転生をしたらそこはゴミ山。ゴミ山から始まる友情 作:板前さん
ミザイストムと別れてから、半年が過ぎた。
アッシュは、一人で、D²の流通網を追い続けていた。
表の捜査は打ち切られた。
だが、ブラックリストハンターが個人で賞金首を追うことまでは、誰も止められない。
人買いの手配書を辿っていくと、その先には、決まって白い粉の匂いがした。
秋の終わり、アッシュは、一人の男を追っていた。
三つの国をまたいで子どもを売り買いしていた、人買いの仲介役。
手配書の懸賞金は、大した額ではない。
だが、その男が最近、人ではなく、別の荷を運ぶようになったという噂があった。
木の葉の焼き印の押された、茶葉の箱を。
男の足取りを辿って、アッシュは、ある国の山あいにある、廃業した採石場にたどり着いた。
切り立った岩壁に囲まれた、すり鉢状の窪地だった。
底には、砕かれた石と砂利が、一面に敷き詰められている。
打ち捨てられた重機が、錆びた骨のように点在していた。
月のない夜だった。アッシュは、岩壁の上の茂みに伏せて、気配を絶った。
真夜中を少し過ぎた頃、窪地の底に、二台のトラックが入ってきた。
一台目から降りてきたのは、追っていた仲介役の男と、その手下が数人。
荷台には、木箱が積まれていた。
月明かりがなくても、凝を使えば、箱の側面の焼き印が見えた。一枚の木の葉。
二台目から降りてきたのは、スーツ姿の男たちだった。
身のこなしが、まるで違った。仲介役の男が、ぺこぺこと頭を下げている。
「確かに。今月分です」
「数は合ってるな」
スーツの男の一人が、木箱の数を数えていた。
「十老頭の方々に、よろしくお伝えください。今後とも、この荷の運びは、ぜひ私どもに」
十老頭。
その言葉に、アッシュは耳をそばだてた。
裏の世界で何年も過ごしてきた者なら、誰でもその名前を知っている。
世界中のマフィアを束ねる、十人の長老。マフィアンコミュニティの頂点。
その名前が、表で語られることは、まずない。
マフィアは、運び屋に過ぎない。ミザイストムはそう言っていた。だが、ただの運び屋ではなかった。マフィアの頂点が、この白い粉の流通を、直々に請け負っている。
アッシュは、懐から小型の写真機を取り出した。証拠を残す。
いつか、法の手が届く日のために。ミザイストムとの約束だった。
シャッターを切ろうとした、その瞬間だった。
足元の地面が、かすかに震えた。
地震ではなかった。もっと小さく、もっと近い。何かが、地面の下を、這っている。
アッシュは、反射的に跳び退いた。
さっきまで伏せていた場所の地面が、内側から弾け飛んだ。
土砂を撒き散らしながら、地面の下から、一本の腕が突き出していた。
太い腕だった。泥にまみれ、指の一本一本が、木の根のように節くれ立っている。
その腕が、アッシュの伏せていた場所の空気を、虚しく掴んでいた。
腕に続いて、男の上半身が、地面からずるりと這い出してきた。
まるで、土が水であるかのように。地面には穴一つ開いていない。男の体だけが、土の中から、するりと抜け出してくる。
「……勘のいいネズミだ」
低く、乾いた声だった。
窪地の底で、スーツの男たちが、一斉にこちらを見上げた。
仲介役の男が、ひっと声を上げてトラックの陰に隠れる。
「陰獣だ」
スーツの男の一人が、安堵したように言った。
「十老頭直属の番犬だ。取引の夜は、いつも、どこかに潜んでる。運が悪かったな、ハンター」
陰獣。
アッシュは、その名前を、どこかで聞いた気がした。前世の霧の向こうで。
だが、何も浮かんでこなかった。
ただ、目の前の男の体から立ち上るオーラが、その名前の意味を、何よりも雄弁に語っていた。
厚い。そして、深い。
シンと、同じ種類の圧だった。
「十老頭の荷を覗き見た者は、生かして帰すなと言われている」
男は、腰まで地面から這い出たまま、首を傾けた。
「陰獣、蚯蚓。名前くらいは、覚えて死んでいけ」
次の瞬間、男の姿が、地面に沈んだ。
水に潜るように。一瞬で。
後には、波紋のような土の揺らぎだけが残った。
アッシュは、凝で地面を睨んだ。
見えない。土の下を這う男のオーラが、分厚い地面に遮られて、ぼんやりとしか感じ取れない。どこにいるのか。どこから来るのか。
足元が、震えた。
アッシュは跳んだ。真下から、拳が突き上げてきた。
跳ぶのが半瞬遅れていたら、顎を砕かれていた。
拳は空を切り、そのまま、男の上半身が地面から飛び出してくる。
今だ。
アッシュは、空中で身を捻って、男の突き上げてきた腕に手を伸ばした。
触れた。念を流し込む。
だが、一度触れただけでは、足りなかった。
男の腕は、指先ほどの量の念では、髪の毛一本分も揺らがなかった。
シンと同じ、鍛え抜かれた、分厚い肉体だった。
二度目に触れようとした時には、男の体は、もう地面の下に沈んでいた。
触れる時間が、ない。
男は、地面から一瞬だけ顔を出して、殴り、また沈む。
重ねて触れなければ命令が通らないアッシュの能力にとって、最悪の相手だった。
アッシュは、着地した。
その瞬間だった。
着地した右足の足首を、地面の下から、何かが掴んだ。
万力のような力だった。そして、振り回された。
地面から上半身を突き出した蚯蚓が、アッシュの足首を掴んだまま、腕を振り上げていた。アッシュの体が、軽々と宙に浮き、そのまま、砂利の地面に叩きつけられた。
背骨に衝撃が響いた。息が止まる。
もう一度、振り上げられる。叩きつけられる。もう一度。
力任せの、ただそれだけの攻撃だった。
だが、その力が、尋常ではなかった。シンの拳を思い出した。
正面から受けたら、骨ごと持っていかれる、あの重さ。
それと同じ種類の、鍛え抜かれた肉体の力だった。
三度目に叩きつけられた時、アッシュは、自分の足首を掴んでいる蚯蚓の手に、指先で触れた。
四度目。また触れた。
五度目。触れた。
叩きつけられるたびに、意識が遠のきかける。
それでも、そのたびに、足首を掴む手の甲に、念を流し込み続けた。
六度目に振り上げられた瞬間、アッシュは、命じた。
「開け」
蚯蚓の指が、意思に反して、ほどけた。
アッシュの体が、振り上げられた勢いのまま、宙に放り出された。
空中で身を捻り、地面に落ちる前に、もう片方の拳で砂利を殴りつける。
跳ね上がった破片を、蚯蚓の顔面めがけて撃ち込んだ。
破片は、蚯蚓の頭に当たって、砕け散った。
蚯蚓は、瞬きもしなかった。
拳大の石の礫を、何発も顔に受けて、傷一つついていない。
分厚いオーラと、それ以上に分厚い肉体が、礫をただの砂粒のように弾き返していた。
アッシュは、地面に転がって受け身を取ると、そのまま跳ね起きて、近くの錆びた重機の上に跳び乗った。
肩で息をしていた。背中が、ぼろぼろになっていた。あと数回、叩きつけられていたら、背骨が折れていた。
重機の下の地面が、ゆっくりと波打った。
「……ほう」
地面の下から、感心したような声がした。
「抜けたか。なかなかやるな」
地面が、静かになった。
どこにいるのか、分からない。
分かっているのは、この窪地の地面すべてが、あの男の領域だということだけだった。
重機が、傾いた。
アッシュが乗っている錆びた掘削機の、片側の履帯の下から、二本の腕が突き出していた。泥にまみれた手が、錆びた履帯を掴んで、鉄の塊ごと持ち上げようとしている。
何トンもある重機の片側が、ぎしぎしと軋みながら、少しずつ浮き上がっていく。
ひっくり返して、振り落とすつもりだ。
アッシュは、隣の重機に跳び移った。
だが、その重機も、すぐに傾き始めた。三台目に跳ぶ。四台目は、もうなかった。
窪地に点在する重機は、あと二台。それも、いずれ沈められる。
そして、地面に降りれば、終わりだ。
どこに立っても、足元は、あの男の手の中だ。踏ん張る地面そのものが、敵だった。
傾いていく重機の上で、アッシュは、ふと、古い声を思い出した。
いいか。ここじゃ、地面を歩くな。
ゴミ山で、爺さんが最初に教えてくれたこと。
割れたガラス、錆びた釘、腐った板。踏み抜いたら、それで終わりだ。
だから、瓦礫の上を跳んで渡れ。地面には、一度も降りるな。
アッシュは、自分の手のひらを見下ろした。
さっき、地面を殴って跳ね上げた破片。
撃ち出す前の一瞬、あの破片たちは、宙に止まっていた。
自分の念が染み込んだ瓦礫は、自分の命令で、宙に浮く。
浮かせたまま、止めておけるなら。
その上に、立てるのではないか。
考えるより先に、体が動いていた。
傾いた重機の、剥がれかけた鉄の外板を、拳で叩き割った。
念を込めて。鉄の破片が、いくつも宙に跳ね上がる。
止まれ。
破片が空中で静止した。
アッシュは、ひっくり返っていく重機を蹴って、跳ぶ。
宙に止まった鉄の破片の一つに、足をかける。
破片が、ぐらりと揺れた。重い。自分の体重が、そのまま、破片に込めた念にのしかかってくる。だが、落ちなかった。込めた念が、破片を空中に縫い止めていた。
立てた。
アッシュは、すぐに次の破片へ跳んだ。止まると、崩れる。
着いたら、もう次を見ていろ。ゴミ山で、子どもたちに教えたのと、同じことだった。
破片から、破片へ。地面には、降りない。
通り過ぎた後ろの破片を、念で引き寄せて、また前へ置く。
足場を、自分で運びながら進む。数は、七つか八つで足りた。
それを、くるくると回すように入れ替えながら、窪地の上の宙を、渡っていく。
眼下で、最後の重機が、轟音を立てて横倒しになった。
地面が、波打った。苛立つように。
蚯蚓の上半身が、地面から突き出した。
頭巾の下から、宙を渡るアッシュを見上げている。腕を伸ばしても、届かない高さだった。
「……何だ、それは」
初めて、その声に、驚きが混じっていた。
蚯蚓は、アッシュの足元の破片を掴もうと、地面から大きく跳び上がった。
泥にまみれた手が、破片の一つに届く。
掴んだ。だが、動かせなかった。
破片には、アッシュの念が、隅々まで通っていた。
どれほどの腕力があろうと、念で宙に縫い止められた破片は、素手で引き剥がせるものではなかった。
蚯蚓の体が、宙に浮いた。地面から、上半身どころか、膝まで出ている。
初めて、あの男の体が、長く、地面の外にあった。
アッシュは、破片を蹴って、真上から蚯蚓に襲いかかった。
肩に触れた。腕に触れた。背中に触れた。一度、二度、三度ラッシュを叩き込む。
蚯蚓が地面に戻るまでの、ほんの数秒の間に、触れられるだけ触れて、念を流し込んだ。
蚯蚓の拳が、アッシュの脇腹を捉えた。肋骨が軋む。
アッシュは、殴られた勢いのまま、宙の破片へ跳び戻った。
蚯蚓が、地面に沈んでいく。
その直前に、アッシュは命じた。
「遅れろ」
三度触れた蚯蚓の右腕が、一拍、遅れた。地面に潜ろうとした体の動きに、右腕だけが、ついていかなかった。肩まで沈んだ蚯蚓の右腕が、地面の上に、取り残されていた。
アッシュは、宙の破片の上から、その右腕めがけて、残りの破片を、ありったけ撃ち込んだ。
鈍い音が、いくつも重なった。
破片は、蚯蚓の腕に当たって、次々と砕け散った。傷一つ、ついていなかった。
それでも、遅れた腕を地面の上に晒されたことに苛立ったような唸り声が、地面の下から漏れた。右腕が、ずるりと、地面の中に引き込まれていった。
窪地が、静まり返った。
アッシュは、宙の破片の上で、肩で息をしていた。
破片を宙に留めておくだけで、オーラが、湯水のように減っていく。
自分の体重を支え続けるのは、小石を飛ばすのとは比べものにならない重さだった。
脇腹が、殴られた場所から、じくじくと痛む。
長くは、もたない。
地面の下で、蚯蚓が、何を考えているのか。
次に、どこから来るのか。アッシュには、分からなかった。
分かっているのは、あの男が、まだ少しも本気を出していないかもしれない、ということだけだった。
エンジンの音がした。
窪地の底で、二台のトラックが動き出していた。
木箱を積み替え終えたらしい。
スーツの男たちが乗り込んだトラックが、砂利を蹴立てて、窪地の出口へ向かっていく。
仲介役の男も、慌てて自分のトラックに飛び乗った。
アッシュは、宙の破片の上から、それを見下ろした。
追えば、地面に降りることになる。降りれば、あの男の手の中だ。
トラックのテールランプが、岩壁の向こうへ消えていった。
地面の下から、声がした。
「時間切れだ」
窪地の中央の地面が、ゆっくりと盛り上がった。
蚯蚓の上半身が、土の中から現れる。
右腕を、確かめるようにゆっくりと回していた。相変わらず体全体は見えなかった。
「俺の仕事は、取引が終わるまで、荷を守ることだ。荷は、無事に出た。お前を殺すのは、仕事のついでに過ぎん」
蚯蚓は、宙のアッシュを見上げた。
「ついでの仕事に、これ以上、手間をかけるつもりはない」
その右腕には、傷らしい傷もなかった。何十発もの破片を、まともに撃ち込まれたはずなのに。
「……逃がすのか」
「勘違いするな。見逃してやるのは、今夜だけだ」
蚯蚓の声が、低くなった。
「次に、十老頭の荷に近づいたら、その時は殺す。地面のある場所なら、どこでもな。宙を歩こうが、空を飛ぼうが、いつかは降りなきゃならん。降りた場所が、お前の墓だ」
それから、蚯蚓は、ほんの少しだけ、面白がるような声を出した。
「宙を歩くやつは、初めて見た。名前は」
「……アッシュ」
「覚えておこう、アッシュ」
蚯蚓の体が、地面に沈んでいった。今度は、波紋一つ残さずに。
窪地に、静寂が戻った。
アッシュが地面に降りたのは、それから一時間近く経ってからだった。
宙に留めていた破片を、一つずつ下ろしながら、窪地の縁の岩の上に降り立った。
岩なら、少なくとも、柔らかくはならない。そう信じるしかなかった。
地面は、静かなままだった。
アッシュは、岩の上に座り込んだ。全身から、力が抜けていた。
オーラは、底をつきかけていた。脇腹の痛みが、呼吸のたびに響く。
肋骨に、ひびが入っているかもしれない。
写真機は、地面に叩きつけられた時に、粉々になっていた。
証拠は、何も残らなかった。
だが、何も得られなかったわけではなかった。
窪地の底に降りて、トラックが停まっていた場所を調べた。
砂利の上に、一枚の紙切れが落ちていた。
木箱を積み替える時に、誰かのポケットから落ちたのだろう。
荷の受け渡しの予定を書き留めた、走り書きのメモだった。
月ごとの日付と、場所と、数。
その一番下に、ひときわ大きな字で、こう書かれていた。
九月。ヨークシン。倍量。
アッシュは、その紙切れを、長いあいだ見つめていた。
ヨークシン。世界最大の都市。
毎年九月に、世界中から富豪と競売品が集まる、大きな競売市が開かれる街。
そして、その裏では、マフィアンコミュニティが仕切る地下競売が開かれるという。
十老頭が、その年の顔を揃える場所。
前世の霧の向こうで、その名前が、かすかに揺れた。
大きな街で開かれる、競売。物語の中で、何か大きな事件が起きた場所。
それ以上は、何も浮かんでこなかった。
マフィアの懐に、入り込む。十老頭が顔を揃える、その場所で。そうすれば、この白い粉が、どこから来るのか。誰が、あの整然とした網を張ったのか。その答えに、手が届くかもしれない。
アッシュは、紙切れを畳んで、外套の内ポケットにしまった。
リオの葉書と、ミザイストムの連絡先の隣に。
東の空が、白み始めていた。
日の昇る方を、右手に。アッシュは、北ではなく、ヨークシンのある方角を、頭の中で確かめていた。