転生をしたらそこはゴミ山。ゴミ山から始まる友情 作:板前さん
二週間後の午後、二百階の闘技場は、隙間なく埋まっていた。
通路にまで人が溢れ、立ち見の客が手すりにしがみついている。賭け札を握りしめた男たちの怒鳴り声。実況席の興奮した早口。天井の巨大な画面に、二人の選手の名前が交互に映し出されていた。
アッシュは、最上段の、一番端の席に座っていた。
リングまでは、遠い。だが、ここからなら、会場全体が見渡せる。
それに、ここなら、誰かに背後を取られることもない。
「さあ、いよいよ本日のメインイベント! 二年越しの雪辱戦です!」
実況の声に、会場が揺れた。
「次期フロアマスターの呼び声高い、カストロ選手! 対するは、謎の奇術師、ヒソカ選手!」
東の入場口から、一人の男が現れた。
長い髪を後ろで束ねた、端正な顔立ちの男だった。白い道着のような服。背筋が、まっすぐに伸びている。歩き方一つに、何年も積み上げてきた鍛錬が滲み出ていた。
カストロ。
アッシュは、目に念を集めた。凝。
カストロの体を包むオーラは、澄んでいた。厚く、均一で、一分の乱れもない。シンの纏を思い出した。基礎を、気の遠くなるほど繰り返してきた者だけが持つ、無駄のないオーラ。強い。間違いなく、この二百階でも、上から数えた方が早い使い手だった。
西の入場口から、もう一人が現れた。
ヒソカだった。
休憩室で見た時と、何も変わらなかった。赤い髪。頬の化粧。奇抜な服。指の間で、トランプを一枚、くるくると回している。散歩にでも来たような足取りで、リングに上がった。
ヒソカのオーラは、相変わらず、静かだった。
薄く、柔らかく、粘りついている。カストロのような澄んだ厚みはない。それなのに、見ているだけで、喉の奥がざわついた。
二人が、リングの中央で向かい合った。
カストロが、静かに口を開いた。何を言っているのかは、最上段までは聞こえなかった。ただ、その目に、二年分の何かが燃えているのが分かった。
ヒソカは、笑っていた。
嬉しそうに。待ちきれない子どものように。
「始め!」
審判の声が、会場の歓声に飲み込まれた。
最初に動いたのは、カストロだった。
速かった。両手の指を、獣の爪のように曲げて、踏み込む。手刀が、ヒソカの喉元を狙って閃いた。ヒソカは、紙一重で身を引いて躱した。躱したはずだった。
ヒソカの頬に、赤い線が走っていた。
会場が、どよめいた。
カストロは、休まなかった。手刀が、雨のように降り注ぐ。ヒソカは、ひらひらと、舞うように躱し続けた。だが、躱しきれていなかった。肩に、脇腹に、腕に、浅い傷が少しずつ増えていく。
アッシュは、凝を保ったまま、リングを見つめていた。
おかしい、と思った。
カストロの動きは、確かに速い。だが、ヒソカがあれを躱しきれないほどではない。休憩室で見たあの男が、この程度の速さに、追いつけないはずがない。
見えた。
カストロの手刀がヒソカの正面から迫る、まさにその瞬間に、ヒソカの背後にも、もう一人のカストロが立っていた。
同じ顔。同じ道着。同じ構え。
前のカストロと寸分違わぬ動きで、背後から手刀を振るっている。ヒソカが前の手刀を躱すたびに、背後の手刀が、その躱した先を待ち構えていた。
カストロ本人の体から、細い流れが伸びて、その先で、人の形に固まっている。オーラで作り上げた、もう一人の自分。
具現化。
シンの描いた六角形の、一つの頂点の言葉が浮かんだ。オーラを、形あるものに変える系統。人一人を、まるごと作り上げて、自在に動かしている。それも、本物と、まったく見分けがつかないほど精巧に。
凄まじい能力だった。
だが、見ているうちに、アッシュは、どこか、ちぐはぐなものを感じ始めていた。
カストロの手刀は、見事だった。獣の爪のように指を曲げ、全身の力を指先の一点に集めて、肉を裂く。何年も、何年も、ただ体を鍛え、技を磨いてきた者の手刀だった。カストロの本体のオーラも、それを物語っていた。厚く、澄んで、体の芯から溢れ出している。体を強くすることに、何より向いている人間のオーラだった。
シンと、同じだ。
それなのに、カストロが選んだ能力は、オーラで人一人を作り上げて、自分と同じように動かすことだった。形のないオーラに形を与え、それを、意思を持つように操る。体を強くすることとは、六角形の、まるで反対側にある力だった。
分身は、見事だった。本物と見分けがつかないほど精巧だった。だが、その精巧さを保つために、カストロは、どれほどのオーラと、どれほどの集中を、分身に割いているのだろう。
本体の手刀が、ほんの少しだけ、鈍っていた。
本当に速い時は、もっと速いはずだった。分身を動かしていない一瞬の手刀と、分身と同時に振るう手刀とでは、明らかに、切れ味が違った。アッシュの凝には、それが見えた。分身に回したオーラの分だけ、本体の拳から、何かが抜け落ちていた。
もし、この男が、分身など作らずに、ただ自分の体だけを鍛え上げていたら。
シンのように、殴る、守る、走る、それだけを極めていたら。
この男は、今よりずっと、強かったのではないか。
強い。間違いなく、強い。それでも、自分の強みと、自分の能力が、噛み合っていない。実力のある男が、自分にとって一番遠い道を、無理をして歩いている。
そして、その能力は、確実に、ヒソカを追い詰めていた。
前と後ろから、同時に襲いかかる手刀。ヒソカの体に、傷が増えていく。カストロの顔に、確信の色が浮かび始めていた。二年前の雪辱を、今、果たせる。
次の瞬間だった。
二人のカストロの手刀が、前後から、同時に振り抜かれた。
ヒソカの右腕が、宙を舞った。
会場が、悲鳴に包まれた。
肘から先が、くるくると回転しながら、リングの外へ落ちていく。
切断面から、血が噴き出した。審判が、慌てて試合を止めようとリングに駆け寄る。
ヒソカは、それを、手で制した。残った左手で。
笑っていた。
腕を一本失ったばかりの男が、心底楽しそうに、笑っていた。
そこから先は、まるで別の試合だった。
ヒソカが、何かを喋っていた。左手で、リングの外に落ちた自分の右腕を指差しながら。カストロに向かって、楽しそうに、まるで講義でもするように。最上段までは、言葉は届かなかった。ただ、カストロの顔から、少しずつ、確信の色が消えていくのが見えた。
アッシュは、凝を強めた。
ヒソカの左手の指先から、何かが伸びていた。
細い、糸のようなオーラだった。目を凝らさなければ見えないほど細い。それが、指先から、ゆるく弧を描いて、リングの外の床に転がった右腕まで伸びている。
ヒソカが、左手を軽く引いた。
床の上の右腕が、跳ね上がった。糸に引かれるように宙を飛び、ヒソカの右肩の切断面に、ぴたりと吸い付いた。
会場が、また悲鳴を上げた。
切り落とされた腕が、元の場所に戻っている。動いている。指を、ゆっくりと握ったり、開いたりしている。
繋がったわけではない、とアッシュには分かった。あの糸のようなオーラが、切断面と腕を、無理やり貼り合わせているだけだ。だが、それで、腕は動いた。
伸びる。縮む。くっつく。剥がれない。休憩室で感じた、あの粘りつくようなオーラ。あれが、そのまま、形になっている。変化系だろうか。オーラの性質そのものを、何か別のものに変えている。だが、それが何なのか、どこまでできるのか、アッシュには見当もつかなかった。
ただ、一つだけ、分かったことがあった。
あの能力は、単純だ。
伸びて、縮んで、くっつく。たぶん、たったそれだけ。カストロの分身のように、人一人を丸ごと作り上げるような、手の込んだものではない。
だからこそ、何にでも使える。
切り落とされた腕を、繋ぎ止める。離れたところに落ちたものを、引き寄せる。相手の体に貼り付けて、思う方へ引っ張る。たぶん、それ以外にも、いくらでも。決まった使い方しかできない能力ではない。その場で、相手を見て、場所を見て、いくらでも使い道を変えられる。
あの男の、あの余裕の正体は、それなのだろう。
どんな相手と、どんな場所で戦おうと、自分の能力なら、何とでもなる。腕の一本くらい、くれてやっても構わない。後から、いくらでも取り返せる。そう、心の底から信じている。だから、笑っていられるのだ。
アッシュは、自分の手のひらを見下ろした。
触れて、命じる。自分の能力も、単純だった。触れた場所を操作するだけ。けれど、その単純な能力で、瓦礫を飛ばし、人形を組み、宙に足場を作ってきた。
単純な能力ほど、使い手次第で、どこまでも広がる。
あの男は、それを、誰よりもよく知っている。
ヒソカが、動いた。
さっきまでの、ひらひらと躱すだけの動きではなかった。トランプが、指先から放たれる。一枚、二枚、三枚。ただの紙切れのはずのトランプが、刃物のように空気を裂いて、カストロに襲いかかった。
カストロが、もう一人の自分を盾にした。トランプが、分身の体を貫いて、霧のように散らした。
分身を作り直そうとするカストロの体に、ヒソカの糸が、いつの間にか貼り付いていた。
いつ。どこで。アッシュの凝ですら、捉えきれなかった。たぶん、最初の打ち合いの時から。カストロの手刀を躱すたびに、ほんの一瞬触れた、その時に。
カストロの体が、糸に引かれて、ぐらりと泳いだ。
ヒソカの指の間で、トランプが、扇のように開いた。
そこから先は、一瞬だった。
カストロが、リングの上に、仰向けに倒れていた。
胸に、何枚ものトランプが、深々と突き刺さっていた。もう、動かなかった。分身も、どこにもいなかった。
会場が、静まり返った。
ヒソカは、倒れたカストロを見下ろしていた。
それから、つまらなそうに、小さく肩をすくめた。
審判が、震える声で、勝者の名前を告げた。
アッシュは、最上段の席で、拳を握りしめていた。
腕一本を、餌にしたのだ。
能力を知られた者から、死んでいく。
シンに、何度も言われたことだった。手の内は、全て見せるな。見せる時は、それで終わらせる時だけだ。
カストロは、自分の能力の、すべてを見せた。そして、すべてを見抜かれた。
ヒソカの能力については、何も分からないままだった。伸びて、縮んで、くっつく糸のようなオーラ。分かったのは、それだけ。それすら、たぶん、あの男が見せてもいいと思った分だけだった。
リングの上で、ヒソカが、ふと顔を上げた。
最上段の、一番端の席を、まっすぐに見た気がした。
口元が、三日月の形に吊り上がった。
会場を出る人波は、ざわめきに満ちていた。
賭けに勝った者の歓声。負けた者の悪態。腕が飛んだ、くっついた、あれは手品か、と口々に言い合う声。死んだカストロのことを口にする者は、ほとんどいなかった。ここは、そういう場所だった。
アッシュは、人波から外れて、選手用の通路へ抜けた。
静かだった。白い壁と、白い床が、どこまでも続いている。自分の足音だけが、乾いた音を立てていた。
通路の角を曲がった時、向こうから、一人の女が早足で歩いてきた。
小柄な女だった。桃色がかった髪を、頭の後ろで一つに束ねている。吊り目がちの、気の強そうな顔。片手に、使い込まれた小さな鞄を提げていた。鞄の口から、太い針と、糸の束が覗いている。
すれ違う瞬間、女が、ちらりとアッシュを見た。
値踏みするような、鋭い目だった。ほんの一瞬。それから、何事もなかったように視線を外して、選手用の通路の奥へ、まっすぐに歩いていった。
念の使い手だ、とアッシュは思った。纏が、針のように研ぎ澄まされていた。
それから、ほんの少しだけ、足が止まった。
どこかで、見たような気がした。あの吊り目。
どこだったか。
思い出そうとして、何も浮かんでこなかった。この十年、数えきれないほどの人間の顔を見てきた。手配書の顔。情報屋の顔。用心棒仲間の顔。そのどれかと、似ていただけだろう。
アッシュは、首を振って、また歩き出した。
振り返らなかった。
通路の奥で、女がどこへ向かったのか。誰に会いに行ったのか。アッシュは、知らなかった。知ろうとも、しなかった。
その夜、アッシュは、二百階の個室の窓辺に座って、暗い空を見ていた。
雲の切れ間から、星が一つ、見えた。動かない星。爺さんに教わった、北の目印。
マーロウとの試合を、思い浮かべた。
あの会場には、今日と同じように、念の使い手の目がいくらでもある。そして、たぶん、あの男の目も。
能力の仕組みを、見せてはいけない。触れることが条件だということも。重ねるほど操作が強くなることも。瓦礫を浮かせて足場にできることも。宙に足場を作れば、それだけで、何ができる能力なのか、半分は分かってしまう。
見せていいのは、最後の一瞬だけ。それも、何が起きたのか、誰にも分からないくらい、小さく。
殺さずに、生かしたまま捕らえる。手の内を、誰にも見せずに。
アッシュは、窓に映る自分の顔を見た。
難しい試合になる、と思った。マーロウが強いからではない。勝つだけなら、簡単だ。勝ち方を、考えないといけない。
その日の昼、同じ観客席の、アッシュとは反対側の一角で、二人の少年が、息を詰めてあの試合を見ていたことを、アッシュは知らなかった。
片腕を三角巾で吊った、黒髪の少年と。
銀色の髪の、少年と。