十二歳になったジャイロは、もう普通に話せるようになっていた。
言葉はまだ短く、ときどき引っかかる。
けれど、言いたいことを、自分で選んだ言葉で、自分の順番で並べられる。初めて会った夜、名前すら答えられなかった子どもと同じだとは、もう誰も思わないだろう。
「きょう、監督に、ほかのやつらの段取りも、みてくれって、いわれた」
「すごいじゃないか」
「すごい、のか」
「ああ。お前の考えた運び方を、皆に教えてくれって頼まれたんだ。それは、褒められたってことだ」
ジャイロは、少しだけ首を傾げて、それから、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。
初めて笑った夜から一年あまり。
その表情は、少しずつ、見間違いではないと言えるくらいにはっきりしてきていた。
「とうさんにも、いった」
アッシュの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「……親父さんは、なんて」
「なにも。いつもと、おなじ」
ジャイロは、それを当たり前のことのように言った。
いつもと同じ。何も言わない。こちらを見もしない。
それが、ジャイロにとっての「いつも」だった。
その頬に、新しい痣があった。
聞かなくても分かった。
ジャイロの父親は、酒が入ると、ほんの少しのことで手を上げる。
運ぶのが遅れた。返事が遅れた。目が合った。理由は何でもよかった。
それでもジャイロは、殴られた次の日も、変わらずに「とうさんは、とうさん」と言った。
熱で死にかけた五つの時に、看病してもらった。出ていけと言われたことが、一度もない。その二つが、ジャイロにとっては、殴られることよりもずっと大きかった。
アッシュは、言葉を飲み込んだ。
もう何度目になるか分からなかった。
お前の父親はおかしい。その一言を、何度、喉元まで上げては、飲み込んできただろう。
言うべきだと、分かっていた。
前の世界の大人の頭が、ずっとそう告げていた。
ジャイロは十二歳になった。言葉を覚えた。褒められることを覚えた。
笑うことも、少しずつ覚えた。
だからこそ、今なら分かるはずだ。自分が置かれている場所が、どういう場所なのか。
だが、言葉を覚えたからこそ、それは刃になる。
何も知らなかった頃のジャイロなら、言われても意味が分からなかったかもしれない。
今のジャイロには、分かってしまう。
分かった上で、あの熱の夜の記憶を、自分で踏み潰すことになる。
その夜、小屋に戻ると、爺さんが寝床で咳き込んでいた。
去年の冬よりも、さらにひどくなっていた。
昼間、山を渡ることはもうほとんどない。拾いは、アッシュ一人の仕事になっていた。
背中をさすりながら、アッシュはぽつりと聞いた。
「爺さん」
「……なんだ」
「本当のことを言ったら、相手が壊れるかもしれない。そういう時、爺さんならどうする」
爺さんは、しばらく黙っていた。白く濁った目が、暗い天井を見上げている。
「本当のことを知らずに死ぬやつのほうが、ずっと多い。捨てられた理由も、親の顔も、なんで自分がここにいるのかも、知らねえまま死んでいく」
「……それは、幸せなことなのか」
「さあな。知らねえ」
爺さんは、また咳き込んだ。
「ただ、一つだけ言えるのは」
咳が収まるのを待って、爺さんは続けた。
「本当のことってのは、言わなくても、いつかどこかから勝手に転がり込んでくる。誰の口から聞くかは、選べねえがな」
アッシュは、爺さんの背中をさする手を止めた。
誰の口から聞くかは、選べない。
その言葉が、胸の奥の石を、また少し重くした。
春の初め、飯場に一人の若い男が戻ってきた。
十七か十八くらいの、痩せた男だった。目つきが鋭く、口がよく回る。
何年か前まで、ジャイロたちの隣の宿舎で、暮らしていたらしい。
外へ出稼ぎに行き、食い詰めて戻ってきた。
そんな話を、労働者たちが焚き火の周りでしていた。
男は、飯場の他の連中とは違っていた。黙々と働く大人たちの中で、一人だけよく喋った。仕事の愚痴、監督の悪口、外の街で見てきたという話。
そして、喋りながら、いつも周りの人間を値踏みするように眺めていた。
アッシュは、廃材置き場の陰から、その男を見ていた。
嫌な目をしている、と思った。
前の世界でも、こういう人間はいた。
人の弱いところを嗅ぎつけて、そこを指で突くのが楽しくてたまらない。
悪意というほど大げさなものではない。ただ、退屈しのぎに、他人の傷を広げて遊ぶ。
男の目が、やがてジャイロに留まった。
「よう、ジャイロ。お前、まだ生きてたのか」
昼の休憩の時、男がジャイロに声をかけた。
「でかくなったなあ。それに、監督に可愛がられてるらしいじゃねえか。段取りを仕切ってるって?」
ジャイロは、何も答えなかった。少しだけ、首を傾げただけだった。
男の目が、ジャイロの頬の痣に移った。
それから、宿舎の前で酒瓶を傾けている大柄な男のほうへ。口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「相変わらずだな、お前の親父。昼から飲んだくれて、ガキを殴って。よくもまあ、あんなのの下で何年も我慢してるもんだ」
ジャイロの肩が、わずかに動いた。
「とうさんは」
低い声だった。
「とうさんは、ねつのとき、おれを、たすけてくれた。でていけって、いちども、いわない」
男は、一瞬きょとんとした。それから、腹を抱えて笑い出した。
「ははっ、そうかそうか! そう思ってんのか、お前!」
男は、何がおかしいのか、ひとしきり笑い続けた。
そして、笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、ジャイロの肩をぽんと叩いた。
「いいよいいよ。お前がそう思ってんなら、それでいいさ」
それだけ言って、男は持ち場に戻っていった。
ジャイロは、その背中をじっと見ていた。
アッシュは、廃材置き場の陰で、嫌な汗をかいていた。
あの笑い方は、何かを知っている人間の笑い方だった。
その日の夕方、まだ九時の鐘が鳴るずっと前に、アッシュは便所の裏でジャイロを待った。
九時を過ぎたら、ジャイロは宿舎から出ることを許されていない。
二人が会えるのは、いつも、その前の短い時間だけだった。
「あの男には、近づくな」
来るなり、アッシュは言った。
「なんで」
「……いいやつじゃない」
ジャイロは、首を振った。
「あいつは、とうさんを、わるく、いった」
アッシュは、はっとした。
ジャイロの声に、聞いたことのない響きがあった。
押し殺した、熱いもの。四年間、一度も聞いたことのない色だった。
この子は、怒っていた。殴られても、名前を呼ばれなくても、一度も怒らなかった子が。
父親を悪く言われたことに、初めて怒っていた。
言うなら、今だった。あいつが何かを言う前に、自分が。もっと優しく、もっと丁寧に。
お前の父親は、お前が思っているような人じゃないかもしれない、と。
口を開きかけた。
「とうさんは、わるくない」
ジャイロが、先に言った。自分に言い聞かせるように。
「とうさんは、おれを、すてなかった」
アッシュは、開きかけた口を、ゆっくりと閉じた。
今、この顔に向かって言えるはずがなかった。
明日にしよう、と思った。ジャイロが落ち着いてから、ちゃんと。
その明日が、すべてを終わらせる日になるとは、思っていなかった。
次の日、アッシュはいつもより早く飯場へ向かった。
今日こそ言う。そう決めていた。言葉も、一晩中、頭の中で組み立て直した。
責めるような言い方はしない。お前の父親が悪いとも言わない。
ただ、お前はもっと大事にされていいはずだ、と。それだけを、ちゃんと伝える。
日が傾きかけた頃、飯場の柵の外に着いた。
怒鳴り声が聞こえた。
資材置き場の前に、人だかりができていた。
労働者たちが、遠巻きに何かを眺めている。
誰も止めようとはしていなかった。
アッシュは柵の破れ目をくぐり、資材の陰を伝って近づいた。
人だかりの真ん中で、ジャイロが、あの若い男に殴りかかっていた。
初めて見る顔だった。歯を食いしばり、目を見開き、全身で男にぶつかっていく。
父親に殴られても、一度も怒らなかった子が。言葉ではなく、拳で、何かを叫んでいた。
「とうさんを、わるく、いうな!」
だが、相手は五つも六つも年上で、体も一回り大きかった。
ジャイロの拳は、二つ三つ届いただけだった。
男が鬱陶しそうに腕を振り払い、それから、本気で殴り返した。
一発。二発。ジャイロの体が、地面に転がった。
起き上がろうとするところに、また拳が落ちる。蹴りが入る。
アッシュの足が、前に出かけた。
止まった。
前の世界の大人の頭が、冷たく告げていた。
今出ていっても、十一歳の子どもが一人増えるだけだ。
あの男には勝てない。二人して地面に転がるだけだ。
それでも行くべきだった。分かっていた。分かっていて、足が動かなかった。
やがて、男は殴るのをやめた。
地面に倒れたまま肩で息をしているジャイロの前に、しゃがみ込む。
「なあ、ジャイロ。昨日の話の続き、してやるよ」
男の声は、殴っていた時より、ずっと楽しそうだった。
「お前、熱で死にかけた時、親父が看病してくれたって言ってたよな。あれな、違うぜ」
ジャイロの体が、ぴくりと動いた。
「看病したのは、隣の宿舎ババアだ。覚えてねえか、お前んとこの隣に住んでた婆さん。熱でうなされてるガキの声がうるさくて、見に行ったら死にかけてたってよ。三日三晩、婆さんが額冷やして、水飲ませて、名前呼んで、それでお前は助かったんだ」
アッシュの息が、止まった。
名前を呼んで。
熱の夜。上の段のベッドで、意識が遠のいていた時。一度だけ、自分の名前を呼んだ声。ジャイロが、ずっと父親の声だと信じて、何年も大事に抱えてきた、たった一つの音。
「お前の親父はその間、どうしてたと思う? 隣で、いつも通り飲んだくれてたよ。婆さんがな、あんたの子だろ、なんとかしろって言ったら、あの男、なんて言ったと思う」
男は、ジャイロの耳元に顔を寄せた。
「生きようが死のうが、どうでもいいってよ」
ジャイロは、動かなかった。
「出ていけって言わねえのも、同じこった。お前がいようがいまいが、どうでもいいんだよ、あの男は。追い出す手間すら、惜しいんだ」
その時、宿舎のほうから、足音がした。
大柄な男が、酒瓶をぶら下げて歩いてきた。
人だかりの横を通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。
地面に倒れている息子を、見た。
顔を腫らし、口から血を流し、土にまみれて転がっている、自分の息子を。
ジャイロも、父親を見上げた。
ほんの一瞬、二人の目が合った。
そして、父親は、目をそらした。
何も言わなかった。駆け寄りもしなかった。若い男を咎めもしなかった。
ただ、見なかったことにするように、ふいと顔を背けて、そのまま宿舎のほうへ歩いていった。酒瓶を、ぶらぶらと揺らしながら。
若い男が、けらけらと笑った。
「な? 言った通りだろ」
男は立ち上がり、ジャイロの頭をぽんと叩いて、人だかりの中に消えていった。
労働者たちも、何事もなかったように散っていった。
地面には、ジャイロだけが残された。
ジャイロは、父親が消えていった宿舎の扉を、ずっと見ていた。
泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。
ただ、何かを計算するような目で、じっと、閉じた扉を見つめていた。
アッシュは、資材の陰から、一歩も動けなかった。
自分が言おうとしていたこと。
何年もかけて、どうすれば一番傷つけずに伝えられるか、考え続けてきたこと。
それよりもずっと残酷な真実が、ずっと残酷な形で、ジャイロの上に落ちてきた。
九時の鐘が鳴る少し前、ジャイロは便所の裏に来た。
片足を引きずっていた。
顔は腫れ上がり、唇の端が切れて、乾いた血がこびりついている。
それでも、足音の間隔は、いつもと同じだった。
決まった時刻に、決まった通りに。それが、かえって恐ろしかった。
ジャイロは、アッシュの前で立ち止まった。それから、壁の浮いたレンガのほうを見た。
いつものように触れはしなかった。ただ、見ていた。
「ねつのとき」
ジャイロが、口を開いた。
「いてくれたのは、とうさんじゃ、なかった。おれの、なまえを、よんだのも」
平坦な声だった。悲しんでいるのでも、怒っているのでもない。
「でていけ、いわないのも。おれが、いても、いなくても、どうでもいい、から。とうさんは、おれを、みなかった」
ジャイロは、自分の手のひらを見下ろした。
「おれは、とうさんの、なんでも、なかった。だれの、なんでも、なかった」
アッシュは、何も言えなかった。
ジャイロが、顔を上げた。腫れた瞼の下から、その目がまっすぐにアッシュを見た。
「アッシュは、しってたか」
嘘をつくことは、できた。知らなかった、と。驚いた、と。ひどい話だ、と。
婆さんのことは、本当に知らなかった。だが、それだけを言って逃げることはできなかった。四年かけて言葉を教えてきた。その言葉で、この子に嘘はつけなかった。
「……婆さんのことは、知らなかった」
声が、掠れた。
「でも、お前の親父が、お前を大事にしてないことは、分かってた。ずっと」
ジャイロは、瞬きもしなかった。
「なんで、いわなかった」
「……お前が、壊れると思った」
言ってから、それが言い訳でしかないことに気づいた。
壊したくなかったのは、ジャイロではなかったのかもしれない。
ジャイロに嫌われる自分を、見たくなかっただけなのかもしれない。
ジャイロは、しばらく黙っていた。
「アッシュは、おれに、ことばを、くれた」
ゆっくりと、一つずつ、言葉を並べていく。アッシュが教えた言葉で。
「つき。て。つめたい。すごい。ほめる。あそぶ」
指を折るように、数えていく。
「たくさん、くれた。でも」
ジャイロの目が、アッシュから離れなかった。
「いちばん、だいじな、ことばは、くれなかった」
アッシュの胸の奥で、何年も抱えてきた石が、音を立てて割れた気がした。
「ジャイロ、俺は——」
遠くで、九時の鐘が鳴った。
「もどる」
ジャイロは、背を向けた。
「きまってる、から」
いつもの言葉だった。けれど、その響きは、もうまったく違っていた。
去っていく背中を、アッシュは追えなかった。
足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
春先の冷たい夜風が、トタンを鳴らしていた。遠くで、犬が吠えた。
飯場の焚き火は、もう消えかけていた。
その時、宿舎のほうから、音がした。
鈍い音だった。何か硬いものが、何かを打つ音。
一度。少し間を置いて、もう一度。それから、何度も。
誰の悲鳴も、聞こえなかった。怒鳴り声も、なかった。
ただ、鈍い音だけが、規則正しく、何度も何度も続いた。
まるで、レンガを積む音のようだった。
アッシュは、走った。
宿舎の前に着いた時、音はもう止んでいた。
窓のないトタンの小屋。その扉が、少しだけ開いていた。
扉の隙間から、月明かりが細く差し込んでいた。
その光の中に、ジャイロが立っていた。
右手に、金槌を提げていた。
言葉より先に覚えた道具。
その足元に、大柄な男が、酔い潰れた時のままの格好で横たわっていた。
もう、動かなかった。倒れた瓶から、安酒が床に広がっていく匂いがした。
ジャイロの左手には、薄汚れた布の袋が握られていた。
父親が、いつも腰に下げていた金袋だった。
ジャイロが、ゆっくりと振り返った。
その顔には、何の表情もなかった。
初めて会った夜の、声のない子どもの顔に、戻っていた。いや、違う。
あの頃の顔には、まだ何もなかった。今のジャイロの顔には、何かがあった。何かがあって、それを、すべて塗り潰した後の顔だった。
「アッシュ」
ジャイロが、言った。
「ひとに、めいわく、かけるな、って」
金槌を提げた手を、ジャイロは不思議そうに見下ろした。
「とうさんは、それしか、おしえて、くれなかった。……それも、ぜんぶ、うそ、だった」
アッシュは、扉の前で、立ち尽くしていた。
何か言わなければ、と思った。
何年もかけて言えなかった言葉の代わりに、今、何か一つでも。
けれど、口から出るものは、何もなかった。
月が、雲に隠れた。扉の隙間の光が消えて、ジャイロの姿が、闇の中に沈んでいった。