転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
試合の前の日、アッシュは、何もしなかった。
朝は、いつもより遅く起きた。個室で軽く体をほぐし、食堂の隅で、ゆっくりと朝食をとった。休憩室には、近づかなかった。マーロウの手配書も、鞄の底にしまったまま、一度も開かなかった。
勝ち方は、もう決まっている。前の日に、余計なものを抱え込むな。シンに、そう教わっていた。
それでも、頭は勝手に動いた。右から入ってくる拳。払うたびに、触れる。重ねる。一拍、遅らせる。腕を捨てて、体ごとぶつかってくる。その軸足に、一度だけ。
昼過ぎ、喉が渇いて、アッシュは部屋を出た。
二百階の廊下の突き当たりに、飲み物の自販機が並んでいる。アッシュはその前に立って、何を買うか迷うふりをしながら、もう一度、明日の試合を頭の中でなぞっていた。
「おっさん、それ買わないならどいてくんない?」
振り返ると、銀髪の少年が立っていた。十二、三歳。ポケットに手を突っ込み、気だるそうに目を細めている。その隣に、片腕を三角巾で吊った黒髪の少年がいた。
「キルア、失礼だよ」
「だって長いんだもん」
アッシュは脇へ退き、少年に場所を譲った。
銀髪の少年は迷わずチョコレート味の飲料を押す。
「……悪いな。考え事をしてた」
「別にいいけど」
黒髪の少年が、アッシュの顔をまっすぐ見上げた。
「おじさんも選手? 僕、ゴン。こっちはキルア。僕たちも二百階で戦ってるんだ。今は僕、怪我してて出られないんだけど」
ゴン。キルア。
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、長いあいだ閉じていた引き出しが開いた気がした。
前世の記憶は、何十年も経った今、ほとんど擦り切れている。それでも、この二つの名前だけは残っていた。物語の真ん中にいた少年たち。自分が今いる世界の、主人公。
「……そうか。ゴンと、キルアか」
「僕たちを知ってるの?」
「いや。いい名前だと思っただけだ」
キルアが、ふっと目を細めた。値踏みするような目だった。
「おっさん、明日ガルムとやるんだろ。掲示板に出てた」
「ああ」
「やめといたほうがいいよ。あいつ、相手を壊すのが好きなタイプだから。おっさんじゃ無理だって」
言葉は辛辣だが、声には妙な平坦さがあった。忠告でも心配でもなく、ただ見たままを言っている。
「心配してくれてありがとう」
「してねーし」
「キルア、素直じゃないんだから」
ゴンが笑う。キルアがそっぽを向く。アッシュはその二人を、少しだけ長く見ていた。
二人並んで、廊下を歩いていく背中。片方が何か言うと、もう片方が言い返す。口の悪い銀髪の少年の言葉を、黒髪の少年が、笑いながら、当たり前のように受け止めている。
それだけのことが、なぜか目に沁みた。
便所の裏で、毎晩、ほんの数分だけ並んでいた二人。決まった時間が来れば、片方が黙って背を向ける。あの頃、自分とジャイロは、こんなふうに並んで歩いたことが、一度もなかった。
もし、あの柵の外へ、二人で出られていたら。こんなふうに、どこかの廊下を、言い合いながら歩けていたのだろうか。
アッシュは、自販機のボタンを押すのも忘れて、二人の背中が角の向こうに消えるまで、見送っていた。
翌日の午後。
二百階の闘技場は、八割方の席が埋まっていた。ガルムの試合は、毎回誰かが壊れる。それを見に来る客がいる。
「さあ、本日の第三試合! 全試合一ラウンド決着の破壊王、ガルム選手! 対するは、本日が二百階デビュー戦、アッシュ選手です!」
実況の声に、まばらな拍手と、それより大きな笑い声が混じった。賭け札はほとんどがガルムに流れている。
リングに上がったマーロウは、写真よりも一回り大きく見えた。首が太い。拳の骨が盛り上がっている。そして、その全身を包むオーラが、隠す気もなく揺らめいていた。
「新人さんよ」
マーロウが首を鳴らしながら言った。
「降参するなら今のうちだぜ。俺は優しいからな。手加減してやれるのは最初の一発だけだ」
アッシュは答えなかった。代わりに、目に念を集める。凝。マーロウのオーラの流れが、はっきりと見えた。両の拳に、厚く、重く、溜め込まれている。
強化系の、それも純粋な打撃型。読み通りだ。
観客席の一角に、銀髪と黒髪が並んでいるのが視界の端に映った。キルアは頬杖をつき、ゴンは身を乗り出している。
「始め!」
審判の声と同時に、マーロウが床を蹴った。
速い。体格からは想像できない踏み込み。右の拳が、空気を押し潰しながら顔面に迫る。
アッシュは半歩だけ下がり、左の手の甲で拳の側面を払った。真正面から受けない。拳の軌道を、ほんの数センチだけ外へ逸らす。腕の芯に、それなりの衝撃が残る。重い拳だ。だが、それだけだった。
指先が拳に触れたその一瞬に、アッシュは念を流し込んでいた。
二発目。左のフック。今度は肘の内側に手のひらを当てて、軌道を上へ流す。
三発目、四発目。アッシュは下がりながら、払い、流し、逸らし続ける。間合いを詰めようと踏み込んできた右膝には、靴の甲を軽く当てて蹴り返す。手でも足でも、触れさえすれば同じことだ。そのたびに、マーロウの拳に、手首に、肘に、念が薄く染みていく。
客席がざわめき始めた。
「おい、逃げてるだけじゃねえか!」
「打ち返せよ、新人!」
ブーイングが波のように広がる。実況も退屈を隠さない。
「アッシュ選手、防戦一方! ここまで一度も反撃がありません! クリーンヒットこそ許していませんが、これは時間の問題か!」
観客席で、キルアが舌打ちした。
「何やってんだあいつ。避けるのはうまいけど、あれじゃ削られる一方だろ」
「でも、全部ちゃんと受け流してるよ」
「受け流すたびに、腕にダメージ溜まってんだよ。見ろよ、左手、もう赤くなってる」
だが、キルアの見立ては外れていた。アッシュの腕は、少し赤くなっているだけだ。払うたびに、拳の勢いを殺す角度を少しずつ修正している。最初の数発で、マーロウの拳の重さも、癖も、もう測り終えていた。
クリティカルヒットは一つも取られていない。だがポイントは、攻め続けるマーロウに積み上がっていく。
「どうした新人! 踊ってるだけか!」
マーロウの声には、苛立ちと、それ以上の愉悦が混じっていた。獲物が弱っていくのを楽しむ声だ。一家五人を殺した夜も、こんな声で笑っていたのだろうか。
アッシュの呼吸は、少しも乱れていなかった。
十二回。マーロウの拳と腕に触れた回数だ。一回ごとの念は少ない。だが、重なっている。染み込んでいる。
もう少しだ。
「なあ、キルア」
ゴンが、リングから目を離さずに言った。
「あの人、怖がってないよね」
「……は?」
「逃げてるんじゃないと思う。タイミングを見計らってるんだよ」
キルアは答えず、もう一度リングを見た。今度は、さっきより注意深く。
マーロウが大きく息を吸った。
遊びは終わりだ、という顔だった。右の拳にオーラが集まっていく。これまでの比ではない。凝で見なくても分かるほど、拳の周囲の空気が歪んでいる。
「終わりにしようや」
踏み込み。全体重を乗せた右のストレート。これまでのように受け流すこともできる。だが、それではこの男を捕まえられない。
アッシュは、払わなかった。
代わりに、拳を見た。マーロウの右腕に積み重ねた、十二回分の念。
そのすべてに、一つの命令を通す。
――遅れろ。
拳が来る。速さは変わらない。威力も変わらない。
ただ、ほんの一拍だけ、拳がマーロウの意思より遅れて届いた。
全身で踏み込んだ男の体が先に前へ出て、腕だけが後ろに取り残される。一秒にも満たない、肩と拳のずれ。体重を乗せた打撃にとって、それは致命的だった。拳は空を切り、マーロウの体は自分の勢いに引きずられて大きく泳いだ。
アッシュはその隙に、足元の石床に拳を叩きつけた。念を込めた一撃。リングの石板が蜘蛛の巣のように割れ、拳大の破片がいくつも跳ね上がる。
浮いた破片が、落ちない。
空中で静止した瓦礫が、一斉に向きを変えた。体勢を立て直そうとするマーロウの足元へ、膝へ、踏ん張ろうとした軸足へ。石の礫が雨のように撃ち込まれる。強化系の肉体に大きな傷は残せない。だが、立て直す一瞬を奪うには十分だった。
「クリティカル! アッシュ選手、二ポイント!」
実況の声が裏返る。ブーイングが、どよめきに変わった。
観客席で、キルアが身を起こしていた。
「……今の」
「キルア?」
「あいつの右腕、一瞬だけ遅れた。殴る瞬間に、腕だけ置いていかれたみたいに」
ゴンには見えていなかった。会場の誰にも、おそらく見えていなかった。キルアだけが、その一拍を見ていた。
リングの上で、マーロウがゆっくりと振り返った。
顔から笑みが消えていた。代わりにあったのは、獣の目だった。
「てめえ……何をしやがった」
「さあな」
「俺の体に、何か仕込んだな」
頭は悪くない。七件の殺しを逃げ延びてきた男だ。マーロウは右腕を二度、三度と振り、感覚を確かめる。それから、腕ではなく脚にオーラを集め始めた。
殴れないなら、体ごとぶつかればいい。強化系らしい、単純で、正しい判断だった。
マーロウの両脚が、膨れ上がったように見えた。
次の瞬間、男の姿が消えた。
石床を砕いて、一直線に。タックルだ。全身が一つの砲弾になって突っ込んでくる。躱すのは簡単だ。だが躱せば、この男はその勢いのまま、リングの外へ、出口へ走るかもしれない。軸になる左脚には、まだ一度も触れていない。触れていない場所に、命令は通らない。
だから、触れる。
アッシュは逃げずに前へ出た。迫ってくる巨体の、踏み込んだ左膝。
そこへ右の手のひらを叩きつける。
全力の念を込めて。
――止まれ。
マーロウの左脚が、凍りついたように動きを止めた。
脚だけが止まり、体は止まらない。全速力で走る人間の片脚が床に縫いつけられたらどうなるか。マーロウの巨体は、自分の勢いのまま前のめりに倒れ込み、顔から石床に叩きつけられた。
轟音。砕けた石の粉が舞い上がる。
起き上がろうとするマーロウの首筋に、アッシュは静かに手を置いた。
「動くな。と言っても、もう両腕も左脚も、しばらくは言うことを聞かない」
マーロウは歯を剥き出しにして腕を突こうとし、そして気づいた。右腕が、まるで他人のもののように重い。左脚は、まだ床から離れない。
「……てめえ、何者だ」
アッシュは答えず、審判を見た。
審判が手を上げる。
「勝者、アッシュ選手!」
一瞬の沈黙の後、会場が爆発した。賭け札が宙に舞い、歓声と怒号が入り混じる。実況が何かを叫んでいるが、もう誰も聞いていない。
アッシュは懐からハンターライセンスを取り出し、うつ伏せのまま動けない男の目の前に置いた。
「ドレイク・マーロウ。ブラックリストハンターだ。お前を連れていく」
マーロウの顔から、血の気が引いていった。
歓声の渦の中で、観客席の最上段の一角だけが、静かだった。
赤い髪を後ろに撫でつけた男が、手すりに頬杖をついて、リングを見下ろしていた。指の間で、トランプが一枚、くるくると回っている。
「ふうん♠」
トランプが、指の間で止まった。
「アッシュ、か。もう少し、覚えておこうかな♣」
ヒソカは、名残惜しそうに立ち上がると、人混みの中へ消えていった。
マーロウの身柄を協会の担当者に引き渡し終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
闘技場の裏口を出ると、手すりにもたれた銀髪の少年が待っていた。隣で、ゴンが片手を振っている。
「おじさん、すごかった!」
「ゴン、腕に響くぞ。あんまり振り回すな」
「平気だよ」
キルアは手すりから身を起こし、まっすぐにアッシュを見た。
「右腕。殴る瞬間に、一瞬遅れたろ」
問いではなかった。確認だった。
「よく見てたな」
「最初からずっと、触ってたもんな。受け流すたびに。あれ、全部仕込みだったんだろ」
「さあな。手の内を全部明かすハンターはいない」
「ケチ」
キルアは口を尖らせたが、目は笑っていなかった。悔しいのだ、とアッシュは思った。昨日、無理だと言い切った相手が勝ったことが、ではない。最初の数分、自分が何も見抜けなかったことが。
ゴンが首をかしげた。
「ねえ、どうしてずっと反撃しなかったの? 途中でブーイングもすごかったのに」
アッシュは少し考えてから、言葉を選んだ。
「理由はいくつかある。一つは、生かして捕まえたかった。殺すだけなら、もっと早く終わってた」
ゴンが目を丸くした。キルアは黙ったまま、やっぱりな、という顔をしている。
「もう一つは、客席だ。二百階には念能力者の目がいくらでもある。手の内は、見せる相手が少ないほど長持ちする」
「それと、念を使う相手との戦いはな、相手が能力を見せるまで、何も分からない。あいつは単純な強化系だったが、それでも俺は最後まで、何か隠してるかもしれないと思ってた」
「隠してなかったじゃん」
「結果としてはな。でも、見せた後も、それが全部だと思うな。俺が勝てたのは、あいつが俺の能力を、腕に何か仕込まれたことだけだと思い込んだからだ。腕を捨てて脚で来た。だから脚に触れられた」
ゴンは真剣な顔で頷き、キルアは黙って聞いていた。
それ以上のことは言わなかった。この子たちには、念の基礎を教える人間がもういる。自分が口を出していい領分は、ここまでだ。
ゴンが「先に部屋戻ってるね」と駆けていった後、キルアが一人残った。手すりにもたれ直し、夜の街を見下ろしている。
「……おっさん、昨日、なんで俺らのこと、あんな目で見てたの」
アッシュは、すぐには答えられなかった。
「昔のことを、思い出してた」
「昔?」
「友達がいた。毎晩、ほんの少しの時間だけ会って、言葉を教えてた。そいつは、ほとんど言葉を知らなかったからな」
キルアが、黙ってアッシュを見た。
「並んで歩いたことは、一度もなかった。会えるのは、いつも同じ場所の、同じ数分だけだった。それでも、俺にとっては、一番の友達だった」
「……そいつ、今は」
「分からない。ずっと探してる」
アッシュは、ゴンが駆けていった廊下の先を見た。
「お前ら、いつも二人でいるのか」
「……別に。たまたまだよ」
キルアは、そっぽを向いた。けれど、その耳の先が、少しだけ赤かった。
「そうか」
アッシュは、少しだけ笑った。それから、一つだけ、言っておくことにした。
「キルア。隣にいるやつに言いたいことがあったら、言える時に言っとけ。いつでも言えると思ってると、ある日、言えなくなる」
「……説教くせー」
「年寄りだからな」
キルアは鼻を鳴らし、手すりから離れた。廊下の角で一度だけ振り返り、何か言いかけて、やめて、ゴンの後を追って走っていった。
走っていく背中を、アッシュは、少しだけ羨ましく思った。
一人になって、アッシュは自分の右手を見下ろした。
手の甲が、わずかに赤くなっているだけだった。この手で、今日、二つの言葉を使った。遅れろ。止まれ。
。
この能力がは、触れた場所だけに効果がある。込めた念の量しか従わせられない。それで十分だと思っている。相手の意思そのものを奪って、人ごと操る。そういう能力を考えたことは、一度もなかった。考えようとするだけで、喉の奥が冷たくなる。
アッシュは拳を握りしめ、まだ見ぬ方角の先を思った。
あの日消えた方位磁針の針が、今もどこかで、何かを指しているはずだった。