転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
小さな卓の前で、黒髪の少年が、丸太のような腕の大男と組み合っていた。
大男の顔が、真っ赤に膨れ上がっている。全身の力を、腕の一点に込めていた。少年のほうは、涼しい顔だった。少しだけ眉を寄せて、相手の力を、真正面から受け止めている。
それから、ぱたん、と。
大男の手の甲が、卓に押しつけられていた。
人だかりが、どっと沸いた。大男が、信じられないという顔で、自分の腕と、少年の顔を見比べている。
「はい、次の挑戦者! 誰か、この坊主に勝てるやつはいねえのか!」
スーツの若い男が、手を叩いて叫んだ。
アッシュは、人だかりの後ろから、少年を見ていた。
ゴンだった。
天空闘技場で会った時よりも、少しだけ背が伸びていた。三角巾は、もう取れている。凝で見るまでもなかった。少年の腕を、オーラが、厚く、まっすぐに包んでいた。闘技場の頃とは、比べものにならない。この数か月で、どれほど鍛えたのだろう。
「あれ」
人だかりの端から、声がした。
「闘技場のおっさんじゃん」
振り返ると、銀髪の少年が、露店の柱にもたれて立っていた。片手に、どこかで買ったらしい菓子の袋を提げている。
キルアだった。
「……よう」
「よう、じゃねーよ。なんでこんなとこにいんの」
「仕事だ」
「ふーん」
キルアは、菓子を一つ口に放り込みながら、アッシュを上から下まで眺めた。
「相変わらず、纏、地味だな」
「お前の目が良すぎるんだ」
「ゴン!」
キルアが、卓の方へ声をかけた。
「闘技場のおっさん来てるぞ!」
ゴンが、ぱっと顔を上げた。人だかりの向こうにアッシュの姿を見つけて、目を輝かせる。
「あ、アッシュさん!」
大きく手を振った。人だかりが、一斉にアッシュの方を振り返る。アッシュは、少しだけ顔をしかめた。
「なんだ、知り合いか?」
スーツの若い男が、アッシュの方へ歩いてきた。背が高く、丸い眼鏡をかけている。年は、二十歳前後だろうか。人懐っこそうな顔に、どこか抜け目のない笑みを浮かべていた。
「ゴンとキルアの知り合いってことは、あんたも腕っぷしには自信があるんだろ? どうだ、一勝負。挑戦料は一万ジェニー。ゴンに勝てたら、この宝石は丸ごとあんたのもんだ」
「レオリオ、アッシュさんはお客さんじゃないよ」
「お客さんじゃねえやつは、この世にいねえんだよ、ゴン」
レオリオと呼ばれた男は、悪びれもせずに言って、卓の前の椅子を引いた。
アッシュは、少し迷ってから、一万ジェニーを卓の上に置いた。
「お、話が早え!」
ゴンの向かいに座る。少年の手のひらが、アッシュの手のひらを、しっかりと握った。小さな手だった。それなのに、握った瞬間に分かった。この手は、岩を握り潰せる。
「よーい」
レオリオの声で、ゴンの腕に、力がこもった。
重かった。
念を使わずに受け止めるには、重すぎた。アッシュは、纏の下に隠していた力を、ほんの少しだけ腕に回した。それでようやく、ゴンの腕が止まった。
卓の上で、二人の腕が、ぴたりと静止した。
人だかりが、ざわめいた。今まで、誰もゴンの腕を止められなかったのだ。
ゴンが、目を丸くした。
それから、嬉しそうに、にっと笑った。腕に、さらに力がこもる。
アッシュは、その力を、真正面から受け止めた。
そして、ほんの少しだけ、力を抜いた。
ぱたん、と。
アッシュの手の甲が、卓に押しつけられていた。
「勝者、ゴン!」
レオリオが、嬉々として一万ジェニーを懐に入れた。
ゴンは、勝ったのに、少しだけ不満そうな顔をしていた。
「……アッシュさん、今、わざと負けたでしょ」
「強くなったな、ゴン」
アッシュは、それだけ言って、立ち上がった。
露店を畳んだ後、四人は、近くの公園の長椅子に腰を下ろした。
レオリオが、屋台で買ってきた串焼きを配った。
ゴンは嬉しそうにかぶりつき、キルアは文句を言いながら一番大きいのを取った。
「で、おっさん、仕事って何」
キルアが、串を咥えたまま聞いた。
「お前らこそ、なんでこの街で腕相撲なんかしてる」
「金がいるんだよ。それも、とんでもねえ額の」
レオリオが、肩をすくめて答えた。
「グリードアイランドっていうゲームを、競売で落としたいんだ。ゴンの親父の手がかりが、そのゲームの中にあるらしくてな。最低でも、何十億って値がつくって話だ」
「何十億……」
「だから、腕相撲なんかじゃ、とても足りねえ」
レオリオは、懐から、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
手配写真だった。七枚の顔が、並んでいる。
「で、こいつらだ」
アッシュの手が、止まった。
「昨日、十老頭が懸賞金をかけた連中だ。一人捕まえりゃ、億単位の金が入る。七人全員なら、グリードアイランドだって」
「やめとけ」
アッシュの声は、自分でも驚くほど、強かった。
三人が、一斉にアッシュを見た。
「昨日の夜、荒野で、マフィアの陰獣が全滅した。十人全員だ。俺は、そのうちの一人と、去年、戦ったことがある。地面の下を泳ぐ男だった。俺は、そいつ一人を相手に、逃げることしかできなかった」
アッシュは、手配写真を指差した。
「その男を、こいつらは、一晩で片づけた。」
公園に、短い沈黙が落ちた。
レオリオが、唾を飲み込む音がした。キルアは、串を咥えたまま、黙ってアッシュの顔を見ていた。
「でも」
ゴンが、口を開いた。
「やるよ」
まっすぐな目だった。迷いが、一つもない。
「ジンに会いたいんだ。そのためには、グリードアイランドがいる。だから、やる」
アッシュは、その目を見つめた。
止めるべきだ、と思った。こんな子どもたちが、手を出していい相手ではない。昨夜、気球の籠から溢れ出していたオーラを、この子たちは知らない。
けれど、同時に、頭の奥で、霧の向こうの何かが、かすかに囁いていた。
釣り竿の少年。父親を探して、ハンターになる話。物語の、主人公。
この子は、ここで死なない。たぶん。
確信では、なかった。霧は厚く、物語のこの先で何が起きるのか、アッシュには、ほとんど何も見えていなかった。ただ、物語の主人公が、こんなところで終わるはずがない。そんな、頼りない予感があるだけだった。
それを、言い訳にしていいのか。
アッシュは、自分の中の、その予感が嫌だった。この子たちを、物語の登場人物として見ている自分が。止めない理由を、物語に預けている自分が。
それでも、力ずくで止めることは、できなかった。止めたところで、この子は、一人ででも行くだろう。そういう目をしていた。
「……分かった」
アッシュは、息を吐いた。
「なら、一つだけ約束しろ」
「なに?」
「見つけても、手は出すな。顔を確かめて、居場所を掴んだら、それで引け。追いかけるなら、自分の気配を、完全に消せ。少しでも漏れたら、気づかれる。気づかれたら、終わりだ」
ゴンは、少し考えて、それから、こくりと頷いた。
キルアが、ようやく串を口から離した。
「おっさんは? 仕事って、まさか」
「ああ」
アッシュは、手配写真をレオリオに返した。
「俺も、こいつらを追ってる」
「……なんだよ。ライバルじゃん」
キルアは、呆れたように言った。けれど、その目は、少しだけ、ほっとしているように見えた。
ゴンとキルアが、屋台へ追加の串焼きを買いに走っていった後、長椅子には、アッシュとレオリオだけが残った。
レオリオは、しばらく黙って、アッシュの手元を見ていた。
「あんた、その左腕」
「……ん」
「袖から、傷跡が見えてる。結構深いやつだろ、それ。縫った跡が、雑だ」
アッシュは、自分の左腕を見下ろした。去年、港の倉庫で、鎖の男の鉤爪に食い込まれた傷だった。その夜、安宿で、酒をぶっかけて、裁縫用の針で自分で縫った。
「自分で縫った。医者じゃない」
「だろうな。ちゃんと縫ってりゃ、そんなに引きつらねえ。ちょっと、見せてみろ」
レオリオは、有無を言わさずアッシュの袖をまくり上げた。傷跡を指でなぞり、腕を軽く曲げさせ、肘の動きを確かめる。手つきが、驚くほど慣れていた。
「……医者なのか」
「目指してる」
レオリオは、傷跡から目を離さずに言った。
「ハンターになったのも、そのためだ。ハンターのライセンスがありゃ、医大の学費がただになる。国によっちゃ、免許の取り方も変わる。金持ちしか通えねえ学校にも、入れる」
「金のためか」
「ああ、金のためだ」
レオリオは、あっさりと認めた。それから、少しだけ、声の調子が変わった。
「昔、ダチが病気で死んだ。治せる病気だった。医者に診せる金がなかった。それだけの理由で死んだ」
アッシュは、黙っていた。
「だから、医者になって、金のねえやつを、ただで診てやるんだ。どんな貧乏人でも、どこの誰でもな」
「……どこの誰でも、か」
アッシュは、少し間を置いてから、聞いた。
「存在しない人間でも、か」
「存在しない人間?」
「生まれた記録も、親の記録も、どこにもない人間だ。どこにも、名前が載ってない。そういうやつが、お前のところに、病気になって来たら」
レオリオは、眉をひそめた。
何を聞かれているのか、少し考えるような顔をした。
それから、当たり前のことを聞くなという顔で、言った。
「診るに決まってんだろ。病気に、身分なんか関係あるか」
アッシュは、思わず、少しだけ笑った。
爺さんの咳を思い出した。薬になりそうなものを探して、ゴミ山を歩き回った冬。医者など、どこにもいなかった。いたとしても、流星街の人間を診てくれる医者など、いなかっただろう。
「……いい医者になれ」
「言われなくても、なるよ」
レオリオは、アッシュの袖を下ろして、ぽんと腕を叩いた。
「その傷、無理に動かすなよ。筋が一本、引きつったまま固まってる。今度、ちゃんとした医者に診てもらえ。……俺が医者になったら、俺が診てやってもいいけどな。ツケにしといてやるよ」
屋台の方から、ゴンとキルアが、両手に串焼きを抱えて戻ってくるのが見えた。
日が傾き始めた頃、アッシュは長椅子から立ち上がった。
「もう行くの?」
ゴンが、串焼きの最後の一本を頬張りながら聞いた。
「ああ。仕事だ」
「旅団?」
「……ああ」
ゴンは、少しだけ心配そうな顔をした。それから、にっと笑った。
「アッシュさんも、気をつけてね」
「お前に言われたくない」
レオリオが、手を振った。ゴンも、大きく手を振った。
アッシュは、軽く片手を上げて、公園の出口へ向かった。
公園の門を出たところで、背後から、足音が追いついてきた。
キルアだった。
ポケットに手を突っ込んで、アッシュの隣に並ぶ。何も言わずに、しばらく一緒に歩いた。
「……おっさん」
「なんだ」
「さっきの話。陰獣と戦ったって」
キルアは、前を向いたまま言った。
「おっさんが、逃げることしかできなかった相手を、旅団は一晩で片づけた。それ、分かってて、追いかけるんだよな」
「ああ」
「なんで」
アッシュは、少しだけ考えた。
「許せない連中だからだ」
「それだけ?」
「それと、あいつらを捕まえれば、俺が探してるものに、手が届くかもしれない」
「探してるもの……昔の友達?」
アッシュは、足を止めた。
キルアも、足を止めた。それから、ようやくアッシュの方を見た。夕陽が、銀色の髪を、橙色に染めていた。
「闘技場で、言ってたじゃん。ずっと探してるって」
「……覚えてたのか」
「別に。たまたまだよ」
キルアは、またそっぽを向いた。
アッシュは、少しだけ笑った。それから、真顔に戻って、キルアを見下ろした。
「キルア」
「なに」
「ゴンは、止まらないだろう。あいつは、そういうやつだ」
「……知ってるよ」
「だから、お前が見てろ。あいつが突っ込みすぎたら、お前が止めろ。止められなかったら、隣にいてやれ」
キルアは、何も言わなかった。けれど、その横顔が、ほんの少しだけ、強張った。
「死ぬなよ。二人とも」
「……おっさんもな」
キルアは、それだけ言うと、くるりと背を向けて、公園の方へ走って戻っていった。
アッシュは、その背中を見送ってから、また歩き出した。
日が沈みかけていた。街の外れの方角へ。仲介屋から聞いた、廃ビルのある方へ。
小柄な男と、ジャージ姿の大男。写真にない顔。
アッシュは、外套の襟を立てた。
夜が、来ようとしていた。