1.出会いと別れ
最初に覚えているのは、匂いだった。
焦げたゴムと、腐った果物と、湿った灰。
鼻の奥にこびりつくような、甘くて苦い匂い。
それが何の匂いなのかを知ったのは、ずっと後になってからだ。
目はまだよく見えなかった。
手足は思うように動かず、声を出そうとすると、
喉から勝手に泣き声が漏れた。自分の声だとは思えなかった。
高くて、細くて、頼りない。おかしい、と思った。
何がおかしいのかは分からない。
ただ、自分はこういうものではなかった、という感覚だけがあった。
もっと大きな体で、もっと違う場所にいた気がする。
言葉を知っていた気がする。名前があった気がする。
だが、その「気がする」の先は、厚い霧に覆われていて、
手を伸ばしても何も掴めなかった。
寒かった。体の下で、何かが崩れる音がした。灰の山だった。
燃え残りの廃材を積んだ山の、
まだ温もりの残る灰の中に、自分は布切れ一枚で埋もれていた。
泣き声が出るたびに、灰が口に入った。
どれくらいそうしていたのか分からない。
泣く力もなくなりかけた頃、頭の上に影が差した。
「……なんだ。また捨て子か」
しわがれた声だった。
大きな手が、灰の中から自分を掬い上げた。
指は太く、ごつごつしていて、爪の間まで黒く汚れていた。
その手が、意外なほど慎重に、自分の顔についた灰を払った。
霞む視界の中に、老人の顔があった。
日に焼けて、皺だらけで、片方の目が白く濁っている。
もう片方の目が、じっとこちらを覗き込んでいた。
「泣くな。灰が入る」
老人はそう言って、自分を外套の内側に抱え込んだ。
煙草と、油と、汗の匂いがした。
灰の匂いよりは、ずっとましだった。
「この辺りに置いていきゃ、誰かが拾うと思ったんだろうな。外の連中は、いつもそうだ」
独り言のように呟きながら、老人は歩き出した。足元で、瓦礫がじゃりじゃりと鳴る。
「ここは何でも受け入れる。ゴミも、人も。拾ったからには、俺が面倒を見るしかねえ」
老人は、しばらく黙って歩いた。それから、ふと思いついたように言った。
「灰の中から出てきたんだ。名前は、アッシュでいいだろう」
それが、自分の二度目の名前になった。
一度目の名前は、わからない。
記憶は、少しずつ戻ってきた。
一度に戻ってきたわけではない。
三歳の頃、老人が拾ってきた錆びた缶詰を見て、
「賞味期限」という言葉が頭に浮かんだ。
四歳の頃、雨上がりの水溜まりに映った自分の顔を見て、
これは自分の顔ではない、と思った。
五歳の頃には、夢の中で、四角い箱の中に座り、窓の外を流れていく灰色の景色を眺めていた。電車、という名前だった。
かつて自分は、別の場所で、別の人間として生きていた。
大人だった。仕事をして、毎日同じ電車に乗って、疲れて帰って、寝る前に何かを読んでいた。
そこまでは分かる。だが、その先がどうしても思い出せない。
自分がどうして死んだのか。どんな名前だったのか。誰と暮らしていたのか。
思い出そうとするたびに、霧が濃くなる。
五歳の子どもの頭に、大人の記憶の欠片が散らばっている。
それは便利でもあり、不気味でもあった。
周りの子どもが泣きわめくようなことで、自分は泣かなかった。
周りの大人が当たり前のようにやることに、自分だけが違和感を覚えた。
「お前は変なガキだな」
老人は、よくそう言った。責めるような口調ではなかった。
老人の名前は、誰も知らなかった。ゴミ山の住人たちは皆、ただ「爺さん」と呼んでいた。
爺さんは、山の外れにある、廃材を継ぎ接ぎした小屋に住んでいた。
毎朝、日の出と同じ頃に起きて、山を歩き、使えるものを拾い、仕分けて、交換に出す。
それだけを、何十年も繰り返しているらしかった。
アッシュも、歩けるようになるとすぐに、それを手伝い始めた。
「いいか。ここじゃ、地面を歩くな」
爺さんは最初に、それを教えた。
「割れたガラス、錆びた釘、腐った板。踏み抜いたら、それで終わりだ。足を怪我したら、拾いに出られねえ。拾いに出られなきゃ、食えねえ」
爺さんは、積み上がった瓦礫の上を、驚くほど身軽に渡っていった。
崩れない場所を一目で見分け、次の足場へ跳ぶ。地面には一度も降りない。
アッシュは、それを真似た。最初は何度も落ちた。膝を擦りむき、掌を切った。
それでも、半年もすると、爺さんの後を遅れずについていけるようになった。
一年経つ頃には、近所の子どもたちの誰よりも速く、山の端から端まで跳んで渡れるようになっていた。
大人の頭で考えれば、理屈は分かる。体重の乗せ方、足場の角度、崩れる前に次へ移る間合い。子どもの体は軽く、恐れを知らない。
その二つが合わさると、思った以上に体はよく動いた。
ある夕方、拾ったものを仕分けていると、爺さんがぽつりと言った。
「この辺りの外れはまだましだ。流星街の真ん中に行きゃ、もっとひでえ」
その言葉に、手が止まった。
流星街。
どこかで、聞いたことがある気がした。前世の記憶の、どこか深いところで、その名前が小さく揺れた。
だが、それだけだった。どこで聞いたのか。何の名前だったのか。思い出そうとすると、また霧が立ち込める。
「どうした」
「……なんでもない」
アッシュは仕分けを続けた。
胸の奥の小さな引っかかりは、その夜、なかなか消えなかった。
「それと、もう一つ覚えとけ」
寝る前、爺さんが言った。
「西の飯場には近づくな。あそこの連中は、ガキでも構わず奴隷のように働かせる。人間をゴミのように扱う。」
七歳の冬、爺さんが咳をするようになった。
最初は朝だけだった。それが昼にも出るようになり、夜には、薄い壁越しに何度も聞こえるようになった。爺さんは何でもないと言って、いつも通り日の出と同じ頃に起きた。だが、山を渡る足取りは、目に見えて重くなっていた。
拾えるものが減った。交換に出せるものが減った。食べるものが減った。
アッシュは、山の中を一人で回るようになった。
だが、近場の目ぼしいものは、もう他の住人たちに拾い尽くされていた。
ある朝、西の空に、黒い煙が細く立ち昇っているのが見えた。
飯場だ。
爺さんの言葉を思い出す。近づくな。人間を、ゴミと同じに扱う場所だ。
だが、飯場からは毎日のように、廃材が出る。
割れたレンガ、曲がった鉄筋、使い古しの工具。
それに、労働者たちの食べ残しも。
ゴミ山の住人たちが近づかない分、拾えるものは残っているはずだった。
大人の頭で、損得を量った。危険はある。
だが、見つからなければいい。中には入らない。
外の廃材置き場だけを回って、すぐに戻る。
アッシュは、瓦礫を跳んで、西へ向かった。
飯場は、思っていたよりも大きかった。
崩れかけたコンクリートの建物を囲むように、トタン屋根の宿舎がいくつも並んでいる。
その間を、男たちが黙々と行き交っていた。
聞こえるのは、レンガを積む音と、セメントを練る音と、時折響く怒鳴り声だけだった。
廃材置き場の陰に身を潜めて、アッシュは拾えるものを探した。
鉄筋の切れ端。歯の欠けた鋸。思った通り、ゴミ山よりはずっと実入りがいい。
夢中になって拾っていた時、ふと、視線の端に小さな影が映った。
子どもだった。
自分と同じくらいか、少し上。
痩せた男の子が、両腕にレンガを抱えて、建物と資材置き場の間を往復していた。
レンガは、子どもの腕には重すぎる量だった。
それでも男の子は、一度も足を止めず、一度もレンガを落とさず、黙って運び続けていた。
表情がなかった。
辛そうでも、退屈そうでもない。
ただ、運んでいる。決められた場所から、決められた場所へ。何度も、何度も。
アッシュは、その日、日が暮れるまでその子を見ていた。
男の子は、昼の休憩の間も働いていた。
他の労働者たちが座り込んで食事をとる横で、一人だけ、黙々とセメントの袋を運んでいた。誰も、その子に声をかけなかった。
誰も、その子の名前を呼ばなかった。
日が落ちると、男の子は宿舎の一つに入っていった。窓のない、トタンの小屋。
アッシュは、壁の隙間から中を覗いた。
二段ベッドが一つ。下の段に、大柄な男が座って、安酒の瓶を傾けていた。
男の子は、上の段に黙って上がり、そのまま横になった。
男は、男の子を見なかった。男の子も、男を見なかった。
言葉は、一つもなかった。おかえりも、お疲れも、何も。
しばらくして、男の子が上の段から降りてきた。
男がわずかに顔を上げる。
男の子は小屋を出て、共同便所に行き、そしてまた戻って、上の段に上がった。
それだけだった。
前世の記憶が、静かに告げていた。
これは、虐待だ。子どもを働かせ、名前も呼ばず、話しかけもせず、ベッドに縛りつけている。
前の世界なら、誰かが通報する。誰かが、あの子を連れ出す。
だが、ここには誰もいない。
そして何より、アッシュを戸惑わせたのは、あの男の子が、少しも苦しそうに見えなかったことだった。
それから、アッシュは毎日のように飯場へ通った。
廃材を拾うため、と自分に言い聞かせていた。
実際、拾ったものは爺さんの薬代の足しになった。
だが、廃材置き場の陰に身を潜めるたびに、目は勝手にあの男の子を探していた。
男の子の一日は、いつも同じだった。
日の出前に起きて、運ぶ。昼も運ぶ。日が落ちたら、宿舎の上の段に上がる。
夜の間にベッドから降りるのは、共同便所に行く時だけ。その間、誰とも話さない。
誰からも話しかけられない。
話しかけるなら、便所に行く時しかない。
五日目の夜、アッシュは共同便所の裏の暗がりで待った。
冬の夜風が、トタンを鳴らしていた。
指先がかじかんで、感覚がなくなりかけた頃、足音がした。小さな、軽い足音。
男の子が、便所から出てきた。
アッシュは、暗がりから一歩踏み出した。
「……おい」
男の子が、足を止めた。
驚いた様子はなかった。逃げる素振りもなかった。
ただ、立ち止まって、こちらを見た。月明かりに照らされた顔は、昼間と同じように、何の表情も浮かべていなかった。
近くで見ると、思っていたよりも小さかった。
腕は棒のように細く、手の甲はひび割れ、指の関節には古い傷がいくつも重なっている。
それなのに、背筋だけは妙にまっすぐだった。
「お前、名前は」
男の子は、答えなかった。
聞こえていないわけではない。目は、確かにアッシュを見ている。
だが、口は閉じたままだった。何を聞かれているのか、分からないような顔だった。
アッシュは、懐から小さな包みを取り出した。
今日、廃材と交換して手に入れた、干した果物の切れ端。爺さんと半分ずつ食べるつもりだった、残りの半分。
「これ、やるよ」
男の子は、包みを見た。それから、アッシュの顔を見た。また、包みを見た。
長い沈黙の後、男の子の唇が、わずかに動いた。
「……め、い、わく」
掠れた、小さな声だった。言葉というより、音の並びだった。覚えた形を、そのままなぞっているような。
「迷惑?」
「ひと、に……めいわく、かける、な」
男の子はそれだけ言うと、アッシュの横を通り過ぎて、宿舎へ戻っていった。
振り返らなかった。足取りは、来た時と少しも変わらなかった。
アッシュは、包みを差し出した手のまま、しばらく動けなかった。
人に迷惑をかけるな。
それが、あの子が持っている数少ない言葉の一つなのだと、分かった。
名前すら答えられない子どもが、その言葉だけは、はっきりと口にした。
誰かが、それだけを、あの子に教えたのだ。
宿舎の窓のない壁を、アッシュは見つめた。
あの中で、安酒を傾けていた大柄な男の背中を思い出す。
胸の奥で、何かが冷たく固まった。
夜更けに小屋へ戻ると、爺さんが起きて待っていた。
咳をしながら、白く濁った目でアッシュを見る。
「どこ行ってた」
「……東のほう。拾いに」
爺さんは、何も言わなかった。嘘だと分かっている顔だった。
それでも、それ以上は聞かずに、アッシュの冷えた手を、ごつごつした手で包み込んだ。
「冷てえな」
灰の中から自分を拾い上げた時と、同じ手だった。
アッシュは、その手の温かさを感じながら、あの男の子の、ひび割れた手の甲を思い出していた。
あの子の手を、こんなふうに包んでくれる人は、いるのだろうか。
干した果物の包みは、まだ懐の中にあった。明日も、持っていこうと思った。
受け取ってもらえなくても。迷惑だと言われても。
名前も知らない、声もほとんど持たない少年。
それが、のちにジャイロという名を知ることになる少年との、最初の夜だった。