転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
九月三日の昼まで、アッシュは安宿の床から起き上がれなかった。
肋骨は、やはり一本折れていた。背中の傷は、夜のうちに自分で縫った。頬と肩の傷にも、酒をかけて布を当てた。オーラは、まだ半分も戻っていない。息をするたびに、脇腹が軋んだ。
体の傷は、いずれ治る。
治らないのは、別のものだった。
床に転がったまま、天井の染みを見上げていた。目を閉じると、七枚の写真が浮かんでくる。目を開けても、消えなかった。
眉の薄い、口の減らない子。うっせえ、次は兄ちゃんより速く渡ってやらあ。
目の細い、無口な子。一度も跳ばずに足元だけを見続けて、最後に一度で、得意げに鼻を鳴らした。
王様の隣で、退屈そうに膝を抱えていた、吊り目の女の子。
自分の分のパンを、全部小さい子に配ってしまう女の子。渡してない、置いてくだけ。そう言って、麻袋に半分のパンを押し込んだ。
そして、ゴミ山のてっぺんで、腹の底から笑っていた王様。
あの子たちが、幻影旅団だった。
クルタ族、百二十八人。子どもも、全員。目をえぐられて。わざと苦しめられて。家族を向かい合わせにされて。
それを、あの子たちがやった。
アッシュは、腕で目を覆った。
分からなかった。
あの子たちが、どうして、そうなったのか。何があって、どこで、何が壊れたのか。自分が流星街を出た時、あの子たちは、まだ、ただの子どもだった。明日も、その次の日も、きっと、この景色は変わらない。そう思って、背を向けた。
ジャイロの時と、同じだった。
言うべき言葉を、何年も言えないまま。そして、あの子たちが壊れた時、自分は、その場にいさえしなかった。
いつも、間に合わない。
いつも、壊れた後で、知る。
「……許せるわけ、ないだろ」
声に出して、言った。誰に聞かせるわけでもなく。
百二十八人。その中の、何人が子どもだったのか。
許せない。許していいはずがない。
それなのに、憎もうとすると、ゴミ山の景色が邪魔をした。小指を絡めた、クロロの約束。いつか、見に戻る。帰ってきたら、劇を見に来てね。
あの子は、今、どこで、どんな顔をしているのだろう。
アッシュは、床の上で、長いあいだ動かなかった。
その夜、ヨークシンは、また血に染まった。
セメタリービルの周りで、マフィアの兵隊が、二千人近く殺された。日を改めて開かれた地下競売を守るために集められた男たちが、たった数人の襲撃者に、一晩で。安宿の薄い壁越しにも、遠くの銃声と、サイレンの音が、一晩中聞こえていた。
夜明け前に、知らせが流れた。
幻影旅団、全滅。
十老頭が雇った凄腕の殺し屋たちが、旅団の団員を仕留めたという。死体は、五つ。その中には、団長と目される男のものも含まれていた。
九月四日の朝、アッシュは、脇腹を押さえながら、仲介屋の酒場へ向かった。
仲介屋は、珍しく、酒を飲んでいなかった。
「見るか」
卓の上に、写真が五枚、並べられた。マフィアの連中が、死体を確かめるために撮ったものだという。
アッシュは、一枚ずつ、見た。
一枚目は、写真で見た、刀の男だった。
二枚目は、縫い目の傷の男。
三枚目、四枚目は、手配写真にはなかった顔。
目を閉じて、横たわっている。
五枚目で、手が止まった。
黒い髪の男だった。額に、十字の形の刺青がある。
整った、静かな顔だった。目を閉じて、眠っているようにも見えた。
「そいつが、団長らしい」
仲介屋が言った。
アッシュは、その顔から、目が離せなかった。
黒い髪。色の白い肌。
似ている、気がした。
二十年前、廃材の上で本を広げて、声を演じ分けていた、黒髪の男の子に。花が咲くように笑って、お兄ちゃん、この字なんて読むの、と聞いてきた。
だが、写真の男は、笑っていなかった。笑っていない顔を、アッシュは、あの子の顔として思い出せなかった。似ている気がする。けれど、確かめようがなかった。
もし、これが、あの子なら。
アッシュは、写真を卓に伏せた。
「……どうした。顔色が悪いぞ」
「なんでもない」
仲介屋は、しばらくアッシュの顔を見ていた。それから、声を落とした。
「一つ、まだ誰も知らねえ話がある」
「……何だ」
「その五つの死体な。身元が、一つも割れてねえ」
仲介屋は、写真の一枚を指で叩いた。
「マフィアのお抱えのハッカーが、夜通し調べたらしい。指紋も、顔も、歯の形も。世界中の、あらゆる記録と照らし合わせた。それで、何一つ引っかからなかった。生まれた記録も、どこかに住んでた記録も、何もねえ。まるで、最初から、この世にいなかったみてえにな」
記録のない死体。
アッシュは、無意識に、自分の胸に手を当てていた。
「ハッカーの見立てじゃ、流星街の連中だろうってことだ。あそことは、関わらねえほうがいい。それで、上からは、それ以上調べるなってお達しが出たそうだ」
仲介屋は、さらに声を落とした。
「……それと、これは、ここだけの話だがな。十老頭は、昨夜のうちに、全員殺されたって噂だ。誰にやられたのかは、分からねえ。頭を失ったマフィアは、今、それどころじゃねえ。旅団は全滅した、ってことにして、さっさと幕を引きたいんだろうよ。面子ってやつだ」
アッシュは、伏せた写真を、もう一度表に返した。
五つの顔。どれも、眠っているように穏やかだった。
おとといの夜、廃ビルのフロアの空気を、たった一人で変えてみせた男たちの仲間が。こんなに、静かに死ぬだろうか。
分からなかった。
写真の中の黒髪の男は、何も答えなかった。
マフィアンコミュニティは、旅団への懸賞金を、正式に取り下げた。
賞金首の掲示板から、七枚の写真が消えた。街に溢れていた賞金首ハンターたちが、潮が引くように、駅へ、港へと流れていく。昨日まで血走った目で路地を覗き込んでいた男たちが、今日は、肩を落として列車の切符を買っていた。
アッシュは、宿にいる気になれず、昼過ぎに外へ出た。
脇腹は、まだ痛んだ。それでも、部屋に籠もっていると、同じことばかり考えてしまう。少し、街を歩きたかった。
競売の街は、相変わらず賑わっていた。旅団の騒ぎも、懸賞金の取り下げも、表の通りを行き交う人々には、遠い世界の話だった。露店の呼び込み。目録を抱えた富豪の従者。屋台から漂う、焼けた肉の匂い。
大通りの交差点で、信号が変わるのを待っていた時だった。
「あ、アッシュさん!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、通りの向こうから、黒い髪の少年が、大きく手を振っていた。
ゴンだった。
その隣に、銀髪のキルア。後ろに、スーツ姿のレオリオ。三人とも、無事だった。ゴンとキルアの顔には、新しい擦り傷や痣がいくつかあったが、元気に歩いている。
アッシュは、自分でも驚くほど、深く息を吐いていた。
生きていた。
おととい、旅団の連中と向き合って、骨の髄まで分かった。あの連中に、この子たちが見つかっていたら。
「アッシュさんも、無事だったんだね! 顔、怪我してる。大丈夫?」
「お前らこそ。その痣は」
「えへへ。ちょっと、捕まっちゃって」
「……捕まった?」
「旅団に。でも、逃げてきた!」
ゴンは、まるで近所で転んだ話でもするように、あっけらかんと言った。
キルアが、横から頭をはたいた。
「軽く言うな。死ぬとこだったんだぞ」
アッシュは、言葉を失った。
捕まった。旅団に。そして、生きて帰ってきた。
おとといの夜の、ジャージの男の声が、耳の奥で蘇った。パン分けてくれてた、あの。困惑だけがあった、あの声。あの連中は、子どもを、すぐには殺さなかったのか。
「そうだ、アッシュさん」
ゴンが、ぱっと顔を輝かせて、後ろを振り返った。
「紹介したい人がいるんだ。俺たちの友達。クラピカ!」
レオリオの後ろから、一人の青年が、静かに歩み出てきた。
金色の髪の、細身の青年だった。年は、十七か十八くらい。民族衣装のような、見慣れない意匠の服を着ている。整った顔立ちだったが、その表情は、ひどく張り詰めていた。そして、右手の指に、細い鎖が何本も、指輪のように巻きついていた。
青年は、アッシュを見た。
冷たい目だった。いや、冷たいのではない。何かを、氷の下に、必死に押し込めている目だった。
その体から、オーラが立ち上っていた。何かを煮詰めて、煮詰めて、煮詰め抜いたような。その奥に、触れたら焼けてしまいそうな熱が、とぐろを巻いていた。
「クラピカだ」
青年は、短く名乗った。
「ゴンたちから、話は聞いている。天空闘技場で、世話になったそうだな」
「……アッシュだ。世話なんかしてない」
握手は、なかった。クラピカは、アッシュの顔を、値踏みするように一度だけ見て、それから、目を逸らした。
「すまない、ゴン。私は、ホテルに戻る。仕事がある」
「えー、もう?」
「ああ。今夜は、長くなりそうだ」
クラピカは、それだけ言うと、レオリオと並んで、通りの向こうへ歩き出した。ゴンが、その後を追いかけていく。
キルアだけが、アッシュの隣に残った。
「……おっさん」
キルアは、クラピカの背中を見たまま、小さな声で言った。
「あいつの前で、旅団の話は、すんなよ」
「なんでだ」
「あいつ、クルタ族なんだ。旅団に、一族を皆殺しにされた。生き残りは、あいつ一人だけ」
アッシュの足が、止まった。
クルタ族。全員。
その、たった一人の、生き残り。
「それに」
キルアは、声をさらに落とした。
「もう、一人、やってる。旅団の団員を」
心臓が、一つ、大きく打った。
「……どいつだ」
自分の声が、遠くに聞こえた。
キルアは、少しだけ、ためらった。それから、アッシュの方を見ないまま、答えた。
「手配写真の、一番でかいやつ」
昼下がりの大通りの喧騒が、すっと遠ざかった。
獅子のたてがみのような髪の、大男。ゴミ山のてっぺんで、腹の底から笑っていた。
「おっさん?」
キルアが、怪訝そうに振り返った。
アッシュは、何も答えられなかった。
通りの向こうで、ゴンが、こちらに向かって手を振っていた。
その隣で、金色の髪の青年が、背を向けたまま、一度も振り返らずに歩いていった。
アッシュは、ほとんど眠れなかった。
窓の外で、遠くの空港の方角に、飛行船の灯りがいくつも行き交っていた。街のどこかで、何かが起きている気配がした。だが、それが何なのか、アッシュには知る術がなかった。
九月五日の朝、仲介屋から、短い連絡が入った。
「安置所の、五つの死体な。夜のうちに、消えたそうだ」
受話器の向こうで、仲介屋が言った。
「五つとも、だ。誰も運び出してねえ。見張りもついてた。それなのに、明け方に見回りが行ったら、台の上が空っぽになってた。何一つ、跡を残さずに。上の連中は、また伏せるつもりらしい」
電話が切れた後も、アッシュは、しばらく受話器を握ったままだった。
死体が、消えた。
四日前の夜、地下競売の会場から、何百人という客が、跡形もなく消えた。そして今朝、安置所から、五つの死体が、跡形もなく消えた。
偶然では、なかった。
あれは、本物の死体ではなかったのだ。何かの能力で作られた、偽物。時間が経てば消える、念の作り物。旅団は、死んだふりをして、マフィアの目を欺いた。
あの子たちは、生きている。
その考えが浮かんだ瞬間、アッシュの胸の奥で、何かが、ほどけた。
ほどけたことに、気づいて、ぞっとした。
百二十八人を殺した連中が、生きている。その知らせに、自分は、安堵していた。
昨日、大通りで、背を向けたまま歩いていった金色の髪の青年。一族のたった一人の生き残り。あの青年が、どんな思いで、一人を仕留めたのか。そして今、残りの連中が生きていると知ったら、どんな顔をするのか。
その青年の前で、自分は、安堵していた。
あの子たちは、この街を出ていく。百二十八人を殺したまま、何の償いもせずに。
許せない。
その気持ちは、少しも変わっていなかった。
それなのに、アッシュは、誰にも、何も言わなかった。
本当の理由は、死体が消えたと聞いた時、胸の奥で何かがほどけた、あの感覚だった。
アッシュは、自分の手のひらを見下ろした。
守る相手を、自分で選べるようになれ。シンの言葉が、耳の奥で鳴った。
これは、守る相手を、選んだのだろうか。
それとも、また、言うべきことを、言わずにいるだけなのだろうか。
二十年前、便所の裏で。お前の父親はおかしい。その一言を、何年も言えなかった。言わないことが、あの子を守ることだと、自分に言い聞かせて。
今も、同じことをしているのかもしれなかった。
ただ、一つだけ、決めた。
いつか、あの子たちと、もう一度、向き合う。
マフィアの懸賞金のためでも、借りのためでもなく。
自分の目で、確かめる。何があったのか。何が、あの子たちを、ああさせたのか。
そして、その上で、百二十八人のことを、問う。
それまでは、許しもしない。憎みきりもしない。
それが、今の自分にできる、唯一の、誠実さのような気がした。