転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
解体途中で放置された雑居ビルの前に、黒塗りの車が三台、乗り捨てられていた。ドアは開いたまま。エンジンはまだ温かい。
アッシュは車の脇にしゃがみ、アスファルトに残る靴跡を見た。七人分。どれも同じ方向、ビルの中へ向かっている。出てきた足跡は一つもない。
「……遅かったか」
目撃情報が流れたのは一時間前だった。旅団の団員らしき二人組が、この廃ビルに出入りしている。マフィアの情報網に乗ったその噂に、懸賞金目当てのハンターたちが一斉に飛びついた。アッシュも、その一人だった。
目的は懸賞金ではない。旅団の首を一つでも持っていけば、マフィアの上層部に顔が利く。そうすれば、あの麻薬の流れの奥へ手が届く。ジャイロへの道が、少しだけ近くなる。
そのはずだった。
手配写真の七つの顔を、頭の中に並べた。眠たげな眼鏡の女。口元を襟で隠した小柄な男。縫い目の傷の男。刀の男。人懐っこい顔の若い男。闘技場ですれ違った女。獅子のたてがみの大男。
仲介屋の話では、この廃ビルに出入りしていたのは、小柄な男と、写真にないジャージ姿の大男だった。
クルタ族、百二十八人。子どもも、全員。
この連中の誰かが、それをやった。
アッシュはビルの入り口をくぐった。
一階は暗い。崩れた天井から月明かりが差し込み、コンクリートの粉塵が白く浮かんでいる。そして、その粉塵の中に、人が倒れていた。
一人目は、入り口から数歩のところ。
首が、ありえない角度に曲がっている。二人目は、壁にめり込んでいた。殴り飛ばされて、そのまま壁と一体になったように。三人目、四人目。階段の踊り場まで、点々と続いている。
誰も武器を抜けていない。抵抗した跡すらない。
念能力者が、少なくとも数人は混じっていたはずだ。懸賞金の額を考えれば、それなりの腕の者が来ていた。それが、この有様だった。
二階へ上がる。
フロアの中央に、柱が一本だけ残った広い空間があった。窓ガラスはすべて割れ、夜風が吹き抜けている。その風の中に、男が二人いた。
一人は、ジャージ姿の大柄な男。眉が薄く、退屈そうに首を回している。足元に、最後のハンターが転がっていた。
もう一人は小柄だった。黒い服に、口元まで覆う襟。手に、閉じた傘を一本提げている。窓枠に腰かけ、夜の街を見下ろしていた。
大柄な男が、アッシュに気づいた。
「お、まだいたのか」
声に緊張はなかった。道端で知り合いに会った程度の調子だ。
「八人目。こいつらの仲間か?」
「仲間じゃない。同業者だ」
「ふーん。じゃあ、同じだな」
男が、こちらへ一歩踏み出した。それだけで、床の粉塵が舞い上がった。
窓枠の小柄な男が、ようやくこちらを見た。細い目だった。何の感情も浮かんでいない。人を見る目ではなく、地面の染みを見るような目。
アッシュは、二人の顔を見た。
小柄な男の顔は、手配写真の二枚目と同じだった。口元を襟で隠した、目の細い男。ジャージの男は、写真にない顔だった。
どちらも、見覚えのない顔だった。
幻影旅団。クルタ族を皆殺しにした連中。
今、目の前にいるのは、それだけだった。
考える時間はなかった。
二人同時に相手をするのは、分が悪い。それだけは、一目で分かった。足元に転がる七人が、その証拠だった。
アッシュは膝を落とし、床に拳を叩きつけた。
念を込めた一撃。コンクリートの床が砕け、砕けた塊が浮き上がる。浮いた瓦礫が互いに引き寄せられ、組み合わさり、人の形をとる。肩の高さほどの、不格好な石の人形が二体。
命令は一つ。近づく者に組みつけ。
「へえ」
大柄な男が、面白そうに眉を上げた。
二体の人形が、左右に分かれて駆け出す。一体は大柄な男へ。
もう一体は、窓枠の小柄な男へ。
次の瞬間、窓枠の男の姿が消えた。
消えた、としか言えなかった。凝で目を凝らしていたのに、動き出しすら見えなかった。気づいた時には、小柄な男は人形の背後に立っていて、人形はゆっくりと斜めにずれ、上半身と下半身に分かれて崩れ落ちた。
傘は、閉じたままだった。何で斬ったのかすら分からない。
もう一体の人形が、大柄な男に組みつこうと両腕を広げる。男は避けもしなかった。ただ、無造作に右の拳を突き出した。
人形の胸に、拳がめり込む。そして、人形が丸ごと爆ぜた。
砕けるのではない。爆ぜる。石の塊が粉になり、フロア中に飛び散った。軽く突いただけの拳で。
「なんだこれ。脆いな」
男は拳についた粉を払い、つまらなそうに言った。
「フィンクス、遊ぶな。さっさと終わらせるね」
「わーってるよ、フェイタン。お前こそ、一人で全部持っていくなよ」
フィンクス。フェイタン。
名前を聞いても、記憶は何も答えなかった。手配書にもなかった名前だ。前世の霧の向こうにも、何も引っかからない。
ただ、二人の呼び合う声の調子が、なぜか懐かしかった。ゴミ山の子どもたちも、こんなふうに互いを呼んでいた。乱暴で、ぶっきらぼうで、それでいて妙に馴れた声で。
アッシュは頭を振って、その考えを追い払った。
人形は時間稼ぎにすらならなかった。二秒。いや、一秒もたなかったかもしれない。
だが、無駄ではなかった。
フロアには今、人形だったものの破片が散らばっている。床にも、壁際にも、二人の足元にも。念を込めたまま砕かれた瓦礫は、まだアッシュの命令を覚えている。
アッシュは指を鳴らした。
散らばった破片が、一斉に浮き上がった。数十の礫が、二人を取り囲むように宙に止まる。
「お」
フィンクスが目を丸くした。
礫が撃ち出される。四方から、時間差をつけて。狙いは急所ではない。足元、膝、肩。動きを縛るための弾幕だ。
フェイタンは、ほとんど動かなかった。傘を半分だけ開き、それを盾のように回す。礫が傘に当たり、乾いた音を立てて弾かれていく。一発も届かない。
フィンクスは、そもそも防がなかった。礫が肩に当たり、膝に当たり、そして砕けた。ジャージの布が少し破れただけで、肌には傷ひとつない。
「いてっ。……いや、痛くねーわ」
笑いながら、フィンクスが首を鳴らした。
アッシュは、静かに息を吐いた。
天空闘技場の賞金首とは、まるで違う。速さも、硬さも、戦い慣れの度合いも、間違いなく一流だ。ブラックリストの上位に名を連ねる連中とは、何度もやり合ってきた。その中でも、この二人は上から数えたほうが早い。
一人ずつなら、勝てる。
だが、二人同時となると話は別だ。勝てたとしても、無事では済まない。アッシュは構えを取り直した。まずは、どちらか一人を自分の間合いに引きずり込む。
「フェイ、こいつは俺がやる。お前は見てろ」
「好きにするね」
フェイタンは窓枠に戻り、また腰を下ろした。傘を膝に立て、退屈そうに頬杖をつく。
フィンクスが、右腕を回し始めた。
肩を軸にして、ぐるりと一回。ぐるりと二回。準備運動のような、のんびりした動き。
アッシュは目に念を集めた。
凝。
腕が一回転するたびに、拳を包むオーラが濃くなっていく。回るほどに、重く、厚く、膨れ上がる。まるで、回転そのものを拳に溜め込んでいるように。
どういう能力なのかは分からない。回数に上限があるのか、溜めた分だけ威力が増すのか。
回せば回すほど危険になる拳。そして、回すための時間と距離を必要とする拳。
なら、回させなければいい。
三回目の回転が終わる前に、アッシュは床を蹴った。
一足で間合いを潰す。フィンクスの目が、わずかに見開かれた。腕を回すには、肩の周りに空間がいる。懐に入られれば、その空間はなくなる。
アッシュの左の掌底が、回りかけた右肩を正面から押さえ込んだ。
――遅れろ。
回転が、肩の付け根で引っかかる。フィンクスの右腕が一拍遅れ、溜まりかけたオーラが霧散した。
その一拍に、右の膝を脇腹へ叩き込む。
鈍い手応え。分厚い筋肉の壁。だが、通った。フィンクスの上体がわずかに折れる。
「ぐっ……!」
フィンクスが左の拳を振り下ろしてくる。回転なしの、素の打撃。それでも並の念能力者なら一撃で沈む威力だ。アッシュは前腕で受け、受けた瞬間に手首を返して、その左腕の肘を掴んだ。
また、ひとつまみ。
殴る、受ける、触れる。肩に、肘に、脇腹に、膝に。打ち合うたびに、アッシュの念がフィンクスの体に染み込んでいく。触れた場所の数だけ、命令を通せる場所が増えていく。
フィンクスが跳び退がった。距離を取って、腕を回し直そうとする。
アッシュは追わなかった。代わりに、足元の床を蹴り砕いた。跳ね上がった破片を、そのままフィンクスの右肩へ撃ち込む。威力はいらない。回転を始めた瞬間に、そのリズムを叩いて崩せればいい。
礫が肩を打ち、一回転目がぶれる。フィンクスが舌打ちして、回し直す。その一瞬で、アッシュはもう懐にいた。
「てめえ……っ!」
打撃戦になれば、アッシュの間合いだった。
ブラックリストハンターとして、何年も裏社会の殺し屋や傭兵と殴り合ってきた。念の大きさや技の派手さで勝てない相手は、いくらでもいた。そういう相手を、触れて、ずらして、崩して、一人ずつ地面に這わせてきた。その積み重ねが、今のアッシュの体術だった。
フィンクスの拳は重い。一発でもまともに貰えば、骨が持っていかれる。だから、まともには貰わない。肩で流し、肘で逸らし、そのたびに触れる。
フィンクスの右肩に、触れた回数が六つ目を数えた時、アッシュは命令を変えた。
――止まれ。
右肩が、凍りついた。
一拍ではない。二秒。積み上げた念の分だけ、フィンクスの右腕が、肩から先ごと動かなくなる。
「なっ……」
フィンクスが、初めて本気で驚いた顔をした。
がら空きになった右の顎へ、アッシュは全身のオーラを乗せた拳を叩き込んだ。
乾いた衝撃音が、フロアに響いた。
フィンクスの巨体が、横に揺らいだ。踏ん張った足が床を削り、二歩、三歩とよろめく。膝が、落ちかけた。
落ちなかった。
フィンクスは片膝をつく寸前で踏みとどまり、口の端から垂れた血を、動くほうの手の甲で拭った。そして、笑った。
「……はは。おもしれえ」
顎への一撃をまともに受けて、まだ立っている。まだ笑っている。硬い。呆れるほど硬い。だが、効いていないわけではない。膝が、わずかに震えていた。
「触ったとこを、止めんのか。止める長さは、触った回数か、込めた量か。……どっちにしろ、殴り合いじゃ分が悪いってことかよ」
数度触れられただけで、ほぼ見抜かれた。頭も回る。それでも、見抜いたところで、この男の戦い方は変えようがない。腕を回すには間合いがいる。殴るには触れられる距離に来るしかない。フィンクスの強さそのものが、アッシュの能力と噛み合ってしまっている。
あと一手。もう一度、懐に入れれば。
アッシュが踏み込もうとした、その時だった。
「フィンクス」
窓枠から、平坦な声がした。
「押されてるね」
フェイタンが、立ち上がっていた。
「うるせえ、まだやれる」
「知ってるよ。でも、遅いね」
傘が、ゆっくりと開いた。
来る、と思った時には、もう目の前にいた。
開いた傘の影から、刃が走る。柄に仕込まれた細身の剣。狙いは首。
アッシュは見ていた。速い。フィンクスとは比べものにならない速さだ。だが、見えている。腕に硬を集め、前腕で刃の腹を叩いて逸らす。火花が散った。
逸らした勢いのまま、右の拳を返す。フェイタンの脇腹へ。
拳が届く寸前、その体が消えた。半歩横。拳は空を切り、代わりに傘の縁がアッシュの視界を覆う。その陰から、二の太刀。
首を捻って躱す。左の蹴りを返す。フェイタンは傘の柄で受けた。蹴りが当たったのは、布と骨組みだけだった。
「触られなければ、いいね」
フェイタンが、静かに言った。
それからの攻防は、奇妙なものになった。
アッシュが打つ。フェイタンは避けるか、傘で受ける。決して肌では受けない。フェイタンが斬る。アッシュは前腕で、肘で、膝で刃を逸らし、逸らした流れで打ち返す。また避けられる。また斬られる。
互角だった。
速さではフェイタンが上。だが打撃の重さと、間合いの読みではアッシュが上だった。刃は皮一枚で止まり、拳は髪一本で外れる。どちらも決め手がない。
ただ、アッシュには見えていた。
フェイタンは、触れられないために、常に一定以上の距離を保っている。保つためには、動き回れる空間がいる。アッシュは打ち合いながら、少しずつ床を砕き、破片を宙に浮かせていった。フェイタンの退路に、一つ、また一つ。
空間が、狭まっていく。
時間はかかる。だが、このまま続ければ、いずれフェイタンは避ける場所を失う。その時が、触れる時だ。苦しい戦いになる。それでも、勝てる。
そう確信しかけた時、背後で床が鳴った。
右肩の凍結が解けたフィンクスが、腕を回していた。
「待たせたな、フェイ」
二対一。
そこから、戦いの形が変わった。
フィンクスが正面から殴りかかってくる。受ければ触れられる。だから、フィンクスは構わず殴ってくる。触れられて止められても、その一瞬はフェイタンが埋めるからだ。
アッシュがフィンクスの拳を受けて肘に触れた瞬間、背中に冷たいものが走った。浅い。だが、確かに斬られた。
フェイタンの刃を逸らせば、フィンクスの拳が脇腹をかすめる。かすめただけで、肋骨が軋んだ。嫌な音がした。
一人ずつなら、触れて、ずらして、崩せる。二人だと、触れた瞬間に、もう一方が死角から来る。アッシュの能力は、相手に一瞬の隙を作る能力だ。その一瞬を、相手の味方に埋められてしまえば、意味がない。
頬が裂けた。肩口が裂けた。左の脇腹が、呼吸のたびに痛む。
それでも、アッシュは倒れなかった。
フィンクスの拳を流しながら、その左膝に、念を叩き込む。込められるだけ。
――止まれ。
フィンクスの左脚が床に縫いつけられ、突進の勢いのまま、巨体が横に流れた。その先に、フェイタンがいた。
フェイタンが、飛び込んでくる仲間の体を避けて跳ぶ。その一瞬、軌道が読めた。
アッシュは、浮かせていた礫を、その着地点へ撃ち込んだ。
乾いた音。礫の一つが、傘の縁をすり抜けた。
フェイタンが着地する。その頬に、細い赤い線が一本、走っていた。
礫がかすめただけの、ほんの小さな傷。血が一筋、顎まで垂れる。
フェイタンが、指でその血を拭った。指先を見つめる。
そして、空気が変わった。
凝で見なくても分かった。フェイタンのオーラの質が、変わっていく。
何が起きているのか、アッシュには分からなかった。この男の能力など、何一つ知らない。
ただ、体が先に理解していた。
この男を、これ以上中途半端に傷つけてはいけない。やるなら、一撃で終わらせるしかない。
理屈ではなかった。流星街で、飢えた野犬の群れに出くわした時と同じ感覚だった。手負いにした瞬間に、本当の牙を剥く相手がいる。
「フェイ」
床から脚を引き剥がしたフィンクスの声が、さっきまでと違った。
「こんなとこでやめとけ。ビルごと吹っ飛ぶぞ。俺まで巻き込む気か」
「……かすり傷ね。この程度じゃ、何もできないよ」
フェイタンの声は平坦だった。だが、その目だけが、さっきまでとは違う色をしていた。
アッシュは、構えたまま二人を見た。
息が上がっている。肋骨は、たぶん一本折れている。背中の傷から、血が止まらない。オーラも、半分以上を使った。
勝ち筋は、まだある。フィンクスの体には、まだ自分の念が残っている。フェイタンの退路も、半分は塞いだ。二人がかりでも、刺し違える覚悟なら、どちらか一人は確実に落とせる。うまくいけば、二人とも。
だが、その代わりに、腕一本では済まないだろう。
フェイタンが、アッシュの顔を見た。
「なぜ攻めないか」
「…………」
「怖がってるか。それとも、何か知ってるか」
知らない。この男の底にあるものが何なのか、何一つ知らない。前世の記憶があれば、分かったのかもしれない。だが、霧の向こうには、何もなかった。
アッシュは、ただ自分の体の警告と、まだ残っている勝ち筋を天秤にかけながら、立っていた。
フェイタンが、傘を閉じた。
「まあいいね。知ってても知らなくても、死ぬのは同じよ」
刃が来た。今度は、削るためではない。首を落とすための一閃。
アッシュは跳んだ。
後ろへではなく、上へ。そして、空中に浮かせていた礫の一つを、足場にした。
念で宙に固定した瓦礫を踏み、さらに跳ぶ。次の瓦礫へ。また次へ。床に足をつけないまま、フロアの空中を斜めに駆け上がっていく。刃が、さっきまでアッシュの首があった空間を薙いだ。
去年の秋、採石場で、蚯蚓の手から逃れるために編み出した技だった。地面に立っていられない時のための、手札の一つ。
だが、足場から足場へ渡っていく、その足の運び方だけは、体に染みついた癖だった。
ゴミ山では、地面を歩くのは危なかった。割れたガラス、錆びた釘、崩れかけた廃材。だから子どもたちは、積み上がった瓦礫の上を、跳んで渡った。足場から足場へ。一度も地面に降りずに、山の端から端まで。
アッシュは、それが一番うまかった。小さな子どもたちが、目を輝かせて真似をした。転んで泣く子の手を引いて、もう一回、と言わせた。
天井近くの瓦礫に着地して、アッシュは下を見た。
フィンクスが、動きを止めていた。
腕を回すのも忘れて、口を半開きにして、アッシュを見上げていた。
「……おい」
声が、少しかすれていた。
「その跳び方。お前、まさか」
フィンクスの目が、アッシュの顔を確かめるように動く。そして、何かに行き当たった。
「ゴミ山の、兄ちゃんか。パン分けてくれてた、あの」
フェイタンも、刃を下ろしていた。細い目が、わずかに見開かれている。
アッシュは、答えられなかった。
ゴミ山の、兄ちゃん。
その一言で、二十年分の霧が、一度に晴れた。
瓦礫の上で、何度落ちても登ってきた、眉の薄い、口の減らない子。うっせえ、次は兄ちゃんより速く渡ってやらあ。一度も跳ばずに足元だけを見続けて、最後に一度で渡りきった、目の細い、無口な子。ゴミ山を王国だと言い張る、あの大きな王様の、二人の手下。
目の前の、ジャージの大男と、傘の男が。
あの子たちだった。
あの痩せた子どもたちが、今、足元に七人の死体を転がしている。
そして自分は、その首を狩りに、ここへ来た。
「なんで、旅団を狩ってる」
フィンクスの声には、怒りも敵意もなかった。純粋な、困惑だけがあった。
「……お前らが、殺した人たちがいるからだ」
フィンクスは、何も言い返さなかった。
ほんの一瞬、何かを言いかけて、口を閉じた。その目に浮かんだものが何なのか、アッシュには分からなかった。怒りでも、開き直りでもなかった。ただ、言っても仕方のないことを、飲み込んだような目だった。
その時、階段のほうから足音がした。
硬い靴音。一つだけ。ゆっくりと、しかし迷いなく上がってくる。
踊り場の暗がりから、女が現れた。スーツ姿の、背の高い女。短く切った髪。落ち着いた、静かな目。
「フィンクス、フェイタン。団長が呼んでる。すぐ戻って」
女の目が、フロアを見回した。転がる死体。砕けた床。そして、天井近くの瓦礫の上に立つ、血まみれの男。
目が合った。
アッシュの呼吸が止まった。
知っている。この目を、知っている。
ゴミ山で、自分より小さい子たちの世話ばかり焼いていた女の子。配られたパンを、いつも全部小さい子に配ってしまって、自分の手には何も残さなかった。だからアッシュは、いつも自分の分を半分に割って、黙ってその子の膝に置いていった。女の子は何も言わず、ただ、いつまでもアッシュの背中を見ていた。
あの子だ。
女が、一歩、こちらへ近づいた。右手が、わずかに持ち上がる。
最後の手札がある。最大のオーラを念弾にして、相手の精孔を閉じる。当たれば、しばらくの間、相手は念を使えなくなる。この状況を覆せる、唯一の技。
だが、撃てるのは一発だけだ。撃てば、自分のオーラも空になる。一人を封じても、残りの二人に、念を失った体で向き合うことになる。
それに。
アッシュは、女の顔を見た。フィンクスの顔を見た。フェイタンの顔を見た。
撃てるはずがなかった。この三人の誰にも。
アッシュは、残ったオーラのすべてを右の拳に集め、足場にしていた瓦礫ごと、真下の床へ叩きつけた。
轟音。
ひび割れていたフロアが、一気に抜けた。崩れ落ちるコンクリートと一緒に、アッシュの体が下の階へ、さらにその下へと落ちていく。舞い上がる粉塵が、三人の姿を覆い隠した。
フェイタンが、崩落の縁へ踏み出した。
「待つね。逃がさないよ」
「やめとけ、フェイ」
フィンクスが、その肩を掴んでいた。
「団長命令が先だ。それに」
言いかけて、フィンクスは黙った。崩れた穴の底を、しばらく見下ろしていた。
女が、静かに尋ねた。
「今の人、誰?」
「……昔の、知り合いみてえなもんだ」
フィンクスは頭を掻き、背を向けた。
「行くぞ。パク」
路地裏の暗がりで、アッシュは壁に背を預けて座り込んでいた。
頬も、肩も、背中も、血が止まらない。オーラはほとんど残っていない。膝が震えて、立ち上がれなかった。
逃げ切れた。誰も死ななかった。あの三人の誰にも、深い傷は負わせなかった。負わせられたかもしれないのに。
それが正しかったのかどうか、分からなかった。
旅団の首を持って、マフィアの懐に入る。その計画は、たった今、自分の手で捨てた。ジャイロへの道が、また一つ遠くなった。
それでも、あの子たちを狩ることは、できなかった。
アッシュは目を閉じた。瞼の裏に、ゴミ山の景色が浮かぶ。瓦礫の上を跳ねる小さな背中たち。そして、その輪に一度も加わらなかった、ベッドの上段の少年。
ジャイロ。お前があの輪の中にいたら、何か違っていたんだろうか。
震える手で、アッシュは外套の内ポケットを探った。
昼間、宿で印刷しておいた、七枚の手配写真。
路地の街灯の下で、一枚ずつ、広げた。
二枚目。口元を襟で隠した、目の細い男。さっきの、傘の男。
六枚目。吊り目の、桃色がかった髪の女。王様の隣で、退屈そうに膝を抱えていた女の子。ウボォー、うるさい。そう言って、呆れたようにため息をついていた。マチ。
そして、七枚目。
獅子のたてがみのような髪の、大男。
昼間、この写真を見て、胸の奥がかすかに揺れた。気のせいだと、首を振った。
気のせいではなかった。
ゴミ山のてっぺんに仁王立ちして、勝手に入ったやつは一回殺す、逆らったら十回殺す、と叫んでいた王様。相撲で負けて、地面に大の字になったまま、腹の底から笑っていた、あの大きな子ども。
ウボォー。
アッシュは、写真を握りしめた。
クルタ族、百二十八人。子どもも、全員。
この写真の連中が、それをやった。
あの子たちが。
同じ頃、通りを挟んだビルの屋上で、一人の男が欄干に腰かけていた。
派手な化粧に、奇術師のような服。指先で、一枚のトランプを弄んでいる。崩れた廃ビルから、路地裏の暗がりまで。その一部始終を、男は楽しそうに見下ろしていた。
「あの二人を相手に、片方を押し込んで、生きて出てくるなんて」
唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「しかも、最後まで本気を出さなかった。ずいぶん面白くなったじゃないか♦」
トランプが一枚、夜風にさらわれて消えていった。