転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語   作:板前さん

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18.秘密と嘘と主人公

試合の前の日、アッシュは、何もしなかった。

朝は、いつもより遅く起きた。個室で軽く体をほぐし、食堂の隅で、ゆっくりと朝食をとった。休憩室には、近づかなかった。マーロウの手配書も、鞄の底にしまったまま、一度も開かなかった。

 

勝ち方は、もう決まっている。前の日に、余計なものを抱え込むな。シンに、そう教わっていた。

それでも、頭は勝手に動いた。右から入ってくる拳。払うたびに、触れる。重ねる。一拍、遅らせる。腕を捨てて、体ごとぶつかってくる。その軸足に、一度だけ。

 

昼過ぎ、喉が渇いて、アッシュは部屋を出た。

二百階の廊下の突き当たりに、飲み物の自販機が並んでいる。アッシュはその前に立って、何を買うか迷うふりをしながら、もう一度、明日の試合を頭の中でなぞっていた。

 

「おっさん、それ買わないならどいてくんない?」

 

振り返ると、銀髪の少年が立っていた。十二、三歳。ポケットに手を突っ込み、気だるそうに目を細めている。その隣に、片腕を三角巾で吊った黒髪の少年がいた。

 

「キルア、失礼だよ」

 

「だって長いんだもん」

 

アッシュは脇へ退き、少年に場所を譲った。

銀髪の少年は迷わずチョコレート味の飲料を押す。

 

「……悪いな。考え事をしてた」

 

「別にいいけど」

黒髪の少年が、アッシュの顔をまっすぐ見上げた。

 

「おじさんも選手? 僕、ゴン。こっちはキルア。僕たちも二百階で戦ってるんだ。今は僕、怪我してて出られないんだけど」

 

ゴン。キルア。

その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、長いあいだ閉じていた引き出しが開いた気がした。

前世の記憶は、何十年も経った今、ほとんど擦り切れている。それでも、この二つの名前だけは残っていた。物語の真ん中にいた少年たち。自分が今いる世界の、主人公。

 

「……そうか。ゴンと、キルアか」

 

「僕たちを知ってるの?」

 

「いや。いい名前だと思っただけだ」

 

キルアが、ふっと目を細めた。値踏みするような目だった。

 

「おっさん、明日ガルムとやるんだろ。掲示板に出てた」

 

「ああ」

 

「やめといたほうがいいよ。あいつ、相手を壊すのが好きなタイプだから。おっさんじゃ無理だって」

 

言葉は辛辣だが、声には妙な平坦さがあった。忠告でも心配でもなく、ただ見たままを言っている。

 

「心配してくれてありがとう」

 

「してねーし」

 

「キルア、素直じゃないんだから」

 

ゴンが笑う。キルアがそっぽを向く。アッシュはその二人を、少しだけ長く見ていた。

二人並んで、廊下を歩いていく背中。片方が何か言うと、もう片方が言い返す。口の悪い銀髪の少年の言葉を、黒髪の少年が、笑いながら、当たり前のように受け止めている。

 

それだけのことが、なぜか目に沁みた。

便所の裏で、毎晩、ほんの数分だけ並んでいた二人。決まった時間が来れば、片方が黙って背を向ける。あの頃、自分とジャイロは、こんなふうに並んで歩いたことが、一度もなかった。

 

もし、あの柵の外へ、二人で出られていたら。こんなふうに、どこかの廊下を、言い合いながら歩けていたのだろうか。

アッシュは、自販機のボタンを押すのも忘れて、二人の背中が角の向こうに消えるまで、見送っていた。

 

翌日の午後。

二百階の闘技場は、八割方の席が埋まっていた。ガルムの試合は、毎回誰かが壊れる。それを見に来る客がいる。

 

「さあ、本日の第三試合! 全試合一ラウンド決着の破壊王、ガルム選手! 対するは、本日が二百階デビュー戦、アッシュ選手です!」

 

実況の声に、まばらな拍手と、それより大きな笑い声が混じった。賭け札はほとんどがガルムに流れている。

 

リングに上がったマーロウは、写真よりも一回り大きく見えた。首が太い。拳の骨が盛り上がっている。そして、その全身を包むオーラが、隠す気もなく揺らめいていた。

 

「新人さんよ」

 

マーロウが首を鳴らしながら言った。

 

「降参するなら今のうちだぜ。俺は優しいからな。手加減してやれるのは最初の一発だけだ」

 

アッシュは答えなかった。代わりに、目に念を集める。凝。マーロウのオーラの流れが、はっきりと見えた。両の拳に、厚く、重く、溜め込まれている。

強化系の、それも純粋な打撃型。読み通りだ。

 

観客席の一角に、銀髪と黒髪が並んでいるのが視界の端に映った。キルアは頬杖をつき、ゴンは身を乗り出している。

 

「始め!」

 

審判の声と同時に、マーロウが床を蹴った。

 

速い。体格からは想像できない踏み込み。右の拳が、空気を押し潰しながら顔面に迫る。

アッシュは半歩だけ下がり、左の手の甲で拳の側面を払った。真正面から受けない。拳の軌道を、ほんの数センチだけ外へ逸らす。腕の芯に、それなりの衝撃が残る。重い拳だ。だが、それだけだった。

 

指先が拳に触れたその一瞬に、アッシュは念を流し込んでいた。

 

二発目。左のフック。今度は肘の内側に手のひらを当てて、軌道を上へ流す。

 

三発目、四発目。アッシュは下がりながら、払い、流し、逸らし続ける。間合いを詰めようと踏み込んできた右膝には、靴の甲を軽く当てて蹴り返す。手でも足でも、触れさえすれば同じことだ。そのたびに、マーロウの拳に、手首に、肘に、念が薄く染みていく。

 

客席がざわめき始めた。

 

「おい、逃げてるだけじゃねえか!」

 

「打ち返せよ、新人!」

 

ブーイングが波のように広がる。実況も退屈を隠さない。

 

「アッシュ選手、防戦一方! ここまで一度も反撃がありません! クリーンヒットこそ許していませんが、これは時間の問題か!」

 

観客席で、キルアが舌打ちした。

 

「何やってんだあいつ。避けるのはうまいけど、あれじゃ削られる一方だろ」

 

「でも、全部ちゃんと受け流してるよ」

 

「受け流すたびに、腕にダメージ溜まってんだよ。見ろよ、左手、もう赤くなってる」

 

だが、キルアの見立ては外れていた。アッシュの腕は、少し赤くなっているだけだ。払うたびに、拳の勢いを殺す角度を少しずつ修正している。最初の数発で、マーロウの拳の重さも、癖も、もう測り終えていた。

クリティカルヒットは一つも取られていない。だがポイントは、攻め続けるマーロウに積み上がっていく。

 

「どうした新人! 踊ってるだけか!」

 

マーロウの声には、苛立ちと、それ以上の愉悦が混じっていた。獲物が弱っていくのを楽しむ声だ。一家五人を殺した夜も、こんな声で笑っていたのだろうか。

アッシュの呼吸は、少しも乱れていなかった。

十二回。マーロウの拳と腕に触れた回数だ。一回ごとの念は少ない。だが、重なっている。染み込んでいる。

もう少しだ。

 

「なあ、キルア」

 

ゴンが、リングから目を離さずに言った。

 

「あの人、怖がってないよね」

 

「……は?」

 

「逃げてるんじゃないと思う。タイミングを見計らってるんだよ」

 

キルアは答えず、もう一度リングを見た。今度は、さっきより注意深く。

 

マーロウが大きく息を吸った。

遊びは終わりだ、という顔だった。右の拳にオーラが集まっていく。これまでの比ではない。凝で見なくても分かるほど、拳の周囲の空気が歪んでいる。

 

「終わりにしようや」

 

踏み込み。全体重を乗せた右のストレート。これまでのように受け流すこともできる。だが、それではこの男を捕まえられない。

アッシュは、払わなかった。

代わりに、拳を見た。マーロウの右腕に積み重ねた、十二回分の念。

そのすべてに、一つの命令を通す。

 

――遅れろ。

 

拳が来る。速さは変わらない。威力も変わらない。

ただ、ほんの一拍だけ、拳がマーロウの意思より遅れて届いた。

全身で踏み込んだ男の体が先に前へ出て、腕だけが後ろに取り残される。一秒にも満たない、肩と拳のずれ。体重を乗せた打撃にとって、それは致命的だった。拳は空を切り、マーロウの体は自分の勢いに引きずられて大きく泳いだ。

 

アッシュはその隙に、足元の石床に拳を叩きつけた。念を込めた一撃。リングの石板が蜘蛛の巣のように割れ、拳大の破片がいくつも跳ね上がる。

浮いた破片が、落ちない。

空中で静止した瓦礫が、一斉に向きを変えた。体勢を立て直そうとするマーロウの足元へ、膝へ、踏ん張ろうとした軸足へ。石の礫が雨のように撃ち込まれる。強化系の肉体に大きな傷は残せない。だが、立て直す一瞬を奪うには十分だった。

 

「クリティカル! アッシュ選手、二ポイント!」

 

実況の声が裏返る。ブーイングが、どよめきに変わった。

観客席で、キルアが身を起こしていた。

 

「……今の」

 

「キルア?」

 

「あいつの右腕、一瞬だけ遅れた。殴る瞬間に、腕だけ置いていかれたみたいに」

 

ゴンには見えていなかった。会場の誰にも、おそらく見えていなかった。キルアだけが、その一拍を見ていた。

リングの上で、マーロウがゆっくりと振り返った。

顔から笑みが消えていた。代わりにあったのは、獣の目だった。

 

「てめえ……何をしやがった」

 

「さあな」

 

 

「俺の体に、何か仕込んだな」

 

頭は悪くない。七件の殺しを逃げ延びてきた男だ。マーロウは右腕を二度、三度と振り、感覚を確かめる。それから、腕ではなく脚にオーラを集め始めた。

殴れないなら、体ごとぶつかればいい。強化系らしい、単純で、正しい判断だった。

 

マーロウの両脚が、膨れ上がったように見えた。

次の瞬間、男の姿が消えた。

石床を砕いて、一直線に。タックルだ。全身が一つの砲弾になって突っ込んでくる。躱すのは簡単だ。だが躱せば、この男はその勢いのまま、リングの外へ、出口へ走るかもしれない。軸になる左脚には、まだ一度も触れていない。触れていない場所に、命令は通らない。

 

だから、触れる。

 

アッシュは逃げずに前へ出た。迫ってくる巨体の、踏み込んだ左膝。

そこへ右の手のひらを叩きつける。

 

全力の念を込めて。

――止まれ。

マーロウの左脚が、凍りついたように動きを止めた。

 

脚だけが止まり、体は止まらない。全速力で走る人間の片脚が床に縫いつけられたらどうなるか。マーロウの巨体は、自分の勢いのまま前のめりに倒れ込み、顔から石床に叩きつけられた。

 

轟音。砕けた石の粉が舞い上がる。

起き上がろうとするマーロウの首筋に、アッシュは静かに手を置いた。

 

「動くな。と言っても、もう両腕も左脚も、しばらくは言うことを聞かない」

 

マーロウは歯を剥き出しにして腕を突こうとし、そして気づいた。右腕が、まるで他人のもののように重い。左脚は、まだ床から離れない。

 

「……てめえ、何者だ」

 

アッシュは答えず、審判を見た。

審判が手を上げる。

 

「勝者、アッシュ選手!」

 

一瞬の沈黙の後、会場が爆発した。賭け札が宙に舞い、歓声と怒号が入り混じる。実況が何かを叫んでいるが、もう誰も聞いていない。

アッシュは懐からハンターライセンスを取り出し、うつ伏せのまま動けない男の目の前に置いた。

 

「ドレイク・マーロウ。ブラックリストハンターだ。お前を連れていく」

マーロウの顔から、血の気が引いていった。

 

歓声の渦の中で、観客席の最上段の一角だけが、静かだった。

赤い髪を後ろに撫でつけた男が、手すりに頬杖をついて、リングを見下ろしていた。指の間で、トランプが一枚、くるくると回っている。

 

「ふうん♠」

 

トランプが、指の間で止まった。

「アッシュ、か。もう少し、覚えておこうかな♣」

 

ヒソカは、名残惜しそうに立ち上がると、人混みの中へ消えていった。

 

マーロウの身柄を協会の担当者に引き渡し終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

闘技場の裏口を出ると、手すりにもたれた銀髪の少年が待っていた。隣で、ゴンが片手を振っている。

 

「おじさん、すごかった!」

 

「ゴン、腕に響くぞ。あんまり振り回すな」

 

「平気だよ」

 

キルアは手すりから身を起こし、まっすぐにアッシュを見た。

 

「右腕。殴る瞬間に、一瞬遅れたろ」

 

問いではなかった。確認だった。

 

「よく見てたな」

 

「最初からずっと、触ってたもんな。受け流すたびに。あれ、全部仕込みだったんだろ」

 

「さあな。手の内を全部明かすハンターはいない」

 

「ケチ」

 

キルアは口を尖らせたが、目は笑っていなかった。悔しいのだ、とアッシュは思った。昨日、無理だと言い切った相手が勝ったことが、ではない。最初の数分、自分が何も見抜けなかったことが。

 

ゴンが首をかしげた。

 

「ねえ、どうしてずっと反撃しなかったの? 途中でブーイングもすごかったのに」

 

アッシュは少し考えてから、言葉を選んだ。

 

「理由はいくつかある。一つは、生かして捕まえたかった。殺すだけなら、もっと早く終わってた」

 

ゴンが目を丸くした。キルアは黙ったまま、やっぱりな、という顔をしている。

 

「もう一つは、客席だ。二百階には念能力者の目がいくらでもある。手の内は、見せる相手が少ないほど長持ちする」

 

「それと、念を使う相手との戦いはな、相手が能力を見せるまで、何も分からない。あいつは単純な強化系だったが、それでも俺は最後まで、何か隠してるかもしれないと思ってた」

 

「隠してなかったじゃん」

 

「結果としてはな。でも、見せた後も、それが全部だと思うな。俺が勝てたのは、あいつが俺の能力を、腕に何か仕込まれたことだけだと思い込んだからだ。腕を捨てて脚で来た。だから脚に触れられた」

 

ゴンは真剣な顔で頷き、キルアは黙って聞いていた。

それ以上のことは言わなかった。この子たちには、念の基礎を教える人間がもういる。自分が口を出していい領分は、ここまでだ。

 

ゴンが「先に部屋戻ってるね」と駆けていった後、キルアが一人残った。手すりにもたれ直し、夜の街を見下ろしている。

 

「……おっさん、昨日、なんで俺らのこと、あんな目で見てたの」

 

アッシュは、すぐには答えられなかった。

 

「昔のことを、思い出してた」

 

「昔?」

 

「友達がいた。毎晩、ほんの少しの時間だけ会って、言葉を教えてた。そいつは、ほとんど言葉を知らなかったからな」

 

キルアが、黙ってアッシュを見た。

 

「並んで歩いたことは、一度もなかった。会えるのは、いつも同じ場所の、同じ数分だけだった。それでも、俺にとっては、一番の友達だった」

 

「……そいつ、今は」

 

「分からない。ずっと探してる」

 

アッシュは、ゴンが駆けていった廊下の先を見た。

 

「お前ら、いつも二人でいるのか」

 

「……別に。たまたまだよ」

 

キルアは、そっぽを向いた。けれど、その耳の先が、少しだけ赤かった。

 

「そうか」

アッシュは、少しだけ笑った。それから、一つだけ、言っておくことにした。

 

「キルア。隣にいるやつに言いたいことがあったら、言える時に言っとけ。いつでも言えると思ってると、ある日、言えなくなる」

 

「……説教くせー」

 

「年寄りだからな」

 

キルアは鼻を鳴らし、手すりから離れた。廊下の角で一度だけ振り返り、何か言いかけて、やめて、ゴンの後を追って走っていった。

走っていく背中を、アッシュは、少しだけ羨ましく思った。

 

一人になって、アッシュは自分の右手を見下ろした。

手の甲が、わずかに赤くなっているだけだった。この手で、今日、二つの言葉を使った。遅れろ。止まれ。

。

この能力がは、触れた場所だけに効果がある。込めた念の量しか従わせられない。それで十分だと思っている。相手の意思そのものを奪って、人ごと操る。そういう能力を考えたことは、一度もなかった。考えようとするだけで、喉の奥が冷たくなる。

 

アッシュは拳を握りしめ、まだ見ぬ方角の先を思った。

あの日消えた方位磁針の針が、今もどこかで、何かを指しているはずだった。

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