シンの住処は、街から半日歩いた山の中腹にあった。
丸太を組んだだけの小屋が一つ。その前に、踏み固められた広い地面。周りは、どこまでも深い森だった。最寄りの村まで、山道を下って二時間かかる。
「仕事がない時は、ここで寝て、食って、体を動かしてる。人が来ねえから、楽なんだよ」
シンは、そう言って小屋の戸を開けた。中は、驚くほど散らかっていた。脱ぎ散らかした服。空の酒瓶。読みかけの手配書の束。
「……掃除は」
「しねえ」
「俺がする」
「お、助かる」
弟子入りの初日に、アッシュがしたのは、小屋の掃除だった。
二日目の朝、小屋の前の地面で、シンはアッシュを座らせた。
「纏をやってみろ」
「てん?」
「体の周りに、オーラを留めておくやつだ。お前が独学でやってたろ」
あれに、名前があったのか。アッシュは、いつものように、体を包む温もりを意識した。
シンは、しばらく黙ってそれを見ていた。それから、深いため息をついた。
「ひでえな」
「……」
「厚さがばらばらだ。右肩は厚いのに、左の脇腹はほとんど穴が開いてる。足首なんか、ほぼ素っ裸だ。昨日の夜、俺の膝を腹にもらって生きてたのは、俺が手加減をして、たまたま腹の纏がまともだったからだ。足首を蹴られてたら、砕けてたぞ」
アッシュは、言葉を失った。自分では、全身を均一に包んでいるつもりだった。
「独学ってのは、そういうもんだ。自分で自分は見えねえ。だから、全部、最初からやり直す」
それから、本当に、全部が最初からやり直しになった。
纏。体の周りに、オーラを均一に、隙間なく留める。
絶。オーラを完全に断ち、気配を消す。アッシュが独学でやっていたのは、ただ内側に閉じ込めていただけで、絶ではなかった。漏れていた。
練。オーラを、爆発的に増やす。押し出す、なんて生易しいものではなかった。
発。自分だけの能力。それは、まだ先だと言われた。
「四大行。念の基礎の基礎だ。ここがぐらついてるやつは、どんな派手な能力を作ろうが、いつか必ず足元をすくわれる」
シンの教え方は、乱暴だった。
口で説明するのは最初の一度だけ。あとは、実際にやらせて、駄目なら殴る。
纏が薄い場所を、拳で正確に叩いてくる。絶が甘ければ、背後から小石を投げてくる。
練が足りなければ、正面から、手加減した拳を打ち込んでくる。
手加減していても、まともにもらえば、骨に響いた。
「痛えか」
「……痛い」
「痛えところが、薄いところだ。覚えとけ」
ひと月で、アッシュの体中に痣ができた。
ふた月で、痣の数が減り始めた。
三月が過ぎる頃には、シンの手加減した拳を纏だけで受けても、骨に響かなくなっていた。
凝。目にオーラを集めて、隠されたオーラを見る。
堅。纏と練を合わせて、全身を練の状態で守り続ける。
流。戦いの中で、オーラの配分を、攻めと守りに応じて瞬時に移し替える。
シンが一つずつ課題を出し、アッシュがそれを潰していく。
日が昇る前に起きて山道を走り、昼は小屋の前でシンと組み手をし、夜は焚き火の前で纏を保ったまま眠る。
辛かった。独学で死にかけた時よりも、ずっと。
けれど、独学の頃とは、決定的に違うことがあった。
先が、見えた。
シンが一つ課題を出すたびに、霧の向こうにぼんやりとしか見えなかった道が、一歩ずつ、くっきりと形を持っていく。
どこへ向かえばいいのか。何を鍛えればいいのか。もう、手探りしなくてよかった。
半年が過ぎた頃、組み手の後で、シンが言った。
「基礎は、まあ、見られるようになった」
シンにしては、最大級の褒め言葉らしかった。
「そろそろ、お前の能力の話をするか」
その夜、焚き火の前で、シンは地面に棒切れで図を描いた。
六角形だった。頂点の一つ一つに、文字を書き込んでいく。
強化系。変化系。具現化系。特質系。操作系。放出系。そして、また強化系へ戻る。
「念の性質は、この六つに分かれる。生まれつき、誰でもどれか一つに属してる。水見式で、それが分かる」
シンは、強化系の頂点を棒で叩いた。
「俺はここだ。体を強くするのが一番得意で、一番効率がいい。隣の変化系と放出系も、そこそこ使える。だが、向かい側の特質系なんかは、使えねえ。そもそも特質は特殊な系統だ。そして自分の系統から遠いほど、覚えにくいし、威力も落ちる」
それから、棒の先を、操作系の頂点に移した。
「お前は、ここだ。物や生き物を、操る系統。隣は放出系と特質系。強化系は、二つ離れてる」
アッシュは、図を見つめた。安宿の床で、葉っぱが回るのを見ながら、霧の中から拾い上げた言葉。それが今、六つの頂点の一つとして、地面に描かれていた。
「操作系の能力ってのは、大体、条件がある」
シンが続けた。
「何かを操るには、まず、その何かに自分のオーラを繋がなきゃならねえ。針を刺す。印をつける。触る。お前の場合は、触ることだろう。触って、オーラを流し込んで、操る」
「……ああ」
「で、ここからが本題だ」
シンは、棒切れを焚き火に放り込んだ。
「操作系の中には、人間を丸ごと操るやつがいる」
アッシュの手が、止まった。
「触った部分だけじゃねえ。相手の体を、頭のてっぺんから足の先まで、全部乗っ取る。本人の意思なんざ関係なく、操り人形みてえに動かす。そういう能力を持ってるやつは、強えぞ。一度条件を満たしちまえば、相手がどれだけ強かろうが関係ねえ」
シンは、アッシュの顔を見た。
「お前の素質なら、そこまで行けるかもしれねえ。強化系の俺の腕を、独学で、指一本分動かしたんだ。きっちり鍛えりゃ、触った相手を丸ごと」
「やらない」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
シンが、片眉を上げた。
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
アッシュは、自分の手のひらを見下ろした。
人の意思を奪って、操る。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に浮かんだのは、二段ベッドの上の段だった。決まった時刻に起きて、決まった通りに運んで、決まった時刻に便所へ行く少年。名前も呼ばれず、話しかけられもせず、ただ一つの命令だけを、何年も、何年も守り続けていた子ども。
人に、迷惑を、かけるな。
あの子は、あの言葉に、意思ごと縛られていた。自分の考えで動いたのは、たった一度。最後の、あの夜だけだった。
「……人の意思を奪うのは、嫌だ」
アッシュは、言葉を選びながら言った。
「理由は、うまく言えない。ただ、それだけは、やりたくない。考えようとしただけで、喉の奥が冷たくなる」
シンは、しばらく黙っていた。焚き火の炎が、その顔を下から照らしていた。
「そうか」
やがて、シンは、あっさりと頷いた。
「なら、やめとけ」
「……いいのか」
「いいも何も、お前の能力だ」
シンは、新しい棒切れを拾って、火をつついた。
「念ってのはな、その人間の中身がそのまま出る。嫌だと思ってることを無理にやろうとしても、どこかで必ず歪む。肝心な時に、言うことを聞かなくなる。だったら、最初から、自分が納得できる形で作ったほうがいい」
それから、にやりと笑った。
「それに、触った部分だけ操るってのも、使いようによっちゃ十分えげつねえぞ。俺の腕を、指一本分ずらしたみたいにな」
アッシュは、地面の六角形を見下ろした。
触った部分だけ。意思は奪わない。体だけを、ほんの少し、思う方へ。
それなら、できる気がした。
能力を作るのに、一年かかった。
触れた場所に、オーラを流し込む。流し込んだオーラを通して、その場所を操る。
土台は、独学の頃からできていた。足りなかったのは、その先の形だった。
「何を、どこまで、どうやって操るのか。そいつを決めろ。決めた分だけ、能力は強くなる。曖昧なままだと、曖昧な力しか出ねえ」
シンの言葉を、アッシュは何度も頭の中で転がした。
触れた場所だけ。意思は奪わない。体の動きだけを。
では、どれだけ動かせるのか。
答えは、組み手の中で見つかった。
シンの腕に触れるたびに、アッシュはオーラを流し込んだ。
最初は、指先ほどの量。それでは、シンの腕は髪の毛一本分も揺らがなかった。強化系の、それも十五年鍛え抜いた肉体だ。
外から流し込まれるオーラを、体そのものが弾き返してしまう。
だから、触れる回数を増やした。
受け流すたびに。払うたびに。避けざまに。同じ腕に、何度も、何度も。流し込んだオーラは、すぐには消えなかった。触れた場所に、薄く、残り続けた。それが重なっていく。一度目では揺らがなかった腕が、五度目には、わずかに重くなる。十度目には。
「――遅れろ」
シンの右腕が、一拍、遅れた。
拳が、アッシュの顔の横を通り過ぎた。完全に、空を切った。
シンの体勢が、わずかに崩れた。その一瞬に、アッシュの膝が、初めてシンの脇腹に入った。
シンが、二、三歩、後ずさった。脇腹を押さえて、それから、自分の右腕を見下ろした。
「……今の、一秒くらい、腕が言うこと聞かなかったぞ」
アッシュは、肩で息をしながら頷いた。
「十回、触った。十回分のオーラで、一秒」
シンの口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「面白え。触った回数か、込めた量か。重ねりゃ重ねるほど、命令が強くなるってわけだ」
遅れろ。止まれ。ずれろ。どれも、命令の形をしていた。
触れた場所に、命令を通す。意思は奪わない。けれど、体には命じる。
人に、迷惑を、かけるな。
名前も呼ばなかった男が、息子に与えた、たった一つの命令。
それでも、アッシュは、この形を選んだ。触れた場所だけ。込めた分だけ。それ以上は、決して奪わない。自分で引いた線の内側でなら、命令という言葉と、向き合っていける気がした。
「名前、つけとけよ」
シンが言った。
「能力ってのは、名前をつけると形が締まる。自分の中で、はっきりするんだ」
アッシュは、少し考えてから答えた。
「……タッチアンドコマンド」
触れて、命じる。それだけの、飾り気のない名前だった。
「そのまんまだな」
シンは笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
それから、能力の幅を広げていった。
ある日、組み手の最中に、アッシュは足元の地面を殴った。苦し紛れだった。
シンの拳を避けた勢いで、体勢を立て直すために。
拳には、オーラが込もっていた。砕けた土と石の破片が、跳ね上がった。
跳ね上がった破片が、落ちなかった。
アッシュのオーラが染み込んだ破片が、宙に止まっていた。
触れた場所を操る。殴った地面も、触れた場所だった。
「飛べ」
破片が、一斉に、シンへ向かって撃ち出された。
シンは、片腕で全部を払い落とした。傷一つつかなかった。
だが、その目は、驚いたように見開かれていた。
「操作系の隣は、放出系だ」
組み手の後で、シンが言った。
「触ったもんを、自分の体から離れたところで動かす。放出系の性質も少し混じってる。悪くねえ使い方だ」
それからもう一つ、思いついたことがあった。
砕けた瓦礫を、オーラで繋ぎ合わせる。人の形に組んで、一つだけ命令を与える。
近づく者に、組みつけ。複雑なことはできない。
だが、ゴミ山で生まれ育った人間が、瓦礫の山から人の形を作る。
それは、どこか、自分らしい気がした。
瓦礫の弾丸。瓦礫の人形。触れて、命じる。
二十五歳の秋、アッシュの念は、ようやく一つの形になった。
「お前の能力は、触らなきゃ始まらねえ」
二十六になった年の春、組み手の後で、シンが言った。
「触って、重ねて、ずらす。相手が一人で、正面から殴りかかってくるなら、それでいい。だがな、触らせてくれねえ相手は、いくらでもいる。速すぎるやつ。遠くから攻めてくるやつ。何人もで囲んでくるやつ」
シンは、汗を拭った。
「そういう相手に追い詰められた時のために、最後の一枚を持っとけ。普段は絶対に見せねえ、ひっくり返すための切り札をな」
その夜、アッシュは、焚き火の前で長いあいだ考えていた。
ひっくり返すための、一枚。
念を使う相手を、ひっくり返す方法。
思い出したのは、安宿の床だった。
精孔が開いた夜。体中の穴から、命そのものが噴き出していく感覚。止め方が分からず、ただ、留めろ、と念じて、ようやく流れを抑え込んだ。あの時、自分の体の中で起きていたこと。
精孔が開けば、オーラが流れ出す。
なら、逆は。
開いている精孔を、外から、閉じさせることはできないか。
触れた場所に、命令を通す。それが、自分の能力だ。触れる場所を、腕や脚ではなく、相手の体中に開いている、オーラの出口そのものにしたら。閉じろ、と命じたら。
アッシュは、翌朝、それをシンに話した。
シンは、しばらく黙っていた。それから、低く唸った。
「……発想は、えげつねえな。念能力者にとっちゃ、精孔を閉じられるってのは、手足をもがれるのと同じだ」
「でも、全身に触れるのは無理だ。だから」
アッシュは、右の手のひらを見下ろした。
「念弾にして、ぶつける。触れる代わりに、自分のオーラを丸ごと、相手の体に叩き込む。放出系の性質が少し混じってるなら、できるかもしれない」
「丸ごと、か」
「ありったけ込めないと、相手の精孔まで届かない気がする」
シンは、腕を組んだ。
「撃った後のお前は、空っぽになるってことだな。外したら、念の使えねえ、ただの体で、敵の前に突っ立ってることになる」
「……ああ」
「当たれば勝ち。外せば死ぬ」
シンは、にやりと笑った。
「悪くねえ。切り札ってのは、そういうもんだ」
完成させるのに、半年かかった。
試す相手は、シンしかいなかった。
最初の何十回かは、届きもしなかった。
ありったけのオーラを込めた念弾は、シンの堅に弾かれて霧散した。
そのたびに、アッシュは空っぽになって地面に倒れ、シンに担がれて小屋に戻った。
夏の終わりの、ある夕方だった。
アッシュの念弾が、シンの胸に吸い込まれた。
閉じろ。
シンの体を包んでいた、鋼のようなオーラが、ふっと消えた。
シンが、自分の手を見下ろした。拳を握る。開く。もう一度、握る。顔から、表情が消えていた。
「……出ねえ」
低い声だった。
「オーラが、出ねえ。練どころか、纏もできねえ」
アッシュは、地面に膝をついたまま、それを見ていた。自分の体も、空っぽだった。指一本、オーラを灯すことができない。
念を失った二人が、夕暮れの中で、しばらく向かい合っていた。
シンの体にオーラが戻ってきたのは、それから十分ほど経った頃だった。
アッシュのほうは、一時間近くかかった。
「十分か」
シンが、確かめるように拳を握りながら言った。
「俺相手で、十分。格下なら、もっと長く閉じられるだろう。格上なら、もっと短い。お前のほうは、それより長く空っぽになる」
「……割に合わないな」
「当たり前だ。だから切り札なんだよ」
シンは、アッシュの頭を乱暴に掻き回した。
「滅多に使うな。誰にも見せるな。使う時は、それで終わらせる時だけだ」
アッシュは、その技に名前をつけた。
シャットダウンコマンド。
触れて、命じる。その最後の命令。
その年の秋、山を下りて村へ食料を買いに行った帰りだった。
シンが、村で手に入れた新聞を、歩きながら広げていた。
いつもは手配書の欄しか見ない男が、珍しく、一面の記事をじっと読んでいた。
「……ひでえな」
シンが、ぽつりと呟いた。
「何が」
「山奥の少数民族が、皆殺しにされたとよ。クルタ族っていう、目が赤くなる一族だ。大人も。子どもも、全員」
アッシュは、足を止めた。
シンは、新聞の記事を指でなぞった。
「目を、えぐられてたらしい。怒ると赤く光る目でな、闇の市場じゃ高く売れる。わざと苦しめて、目の色を濃くしてから殺したって話だ。現場には、文字が残されてた」
シンの声が、低くなった。
「我々は何ものも拒まない。だから、我々から何も奪うな」
アッシュの全身が、冷たくなった。
知っていた。十五年前の朝、流星街の大人が外の監督に突きつけた言葉。前世の記憶の扉を開けた、あの言葉。
「……それは」
「流星街の連中の、決まり文句だ。協会の筋じゃ、やったのは幻影旅団ってことになってる。流星街の出だって噂の、盗賊団だ」
その名前に、アッシュの胸の奥で、何かが小さく揺れた。
霧の向こうで、ずっと昔に聞いた名前。前の人生で、眠い目をこすりながら読んでいた物語の中の。恐ろしい、悪い連中。それ以上は、何も浮かんでこなかった。
「ブラックリストの、A級首だ」
シンが、新聞を畳んだ。
「ハンターの中でも、手を出すやつはほとんどいねえ。出したやつは、大抵、帰ってこねえ」
子どもも、全員。
アッシュの頭の中で、教会の裏の、小さな十字架が並んでいた。グラナートの離れの、檻の中の目が並んでいた。
許せない、と思った。顔も名前も知らない、その盗賊団のことを。あの街の言葉を、子どもまで殺した場所に書き残していく連中のことを。
「アッシュ」
シンが、前を向いたまま言った。
「来年の試験、受けろ。もう、受かるだけの力はある」
山道の向こうに、小屋が見えてきた。
アッシュは、黙って頷いた。