転生をしたらそこはゴミ山。ゴミ山から始まる友情 作:板前さん
15.秘密と嘘と主人公
一九九九年の春、アッシュは、天を衝く塔を見上げていた。
天空闘技場。地上二百五十一階、高さ九百九十一メートル。
世界で四番目に高い建物で、その中身は、まるごと一つの格闘場だった。
毎日、何千人もの挑戦者が訪れ、勝てば上の階へ上がり、負ければ下へ落ちる。
上へ行くほど、ファイトマネーは跳ね上がる。
塔の周りは、見物客と、出場を待つ挑戦者たちでごった返していた。
屋台の呼び込みの声。賭けの胴元の怒鳴り声。
どこかの階の試合を中継する、巨大な画面の歓声。
アッシュは、その人混みの中で、手配書をもう一度確かめた。
ドレイク・マーロウ。強盗殺人、七件。三つの国で、合わせて十三人を殺している。
最後の事件では、一家五人を素手で殴り殺した。
懸賞金は、ハンター協会と被害者の遺族の上乗せを合わせて、それなりの額になっていた。
そして、その男が、この塔の中にいる。
情報屋から聞いた話では、マーロウは半年ほど前から、偽名で闘技場に出場しているという。
ここで勝ち続けている限り、身元は問われない。
塔の中にいれば、食事も寝床も、闘技場が用意してくれる。
外の世界から、身を隠すにはうってつけの場所だった。
受付で、選手登録を済ませた。
名前は、アッシュとだけ書いた。
格闘技の経験欄は、空白のままにした。
番号札を受け取って、一階の大きな広間へ通される。
一階の試合は、乱暴なものだった。
腕に覚えのある素人たちが、次々とリングに上がっては、殴り合っていく。
審判が、勝ち負けを見て、どの階に上げるかを決める。
アッシュの相手は、筋肉で膨れ上がった大男だった。
突進してくる腕に触れて、勢いを横へ流す。
大男が、勝手にリングの外へ転がり出ていった。
「五十階へ!」
審判が叫んだ。
念は、使わなかった。
十年以上鍛え続けた体と、触れて、ずらして、崩すという戦い方だけで、この階の挑戦者たちには十分だった。
五十階。七十階。百階。
一日に二試合、三試合とこなしながら、アッシュは、淡々と塔を登っていった。
上へ行くほど、相手は強くなった。格闘技の達人。
軍隊上がりの男。刃物のように研ぎ澄まされた蹴りを使う女。
それでも、念を使わずに勝てない相手は、いなかった。
半月ほどで、アッシュは、百九十階に届いていた。
「次に勝てば、二百階です」
百九十階の受付嬢が、書類をめくりながら言った。
「二百階から上は、それまでとは仕組みが違います。ファイトマネーは出ません。代わりに、名誉と、上の階への挑戦権が懸かります。そして」
受付嬢は、少しだけ声を落とした。
「二百階から上の選手の方は、皆さん、少し、普通ではありません。怪我をされる方も、亡くなる方も、多いです。ご承知おきください」
アッシュは、黙って頷いた。
知っていた。二百階から上が、念の使い手たちの階だということを。
そして、マーロウが、その二百階にいることを。
百九十階の試合にも、念を使わずに勝った。
二百階に上がったその日、アッシュは、観客席の最上段に座って、一つの試合を見ていた。
「さあ、本日の第二試合! 破壊王、ガルム選手の登場です!」
実況の声に、会場が沸いた。
リングに上がった男は、手配書の写真よりも、一回り大きく見えた。
首が太い。拳の骨が盛り上がっている。
髪を短く刈り込み、顎髭を伸ばしていたが、目元と、顎の形は、写真と同じだった。
ドレイク・マーロウ。
アッシュは、目に念を集めた。凝。
マーロウの体を、オーラが包んでいた。
隠す気もなく、揺らめいている。
その大半が、両の拳に、厚く、重く、溜め込まれていた。
強化系。それも、殴ることだけに特化した、純粋な打撃型。
試合は、一分もかからなかった。
相手の選手が、何かの能力を使おうとした。
その前に、マーロウの拳が、相手の顔面に叩き込まれた。
一発だった。
相手の体が、リングの外まで吹き飛んで、壁に叩きつけられて、動かなくなった。担架が運ばれてくる。
マーロウは、倒れた相手を見下ろして、笑っていた。
楽しそうに。
一家五人を殺した夜も、こんな顔で笑っていたのだろうか。
それから数日、アッシュは、マーロウの動きを見張った。
マーロウは、塔から一歩も出なかった。
二百階の選手には、上の階に個室が与えられる。
食事は、塔の中の食堂でとる。
試合のない日は、個室に籠もっているか、選手用の休憩室で、他の選手と賭けカードをしている。移動する時は、いつも人の多い廊下を選んでいた。
用心深い男だった。
塔の外で捕らえる隙は、なかった。
塔の中で、人目のあるところで騒ぎを起こせば、闘技場の警備が飛んでくる。
二百階の選手は、闘技場にとって大事な商品だ。
いくらハンターでも、選手を勝手に連れ出すことは、闘技場の運営と揉めるだろう。
ハンターライセンスで黙らすこともできるが、
そうなれば、どさくさに紛れてマーロウは、騒ぎに紛れて姿を消す。
逃げ場のない場所で、相手が自分から向かってくる機会。
それは、リングの上にしかなかった。
二百階の受付で、アッシュは選手として正式に登録した。
「二百階では、登録から九十日以内に、最初の試合を組んでいただく決まりです。対戦相手は、ご自分で申し込むこともできますし、申し込みを待つこともできます」
「ガルム選手に、申し込みたい」
受付嬢が、少しだけ眉を上げた。
「ガルム選手は、ご自分で対戦相手を選ばれる方です。申し込みを受けるかどうかは、ガルム選手次第になりますが」
「構わない」
アッシュは、申込書に名前を書いた。
経歴の欄は、空白のまま。二百階までの戦績は、全勝。
ただし、どの試合も、地味な勝ち方ばかりだった。
派手な一撃も、能力らしきものも、一度も見せていない。
マーロウのような男なら、こういう相手を、きっと好む。
弱そうで、壊しやすそうな、無名の新人を。
返事は、すぐには来なかった。
待っている間に、アッシュは、二百階という場所の空気を、少しずつ知っていった。
二百階の選手用の休憩室は、広く、静かだった。
柔らかい長椅子。磨き上げられた卓。
窓の外には、雲が流れている。下の階の喧騒が嘘のように、ここには、張り詰めた沈黙があった。
長椅子に座っている選手たちは、誰も口をきかない。
ただ、互いのオーラを、横目で値踏みし合っている。
アッシュは、壁際の椅子に腰を下ろした。
体を包む纏を、わざと薄く、ぎこちなく見せていた。念を覚えて間もない新人のように。マーロウの耳に、弱そうな新人がいるという噂が届くように。
その時だった。
首筋に、何かが、ぬるりと触れた気がした。
指ではなかった。風でもなかった。誰かの視線だった。
それも、ただ見ているのではない。
舐めるように、確かめるように、肌の上を這い回る視線。
アッシュは、ゆっくりと顔を上げた。
休憩室の奥の、窓際の卓に、一人の男が座っていた。
長身の男だった。
赤い髪を後ろに撫でつけ、頬には、星と涙の形の化粧が描かれている。
道化師のような、奇抜な服。
長い指で、トランプを一枚ずつ、卓の上に積み上げていた。
ピラミッドの形に、もう六段目まで積み上がっている。
指先は、少しも震えていなかった。
男は、トランプから目を離さなかった。
それなのに、分かった。あの視線は、この男のものだ。
男の体を包むオーラは、静かだった。
マーロウのように、隠す気もなく揺らめいているのではない。
シンのように、水が満ちるように広がるのでもない。
ただ、そこにある。薄く、柔らかく、それでいて、ひどく粘りついていた。
触れたら最後、二度と剥がれないような。
七段目のトランプが、ピラミッドの頂上に置かれた。
男が、ようやく顔を上げた。
細い目が、アッシュを見た。口元が、ゆっくりと、三日月の形に吊り上がった。
「君、面白いね♠」
甘ったるい声だった。
「纏を、わざと薄く見せてる。新人のふりをして。でも、ふりが上手すぎる♦ 本当の新人は、あんなに綺麗に、薄くはできないよ」
アッシュは、何も言わなかった。
背中を、冷たい汗が伝っていた。
休憩室の他の選手たちは、誰も気づいていない様子だった。二人の間に、何が流れているのか。この男だけが、一目で、自分の偽装を見抜いていた。
「誰かを、待ってるのかな?」
男は、トランプのピラミッドの頂上の一枚を、指先で軽く弾いた。ピラミッドは、崩れなかった。頂上の一枚だけが、くるくると宙を舞って、男の指の間に戻ってきた。
「いいよ。邪魔はしない。僕は、寝取る趣味はないんだ♣」
男は、アッシュの顔を、上から下まで、ゆっくりと眺めた。
「……何が言いたい」
アッシュは、ようやく口を開いた。声が、少しだけ掠れていた。
男は、楽しそうに肩をすくめた。
「別に。ただ、覚えておこうと思っただけさ。名前は?」
答える必要はなかった。
それでも、この男に嘘をつくのは、なぜか、もっと危ない気がした。
「……アッシュ」
「アッシュ♦」
男は、その名前を、舌の上で転がすように繰り返した。
「僕は、ヒソカ。また会おうね♠」
ヒソカと名乗った男は、アッシュに興味を失ったかのように、またトランプを積み始めた。
休憩室を出て、廊下の角を曲がるまで、アッシュは振り返らなかった。
ヒソカ。
その名前を、頭の中で繰り返した。
前世の霧の向こうに、何か引っかかるものがあるのではないかと思った。
ゴンという名前を思い出した時のように。
キルアという名前を思い出した時のように。物語の中の、誰か。
だが、何も浮かんでこなかった。
霧は、相変わらず厚かった。釣り竿の少年と、銀色の髪の少年と、いくつかの言葉。
それ以外の顔は、何十年もの時間に溶けて、どこにも残っていなかった。
名前に覚えはない。
それでも、体が覚えていた。
あの男の視線が、首筋を這った時の感触を。
蚯蚓と向き合った時とは、違った。
蚯蚓の強さは、分厚い壁のような強さだった。
正面から押し寄せてくる、分かりやすい強さ。
シンも、そうだった。
あの男は、違う。
底が、見えなかった。強いのか、弱いのか。何をしてくるのか。
何を考えているのか。何一つ、読めなかった。
アッシュは、壁から背を離した。
関わってはいけない。マーロウを捕まえたら、すぐにこの塔を出る。
それまで、あの男の視界に、なるべく入らないようにする。
それから、もう一つ、決めた。
マーロウとの試合では、手の内を、できる限り見せない。
この塔には、あの男のような目が、いくらでもある。
自分の能力が何なのか、どうすれば発動するのか。
それを知られることが、どれほど危ういか。
あの男は、新人のふりを、一目で見抜いた。
試合で能力を派手に使えば、きっと、何もかも見抜かれる。
その夜、二百階の受付の前を通りかかった時、
壁の掲示板に、新しい試合の予定が貼り出されていた。
二週間後。二百階の特別試合。
ヒソカ選手、対、カストロ選手。
「カストロ選手は、次のフロアマスターに一番近いと言われている方です」
受付嬢が、掲示板を見上げているアッシュに、声をかけてきた。
「二年前に一度、ヒソカ選手に負けていて、今回は雪辱戦なんです。チケットは、もうほとんど売り切れていますよ」
アッシュは、掲示板の、ヒソカという名前を見つめた。
関わってはいけない相手だった。
だが、あの男が、本気で戦うところを見られるのなら。
何をしてくる相手なのか。どこまで底があるのか。
それを知っておくことは、いつか、自分の命を救うかもしれない。
「……一枚、まだあるか」
受付嬢が、少し驚いたように目を瞬かせて、それから、棚の奥から、最後の一枚を取り出した。
最上段の、一番端の席だった。