今日は、再びボーダーを訪れるべく、綾辻さんと一緒に歩いていた。綾辻さん曰く勧誘ではなく、嵐山隊の皆様方が会いたいと言っていたらしい。まぁ前回は世話になったし無下にするのも気が引ける。一般人たる俺に何を期待してんだとは思うけど。
「今日は珍しくみんなオフなの。だからお茶会でもしよう、って話になってね」
「俺邪魔じゃない?なんで俺呼ばれてんの」
「嵐山さんがね、もうすごい晴久くんのこと気にかけてて、ことあるごとに様子を聞いてくるんだよね。朝田は元気かとか、ご飯はちゃんと食べてるのかとか、それはもう根掘り葉掘り」
「えぇ…………?」
意味が分からん。なんでそんなに気にされてるんだ?前会ったとき結構無礼に立ち回った気がするけど。どこに気に入られる要素があった?
「嵐山さん下に弟と妹がいるから、年下には結構甘いというか、お兄ちゃんぶりたいみたいでね。晴久くんが一人暮らしだって話をしたら、なんというか…………兄性が爆発しちゃったみたいで」
「兄性」
「会いに行くのは難しいからせめて様子は知りたい、っていう風になっちゃった」
てへ、じゃないんだよな。なんで俺の話しとんねん。もっとあっただろ楽しい話題が。何が悲しくて俺みたいなはみ出し者の話をするんだか。
にまにまと笑う綾辻さんにため息を吐く。未だに彼女の真意がわからない。なぜ俺に構うのか、縛り付ける宣言はなんだったのか…………俺にどんな感情を抱いているのか。無論色を見ればわかるが、その色がどの感情かなんて、見ただけでは判別できない。
知りたい、とも思うし、知ってはいけない、とも思う。知れば彼女に報いるために行動ができる。知ればこの不思議な関係性が崩れるかもしれない。
要は惜しい、と思えるくらいには、俺も彼女に惹かれているのだ。
俺が惚れっぽいのか、彼女が魔性なのか。どっちにしろ、離れ難いと思っている。ダッセェな俺。あんなかっこつけといてこれかよ。
「はぁ…………まぁいいけど」
「ふふ、嵐山さんも悪気があるわけじゃないから。柿崎さんも――っ!」
《門発生。警戒区域付近の皆様は――――》
警報の音と目の前に黒い穴が開くのはほぼ同時だった。咄嗟に綾辻さんを抱えて物陰に隠れる。
ボーダーはまだ遠いが市街地は近い。逃げるべきだろうが、すぐに追いつかれるだろう。無駄に被害を増やすだけだ。
無駄に冷えた頭を回す。最優先は固まっている。どうやり過ごすかだ。
腕の中で息をひそめて固まる綾辻さんに見やる。くすんだ灰色が彼女の体を覆い隠してしまいそうだった。
「綾辻さん、トリオン体ってやつになれるか?」
「う、うん。なれる」
「よし。それになって市街地の方に走れ。あのデカブツは俺が引き付ける」
「待って!すぐに防衛隊員が来るから、それを待つのでも」
「ダメだ。あいつらすぐに俺たちに気付く。前もそうだった」
あの地獄の災害の時、どこに隠れようと奴らは追ってきた。あの時はなぜなのかわからなかったが、今なら予想がつく。俺のトリオン量とやらに関係しているのだろう。
「俺を追ってくるはずだ。だからボーダー側に逃げる。市街地の被害も抑えられるし、君を逃がせる。やらない理由はない」
「でも……!」
見つめていた多脚の化け物がこちらにぐりんと視線を向けた。気付かれたな。
「チッ、バレたな。早く逃げろ!」
それだけを言い置いて瓦礫から飛び出した。多分逃げられはしないだろう。向こうの方が足が速い。小さな影が反対方向に飛び出していき、少し安堵する。
振り下ろされる爪を間一髪で躱す。気付けばもう数メートルの距離に一体肉薄していた。
「速……!」
毒づく声なんてお構いなしに振るわれる爪を何とか回避する。だが一体だけだ。まだやりようはある。なんて、甘い期待だった。
ひゅか、と風を切る音が耳に届く。同時に左腕から鮮血が舞った。痛みは遅れて、稲妻のように全身を駆け巡る。
「ぐ……!」
咄嗟に手で押さえた場所からぼたぼたと血液が垂れ落ちる。腕に沿って一閃、見事に切り裂かれた。リストカットは思ったより血が出ず、手首に垂直に切るより腕に沿って平行に切った方が出血して死にやすいとかなんとか聞いたことがあるが、まさか自分の体で証明するとは思わなかった。
血は止まらない。腕は動くが痛みのせいで機能は精々二割程度だろう。これでは逃走も十全にはいかない。
歯を食いしばって顔を上げる。前に一体、後ろに一体。もう逃げ場もなくなった。
「――――ッは」
笑える。ようやっと生きてもいいと思えた矢先にこれとは。世界はよほど俺を殺しておきたいらしい。傷口が燃えるように熱くて、無意識に荒い息が漏れる。
水の如く流れ落ちる血のせいか、視界が暗い。徐々に瞼が落ち、全身から力が抜け――。
不意に彼女の笑顔がよぎって、倒れかけた体を全力で踏みとどまらせる。
「すぅ…………ふぅ」
深呼吸。それに呼応するように化け物が爪を振り上げる。視界の端でもう一体も同様に。
引き延ばされたように感じる刹那。振り下ろされる爪の側面を、無傷の右腕で思い切り打ち付ける。たった数ミリ、されど数ミリ。ほんの少し軌道を逸れたそれは、俺の肩を浅く切り裂いて―――背後にいたもう一体の目に突き刺さった。
コントロールを失ったもう一つの爪は俺ではなく、正面にいたもう一体の目に。今度は俺の頬を裂いた。
静寂。自身の荒い息遣いと、血が地面に落ちる湿った音だけが嫌に耳に残った。
視界が霞む。漠然と、死ぬな、と思った。同時に死にたくない、という懇願が湧き起こる。そんな自分に反吐が出る気がして、口角が少し上を向いた。
遠くから誰かの声と、足音が聞こえる。それが何なのか、誰なのか確認することもできずに、俺は意識を手放した。
最近の晴久くんは良い傾向だったと思う。私を家に上げることに抵抗しなくなったし、出された物も遠慮せずに受け取るようになってきた。以前は拒絶まではいかないが遠慮するばかりで、渡したものは押し返されるし、受け取っても何かしらで返そうとしてきた。それと比べれば大きな進歩だ。
今回もそう。前までの彼ならボーダーというだけで断られただろうが、渋い顔をしながらも頷いてくれた。それがたまらなくうれしい。彼も私を受け入れてくれている。その事実が私を浮足立たせていた。
そんな私の行動が、彼を傷つけてしまうなんて想像もせずに。
白く清潔なベッドで、彼は眠っている。すやすやと安らかな寝顔とは対照的に、腕や顔には痛々しい傷を隠すように、包帯やガーゼが当てられている。私は眠る彼の手を握ってあげることしかできない。
晴久くんに言われた通りトリオン体に換装し、全力で市街地まで走った。すぐに内部通信で本部に応援を要請したが、再度繋がった通信で彼が大怪我を負って倒れたことを知らされた。
そうして運ばれたベッドの上で、彼は眠っている。
「…………晴久くん」
返事はない。いつもなら、真顔のまま怠そうな声で返事をしてくれるのに。
無性に寂しくなって、布団がかけられた彼の胸に顔を埋めた。
「綾辻」
「―――っ!!」
背後から声がかけられて思わず飛び上がる。振り向くと、少し気まずそうな顔をした自隊の隊長が佇んでいた。スライド式の扉があまりに滑らかなせいで、開けた音を聞き逃したらしい。
「あ、嵐山さん、お疲れ様です」
「ああ、うん、お疲れ」
軋みの音が聞こえそうなほどにぎこちない挨拶を交わす。まるで見てはいけない光景を見られたような恥辱に無意識に頬を赤らめる。
「…………こほん、彼は?」
「まだ、寝てます」
ベッド横の机に見舞いの品を置き、空いた丸椅子に腰かける嵐山さんを横目に晴久くんの顔を見る。穏やかで、安らかで、上下する胸が無ければ生きているとは思えない。底抜けに恐ろしくなって、縋るように彼の手を握る。
「そうか…………まぁ、命に別状はないらしいし、そう遠くないうちに目を覚ましてくれるだろう。そんなに気負いすぎることはないよ」
「…………わかってます。わかって、いるんです。でも」
「死んでしまいそう、か?」
答えは返さない。私が口にすれば現実になってしまうかもしれない。そんなわけがないと理性ではわかっているのに、感情は言うことを聞いてくれない。こんな気持ちを経験するのは初めてで、どうすれば、どう振る舞えばいいのかまるで分からなかった。
「気を張りすぎるな。大丈夫、朝田は絶対戻ってくるさ」
「…………そうですね」
早く起きてほしい。そしてどうしてあんな行動をしたのか問いただして、思い切り叱って、その倍褒めて、おいしいごはんを食べさせてあげたい。その光景を思えば、少しは寂しさも紛れるような気がした。
「…………知らない天井だ」
言ってみたかったんだよなこれ。
真っ白い天井を見つめ、アルコールの香りがする空気を深く吸い込む。痒みが走った頬に手を伸ばすと、柔らかい何かが指先に触れた。
そういえば近界民に襲われたんだった。綾辻さんを逃がすために無茶しでかして、ボロクソにやられた記憶はある。びっくりするほど血が出てたな確か。
「…………っ、いって」
何となく右腕を動かすと、針を刺されるような痛みが迸る。全体が白い包帯で覆われ、傷口の様子は判然としないが、まぁ大怪我だろうな。あんだけダバダバ血が出てたわけだし、失血死しないだけ重畳だろう。
「…………ん」
ふと、腿のあたりに自分のものではない重みを感じ、上体を起こして覗いてみる。ヘーゼルの頭が俺の腿に顔を突っ伏した状態になっていた。
「えぇ……」
綾辻さんじゃん……なにしてんのこの子。
耳を澄ますと、すぅすぅ寝息が聞こえる。寝てんのかよこの子。大物だな。
ぱっと見た美少女には怪我したような痕跡は見られない。服の下までは流石にわからないが、少なくとも腕や足にはなさそうで少し安堵する。
「おーい、起きろー」
「……んむぐ」
「っぷ、ふふ、起きろって、くすぐったいよ」
「んに……」
透き通るような髪をさらりと撫で、とんとん頭を小突く。意外と寝汚いというかなんというか。図太いのは前々からそうだった。
一遍自分の思いを自覚して向き合ってしまえば、もう感情を抑えることはできない。というか、その必要もないように感じた。とはいえ関係が壊れるのは嫌なので、伝える気はない。が、それはそれとしてこの気持ちを捨てるには、あまりに重い感情のように思えた。
(はぁ、全く。こういうのを度し難いって言うんだろうな)
もにもに、美少女のご尊顔を不躾に変形させながら考える。これからどうしようか。どう生きようか。ちょっと前の俺では及びもつかない考えに、思わずふは、と笑いがこぼれた。
「んん……晴久くん…………?」
「よう、ねぼすけ。人の脚の上で寝るとはいい度胸してるじゃん」
「ん゛…………」
起き上がった美少女は目をしょぼしょぼさせながら、奇怪なうめき声をあげている。まだ脳みそが起きていないのか。この分だと寝起きも悪そう。
「いい加減起きな。夜寝れなくなるよ」
「……晴久、くん」
「おう」
「晴久くん…………晴久くん!」
がばりと、久しぶりに会う飼い犬の如く美少女に飛び掛かられた。すごい絵面。
ぎゅうぎゅうと抱き締められて痛む全身の傷も、この時ばかりは無視を決め込んだ。だって好きな人に抱き締められて痛いなんて、言うわけにいかないだろう。
包帯の巻かれていない、されど少しだけ傷ついた右腕で彼女の背中を撫でる。触れる手は暖かく、俺の心音が伝わっていないかだけ気になった。
「良かった…………」
「うん。心配かけた」
「わかってるのにあんなことしたの?」
「そりゃな。怒られるのは覚悟してたよ。でも後悔はしてない」
「もう、全然反省してないじゃない。やっぱりまだまだね」
「そうか?これでも前よりずっとマシになったと思うんだけど」
「マシになっただけで改善したわけじゃないからダメ。もっと理解らせてあげないとね」
にんまりと笑って俺の額を小突く様はいたずらっ子の子供の様で、姉の様で、一人の人間だった。
不安だったろう。逃がすと大口を叩いて出て行った友人が、ズタボロの姿で病院に担ぎ込まれて、ずっと眠りこけているなんて。誰だってふさぎ込んでしまうものだ。
だが今の彼女はそれをおくびにも出さない。流石にほんの少し不安の色は見え隠れしているが、それでも大部分はきらきら輝く眩しいほどの喜びだった。
強いな、と思う。この歳で防衛機関の広報なんて仕事をしているんだから、心が強いのなんてわかってることだけど。
「もう無茶はしちゃだめ。わかった?」
「善処はする」
「わかったって言って」
「えー……」
「言って」
「……………………分かった」
「間が気になるけどひとまずよし。…………助けてくれてありがとう」
囁くように放たれた礼の言葉。なんでもないそれは、俺が人生で初めて受け取った他者からの承認。
俺はきっと単純な男なのだろう。なぜなら、その一言と笑顔だけで、今まで受け取った苦痛の全てを忘れてしまえるのだから。
ちょっと展開が急転直下すぎるかな