生きたことはなかったと言える。生に執着がないのはそのせいもあるだろう。
空の弁当箱から目を離さず、俯く彼女の纏う色は水色や青、紺色だ。憂鬱や悲しみ、寂しさなんかがこんな色だった。なぜ彼女がそんな感情を抱くのか、俺にはよくわからない。
「…………うん。やっぱり、ボーダー入ろ朝田君」
「だから、」
「生きる理由がないなら作ればいいの。死ぬために生きるなんて、そんな悲しいこと言えないくらい、生きることを楽しめばいい」
顔を上げた彼女の瞳には強い光が見える。纏う色が瞬く間に変わり、赤や橙、黄色など、暖色で覆われていく。どんな感情なのだろう。怒り以外、今なぜその感情が出るのか全く分からなかった。
「私があなたの生きる理由を作ってあげる。…………ううん違う。私が、あなたを縛る。勝手に終わりなんて見られないように」
白魚のように華奢な手が手首を握りしめてくる。びっくりして引っ込めようとしても、腕は微塵も動こうとしない。一体どこにそんな力を秘めていたのだろう。
彼女は笑っている。いつもの人好きのするような、好かれるための笑顔ではなかった。挑戦的で不敵な、にやりと擬音がつくような、俺を縛り付けて離さないような、格好いい笑い顔だった。
「覚悟してね、晴久くん」
正直に言おう。
漏らすかと思った。
綾辻遥による拘束宣言(非物理)からしばらく。彼女が俺に関わる頻度が爆発的に増えた。それはもう飼い主に懐く犬の如き有様で。
朝はなぜか家まで迎えに来てそのまま一緒に登校するようになったし、学校内では授業が終わるごとに俺の机に来ては復習する。昼は女子からの誘いを蹴ってまで俺と食うようになったし、何なら弁当を作ってきてくれる。帰りに関しては俺を引っ張って教室から出るようになった。
一回強めに拒絶しようとしたが、それをすると涙目+上目遣いのコンボでこちらの気勢を削ぎに来た。自分の顔面をわかってやっているところが強かだと思う。女の子って怖い。
ちなみに俺の住所がバレているのは、一度無理やり案内させられたためである。過去の俺をぶん殴りたくなった。押しに弱い愚か者め。
「私、六頴館に進学するの」
「進学校か。ボーダーの傍らよくやるな」
「晴久くんも来てよ」
「無茶言うな」
例年であればしきりに降る雨も、今年はそこまで降っていない。代わりにじりじりと、日々気温が夏らしく上がってきていた。セミは既に大勢羽化し、騒がしくも鳴き声を響かせている。
夏休みまであと少しといったところだが、三年生は受験に向けて忙しなく動く時期でもあった。
「別に六頴館じゃなくてもいいよ。一緒に高校生やりたいの」
「行かないって言ったろ」
「ボーダーに入れば行けるよ。三門第一か六頴館のどっちかだけど」
「諦めないな君」
「まだ七月になったばかりだよ?チャンスは有り余ってるもの」
綾辻さんは頭がいい。クラスどころか学年トップの成績を誇る。加えて素行と性格の良さから先生の覚えも良い。内申点も全く問題ないだろう。そんな彼女が進学校を選ぶのは十分納得できる。
だが俺は違う。自分の頭が悪いとは思わないが、進学校に行けるほど良くもない。内申点も期待できないし、そもそも進学する気はないと前に言ったはずだが?ちょっと前の話ですけど。
「私、夏休みは晴久くんのおうちに入り浸る予定だから。もちろん仕事はあるけど」
「勝手に決めるな」
まだ知り合って一か月そこらしか経っていないというのに、あの拘束宣言から距離の詰め方が急すぎる。F1レーサーもびっくりの速さだ。あの問答で俺は綾辻さんの何に火をつけてしまったのだろうか。キラキラとラメを混ぜたような黄色と黄緑色が視界の中で躍る。
「夏休み全部使って、あなたの考えを変えてあげる。生きていてよかったって思えるようにしてあげるね」
「何してくるか読めない…………」
これだもの。もう怖いよ。同い年ですよね?まだ中学生ですよね?なんなんだろうこの得も言われぬ雰囲気は。歴戦の戦士というか、めちゃくちゃ場数を踏んだバリキャリみたいな、そんな雰囲気を醸し出している。
楽しみなはずの夏休みが一気に不安になる。できるだけ何事も起きないように頑張ろう。額に滲んだ汗が単なる暑さから発したものなのか、はたまた冷や汗か。もう俺には判断できなかった。
綾辻遥にとって、朝田晴久は影のある暗い人という認識だった。
彼は学校内でも悪い意味で有名だった。隠れて飲酒喫煙を繰り返しているだとか、喧嘩に明け暮れているだとか、いわゆる不良のレッテルを貼られている少年だった。
朝田と同じクラスだった一年生のころ、たった一度だけ話しかけたことがある。それも学級の連絡事項を伝えただけ。その時垣間見た彼の瞳は、綾辻の心の奥深くに根付いた。
昏く、生気の感じられない目をしていた。現実から目を背けているように見えて、その実じっと現実を見つめている。当時十三歳の綾辻にとって、その瞳は恐怖でしかなかった。それ以降、積極的に関わろうとは思わなかった。
大規模侵攻が発生し、ボーダーが発足して比較的早い時期、綾辻はボーダーに入隊した。自分にもなにか出来ないか、その一心だった。
戦闘員は怖かったから、オペレーターになった。見た目を買われて広報部隊として活動するようになって、SNSであれこれ言われ、学校で陰口や噂が流れるようになっても遮二無二働いた。これが誰かのためになると信じて。
三年生となり、朝田と再び同じクラスになった。相変わらず輪に彼が混じることはなかったが、最後に見た時よりもケガは少ないように見えた。
そんな折、ボーダー上層部から綾辻に向けて言い渡された任務があった。と言っても精々お使いくらいなものだが、肝心の内容は朝田晴久をボーダーまで連れてきてほしいというものだった。
指示を受けたとき、思わず顔をしかめてしまったのは仕方のないことだろう。何せあれから二年ほど経過しても、全てを吸い込む深い淵のような瞳が、あの時感じた感情が、未だに心の底から消えないのだから。
朝田に対する印象が百八十度変わったのは、ここがきっかけだった。今になって思えば、周囲の確証のない噂に振り回されて、信じ込んでいた自分が情けない。もっとも、思春期真っ只中の子供としては仕方のないことなのだが。
ボーダー見学から数日、どうしても放っておけずに声をかけたが、彼は綾辻を邪険にすることはなかった。少し表情を歪めるものの、追い払おうとはしなかった。
生返事やぶっきらぼうな受け答えにも構わず話かけ続けてようやく、彼は自らの根底を語った。というよりは、綾辻のしつこさに音を上げたのかもしれない。
彼には何もなかった。夢も、目標も、生きる理由も。
唯一死んだあとに何も残さないようにとは考えていたようだが、そんなものを生きる理由にするなんてあまりにも寂しすぎる。
空の弁当箱に目を落として、綾辻はようやく気付いた。二年前のあの時覗き見た瞳、深い淵の理由に。
彼はきっと何も得られず、何も与えられない子供だったのだろう。本来親から与えられるべき物を何一つ与えられず、ただそこに在っただけ。そうして醸成された無は、いつしか大きな人型の穴になった。
大規模侵攻後、ほんの少し刺々しさが抜けていたのは、奪う相手が消えたことにも由来しているのかもしれない。だがそれも良いこととは言えないだろう。復讐相手すら失ったのだから。
これらはただの綾辻の憶測に過ぎない。けれど確かに寂しいと思った。悲しいと感じた。
同時に、この人を離してはいけないとも思った。
離せばきっと、どこかへ消えていく。二度と届かない遥か遠くへ。
許せないと、衝動的に思った。
死ぬのは良い。人はいつか死ぬのだから、致し方ないことだ。だが、それを前提に生きている、ということがどうしても我慢ならなかった。
ならばどうする?この身勝手な男を留めるにはどうすればいい?
綾辻の優秀な脳が答えを弾き出すのにそう時間はかからなかった。
縛り付けるのだ。何に?私に。どうやって?何をしてでも。
そうと決まれば行動あるのみ。彼と比べれば小さく、細い掌で彼の手首を握る。引っ込まされないように全力で掴みあげ、彼の困惑したような顔を見つめて不敵に笑って見せる。
疎まれようが構わない。これは朝田晴久のためでなく、綾辻遥自身のエゴなのだから。
展開が流れ星くらい早い