ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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5.出会いと別れ

雲が流れて、また月が出た。

扉の隙間から差し込む光の中で、ジャイロは金槌を床に置いた。

音を立てないように、そっと。レンガ積みの道具を、仕事の終わりに片づける時と同じ手つきだった。

 

それから、父親の金袋を、自分の上着の内側に押し込んだ。

振り返ることはしなかった。床に横たわったものを、もう一度見ることも。

ジャイロは扉を押し開けて、外に出てきた。

アッシュの目の前に、立った。

近くで見ると、顔の腫れはさっきよりもひどくなっていた。

 

唇の端の血は、もう黒く乾いている。月明かりの中で、その目だけが、妙に澄んでいた。

何か言わなければ、と思った。

逃げろ。いや、違う。大丈夫か。違う。ごめん。それも、違う。

 

四年間、この子に言葉を教えてきた。

月も、手も、冷たいも。すごいも、褒めるも、遊ぶも。

なのに、今この瞬間に差し出せる言葉を、アッシュは一つも持っていなかった。

ジャイロが、先に口を開いた。

 

「アッシュ」

声は、静かだった。

「そと、に、いく」

 

アッシュは、息を呑んだ。

 

そと。あの春の夜、壊れた方位磁針を開いて見せた時に、教えた言葉。

流星街の外。ずっと遠くに、知らない街がたくさんある。

どこにいても、針は北を指す。

いつか、針の指すほうに行ってみよう。二人で。

あの夜、ジャイロは答えなかった。

 

「……一人で、か」

 

やっと、それだけが言えた。

ジャイロは、少しだけ首を傾げた。

初めて会った頃と同じ仕草だった。それから、ゆっくりと頷いた。

 

「ひとりで」

 

それ以上、何も言わなかった。

ジャイロは、アッシュの横を通り過ぎた。

片足を引きずりながら。それでも、足音の間隔は、少しも乱れていなかった。

決まった時刻に、決まった通りに。ずっと、そう歩いてきた足だった。

便所の裏のほうへ、足音が遠ざかっていく。

 

アッシュは、振り返れなかった。追いかけることも、呼び止めることもできなかった。

ただ、宿舎の扉の前に立ち尽くして、背中で、その足音を聞いていた。

やがて、足音は聞こえなくなった。

春先の夜風が、開いたままの扉を、きいと鳴らした。

 

アッシュは、その夜、小屋に帰らなかった。

帰れなかった、と言うほうが正しい。

資材置き場の陰に座り込んだまま、膝を抱えて、夜が明けるのを待っていた。

 

眠ったのかどうかも分からない。気がつくと、東の空が白み始めていた。

飯場が騒がしくなったのは、日の出の少し後だった。

最初に気づいたのは、隣の宿舎の労働者だった。

 

開いたままの扉を不審に思って覗き込み、悲鳴を上げた。

それを聞きつけて、男たちが集まってくる。宿舎の前に、すぐに人だかりができた。

誰かが、ジャイロの名を口にした。

そこで初めて、皆、あの子どもに名前があったことを思い出したようだった。

 

「ガキがいねえ」

「金もねえぞ。親父の金袋がねえ」

「あのガキがやったのか。冗談だろ」

 

やがて、人だかりを割って、監督がやってきた。

飯場を仕切っているのは、流星街の外から来た建設会社だった。

ここで暮らす人間は、記録の上では存在しない。

だから、どれだけ安く使っても、どれだけ使い潰しても、誰も文句を言わない。

監督は、その会社から送り込まれた男だった。

監督は宿舎の中を覗き込み、顔をしかめた。

 

「……面倒なことを」

 

悲しむ様子も、驚く様子もなかった。ただ、厄介ごとが一つ増えた、という顔だった。

 

「会社に連絡する。外の警察も呼ぶ。人殺しのガキを、このまま放っておくわけにはいかん。山狩りでも何でもして、見つけ出せ」

 

労働者たちが、顔を見合わせた。

その時だった。

 

「その必要はない」

静かな声がした。

 

人だかりの外側に、いつの間にか、数人の大人が立っていた。

飯場の労働者ではない。ゴミ山の住人とも、少し違う。

年老いた男が二人と、中年の女が一人。

 

どの顔にも見覚えはなかったが、その佇まいには、周りの空気を黙らせる何かがあった。

監督が眉をひそめた。

 

「誰だ、あんたらは」

「ここで起きたことは、ここで片をつける。外の人間の手は借りない」

年老いた男の一人が、穏やかに言った。

 

「死んだ男は、我々が弔う。いなくなった子どもも、我々の問題だ。会社にも、外の警察にも、関わってもらう必要はない」

 

「ふざけるな。人が一人殺されてるんだぞ。それに、あのガキは金を持ち逃げした。会社の現場で起きたことだ。こっちには、こっちの——」

 

「お前さんたちは」

男の声は、変わらず穏やかだった。だが、監督は、口をつぐんだ。

 

「この街に、毎年たくさんのものを捨てていく。壊れた機械も、腐った食べ物も、行き場のない人間も。我々は、それを全部受け入れてきた。文句一つ言わずに」

 

男は、監督の目をまっすぐに見た。

「我々は、何ものも拒まない」

一拍、間があった。

「だから、我々から何も奪うな」

飯場が、しんと静まり返った。

 

監督の顔から、血の気が引いていくのが分かった。

何かを思い出したような、何かを恐れているような顔だった。

やがて、監督は舌打ちをして、背を向けた。

 

「……好きにしろ。こっちは知らん。人手が一人減っただけだ」

 

捨て台詞を残して、監督は事務所のほうへ去っていった。

年老いた男たちは、何事もなかったように宿舎の中へ入っていった。

アッシュは、資材の陰で、凍りついたように動けずにいた。

たった今聞いた言葉が、頭の中で鳴り続けていた。

我々は何ものも拒まない。だから、我々から何も奪うな。

その言葉を、知っていた。

 

この世界で聞いたのではない。もっと前。霧の向こうの、前の人生で。

頭の奥で、長いあいだ固く閉じていた扉が、一枚、音を立てて開いた。

夜だった。狭い部屋の、寝床の上だった。疲れて帰ってきて、明かりを消す前に、紙の束を開いていた。絵と、文字。白と黒で描かれた、たくさんの人物。頁をめくる指の感触。

漫画だった。

 

 

その中に、この言葉があった。我々は何ものも拒まない。

だから、我々から何も奪うな。ゴミの街の住人たちが、外の世界に突きつける言葉。

 

流星街。

五つの頃、爺さんの口から初めて聞いた時の、あの小さな引っかかり。

その正体が、今、ようやく分かった。

 

HUNTER×HUNTER

 

タイトルが、霧の中から浮かび上がってきた。

それに引きずられるように、記憶の欠片が、次々と零れ落ちてくる。

 

釣り竿を持った、元気な少年。

父親を探して、ハンターになろうとする話だった。

名前は、ゴン。その隣に、銀色の髪の少年がいた。

名前は、たしか、キルア。ハンター試験。

念という、不思議な力。

大きな街で開かれる、競売。

どこかの国で、蟻の化け物が生まれる話。

そして、幻影旅団という、恐ろしい盗賊団の名前。

何かの選挙。

たくさんの人、そして船。

 

そこまでだった。

それ以上は、何も出てこなかった。

 

物語の中で何が起きたのか。誰が、どこで、どうなったのか。

どの欠片も、輪郭がぼやけている。

思い出そうとすると、指の間から砂のように零れていく。

前の人生で、毎晩眠い目をこすりながら読んでいた。

 

その程度の記憶だった。一度死んで、生まれ直して、十一年。

遠い昔に読んだ物語の、筋も結末も覚えていない。

題名と、主人公たちの名前と、いくつかの言葉だけが、かろうじて残っていた。

 

ジャイロ。

 

その名前は、どこにもなかった。物語の欠片をどれだけかき集めても、あの子の名前は見つからなかった。

 

この世界が、物語の中の世界なのだとしても。

あの子は、その物語には出てこない。誰にも語られない、名前のない場所にいる子どもだった。

 

アッシュは、ふらりと立ち上がった。

足が、勝手に動いていた。宿舎の裏を回り、共同便所の裏へ。

四年間、毎晩のように通った場所。

壁の下のほうの、モルタルが崩れて浮いたレンガ。

指をかけて、引いた。

レンガは、あっけなく抜けた。奥に、拳一つ分ほどの隙間がある。

空っぽだった。

壊れた方位磁針は、どこにもなかった。

 

お前のでも、俺のでもない。二人の物だ。あの春の夜、そう言って、ここに置いた。

ジャイロは、迷惑がかかるからと、一度も持ち出そうとしなかった。見たくなったら、いつでも出していい。そう言っても、ただ、レンガに指先で触れるだけだった。

 

その方位磁針を、ジャイロは、最後に持っていった。

アッシュは、空っぽの隙間を、長いあいだ見つめていた。

針は、今も北を指しているのだろうか。あの子が歩いていく先で。

 

日が高くなる頃、アッシュはようやくゴミ山へ戻った。

瓦礫の上を跳ぶ足が、重かった。何度か、足場を踏み外しかけた。

爺さんに教わってから、一度もしたことのない失敗だった。

東の山の麓で、声がした。

 

「あ、お兄ちゃんだ!」

 

クロロだった。廃材の上に座って、膝の上に本を広げている。

その周りに、いつもの顔ぶれが集まっていた。

眉の薄い子と、目の細い子が、瓦礫の上で跳ぶ練習をしている。

 

山のてっぺんでは、あの大きな王様が、退屈そうに寝転がっていた。

少し離れたところで、パクが小さな子の鼻を拭いてやっていた。

 

昨日と、何も変わらない朝だった。

「お兄ちゃん、今日は遅かったね。どこ行ってたの?」

クロロが、屈託なく笑った。

 

アッシュは、答えられなかった。

子どもたちは、何も知らない。昨日の夜、飯場で何があったのかも。

ジャイロという子が、この街にいたことさえ。

この子たちの朝は、昨日と同じように始まって、昨日と同じように続いていく。

 

それが、ひどく遠いものに見えた。

「……お兄ちゃん?」

クロロが、不思議そうに首を傾げた。

「顔、こわいよ」

パクが、小さな子の手を引いたまま、こちらを見ていた。

何かを確かめるような、あの静かな目で。

「何か、あったの」

「……なんでもない」

 

アッシュは、それだけ言って、子どもたちの横を通り過ぎた。

背中に、いくつもの視線を感じた。

 

小屋に戻ると、爺さんが寝床から半身を起こして待っていた。

白く濁った目が、アッシュの顔をじっと見る。

何も聞かなかった。一晩帰らなかったことも、泥だらけの格好も、腫れた目も。

アッシュは、寝床の脇に座り込んだ。

 

「爺さん」

「……ああ」

「友達が、いなくなった」

 

言葉にした途端、喉の奥が熱くなった。

 

「外に、行った。一人で」

 

爺さんは、しばらく黙っていた。

咳を一つして、それから、ごつごつした手を、アッシュの頭の上に置いた。

 

「誰の口から聞いたんだ。そいつは」

 

本当のことってのは、言わなくても、いつかどこかから勝手に転がり込んでくる。

誰の口から聞くかは、選べねえがな。

いつかの夜の、爺さんの言葉。アッシュは、答えられなかった。

答えられないことが、答えだった。

爺さんは、それ以上は聞かなかった。

 

「追いかけたきゃ、いつか追いかけりゃいい」

 

頭の上の手が、少しだけ重くなった。

 

「だが、今のお前じゃ、どこにも行けねえ。外は、ここよりずっと広くて、ずっと冷てえ。ガキが一人で生きていける場所じゃねえ。そいつだって、生き延びられるかどうか分からん」

 

「……分かってる」

 

「なら、強くなれ。そいつに追いついて、言いそびれたことを言えるくらいにはな」

 

アッシュは、膝を抱えた。

強くなる。

前世の記憶の欠片の中に、一つだけ、その方法らしきものがあった。

念。物語の中で、人を超えた力を生む、不思議な力。

どうすれば身につくのかは、ほとんど覚えていない。

ただ、そういうものがこの世界にはある、ということだけは知っていた。

いつか。

いつか、それを身につけて、外へ出る。針の指すほうへ。

ジャイロが歩いていった先へ。

そして、今度こそ、言えなかった言葉を、言う。

窓の外で、子どもたちの笑い声がゴミ山に響いていた。

ジャイロのいない、最初の朝だった。

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