転生をしたらそこはゴミ山。ゴミ山から始まる友情 作:板前さん
マーロウからの返事は、なかなか来なかった。
一週間が過ぎ、十日が過ぎた。二百階の受付に顔を出すたびに、受付嬢は申し訳なさそうに首を振った。
その間、アッシュは、弱い新人であり続けた。
纏を、わざと薄く、ぎこちなく保つ。休憩室では、壁際の椅子に座って、他の選手のオーラに気圧されたように目を伏せる。食堂では、隅の席で一人、黙々と食事をとる。誰かに話しかけられても、短く答えるだけ。二百階に上がったばかりの、念を覚えて間もない、どこにでもいる新人。
難しいのは、それを一日中、続けることだった。
本当の纏を隠したまま、偽の纏を保ち続ける。気を抜けば、隠していたものが滲み出す。夜、個室に戻って扉を閉めた瞬間、ようやく偽の纏を解く。体中の力が、どっと抜けた。
個室の中でだけ、アッシュは本当の修行をした。
絶で、気配を完全に消す。練で、オーラを最大まで高める。それを、何度も繰り返す。床に落ちていた小さな石ころを拾ってきて、念を込めて、宙に浮かせる。一つ。二つ。三つ。蚯蚓との戦いで覚えた足場を、部屋の中で、音を立てずに作っては消す。
誰にも見せない。見せるのは、最後の一瞬だけ。
十日目の夜、個室の電話が鳴った。
受話器を取ると、聞き慣れた、面倒くさそうな声がした。
「よう。生きてるか」
「……シン」
「協会の知り合いに聞いたら、お前、天空闘技場で二百階に上がったっていうじゃねえか。何やってんだ。ファイトマネー稼ぎか」
「仕事だ。賞金首が、偽名で選手をやってる」
アッシュは、マーロウのことを、かいつまんで話した。シンは、黙って聞いていた。
「なるほどな。リングの上で、か。悪くねえ判断だ。それと、飯はちゃんと食えよ。お前、仕事に入ると食うのを忘れるからな」
電話が、切れた。
アッシュは、受話器を置いて、少しだけ笑った。それから、窓の外の暗い空を見上げた。
その週の終わりに、マーロウの試合が組まれた。
アッシュは、また最上段の席に座った。ヒソカとカストロの試合の時と、同じ席だった。リングは遠いが、会場全体が見渡せる。
相手は、二百階に上がって三か月ほどの、中堅の選手だった。細身の体に、短い棒を二本、両手に構えている。棒の先に、オーラが集まっていた。何かを仕掛ける能力なのだろう。
「始め!」
マーロウが、踏み込んだ。
前の試合と、同じだった。小細工のない、右の真っ直ぐ。
全体重を乗せて、相手の顔面を狙う。
相手は、それを読んでいた。棒を交差させて、拳を受け止めようとする。
マーロウの拳が、二本の棒ごと、相手の体を吹き飛ばした。
棒が、真ん中から折れていた。相手は、リングの縁まで転がって、かろうじて踏みとどまった。腕が、おかしな方向に曲がっていた。
マーロウは、笑っていた。
アッシュは、凝を保ったまま、マーロウの体を見ていた。
拳に、オーラが厚く溜まっている。それは、前の試合で見た通りだった。
だが、今日は、もう少し細かく見ることができた。
拳と、前腕。そこに、マーロウのオーラの大半が集まっていた。肩から先が、異様に厚い。その分、胴と、脚は、薄かった。普通の強化系の使い手と比べても、明らかに薄い。
殴って、壊す。それだけのために、オーラを全部、腕に注ぎ込んでいる。
相手の選手が、折れた腕を押さえながら、残った棒を構え直した。
マーロウは、また右の真っ直ぐを放った。
相手が、今度は身を沈めて躱した。拳が、空を切る。マーロウの体勢が、わずかに前へ流れた。相手が、その隙に、棒をマーロウの脇腹へ突き込もうとした。
棒が届く前に、マーロウの左の拳が、相手の頭を横から殴りつけていた。
相手が、崩れ落ちた。
「勝者、ガルム選手!」
会場が沸いた。担架が運ばれてくる。マーロウは、倒れた相手を見下ろして、また笑っていた。
アッシュは、今の一瞬を、頭の中で何度も繰り返した。
右を躱されて、体勢が流れた。その一瞬、マーロウの胴は、がら空きだった。それを、左で無理やり埋めた。腕の力だけで。脚は、ほとんど使っていなかった。
癖が、見えた。
マーロウは、必ず右から入る。右を躱されても、焦らない。次は左。そして、両腕が通じないと分かった時。
その次は体ごと、ぶつかってくる。殴ることしか考えていない男が、腕を信用できなくなったら、残るのは、全体重を乗せた体当たりしかない。その時、軸になるのは、脚だ。腕に比べて、オーラの薄い、脚。
アッシュは、勝ち方を組み立てた。
真正面からは受けない。右の拳を、払い、流す。そのたびに、触れる。左も、同じように。少しずつ、少しずつ、両腕に念を重ねていく。観客には、防戦一方の新人にしか見えないように。
重ねた念で、右腕を一拍、遅らせる。
殴れないと分かればマーロウは、きっと、体当たりに切り替える。その時の、軸足。そこに、一度だけ、込められるだけの念を込めて、触れる。
止める。
見せるのは、それだけ。触れて、ずらして、止める。何が起きたのか、会場の誰にも分からないくらい、小さく。
アッシュは、最上段の席から立ち上がった。
勝ち方は、決まった。あとは、マーロウが、申し込みを受けるかどうかだった。
マーロウの試合の翌日、アッシュは、食堂から個室へ戻るために、エレベーターに乗った。
扉が閉まりかけた、その隙間に、長い指が差し込まれた。
扉が、ゆっくりと開き直った。
「やあ♦」
ヒソカだった。
赤い髪。頬の化粧。指の間で、トランプが一枚、くるくると回っている。
ヒソカは、当たり前のようにエレベーターに乗り込んできて、アッシュの隣に立った。
扉が、閉まった。
狭い箱の中に、二人きりだった。
アッシュは、偽の纏を、崩さなかった。崩さないように、全身の神経を張り詰めた。隣から、あの粘りつくようなオーラが、じわりと肌に触れてくる。触れているだけで、首筋が冷たくなった。
エレベーターが、ゆっくりと上昇を始めた。
「この前の試合、見てたね♠」
ヒソカは、前を向いたまま言った。
「最上段の、一番端。いい席だ。会場が全部見えて、誰にも背中を取られない。僕も、ああいう席が好きだよ」
アッシュは、答えなかった。
「カストロのこと、どう思った?」
「……強かった」
ヒソカは、楽しそうに笑った。
「でも、もったいなかった。自分に向いてないものに、あんなに一生懸命になっちゃって。君も、そう思ったんじゃないかな♦」
「昨日は、ガルムの試合も見てたね」
ヒソカが、くすりと笑った。
「君が待ってる相手は、彼だろう? 申し込み、もう二週間以上、寝かされてるんじゃない?」
「……なんで、それを」
「彼、慎重だからねえ。新人の申し込みは、しばらく放っておいて、相手が焦れるのを待つのが癖なんだ。焦って、どこかで本気を見せたら、それを見てから受けるかどうか決める。賢いよね♣」
ヒソカの指の間で、トランプが止まった。
「背中を、押してあげようか」
アッシュは、初めて、ヒソカの顔を見た。
ヒソカは、前を向いたまま、三日月の形に口元を吊り上げていた。
「彼に、ちょっと耳打ちしてあげるだけさ。あの新人、大したことないよ、ってね。そうしたら、きっと、すぐに受けてくれる。僕は、君がどう戦うのか、早く見てみたいんだ♥」
「……余計なことは、するな」
声が、自分でも驚くほど低く出た。
ヒソカは、少しだけ目を丸くした。それから、心底嬉しそうに笑った。
「怒った顔も、いいね♦」
エレベーターが、止まった。扉が開く。ヒソカが降りる階だった。
「じゃあ、何もしないでおくよ。たぶんね♠」
ヒソカは、ひらひらと手を振って、エレベーターを降りていった。
扉が閉まる直前、振り返らずに言った。
「楽しみにしてるよ、アッシュ」
扉が、閉まった。
アッシュは、エレベーターの壁に、背中を預けた。
偽の纏が、ほんの少しだけ、崩れかけていた。慌てて、立て直す。
何もしないでおくよ。たぶんね。
その「たぶん」が、何を意味するのか。
アッシュには、分からなかった。
翌朝、二百階の受付の前を通りかかると、受付嬢が、アッシュを呼び止めた。
「アッシュ選手。ガルム選手から、お返事が来ていますよ」
受付嬢は、一枚の紙を差し出した。
対戦承諾。日時は、二日後の午後。
アッシュは、その紙を、しばらく見つめていた。
二週間以上、何の返事もなかった。それが、エレベーターでヒソカと話した、その翌朝に。
偶然かもしれない。マーロウが、ただ、待つのに飽きただけかもしれない。昨日の試合で勝って、気が大きくなったのかもしれない。
それとも。
何もしないでおくよ。たぶんね。
アッシュは、紙を畳んで、上着の内ポケットにしまった。
考えても、答えは出なかった。出ない以上、考えるのは無駄だった。どちらにしても、やることは変わらない。リングの上で、マーロウを捕まえる。手の内を、見せずに。
その夜、アッシュは、個室の窓辺に座っていた。
雲が切れて、北の空に、動かない星が一つ見えた。
試合の前の夜は、いつも、少しだけ眠れなかった。蚯蚓と戦う前も。ヴァーゴの潜む缶詰工場に踏み込む前も。グラナートの屋敷の、あの夜も。
上着の内ポケットに、手を入れた。
対戦承諾の紙の下に、いくつかのものが重なっていた。リオの葉書。ミザイストムの連絡先の切れ端。蚯蚓の窪地で拾った、走り書きのメモ。九月。ヨークシン。倍量。
九月まで、あと半年もない。
マーロウを捕まえたら、すぐにこの塔を出る。ヨークシンへ向かう準備を始める。マフィアの懐に入り込む方法を探す。あの白い粉が、どこから来るのか。誰が、あの整然とした流通網を張ったのか。
小さく分けて並べておく。積み手の手が届くところに。
アッシュは、窓に額を押し当てた。
ジャイロは、今、三十二になっているはずだった。
どこにいるのだろう。何をしているのだろう。まだ、生きているのだろうか。生きているとしたら、どんな顔をして、どんな声で喋っているのだろう。
顔は変わる。癖は、変わらない。
もし、あの流通網を作ったのが。
アッシュは、その先を、考えなかった。考えないようにした。
明日は、何もしない。体を休めて、頭を空にする。試合の前の日に、余計なものを抱え込まないように。シンに、そう教わっていた。
それでも、窓の外の動かない星を見ているうちに、ふと、思った。
二週間以上、相手の返事を待つ。いつ来るかも分からないまま、決まった場所で、ただ、待つ。
便所の裏で、ジャイロを待っていた、あの頃と、少しだけ似ていた。
違うのは、あの頃は、待っていれば、必ず足音が聞こえてきたことだった。