転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
26.自然と彼と蟻
山道を登りきった時には、日が暮れかけていた。
丸太を組んだだけの小屋は、四年前に出ていった時と、何も変わっていなかった。小屋の前の踏み固められた地面。周りの深い森。煙突から、細い煙が上がっていた。
戸を叩く前に、内側から開いた。
「よう」
シンが、片手に酒瓶を提げて立っていた。無精髭が、前より少しだけ白くなっていた。
「山道を登ってくる気配がしたからな。誰かと思ったら、お前か」
「……久しぶり」
「入れよ。散らかってるがな」
小屋の中は、相変わらず散らかっていた。脱ぎ散らかした服。空の酒瓶。読みかけの手配書の束。アッシュが出ていってから、一度も掃除をしていないらしかった。
シンは、囲炉裏の前に腰を下ろして、鍋をかき回し始めた。アッシュも、その向かいに座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ヨークシンに、いたらしいな」
やがて、シンが言った。
「協会の知り合いから聞いた。旅団と、やり合ったって」
「……ああ」
「生きて帰ってきたなら、それでいい」
シンは、それ以上は聞かなかった。鍋の中身を、欠けた椀によそって、アッシュに差し出した。
アッシュは、椀を受け取った。湯気の向こうで、シンが、自分の分をすすっていた。
「……シン」
「ん」
「話を、聞いてほしい」
シンは、椀を置いた。
アッシュは、話した。
流星街の飯場のこと。
名前を呼ばれなかった少年のこと。
言えなかった言葉と、金槌の夜のこと。
それから、白い粉と、木の葉の焼き印のこと。
全部を話した。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
シンは、最後まで、一言も口を挟まなかった。話が終わっても、しばらく黙っていた。それから、空になった椀を、ゆっくりと床に置いた。
「……で、その国に、行くのか」
「ああ」
「そいつが、本当にお前の友達だったら、どうする」
アッシュは、すぐには答えられなかった。
「……分からない」
正直に、言った。
「何を言えばいいのか、分からない。二十年、言えなかった言葉を言うために探してきた。でも、それが何だったのか、もう、よく分からない」
シンは、長いあいだ、囲炉裏の火を見ていた。
「分からねえなら、分からねえまま行け」
やがて、ぽつりと言った。
「会えば分かる。会わなきゃ、一生分からねえ。そういうもんだ」
それから、シンは、いつもの面倒くさそうな顔に戻って、酒瓶を傾けた。
「で、機械を持ち込めねえ国に行くんだろ。お前、山を下りてから四年、ずっと街暮らしだったよな」
「……ああ」
「なら、明日から、叩き直しだ」
翌朝、シンは、アッシュの荷物を全部取り上げた。
マッチ。ナイフ。懐中電灯。時計。缶詰。合成繊維の上着。シンは、それを一つずつ小屋の隅に放り投げていった。
「その国に入ったら、こういうもんは全部取り上げられる。だったら、最初からねえもんだと思え」
アッシュの手元に残ったのは、麻の服と、革の靴だけだった。
「これで、ひと冬、山で暮らせ。俺の小屋は使うな。火も、水も、食い物も、全部自分で何とかしろ」
「……ひと冬」
「ああ。春になったら、迎えに行ってやる。生きてりゃな」
シンは、からからと笑って、小屋の戸を閉めた。
最初の三日は、ひどいものだった。
火はつかず、器もなく、獣には近づくたびに逃げられた。
夜は、濡れた落ち葉の下で震えながら眠った。
四日目の夜、アッシュは、冷えた岩の上に座り込んで、星を見上げていた。
ゴミ山の夜も、こうだった、と思った。
爺さんの小屋でも、薪はいつも足りなかった。
冬の夜は、二人で薄い毛布にくるまって眠った。
便利な道具のない暮らし。それは、アッシュにとって、新しいものではなかった。
忘れていただけだった。
街で暮らした十六年で、体がそれを忘れていた。
アッシュは、足元の石を、一つ拾い上げた。
固い、黒い石だった。もう一つ、白っぽい石を拾う。二つを、軽く打ち合わせてみた。
火花が、散った。
アッシュは、念を込めて、もう一度打ち合わせた。
石に流し込んだオーラが、打ち合わせる角度を、ほんの少しだけ、ずらした。一番火花が散る角度に。触れて、命じる。小石を震わせていた頃と、何も変わらない。
火花が、雨のように散った。
乾いた草が、ぽっと燃え上がった。
アッシュは、その小さな火を、両手で囲った。
温かかった。
それから、少しずつ暮らしが形になった。念を込めて石を割れば刃物になり、粘土を焼けば器になった。瓦礫の弾丸で兎や鳥を獲り、夜は石の人形に焚き火の番をさせた。冬が深まる頃には、岩の窪みに小さな住処ができていた。
雪の降る夜、焚き火の前で、アッシュは自分の手のひらを見下ろした。
雪が解けかけた頃、シンが、岩の窪みの住処を訪ねてきた。
石で囲った炉。粘土の器。干した兎の肉。焚き火の番をしている、不格好な石の人形。シンは、それを一つずつ眺めて、鼻を鳴らした。
「……生きてやがったか」
「生きてる」
「見りゃ分かる。顔色も、俺が山を下ろした時よりいい」
シンは、焚き火の前に腰を下ろして、懐から折りたたんだ紙の束を取り出した。
「お前が山にこもってる間に、街で調べてきてやった。協会の知り合いと、裏の情報屋と。あの国の、入り方だ」
アッシュは、紙の束を受け取った。シンの、乱暴な字で書きつけてあった。
「NGLは、年に何度か移住希望者を受け入れてる。国境の手前の村で何週間か暮らしぶりを見られて、合格したやつだけが中に入れる」
シンは、焚き火に枝を一本くべた。
「で、面白えのは、その移住希望者ってのが、どういう連中かってことだ」
「どういう連中なんだ」
「食い詰めたやつ、逃げてきたやつ、戸籍のねえやつ。外の世界に居場所がなくなった連中だ」
アッシュの手が、止まった。
外の世界に、居場所がなくなった連中。
捨てられたものが、流れ込む場所。
「……流星街みたいだな」
口に出してから、自分でぞっとした。
我々は何ものも拒まない。外の世界が捨てていったものを、全部受け入れる街。
あの国は、その裏返しだった。捨てられた人間を、清らかな森で迎え入れる。そして、その奥で白い粉を作り、外へ流し返している。
人に、迷惑を、かけるな。
表向きは、誰にも迷惑をかけない、静かな自然の国。
アッシュは、紙の束を握りしめた。
「……俺は、その移住希望者として入る」
「だろうな」
シンは、驚きもしなかった。
「お前には、ちょうどいい肩書きがある。嘘をつく必要もねえ」
「流星街出身、か」
「ああ。流星街の出で、戸籍もねえ。外の世界に居場所がなくて、自然の中で生きたい。全部、本当のことだろ」
アッシュは、少しだけ笑った。
本当のことだった。
「ただし」
シンの声が、少し低くなった。
「ハンターだってことは、絶対に知られるな。それに、大元がお前の探してる男なら、そいつはお前の顔を知ってる」
アッシュは、黙って頷いた。
ジャイロは、自分の顔を知っている。二十年前の、十一歳の子どもの顔を。今の自分を見て、気づくだろうか。
顔は変わる。
癖は、変わらない。
アッシュは、焚き火の炎を見つめた。
出発の朝、アッシュは、山小屋の前に立っていた。
麻の服。革の靴。肩に、粗末な麻袋を一つ。中身は、干し肉と、石の刃物と、粘土の器が一つ。それだけだった。
シンが、小屋の戸口にもたれて、腕を組んでいた。
「忘れもんはねえか」
「一つ、ある」
アッシュは、外套の内ポケットに手を入れた。
小さなカードを、取り出した。
記録のない人間が、初めて手にした、自分の名前が載った証。
アッシュは、それを、シンに差し出した。
「預かっててくれ」
シンは、しばらくカードを見下ろしていた。それから、黙って受け取った。
「……いいのか」
「あの国に、ハンターは入れない。それに」
アッシュは、少しだけ笑った。
「今から行くのは、ハンターのアッシュじゃない。ゴミ山で生まれた、記録のない、ただのアッシュだ」
シンは、カードを、自分の外套の内ポケットにしまった。
「預かっとく」
それから、ぶっきらぼうに付け加えた。
「取りに戻ってこい。必ずな」
「……ああ」
内ポケットが、軽くなった気がした。
内ポケットの奥には、まだ紙切れが残っていた。リオの葉書。
ミザイストムの連絡先。走り書きのメモ。新聞の切り抜き。紙なら、持ち込める。
「死ぬなよ」
シンが言った。
「それと、見つけたら」
シンは、少しだけ、言葉を探すように黙った。
「言いたいこと、ちゃんと言ってこい。分からねえなら、分からねえって言え。それも、言いたいことのうちだ」
アッシュは、師の顔を見た。
乱暴で、面倒くさがりで、それでも、言うべき時には必ず言う男だった。
「……行ってくる」
「おう」
アッシュは、背を向けて、山道を下り始めた。
振り返らなかった。振り返らなくても、シンがいつまでも戸口に立っていることは、分かっていた。
NGLの国境までは、ひと月かかった。
列車と船を乗り継いだ先で、道が途切れていた。
森の入り口に、木造の門が一つ、立っていた。
門の脇に、丸太を組んだ小屋がいくつか並んでいる。その前に、数十人の人間が、列を作っていた。
痩せた男。子どもの手を引いた女。杖をついた老人。誰も、口をきかなかった。
外の世界に、居場所がなくなった人たち。
アッシュは、列の最後尾に並んだ。
半日待って、ようやく順番が来た。
小屋の中で、生成りの服を着た女が待っていた。穏やかな顔だった。
「お名前は」
「……アッシュ」
「生まれた場所は」
アッシュは、一瞬だけ、言葉に詰まった。
「流星街」
女の目が、ほんの少しだけ、細められた。
驚いているのではなかった。値踏みしているのでもなかった。ただ、静かに、何かを確かめるような目だった。
「そうですか」
女は、穏やかに微笑んだ。
「ここには、あなたのような方がたくさんいらっしゃいます。私たちは、決して拒みません」
拒みません。
その言葉が、耳の奥で、別の声と重なった。
我々は、何ものも拒まない。
二十一年前の朝、飯場の前で、流星街の大人が言った言葉。
「ようこそ、ネオ・グリーン・ライフへ」
女は、深く頭を下げた。
「ここでは、誰も、あなたから何も奪いません」
アッシュは、その言葉を、黙って聞いていた。
門の向こうの森が、春の風に、静かにざわめいていた。