ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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4.出会いと別れ

十二歳になったジャイロは、もう普通に話せるようになっていた。

言葉はまだ短く、ときどき引っかかる。

けれど、言いたいことを、自分で選んだ言葉で、自分の順番で並べられる。初めて会った夜、名前すら答えられなかった子どもと同じだとは、もう誰も思わないだろう。

 

「きょう、監督に、ほかのやつらの段取りも、みてくれって、いわれた」

「すごいじゃないか」

「すごい、のか」

「ああ。お前の考えた運び方を、皆に教えてくれって頼まれたんだ。それは、褒められたってことだ」

 

ジャイロは、少しだけ首を傾げて、それから、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。

初めて笑った夜から一年あまり。

その表情は、少しずつ、見間違いではないと言えるくらいにはっきりしてきていた。

 

「とうさんにも、いった」

 

アッシュの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

 

「……親父さんは、なんて」

「なにも。いつもと、おなじ」

 

ジャイロは、それを当たり前のことのように言った。

いつもと同じ。何も言わない。こちらを見もしない。

それが、ジャイロにとっての「いつも」だった。

 

その頬に、新しい痣があった。

聞かなくても分かった。

ジャイロの父親は、酒が入ると、ほんの少しのことで手を上げる。

運ぶのが遅れた。返事が遅れた。目が合った。理由は何でもよかった。

それでもジャイロは、殴られた次の日も、変わらずに「とうさんは、とうさん」と言った。

 

熱で死にかけた五つの時に、看病してもらった。出ていけと言われたことが、一度もない。その二つが、ジャイロにとっては、殴られることよりもずっと大きかった。

 

アッシュは、言葉を飲み込んだ。

もう何度目になるか分からなかった。

お前の父親はおかしい。その一言を、何度、喉元まで上げては、飲み込んできただろう。

 

言うべきだと、分かっていた。

前の世界の大人の頭が、ずっとそう告げていた。

ジャイロは十二歳になった。言葉を覚えた。褒められることを覚えた。

笑うことも、少しずつ覚えた。

だからこそ、今なら分かるはずだ。自分が置かれている場所が、どういう場所なのか。

 

だが、言葉を覚えたからこそ、それは刃になる。

何も知らなかった頃のジャイロなら、言われても意味が分からなかったかもしれない。

今のジャイロには、分かってしまう。

 

分かった上で、あの熱の夜の記憶を、自分で踏み潰すことになる。

その夜、小屋に戻ると、爺さんが寝床で咳き込んでいた。

 

去年の冬よりも、さらにひどくなっていた。

昼間、山を渡ることはもうほとんどない。拾いは、アッシュ一人の仕事になっていた。

 

背中をさすりながら、アッシュはぽつりと聞いた。

「爺さん」

「……なんだ」

 

「本当のことを言ったら、相手が壊れるかもしれない。そういう時、爺さんならどうする」

 

爺さんは、しばらく黙っていた。白く濁った目が、暗い天井を見上げている。

 

「本当のことを知らずに死ぬやつのほうが、ずっと多い。捨てられた理由も、親の顔も、なんで自分がここにいるのかも、知らねえまま死んでいく」

 

「……それは、幸せなことなのか」

 

「さあな。知らねえ」

爺さんは、また咳き込んだ。

「ただ、一つだけ言えるのは」

咳が収まるのを待って、爺さんは続けた。

「本当のことってのは、言わなくても、いつかどこかから勝手に転がり込んでくる。誰の口から聞くかは、選べねえがな」

 

アッシュは、爺さんの背中をさする手を止めた。

誰の口から聞くかは、選べない。

その言葉が、胸の奥の石を、また少し重くした。

 

春の初め、飯場に一人の若い男が戻ってきた。

十七か十八くらいの、痩せた男だった。目つきが鋭く、口がよく回る。

何年か前まで、ジャイロたちの隣の宿舎で、暮らしていたらしい。

外へ出稼ぎに行き、食い詰めて戻ってきた。

そんな話を、労働者たちが焚き火の周りでしていた。

 

男は、飯場の他の連中とは違っていた。黙々と働く大人たちの中で、一人だけよく喋った。仕事の愚痴、監督の悪口、外の街で見てきたという話。

そして、喋りながら、いつも周りの人間を値踏みするように眺めていた。

 

アッシュは、廃材置き場の陰から、その男を見ていた。

嫌な目をしている、と思った。

前の世界でも、こういう人間はいた。

人の弱いところを嗅ぎつけて、そこを指で突くのが楽しくてたまらない。

悪意というほど大げさなものではない。ただ、退屈しのぎに、他人の傷を広げて遊ぶ。

 

男の目が、やがてジャイロに留まった。

「よう、ジャイロ。お前、まだ生きてたのか」

 

昼の休憩の時、男がジャイロに声をかけた。

 

「でかくなったなあ。それに、監督に可愛がられてるらしいじゃねえか。段取りを仕切ってるって?」

 

ジャイロは、何も答えなかった。少しだけ、首を傾げただけだった。

男の目が、ジャイロの頬の痣に移った。

それから、宿舎の前で酒瓶を傾けている大柄な男のほうへ。口の端が、ゆっくりと吊り上がった。

 

「相変わらずだな、お前の親父。昼から飲んだくれて、ガキを殴って。よくもまあ、あんなのの下で何年も我慢してるもんだ」

 

ジャイロの肩が、わずかに動いた。

 

「とうさんは」

低い声だった。

「とうさんは、ねつのとき、おれを、たすけてくれた。でていけって、いちども、いわない」

 

男は、一瞬きょとんとした。それから、腹を抱えて笑い出した。

「ははっ、そうかそうか! そう思ってんのか、お前!」

男は、何がおかしいのか、ひとしきり笑い続けた。

 

そして、笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、ジャイロの肩をぽんと叩いた。

 

「いいよいいよ。お前がそう思ってんなら、それでいいさ」

 

それだけ言って、男は持ち場に戻っていった。

ジャイロは、その背中をじっと見ていた。

アッシュは、廃材置き場の陰で、嫌な汗をかいていた。

 

あの笑い方は、何かを知っている人間の笑い方だった。

その日の夕方、まだ九時の鐘が鳴るずっと前に、アッシュは便所の裏でジャイロを待った。

 

九時を過ぎたら、ジャイロは宿舎から出ることを許されていない。

二人が会えるのは、いつも、その前の短い時間だけだった。

 

「あの男には、近づくな」

来るなり、アッシュは言った。

「なんで」

「……いいやつじゃない」

ジャイロは、首を振った。

「あいつは、とうさんを、わるく、いった」

 

アッシュは、はっとした。

ジャイロの声に、聞いたことのない響きがあった。

押し殺した、熱いもの。四年間、一度も聞いたことのない色だった。

 

この子は、怒っていた。殴られても、名前を呼ばれなくても、一度も怒らなかった子が。

父親を悪く言われたことに、初めて怒っていた。

 

言うなら、今だった。あいつが何かを言う前に、自分が。もっと優しく、もっと丁寧に。

お前の父親は、お前が思っているような人じゃないかもしれない、と。

 

口を開きかけた。

「とうさんは、わるくない」

ジャイロが、先に言った。自分に言い聞かせるように。

「とうさんは、おれを、すてなかった」

 

アッシュは、開きかけた口を、ゆっくりと閉じた。

今、この顔に向かって言えるはずがなかった。

明日にしよう、と思った。ジャイロが落ち着いてから、ちゃんと。

その明日が、すべてを終わらせる日になるとは、思っていなかった。

 

次の日、アッシュはいつもより早く飯場へ向かった。

今日こそ言う。そう決めていた。言葉も、一晩中、頭の中で組み立て直した。

責めるような言い方はしない。お前の父親が悪いとも言わない。

ただ、お前はもっと大事にされていいはずだ、と。それだけを、ちゃんと伝える。

 

日が傾きかけた頃、飯場の柵の外に着いた。

怒鳴り声が聞こえた。

資材置き場の前に、人だかりができていた。

労働者たちが、遠巻きに何かを眺めている。

誰も止めようとはしていなかった。

アッシュは柵の破れ目をくぐり、資材の陰を伝って近づいた。

 

人だかりの真ん中で、ジャイロが、あの若い男に殴りかかっていた。

初めて見る顔だった。歯を食いしばり、目を見開き、全身で男にぶつかっていく。

父親に殴られても、一度も怒らなかった子が。言葉ではなく、拳で、何かを叫んでいた。

 

「とうさんを、わるく、いうな!」

だが、相手は五つも六つも年上で、体も一回り大きかった。

ジャイロの拳は、二つ三つ届いただけだった。

男が鬱陶しそうに腕を振り払い、それから、本気で殴り返した。

 

一発。二発。ジャイロの体が、地面に転がった。

起き上がろうとするところに、また拳が落ちる。蹴りが入る。

 

アッシュの足が、前に出かけた。

止まった。

前の世界の大人の頭が、冷たく告げていた。

今出ていっても、十一歳の子どもが一人増えるだけだ。

あの男には勝てない。二人して地面に転がるだけだ。

 

 

それでも行くべきだった。分かっていた。分かっていて、足が動かなかった。

やがて、男は殴るのをやめた。

地面に倒れたまま肩で息をしているジャイロの前に、しゃがみ込む。

「なあ、ジャイロ。昨日の話の続き、してやるよ」

 

男の声は、殴っていた時より、ずっと楽しそうだった。

「お前、熱で死にかけた時、親父が看病してくれたって言ってたよな。あれな、違うぜ」

 

ジャイロの体が、ぴくりと動いた。

 

「看病したのは、隣の宿舎ババアだ。覚えてねえか、お前んとこの隣に住んでた婆さん。熱でうなされてるガキの声がうるさくて、見に行ったら死にかけてたってよ。三日三晩、婆さんが額冷やして、水飲ませて、名前呼んで、それでお前は助かったんだ」

 

アッシュの息が、止まった。

名前を呼んで。

 

熱の夜。上の段のベッドで、意識が遠のいていた時。一度だけ、自分の名前を呼んだ声。ジャイロが、ずっと父親の声だと信じて、何年も大事に抱えてきた、たった一つの音。

 

「お前の親父はその間、どうしてたと思う? 隣で、いつも通り飲んだくれてたよ。婆さんがな、あんたの子だろ、なんとかしろって言ったら、あの男、なんて言ったと思う」

 

男は、ジャイロの耳元に顔を寄せた。

「生きようが死のうが、どうでもいいってよ」

ジャイロは、動かなかった。

 

「出ていけって言わねえのも、同じこった。お前がいようがいまいが、どうでもいいんだよ、あの男は。追い出す手間すら、惜しいんだ」

 

その時、宿舎のほうから、足音がした。

大柄な男が、酒瓶をぶら下げて歩いてきた。

人だかりの横を通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。

 

地面に倒れている息子を、見た。

顔を腫らし、口から血を流し、土にまみれて転がっている、自分の息子を。

ジャイロも、父親を見上げた。

ほんの一瞬、二人の目が合った。

 

そして、父親は、目をそらした。

何も言わなかった。駆け寄りもしなかった。若い男を咎めもしなかった。

ただ、見なかったことにするように、ふいと顔を背けて、そのまま宿舎のほうへ歩いていった。酒瓶を、ぶらぶらと揺らしながら。

 

若い男が、けらけらと笑った。

「な? 言った通りだろ」

男は立ち上がり、ジャイロの頭をぽんと叩いて、人だかりの中に消えていった。

労働者たちも、何事もなかったように散っていった。

地面には、ジャイロだけが残された。

 

ジャイロは、父親が消えていった宿舎の扉を、ずっと見ていた。

泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。

ただ、何かを計算するような目で、じっと、閉じた扉を見つめていた。

 

アッシュは、資材の陰から、一歩も動けなかった。

自分が言おうとしていたこと。

何年もかけて、どうすれば一番傷つけずに伝えられるか、考え続けてきたこと。

それよりもずっと残酷な真実が、ずっと残酷な形で、ジャイロの上に落ちてきた。

 

九時の鐘が鳴る少し前、ジャイロは便所の裏に来た。

片足を引きずっていた。

顔は腫れ上がり、唇の端が切れて、乾いた血がこびりついている。

 

それでも、足音の間隔は、いつもと同じだった。

決まった時刻に、決まった通りに。それが、かえって恐ろしかった。

 

ジャイロは、アッシュの前で立ち止まった。それから、壁の浮いたレンガのほうを見た。

いつものように触れはしなかった。ただ、見ていた。

 

「ねつのとき」

ジャイロが、口を開いた。

「いてくれたのは、とうさんじゃ、なかった。おれの、なまえを、よんだのも」

 

平坦な声だった。悲しんでいるのでも、怒っているのでもない。

 

「でていけ、いわないのも。おれが、いても、いなくても、どうでもいい、から。とうさんは、おれを、みなかった」

 

ジャイロは、自分の手のひらを見下ろした。

 

「おれは、とうさんの、なんでも、なかった。だれの、なんでも、なかった」

 

アッシュは、何も言えなかった。

ジャイロが、顔を上げた。腫れた瞼の下から、その目がまっすぐにアッシュを見た。

 

「アッシュは、しってたか」

 

嘘をつくことは、できた。知らなかった、と。驚いた、と。ひどい話だ、と。

婆さんのことは、本当に知らなかった。だが、それだけを言って逃げることはできなかった。四年かけて言葉を教えてきた。その言葉で、この子に嘘はつけなかった。

 

「……婆さんのことは、知らなかった」

声が、掠れた。

「でも、お前の親父が、お前を大事にしてないことは、分かってた。ずっと」

ジャイロは、瞬きもしなかった。

 

「なんで、いわなかった」

「……お前が、壊れると思った」

 

言ってから、それが言い訳でしかないことに気づいた。

壊したくなかったのは、ジャイロではなかったのかもしれない。

ジャイロに嫌われる自分を、見たくなかっただけなのかもしれない。

 

ジャイロは、しばらく黙っていた。

 

「アッシュは、おれに、ことばを、くれた」

ゆっくりと、一つずつ、言葉を並べていく。アッシュが教えた言葉で。

「つき。て。つめたい。すごい。ほめる。あそぶ」

指を折るように、数えていく。

 

「たくさん、くれた。でも」

ジャイロの目が、アッシュから離れなかった。

「いちばん、だいじな、ことばは、くれなかった」

アッシュの胸の奥で、何年も抱えてきた石が、音を立てて割れた気がした。

 

「ジャイロ、俺は——」

遠くで、九時の鐘が鳴った。

「もどる」

ジャイロは、背を向けた。

「きまってる、から」

いつもの言葉だった。けれど、その響きは、もうまったく違っていた。

 

去っていく背中を、アッシュは追えなかった。

足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。

 

どれくらい、そうしていたのか分からない。

春先の冷たい夜風が、トタンを鳴らしていた。遠くで、犬が吠えた。

飯場の焚き火は、もう消えかけていた。

その時、宿舎のほうから、音がした。

鈍い音だった。何か硬いものが、何かを打つ音。

一度。少し間を置いて、もう一度。それから、何度も。

 

誰の悲鳴も、聞こえなかった。怒鳴り声も、なかった。

ただ、鈍い音だけが、規則正しく、何度も何度も続いた。

 

まるで、レンガを積む音のようだった。

アッシュは、走った。

宿舎の前に着いた時、音はもう止んでいた。

窓のないトタンの小屋。その扉が、少しだけ開いていた。

扉の隙間から、月明かりが細く差し込んでいた。

 

その光の中に、ジャイロが立っていた。

右手に、金槌を提げていた。

言葉より先に覚えた道具。

 

その足元に、大柄な男が、酔い潰れた時のままの格好で横たわっていた。

もう、動かなかった。倒れた瓶から、安酒が床に広がっていく匂いがした。

 

ジャイロの左手には、薄汚れた布の袋が握られていた。

父親が、いつも腰に下げていた金袋だった。

ジャイロが、ゆっくりと振り返った。

その顔には、何の表情もなかった。

 

初めて会った夜の、声のない子どもの顔に、戻っていた。いや、違う。

あの頃の顔には、まだ何もなかった。今のジャイロの顔には、何かがあった。何かがあって、それを、すべて塗り潰した後の顔だった。

 

「アッシュ」

ジャイロが、言った。

「ひとに、めいわく、かけるな、って」

 

金槌を提げた手を、ジャイロは不思議そうに見下ろした。

 

「とうさんは、それしか、おしえて、くれなかった。……それも、ぜんぶ、うそ、だった」

 

アッシュは、扉の前で、立ち尽くしていた。

何か言わなければ、と思った。

何年もかけて言えなかった言葉の代わりに、今、何か一つでも。

 

けれど、口から出るものは、何もなかった。

月が、雲に隠れた。扉の隙間の光が消えて、ジャイロの姿が、闇の中に沈んでいった。

 

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