ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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2.出会いと別れ

次の夜も、アッシュは共同便所の裏で待った。

 

男の子は、同じ時刻に、同じ足音で出てきた。

暗がりに立つアッシュを見ても、驚かなかった。

昨夜と同じように立ち止まり、同じように黙ってこちらを見た。

 

アッシュは、干した果物の包みを差し出した。

 

「迷惑じゃない」

 

男の子が、わずかに首を傾げた。

 

「俺が、渡したいだけだ。お前が受け取っても、誰も困らない。だから、迷惑じゃない」

 

言葉を一つずつ区切って、ゆっくりと言った。

七歳の口から出る理屈としては、妙に大人びていたかもしれない。

だが、この子には、そういう言い方でなければ届かない気がした。

 

男の子は、長いあいだ包みを見つめていた。

考えているのか、ただ見ているだけなのか、表情からは何も読めなかった。

 

やがて、ひび割れた手が伸びてきた。

包みを受け取ると、男の子はその場で布をほどき、干した果物の切れ端を、小さく、小さく齧った。

 

一口ごとに、ひどく時間をかけて噛む。

まるで、一欠片も無駄にしてはいけないと決められているかのように。

 

最後の一欠片を飲み込むと、男の子は包み布を丁寧に畳んで、アッシュに返した。

そして、何も言わずに宿舎へ戻っていった。

それから、夜ごとの短い時間が、二人のものになった。

 

男の子が便所に行って戻るまでの、ほんの数分。長くはいられない。

戻るのが遅れれば、あの男が気づくかもしれない。

男の子自身が、それを分かっているようだった。

いつも、決まった時間が来ると、話の途中でも黙って背を向けた。

その数分で、アッシュは言葉を教えた。

最初は、目に見えるものから始めた。

 

「月」

 

空を指差す。男の子が、空を見上げる。

 

「つ、き」

 

「そう。月」

 

「手」

 

自分の手を開いて見せる。男の子が、自分のひび割れた手を見下ろす。

 

「て」

 

「冷たい」

 

夜風に晒された指先を、男の子の手の甲にそっと当てる。

男の子は少しだけ身を引いて、それから、自分の指先で自分の手を触った。

 

「つめ、たい」

 

覚えが早かった。一度教えた言葉は、次の夜には正しく口にした。

二度教える必要は、ほとんどなかった。

 

この子は、言葉が分からないのではない。

言葉を使う機会を、一度も与えられなかったのだ。アッシュは、そう思った。

名前のない物は、ないのと同じだ。

この子の世界には、現場と、上の段のベッドと、共同便所しかなかった。

 

そのどれにも、名前を教えてくれる者はいなかった。

だから、一つずつ名前をつけていく。

月に。手に。冷たさに。

この子の世界に、少しずつ物を増やしていく。

 

ひと月が過ぎた頃には、男の子は短い言葉なら続けて話せるようになっていた。

 

「きょう、さむい」

 

「ああ、寒いな」

 

「レンガ、おもい。でも、はこぶ」

 

「重いのに、運ぶのか」

 

「はこぶ。きまってる」

 

決まっている。男の子は、その言葉をよく使った。

働くことも、ベッドの上の段にいることも、便所に行く時刻も、すべて「決まっている」ことだった。

 

誰が決めたのかを、男の子は一度も口にしなかった。

ある夜、アッシュはもう一度聞いた。

 

「お前、名前は」

 

最初の夜、男の子は答えなかった。何を聞かれているのか分からない顔をしていた。

今は、もう分かっているはずだった。

 

名前というものが、物に、人につけられるものだということを、

この数週間でアッシュは教えてきた。

 

男の子は、黙った。

いつもの、何も考えていないような沈黙ではなかった。

眉が、ほんのわずかに寄っている。

 

「……いちど、だけ」

 

男の子が、ゆっくりと言った。

 

「ねつ、でた。あつかった。ずっと、ねてた」

 

言葉を一つずつ、手探りで並べていく。

 

「そのとき、よばれた。いちど、だけ」

 

高い熱にうなされた夜。上の段のベッドで、意識が遠のいていた時。

額に濡れた布を当てながら、一度だけ口にした音。

男の子は、それを、ずっと覚えていたのだ。何年も。誰にも呼ばれないまま。

 

「……ジャイロ」

 

男の子が言った。

掠れた声だった。けれど、これまでのどの言葉よりも、はっきりとした音だった。

 

「ジャイロ」

 

アッシュは、繰り返した。

男の子の目が、わずかに見開かれた。

自分の名前を、他人の口から聞く。

 

それが、この子にとってどういうことなのか、アッシュには想像することしかできなかった。熱の夜以来、初めて。もしかしたら、生まれてから二度目に。

 

「俺は、アッシュだ」

 

自分の胸を指差す。

 

「灰の中から拾われたから、アッシュ。爺さんがつけた」

 

ジャイロは、アッシュの胸を見て、それから顔を見た。

 

「……アッシュ」

「そう」

「アッシュ」

 

もう一度。確かめるように。

そしてジャイロは、自分の胸に、そっと手を当てた。

 

「ジャイロ」

 

それだけ言って、ジャイロはいつものように背を向けた。

決まった時間が来ていた。宿舎へ戻っていく足取りは、いつもと変わらなかった。

 

だが、トタンの扉をくぐる直前、ほんの一瞬だけ、ジャイロは振り返った。

月明かりの中で、その顔に何が浮かんでいたのか、アッシュには見えなかった。

 

春が来て、爺さんの咳は少しだけ軽くなった。

アッシュはまた、ゴミ山の奥まで拾いに出られるようになった。

 

飯場へ通うのは、夜だけになった。

昼は爺さんと山を渡り、夜は共同便所の裏でジャイロを待つ。

それが、アッシュの日々の形になっていた。

 

ある日の昼、崩れかけた廃材の山の底で、アッシュは小さな金属の円盤を見つけた。

 

手のひらに収まるほどの、丸い蓋つきのケース。

蓋を開けると、ガラスに蜘蛛の巣のようなひびが走っていた。

その下で、細い針が、かすかに震えている。

方位磁針だった。

文字盤の塗料は剥げ、方角を示す文字もほとんど読めない。

それでも、ケースを傾けても、回しても、針はゆらゆらと揺れた後、必ず同じ方向を指して止まった。

 

前の世界でも、子どもの頃に、こういう物を持っていた気がする。

何に使ったのかは思い出せない。

ただ、針がいつも同じ方を向くのが不思議で、何度も回して遊んだ、そんな感覚だけが残っていた。

 

アッシュは、それを交換には出さなかった。

その夜、便所の裏で、アッシュは方位磁針をジャイロの前で開いて見せた。

 

「見てろ」

 

ケースをくるりと回す。針が揺れる。そして、止まる。

ジャイロが、じっと針を見つめた。

アッシュは、もう一度回した。今度は反対向きに。針は揺れて、また同じ方向を指した。

 

「……おなじ」

 

ジャイロが、小さく呟いた。

 

「ああ。どれだけ回しても、こいつはいつも同じほうを向く。北っていうんだ」

「きた」

「そう。ここでも、ゴミ山でも、もっと遠くの、外の世界でも。どこにいても、こいつは北を指す」

 

ジャイロの目が、針から離れなかった。

 

「そと」

「ああ。流星街の外。ずっと遠くに、知らない街がたくさんある」

 

ジャイロは、黙った。外というものを、この子は知らない。

生まれてから一度も、この飯場の柵の外に出たことがないのだと、アッシュはもう分かっていた。

 

「やるよ」

 

アッシュは、方位磁針をジャイロの手に乗せようとした。

ジャイロは、手を引いた。

 

「だめ」

「なんでだ」

「みつかる。もってたら、みつかる。……めいわく」

 

あの言葉だった。人に迷惑をかけるな。見つかれば、あの男の手を煩わせる。それは、この子にとって、何よりもしてはいけないことなのだ。

 

アッシュは少し考えて、便所の裏の壁を見回した。

古いレンガ積みの壁。下のほうに、一つだけ、モルタルが崩れて浮いているレンガがあった。

 

指をかけて引くと、レンガはあっけなく抜けた。

奥に、拳一つ分ほどの隙間がある。

 

「ここに置いとく」

 

アッシュは、方位磁針をその隙間に収めて、レンガを元に戻した。

外から見ても、何も分からない。

 

「お前のでも、俺のでもない。二人の物だ。ここにあるなら、誰にも見つからないし、誰にも迷惑はかからない」

 

ジャイロは、壁のレンガを見つめていた。

 

「見たくなったら、いつでも出していい。便所に来るついでに」

 

しばらくして、ジャイロが、ゆっくりと手を伸ばした。

浮いたレンガに、そっと指先で触れる。抜きはしなかった。

 

「いつか」

アッシュは言った。

「いつか、針の指すほうに行ってみよう。二人で」

ジャイロは答えなかった。

 

けれど、その夜、宿舎へ戻る前に、ジャイロはもう一度だけ、壁のレンガに触れていった。

 

夏が過ぎ、秋の終わりが近づく頃、アッシュはあることに気づいた。

昼間、廃材置き場の陰から飯場を覗いた時のことだ。

ジャイロの運び方が、変わっていた。

 

以前は、言われた通りに、一つの山から一つの場所へ、レンガを抱えて往復していた。

今は違う。

資材置き場から建物までの道筋に、レンガがいくつかの小さな山に分けて置かれている。ジャイロはそれを、決まった順番で、決まった数だけ運んでいく。

無駄な回り道が一つもない。

積み手の男たちが手を伸ばす先に、ちょうどレンガが置かれている。

 

積み手の一人が、首を傾げながら、それでも楽そうにレンガを積んでいた。

現場を仕切る監督らしい男が、腕を組んでその様子を眺め、それから、宿舎の前で煙草を吸っている大柄な男に何か声をかけた。

 

あの男は、ジャイロのほうを見もしなかった。

ただ、煙を吐いて、肩をすくめただけだった。

 

その夜、アッシュは便所の裏で聞いた。

 

「お前、レンガの運び方、変えたろ」

ジャイロは、少し考えてから頷いた。

「あそこから、あそこまで。まえは、まわりみち、してた。むだ」

 

言葉は、だいぶ滑らかになっていた。

まだ短く、ぶつ切りだが、言いたいことは正確に伝わってくる。

 

「さきに、ならべる。つむひとの、てのとどくところに。そうすると、はやい。つかれない。みんな」

 

アッシュは、思わずジャイロの顔を見た。

八歳の子どもが、誰にも教わらずに、自分で考えて行動をした。

自分が楽をするためではない。積み手の手元を見て、全体が速く回るように、自分の動きを決めている。大人の頭を持つアッシュから見ても、それは見事な段取りだった。

 

「すごいな、お前」

ジャイロが、首を傾げた。

「すごい?」

「……ああ、そうか。その言葉も、まだだったな」

 

アッシュは、少し言葉を探した。

 

「すごいっていうのは、誰かがいいことをした時に言う言葉だ。よくやった、ってことだ。褒める、っていうんだ」

 

「ほめる」

 

ジャイロは、その言葉を、口の中で何度か転がした。

 

「ほめる。……されたこと、ない」

 

平坦な声だった。悲しそうでも、寂しそうでもない。ただ事実を述べているだけの声。

それが、かえってアッシュの胸に刺さった。

 

監督は、あの男に声をかけていた。たぶん、ジャイロの働きぶりについてだ。

あの男は、肩をすくめただけだった。

 

「じゃあ、俺が最初だな」

アッシュは言った。

「よくやった、ジャイロ」

 

ジャイロは、何も言わなかった。

いつものように、決まった時間が来て、背を向けて宿舎へ戻っていった。

 

冬が、また来た。

爺さんの咳が、ぶり返した。去年よりも、ひどかった。

 

ある夜、アッシュは爺さんの背中をさすり続けて、小屋を出るのが遅くなった。

冷え切った瓦礫の上を、いつもよりずっと速く跳んで、飯場へ向かった。

 

間に合わない、と思った。ジャイロが便所に来る時刻は、とうに過ぎている。

決まった時間に、決まった通りに、あの子はもう上の段に戻っているはずだった。

 

便所の裏に着いた時、息が切れていた。

暗がりに、小さな影が立っていた。

ジャイロだった。

寒さで唇の色が変わっている。

足元の土に、何度も足踏みをした跡がある。決まった時間は、とっくに過ぎていた。

それでも、ジャイロはそこにいた。

 

「……アッシュ」

 

ジャイロが、言った。

アッシュが呼びかける前に。アッシュが名前を問う前に。

ジャイロのほうから、アッシュの名前を呼んだ。

 

「おそい」

「……悪い。爺さんの具合が、悪くて」

 

ジャイロは、アッシュの顔をじっと見た。それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。

 

笑った、と言えるほどのものではなかった。唇の端が、ほんのわずかに持ち上がっただけ。月明かりがなければ、見落としていただろう。

けれど、アッシュは確かに見た。

 

今まで話せなかった少年が、決まりを破って、寒い夜に、誰かを待っていた。

そして、その誰かが来たことに、ほんの少しだけ、顔を緩めた。

「まってた」

ジャイロはそれだけ言うと、壁の浮いたレンガに一度だけ触れて、宿舎へ駆け戻っていった。

走る背中を、アッシュは初めて見た。

決まっていることしかしなかった少年が、初めて、自分で決めて誰かを待った夜だった。

 

 

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