次の夜も、アッシュは共同便所の裏で待った。
男の子は、同じ時刻に、同じ足音で出てきた。
暗がりに立つアッシュを見ても、驚かなかった。
昨夜と同じように立ち止まり、同じように黙ってこちらを見た。
アッシュは、干した果物の包みを差し出した。
「迷惑じゃない」
男の子が、わずかに首を傾げた。
「俺が、渡したいだけだ。お前が受け取っても、誰も困らない。だから、迷惑じゃない」
言葉を一つずつ区切って、ゆっくりと言った。
七歳の口から出る理屈としては、妙に大人びていたかもしれない。
だが、この子には、そういう言い方でなければ届かない気がした。
男の子は、長いあいだ包みを見つめていた。
考えているのか、ただ見ているだけなのか、表情からは何も読めなかった。
やがて、ひび割れた手が伸びてきた。
包みを受け取ると、男の子はその場で布をほどき、干した果物の切れ端を、小さく、小さく齧った。
一口ごとに、ひどく時間をかけて噛む。
まるで、一欠片も無駄にしてはいけないと決められているかのように。
最後の一欠片を飲み込むと、男の子は包み布を丁寧に畳んで、アッシュに返した。
そして、何も言わずに宿舎へ戻っていった。
それから、夜ごとの短い時間が、二人のものになった。
男の子が便所に行って戻るまでの、ほんの数分。長くはいられない。
戻るのが遅れれば、あの男が気づくかもしれない。
男の子自身が、それを分かっているようだった。
いつも、決まった時間が来ると、話の途中でも黙って背を向けた。
その数分で、アッシュは言葉を教えた。
最初は、目に見えるものから始めた。
「月」
空を指差す。男の子が、空を見上げる。
「つ、き」
「そう。月」
「手」
自分の手を開いて見せる。男の子が、自分のひび割れた手を見下ろす。
「て」
「冷たい」
夜風に晒された指先を、男の子の手の甲にそっと当てる。
男の子は少しだけ身を引いて、それから、自分の指先で自分の手を触った。
「つめ、たい」
覚えが早かった。一度教えた言葉は、次の夜には正しく口にした。
二度教える必要は、ほとんどなかった。
この子は、言葉が分からないのではない。
言葉を使う機会を、一度も与えられなかったのだ。アッシュは、そう思った。
名前のない物は、ないのと同じだ。
この子の世界には、現場と、上の段のベッドと、共同便所しかなかった。
そのどれにも、名前を教えてくれる者はいなかった。
だから、一つずつ名前をつけていく。
月に。手に。冷たさに。
この子の世界に、少しずつ物を増やしていく。
ひと月が過ぎた頃には、男の子は短い言葉なら続けて話せるようになっていた。
「きょう、さむい」
「ああ、寒いな」
「レンガ、おもい。でも、はこぶ」
「重いのに、運ぶのか」
「はこぶ。きまってる」
決まっている。男の子は、その言葉をよく使った。
働くことも、ベッドの上の段にいることも、便所に行く時刻も、すべて「決まっている」ことだった。
誰が決めたのかを、男の子は一度も口にしなかった。
ある夜、アッシュはもう一度聞いた。
「お前、名前は」
最初の夜、男の子は答えなかった。何を聞かれているのか分からない顔をしていた。
今は、もう分かっているはずだった。
名前というものが、物に、人につけられるものだということを、
この数週間でアッシュは教えてきた。
男の子は、黙った。
いつもの、何も考えていないような沈黙ではなかった。
眉が、ほんのわずかに寄っている。
「……いちど、だけ」
男の子が、ゆっくりと言った。
「ねつ、でた。あつかった。ずっと、ねてた」
言葉を一つずつ、手探りで並べていく。
「そのとき、よばれた。いちど、だけ」
高い熱にうなされた夜。上の段のベッドで、意識が遠のいていた時。
額に濡れた布を当てながら、一度だけ口にした音。
男の子は、それを、ずっと覚えていたのだ。何年も。誰にも呼ばれないまま。
「……ジャイロ」
男の子が言った。
掠れた声だった。けれど、これまでのどの言葉よりも、はっきりとした音だった。
「ジャイロ」
アッシュは、繰り返した。
男の子の目が、わずかに見開かれた。
自分の名前を、他人の口から聞く。
それが、この子にとってどういうことなのか、アッシュには想像することしかできなかった。熱の夜以来、初めて。もしかしたら、生まれてから二度目に。
「俺は、アッシュだ」
自分の胸を指差す。
「灰の中から拾われたから、アッシュ。爺さんがつけた」
ジャイロは、アッシュの胸を見て、それから顔を見た。
「……アッシュ」
「そう」
「アッシュ」
もう一度。確かめるように。
そしてジャイロは、自分の胸に、そっと手を当てた。
「ジャイロ」
それだけ言って、ジャイロはいつものように背を向けた。
決まった時間が来ていた。宿舎へ戻っていく足取りは、いつもと変わらなかった。
だが、トタンの扉をくぐる直前、ほんの一瞬だけ、ジャイロは振り返った。
月明かりの中で、その顔に何が浮かんでいたのか、アッシュには見えなかった。
春が来て、爺さんの咳は少しだけ軽くなった。
アッシュはまた、ゴミ山の奥まで拾いに出られるようになった。
飯場へ通うのは、夜だけになった。
昼は爺さんと山を渡り、夜は共同便所の裏でジャイロを待つ。
それが、アッシュの日々の形になっていた。
ある日の昼、崩れかけた廃材の山の底で、アッシュは小さな金属の円盤を見つけた。
手のひらに収まるほどの、丸い蓋つきのケース。
蓋を開けると、ガラスに蜘蛛の巣のようなひびが走っていた。
その下で、細い針が、かすかに震えている。
方位磁針だった。
文字盤の塗料は剥げ、方角を示す文字もほとんど読めない。
それでも、ケースを傾けても、回しても、針はゆらゆらと揺れた後、必ず同じ方向を指して止まった。
前の世界でも、子どもの頃に、こういう物を持っていた気がする。
何に使ったのかは思い出せない。
ただ、針がいつも同じ方を向くのが不思議で、何度も回して遊んだ、そんな感覚だけが残っていた。
アッシュは、それを交換には出さなかった。
その夜、便所の裏で、アッシュは方位磁針をジャイロの前で開いて見せた。
「見てろ」
ケースをくるりと回す。針が揺れる。そして、止まる。
ジャイロが、じっと針を見つめた。
アッシュは、もう一度回した。今度は反対向きに。針は揺れて、また同じ方向を指した。
「……おなじ」
ジャイロが、小さく呟いた。
「ああ。どれだけ回しても、こいつはいつも同じほうを向く。北っていうんだ」
「きた」
「そう。ここでも、ゴミ山でも、もっと遠くの、外の世界でも。どこにいても、こいつは北を指す」
ジャイロの目が、針から離れなかった。
「そと」
「ああ。流星街の外。ずっと遠くに、知らない街がたくさんある」
ジャイロは、黙った。外というものを、この子は知らない。
生まれてから一度も、この飯場の柵の外に出たことがないのだと、アッシュはもう分かっていた。
「やるよ」
アッシュは、方位磁針をジャイロの手に乗せようとした。
ジャイロは、手を引いた。
「だめ」
「なんでだ」
「みつかる。もってたら、みつかる。……めいわく」
あの言葉だった。人に迷惑をかけるな。見つかれば、あの男の手を煩わせる。それは、この子にとって、何よりもしてはいけないことなのだ。
アッシュは少し考えて、便所の裏の壁を見回した。
古いレンガ積みの壁。下のほうに、一つだけ、モルタルが崩れて浮いているレンガがあった。
指をかけて引くと、レンガはあっけなく抜けた。
奥に、拳一つ分ほどの隙間がある。
「ここに置いとく」
アッシュは、方位磁針をその隙間に収めて、レンガを元に戻した。
外から見ても、何も分からない。
「お前のでも、俺のでもない。二人の物だ。ここにあるなら、誰にも見つからないし、誰にも迷惑はかからない」
ジャイロは、壁のレンガを見つめていた。
「見たくなったら、いつでも出していい。便所に来るついでに」
しばらくして、ジャイロが、ゆっくりと手を伸ばした。
浮いたレンガに、そっと指先で触れる。抜きはしなかった。
「いつか」
アッシュは言った。
「いつか、針の指すほうに行ってみよう。二人で」
ジャイロは答えなかった。
けれど、その夜、宿舎へ戻る前に、ジャイロはもう一度だけ、壁のレンガに触れていった。
夏が過ぎ、秋の終わりが近づく頃、アッシュはあることに気づいた。
昼間、廃材置き場の陰から飯場を覗いた時のことだ。
ジャイロの運び方が、変わっていた。
以前は、言われた通りに、一つの山から一つの場所へ、レンガを抱えて往復していた。
今は違う。
資材置き場から建物までの道筋に、レンガがいくつかの小さな山に分けて置かれている。ジャイロはそれを、決まった順番で、決まった数だけ運んでいく。
無駄な回り道が一つもない。
積み手の男たちが手を伸ばす先に、ちょうどレンガが置かれている。
積み手の一人が、首を傾げながら、それでも楽そうにレンガを積んでいた。
現場を仕切る監督らしい男が、腕を組んでその様子を眺め、それから、宿舎の前で煙草を吸っている大柄な男に何か声をかけた。
あの男は、ジャイロのほうを見もしなかった。
ただ、煙を吐いて、肩をすくめただけだった。
その夜、アッシュは便所の裏で聞いた。
「お前、レンガの運び方、変えたろ」
ジャイロは、少し考えてから頷いた。
「あそこから、あそこまで。まえは、まわりみち、してた。むだ」
言葉は、だいぶ滑らかになっていた。
まだ短く、ぶつ切りだが、言いたいことは正確に伝わってくる。
「さきに、ならべる。つむひとの、てのとどくところに。そうすると、はやい。つかれない。みんな」
アッシュは、思わずジャイロの顔を見た。
八歳の子どもが、誰にも教わらずに、自分で考えて行動をした。
自分が楽をするためではない。積み手の手元を見て、全体が速く回るように、自分の動きを決めている。大人の頭を持つアッシュから見ても、それは見事な段取りだった。
「すごいな、お前」
ジャイロが、首を傾げた。
「すごい?」
「……ああ、そうか。その言葉も、まだだったな」
アッシュは、少し言葉を探した。
「すごいっていうのは、誰かがいいことをした時に言う言葉だ。よくやった、ってことだ。褒める、っていうんだ」
「ほめる」
ジャイロは、その言葉を、口の中で何度か転がした。
「ほめる。……されたこと、ない」
平坦な声だった。悲しそうでも、寂しそうでもない。ただ事実を述べているだけの声。
それが、かえってアッシュの胸に刺さった。
監督は、あの男に声をかけていた。たぶん、ジャイロの働きぶりについてだ。
あの男は、肩をすくめただけだった。
「じゃあ、俺が最初だな」
アッシュは言った。
「よくやった、ジャイロ」
ジャイロは、何も言わなかった。
いつものように、決まった時間が来て、背を向けて宿舎へ戻っていった。
冬が、また来た。
爺さんの咳が、ぶり返した。去年よりも、ひどかった。
ある夜、アッシュは爺さんの背中をさすり続けて、小屋を出るのが遅くなった。
冷え切った瓦礫の上を、いつもよりずっと速く跳んで、飯場へ向かった。
間に合わない、と思った。ジャイロが便所に来る時刻は、とうに過ぎている。
決まった時間に、決まった通りに、あの子はもう上の段に戻っているはずだった。
便所の裏に着いた時、息が切れていた。
暗がりに、小さな影が立っていた。
ジャイロだった。
寒さで唇の色が変わっている。
足元の土に、何度も足踏みをした跡がある。決まった時間は、とっくに過ぎていた。
それでも、ジャイロはそこにいた。
「……アッシュ」
ジャイロが、言った。
アッシュが呼びかける前に。アッシュが名前を問う前に。
ジャイロのほうから、アッシュの名前を呼んだ。
「おそい」
「……悪い。爺さんの具合が、悪くて」
ジャイロは、アッシュの顔をじっと見た。それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
笑った、と言えるほどのものではなかった。唇の端が、ほんのわずかに持ち上がっただけ。月明かりがなければ、見落としていただろう。
けれど、アッシュは確かに見た。
今まで話せなかった少年が、決まりを破って、寒い夜に、誰かを待っていた。
そして、その誰かが来たことに、ほんの少しだけ、顔を緩めた。
「まってた」
ジャイロはそれだけ言うと、壁の浮いたレンガに一度だけ触れて、宿舎へ駆け戻っていった。
走る背中を、アッシュは初めて見た。
決まっていることしかしなかった少年が、初めて、自分で決めて誰かを待った夜だった。