十歳になる頃には、アッシュはゴミ山の東側で、ちょっとした顔になっていた。
本人は何もしていない。ただ、いつものように瓦礫の上を跳んで渡り、拾ったものを担いで戻ってくるだけだ。だが、その姿を、いつの間にか幼い子どもたちが見るようになっていた。
最初は一人だった。廃材の陰から、じっとこちらを見ている小さな影。
次の日には二人になり、その次の週には五人になった。
どの子も痩せていて、裸足で、髪は伸び放題だった。
アッシュが跳ぶと、子どもたちも跳ぼうとする。そして、落ちる。
「おい」
ある日、見かねて、アッシュは足を止めた。
瓦礫の隙間に片足を突っ込んで、べそをかいている子を引っ張り上げる。
「真似するなら、ちゃんと見てからにしろ。跳ぶ前に、次に乗る場所を見るんだ。色が黒くて、角が尖ってないやつ。白っぽくて薄いのは駄目だ。乗った瞬間に割れる。それから、着いたら止まるな。止まると、そこが崩れる」
爺さんに教わったことを、そのまま言葉にして、低い瓦礫の上を三つ、四つと跳んで見せた。
真っ先に後を追ってきたのは、眉の薄い、がっしりした体つきの男の子だった。
最初の足場は正しく選んだが、二つ目で踏み外し、派手に転がり落ちた。
泣くかと思った。泣かなかった。額のこぶを押さえながら、むすっとした顔で立ち上がり、またすぐに最初の足場へ戻っていく。
「お前、根性あるな」
「うっせえ。今のは足場が悪かったんだよ。次は兄ちゃんより速く渡ってやらあ」
口が減らない。だが、言った通り、何度落ちても登ってきた。
その横で、ひときわ小柄な男の子が、一歩も動かずにアッシュの足元だけを見ていた。細い目をした、口数の少ない子だった。他の子が何度も落ちる間、一度も跳ばない。
ただ、アッシュがどこに足を置き、どう体重を移すかを、瞬きもせずに見続けていた。
そして、皆が疲れて座り込んだ頃になって、初めて跳んだ。一度も落ちなかった。アッシュがやって見せた足場を、同じ順番で、音も立てずに渡りきった。
眉の薄い子が、悔しそうに地面を蹴った。
「ずりーぞ、お前! 見てただけのくせに!」
小柄な子は、何も言わずに、ほんの少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
アッシュが思わず笑った、その時だった。
「おい! 誰の許しを得て、俺の王国で遊んでやがる!」
頭の上から、雷のような声が降ってきた。
見上げると、一番高いゴミの山のてっぺんに、大きな影が仁王立ちしていた。
子どもたちの中で、一人だけ飛び抜けて体の大きな男の子。
年はアッシュとそう変わらないくらいに見えるが、肩幅はもう大人に近い。
伸び放題の髪が、風に揺れていた。
「ここら一帯は、全部俺の王国だ。勝手に入ったやつは、一回殺す! 逆らったら十回殺す!」
一回でも十回でも、死ぬのは一回だろうと思ったが、口には出さなかった。
眉の薄い子が、ぱっと顔を輝かせた。
「ウボォー!」
小柄な子も、すっとそちらへ寄っていく。どうやら、この二人はあの大きな子の仲間らしかった。
山の中腹には、もう一人、女の子が腰かけていた。吊り目がちの、気の強そうな子だった。退屈そうに膝を抱えて、こちらを見下ろしている。
「ウボォー、うるさい。その子たち、もう遊んでるんだからいいじゃん」
「よくねえ! 王国には決まりってもんがあるんだよ、マチ!」
大きな子は、ずしんずしんとゴミの山を駆け下りてきて、アッシュの前に立った。
見上げるほどではないが、横幅は倍近くある。
「お前が噂の、跳ぶのがうまい兄ちゃんか。俺の王国で勝手に弟子なんか取りやがって。相撲で勝負しろ。俺が勝ったら、ここで跳ぶのは禁止だ」
「やらねえよ」
「逃げんのか」
「ああ、逃げる」
アッシュは崩れかけた瓦礫を踏んで、ひょいと高い廃材の上へ跳び移った。
大きな子が手を伸ばしても、もう届かない。そこからさらに二つ、三つと跳んで、山の向こう側へ着地する。
大きな子は一瞬ぽかんとして、それから、腹を抱えて笑い出した。
ゴミ山中に響くような、底抜けに大きな笑い声だった。
「はっはっは! こいつはいいや! 逃げ足だけは王国一だな!」
乱暴だが、嫌な笑い方ではなかった。力を持て余して、ぶつける先を探している。
そんな笑い方だった。
「覚えとけよ、兄ちゃん! 俺は王国のどこにいても、王様だからな!」
眉の薄い子がげらげら笑い、小柄な子が肩をすくめ、マチと呼ばれた女の子が、呆れたようにため息をついた。
それから、子どもたちは毎日のようにアッシュの後をついてくるようになった。
ときどき、あの大きな王様も混じって、一緒になって落ちていた。
ある日の昼、拾いの途中で、アッシュは廃材の山の陰に三つの小さな背中を見つけた。
一人は、子どもにしては大柄で、無口そうな男の子。
もう一人は、明るい色の髪をした、よく笑う男の子。
そして真ん中に、黒い髪の、色の白い男の子がいた。
三人して、崩れかけたゴミの山を一心に掘り返している。
「あった!」
黒髪の子が、泥だらけの何かを掲げた。
表紙の千切れた、分厚い本だった。水を吸って膨らみ、頁のあちこちが黴で黒ずんでいる。
「なんの本?」
明るい髪の子が覗き込む。
「分かんない。知らない言葉がいっぱい書いてある」
「じゃあ、当たりだね!」
明るい髪の子は、心底嬉しそうに笑った。
「何が書いてあるか分かんないのが、半分楽しいんだよ。分かっちゃったら、残りの半分しか楽しめないじゃん」
妙な理屈だったが、黒髪の子は「そうだね」と笑って頷いた。
その時、頭の上から、聞き覚えのある雷のような声が降ってきた。
「こら! 俺の王国から勝手に宝を持ち出すんじゃねえ!」
ゴミ山のてっぺんに、あの大きな王様が仁王立ちしていた。
「ウボォーさんだ」
黒髪の子が、困ったように、けれどどこか楽しそうに言った。
「さっき、マチがこっち見てたもんね。言いつけられちゃったかな」
「大人しく渡せば、一回殺すだけで許してやる! 逃げたら十回だ!」
大柄な無口な子が、すっと前に出た。
「ここにある物は、みんなの物だ。ゴミの山を王国だなんて言ってるやつには、付ける薬がねえ」
「なんだと、てめえ!」
大きな王様が飛び降りてきて、大柄な子と取っ組み合いになった。
土埃が上がる。明るい髪の子が「やれやれー」と囃し立てる。
大柄な子が、取っ組み合いながら叫んだ。
「行け! 中に何が書いてあるか、調べてこい!」
黒髪の子は、本を抱えて走り出した。小さな体で、器用に瓦礫の隙間をすり抜けていく。
だが、その先の角を曲がったところで、眉の薄い子と小柄な子が、通せんぼをするように待ち構えていた。王様の仲間だ。
「よう。ウボォーには内緒にしといてやるからさ、その本、こっちに寄越しな」
眉の薄い子が、にやにやしながら手を出した。
「ちゃんと後で返してやるって。……百年後くらいに」
黒髪の子は、少しも慌てなかった。
一瞬だけ考えるような顔をして、それから、素直に本を差し出した。
「はい」
「お、話が早え」
眉の薄い子は本を受け取ると、小柄な子と一緒に、げらげら笑いながら走り去っていった。
黒髪の子は、その背中を見送って、にっこりと笑った。
そして、シャツの裾から、もう一冊の本を引っ張り出した。
表紙の千切れた、分厚い本。さっき掘り出した、あの本だった。
廃材の上から一部始終を見ていたアッシュは、思わず吹き出した。
黒髪の子が、ぱっと顔を上げた。
「あ、跳ぶのがうまいお兄ちゃん!」
見られていたことに、まるで悪びれる様子もない。花が咲くような笑顔だった。
「……さっきのは、何を渡したんだ」
「同じ山に埋まってた、もっとぼろぼろの本。表紙が似てたから」
「バレたらどうする」
「中を開けるのは、たぶん百年後だよ」
アッシュは、もう一度吹き出した。
五つかそこらの子どもだった。追い詰められても慌てない。
相手が何を欲しがっているかを一瞬で読んで、一番損をしない手を選ぶ。
そして、それを楽しんでいる。
「ねえ、お兄ちゃん、字読める?」
男の子は、アッシュの隣にちょこんと座り込んで、本を広げた。
「教会の神父さんに習ってるんだけど、この本は知らない字がいっぱいで」
前世の記憶の中にある文字とは、形が違う。
それでも、この世界で何年も暮らすうちに、看板や缶詰のラベルから、ある程度は読めるようになっていた。
「……旅、だな。旅をする、の旅」
「たび!」
「遠くへ行くことだ。知らない場所を、見て回ること」
男の子の目が、きらきらと輝いた。
「じゃあ、これは?」
「海」
「うみ! お兄ちゃん、海って見たことある?」
「……ないな」
嘘ではなかった。この世界に生まれてからは、一度も。
前の世界の記憶の中にだけ、青くて、どこまでも広い水の景色が、ぼんやりと残っている。
「ぼくもない。でも、いつか全部見たいな。旅も、海も、外にあるもの全部」
それから、男の子は、取っ組み合いがまだ続いているらしい山の向こうを振り返った。
「みんなで行けたらいいのに。ウボォーさんも、フランクリンも、シャルも。一人で見ても、つまんないもん」
アッシュは、ふと、壁の奥にしまった方位磁針のことを思い出した。
いつか、針の指すほうに。同じようなことを、自分はジャイロに言った。
だが、ジャイロは答えなかった。外というものを、知らなかったから。
「お前、名前は」
「クロロ!」
アッシュは、その名前を頭の中で繰り返した。クロロ。
何も引っかからなかった。流星街という名前を聞いた時のような、胸の奥の小さな揺れもない。前世の霧の向こうからは、何の答えも返ってこなかった。ただの、ゴミ山の子どもの名前だった。
「あ、そうだ」
帰り際、クロロが思い出したように言った。
「神父さんがね、外れのほうには一人で行っちゃだめだって。教会の裏に、小さいお墓がまた増えたんだって。子どもを連れてく、悪い大人がいるんだって」
明るい声のまま、クロロはそう言った。
「お兄ちゃん、外れに住んでるんでしょ。気をつけてね」
アッシュは、すぐには返事ができなかった。
外れ。飯場とゴミ山の境目。毎晩、自分が一人で通っている道だった。
「……ああ。お前もな」
クロロは笑って手を振り、本を抱えて、取っ組み合いの続く山のほうへ駆けていった。
七日に一度、ゴミ山の東の端に、外からトラックがやってくる。
荷台に積まれているのは、外の街で売れ残り、期限の切れたパンや缶詰だった。
捨てるはずのものを、捨てる場所に運んでくる。
外の連中にとっては、ただのゴミ出しだ。だが、ゴミ山の住人たちにとっては、七日に一度の食事の当てだった。
トラックが荷を下ろして去ると、住人たちが一斉に群がる。
押しのけられた者は、何も手に入らない。
アッシュは、いつも少し離れたところで、子どもたちを見ていた。
ウボォーは大人たちに混じって、真正面から荷台に突っ込んでいく。
眉の薄い子は大人の脚の間をすり抜け、小柄な目の細い子は、誰も気づかない荷台の隅から、ちゃっかり缶詰を抜いてくる。
クロロは騒ぎには加わらず、終わった後で、取りこぼされたものを拾い集めている。
そして、その輪の外側で、一人の女の子が、もっと小さい子どもたちに囲まれていた。
クロロよりも、さらに一つ二つ年下に見える女の子だった。
それなのに、まるで小さな母親のようだった。転んで泣いている子を立たせ、鼻水を拭いてやり、喧嘩を始めた二人の間に割って入る。そして、自分が拾ってきたパンを、ちぎっては配り、ちぎっては配りしていく。
配り終えた時、その子の手の中には、何も残っていなかった。
アッシュは、何度かそれを見た。
毎回、同じだった。あの子は、誰がお腹を空かせているかを、顔を見ただけで分かるらしかった。一番ひもじそうな子から順に、迷いなく配っていく。そして、自分の分を最後まで残しておかない。
ある日、騒ぎが収まった後で、アッシュは自分の取り分のパンを手に、その子に近づいた。
女の子は、空っぽの手を膝の上に置いて、廃材に腰かけていた。近づいてくるアッシュを、静かな目で見上げる。
じっと、こちらの顔を確かめるような目だった。
何を考えているのか、何をしに来たのか。それを、言葉より先に読み取ろうとしている。
アッシュは、何も言わなかった。パンを半分に割り、その片方を、女の子の膝の上に置いた。
そして、そのまま背を向けて歩き出した。
十歩ほど歩いたところで、振り返った。女の子は、膝の上のパンを、もうそばにいた小さな男の子に差し出そうとしていた。
アッシュは戻って、残りの半分を、もう一度女の子の膝に置いた。
「それは、お前が食べる分だ」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
振り返らなかった。けれど、背中に視線を感じていた。
小屋に戻る道の途中まで、ずっと。
次の七日後も、アッシュは同じことをした。
半分に割ったパンを、黙って膝に置いて、去る。女の子は、一度も礼を言わなかった。
一度も、自分から近づいてこなかった。ただ、アッシュの背中を、いつまでも見送っていた。
そして、アッシュが置いていったパンだけは、誰にも配らずに、自分で食べるようになった。
ある時、クロロがアッシュの袖を引いた。
「ねえ、お兄ちゃん。パクはね、自分の分、いつも全部あげちゃうんだ。ぼくが渡しても、絶対受け取らないの。小さい子にあげなさいって、怒られちゃう。でも、お兄ちゃんが置いてったのは、ちゃんと食べてる。どうして?」
パク。それが、あの子の名前らしかった。
「……さあな。俺は、パンを置いてるだけだ」
「置いてるだけ?」
「あいつは、渡されたら、もっと困ってるやつにやらなきゃいけないと思ってるんだろ。だから、渡してない。ただ、そこに置いてくだけだ」
クロロは少し考えて、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「そっか! じゃあ、今度からぼくもそうする!」
「クロロ」
後ろから、静かな声がした。いつの間にか、パクがすぐそばに立っていた。
「聞こえてるわよ。それに、そろそろ教会に戻らないと、神父さんが心配する」
「はーい」
クロロは素直に返事をして、アッシュに小さく舌を出してみせた。
「パクはね、ぼくより年下なのに、いつもお姉さんみたいなんだ」
「クロロが、弟みたいなのが悪いのよ」
パクはそう言って、クロロの手を引いて歩き出した。
数歩行ったところで、一度だけ、アッシュを振り返った。
何も言わなかった。けれど、その目は、もう何かを確かめる目ではなかった。
アッシュは、二人の背中を見送った。
昼はゴミ山で子どもたちと。夜は飯場の便所の裏で、ジャイロと。
アッシュの毎日は、その二つでできていた。そして、二つの世界を行き来しているのは、アッシュ一人だけだった。
十一歳になったジャイロは、もうかなり話せるようになっていた。
まだ言葉は短く、ときどき言い淀む。けれど、言いたいことを、自分の言葉で組み立てられる。
ある夜、アッシュは昼間の話をした。跳ぶ練習で何度落ちても泣かない子のこと。
一度も落ちずに渡りきった小さな子のこと。ゴミ山を王国だと言い張る王様のこと。
その王様の手下を、にこにこ笑って出し抜いた子のこと。
自分の分を全部、小さい子に配ってしまう女の子のこと。
ジャイロは、黙って聞いていた。
「こども、たくさん、いるのか」
「ああ。お前より、ずっと小さいのばっかりだけどな」
「なにを、してる」
「何って……遊んでる。跳んだり、拾ったり、本読んだり」
ジャイロが、首を傾げた。
「あそぶ。……それは、なに」
アッシュは、言葉に詰まった。
遊ぶ。月や手や冷たさとは違う。指差して見せられるものではない。
どう説明すればいいのか、すぐには分からなかった。
「……決まってないことを、やりたいから、やることだ」
「きまってない、こと」
「そう。誰にもやれって言われてない。やらなくても、誰も困らない。でも、やりたいからやる。それが、遊ぶってことだ」
ジャイロは、長いあいだ黙っていた。
決まっていないこと。ジャイロの世界には、それが一つもなかった。
起きる時刻も、運ぶものも、運ぶ順番も、眠る場所も。すべてが、決まっていた。
「……わからない」
ジャイロは、正直に言った。
アッシュは、少し考えてから、足元に落ちていたレンガの欠片を三つ拾い上げた。
便所の裏の地面に、歩幅一つ分ずつ離して並べる。
「見てろ」
一つ目に飛び乗る。二つ目へ跳ぶ。三つ目へ。地面には降りない。
「ゴミ山の子どもたちは、これをやってる。もっと高い、もっと大きな瓦礫の上でな」
「なんのために」
「何のためでもない。面白いからだ」
ジャイロは、地面に並んだ三つの欠片を見下ろした。
それから、そっと、一つ目に足を乗せた。
跳んだ。二つ目へ。三つ目へ。
危なげなかった。レンガを毎日運んでいる足腰は、見た目よりずっと強い。
着地の位置も正確だった。初めてとは思えないほど、無駄のない動きだった。
三つ目の上で、ジャイロは立ち止まって、アッシュを見た。
「……これで、いいのか」
「ああ。上出来だ」
「おもしろい、は、わからない」
「そうか」
「でも」
ジャイロは、足元の欠片を見下ろした。
「もういちど、やっても、いいか」
アッシュは、笑った。
「いいに決まってる」
ジャイロは、一つ目に戻って、また跳んだ。
三つ跳んで、また戻って、また跳んだ。決まった時間が来るまで、何度も、何度も。
帰り際、ジャイロがぽつりと聞いた。
「おれも、ゴミやまに、いけるか」
アッシュは、すぐには答えられなかった。
行ける、と言いたかった。連れて行ってやる、と。子どもたちに会わせてやりたかった。本物の瓦礫の山の上を、一緒に跳んでみたかった。
だが、ジャイロ自身が、先に首を振った。
「……だめだ。ここに、いる。きまってる」
「誰が決めたんだ」
初めて、アッシュはそれを聞いた。
ジャイロは、少しも迷わずに答えた。
「とうさん。……とうさんは、ねつのとき、ずっと、いた。でていけ、いわない。いちども。だから、ここに、いる」
静かな声だった。誇らしげですらあった。
アッシュの喉の奥で、言葉がつかえた。
お前の父親はおかしい。
子どもを働かせて、名前も呼ばず、話しかけもせず、ベッドの上に縛りつけている。
看病したのは、働き手を失いたくなかっただけかもしれない。
出ていけと言わないのは、お前がいなくなると困るからかもしれない。
それは、優しさじゃない。
前の世界の大人の頭が、はっきりとそう告げていた。
だが、それを口にしたらどうなる。
ジャイロが持っているものは、ほとんどない。名前と、少しの言葉と、そして、熱の夜の記憶。その記憶だけが、ジャイロがここにいる理由で、ジャイロの世界を支えている唯一の柱だった。
それを、自分が折るのか。
「……そうか」
アッシュは、それだけ言った。
ジャイロは頷いて、壁の浮いたレンガに一度触れてから、宿舎へ戻っていった。
帰り道、アッシュは瓦礫の上を、いつもよりゆっくりと跳んだ。
ゴミ山の子どもたちは、ジャイロを知らない。ジャイロは、子どもたちを知らない。
自分だけが、両方を知っている。
そして、自分だけが、言うべき言葉を知っている。
言えなかった言葉が、胸の奥で、小さな石のように重くなっていった。