ジャイロがいなくなって、夜が長くなった。
日が傾く頃になると、体が勝手に西を向く。瓦礫を跳んで、飯場へ。
九時の鐘が鳴る前に、便所の裏へ。
四年間、毎晩そうしてきた足が、それを覚えていた。
最初の半月ほどは、気づくと飯場の柵の外に立っていた。
ジャイロたちが暮らしていた宿舎には、もう別の労働者が入っていた。
ひと月が経つ頃、アッシュは飯場へ行くのをやめた。
待っている者は、もういない。
代わりに、体を鍛えるようになった。
強くなれ、と爺さんは言った。
どうすれば強くなれるのか、アッシュには分からなかった。
前世の記憶の中にある念という力は、名前だけで、手がかりは何もない。
ただ、体を鍛えることだけは、今の自分にもできた。
拾いの量を増やした。重い廃材を担いで、瓦礫の上を跳んだ。
足場から足場へ、地面に一度も降りずに、ゴミ山の端から端まで。
それを、何往復も。
夜は、爺さんが眠った後で、小屋の外で腕立てをした。
腹筋をした。息が上がって、腕が震えて、動けなくなるまで。
一人でいると、考えてしまう。
あの夜、もっと早く言っていれば。
あの日、足が動いていれば。答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
体を動かしている間だけは、それを考えずに済んだ。
十一の体は、十二になり、十三になった。
思っていたよりずっと早く、体は応えてくれた。
腕に筋がつき、背が伸び、重い廃材を担いでも、もう息が上がらなくなった。
瓦礫を跳ぶ足は、爺さんよりも速くなった。
ゴミ山の子どもたちは、相変わらず周りにいた。跳ぶのを真似しようとする子。拾った物の名前を聞いてくる子。相撲を挑んでくる、あの大きな王様。
アッシュは、時々それに付き合い、時々、うるさいと追い払った。
それ以上、深く関わることはしなかった。
できなかった、のかもしれない。誰かを近くに置けば、
また、その誰かが壊れるのを見ているだけになるかもしれない。
そう思うと、どこかで一歩引いてしまう自分がいた。
十四になった年の冬、アッシュは、小屋の壁に一本の線を引いた。
爺さんに教わった方角。北。
いつか、あの針が指していた方へ。
その冬、爺さんは寝床から起き上がれなくなった。
咳に、血が混じるようになっていた。
夜中に何度も目を覚まして、苦しそうに息をする。
アッシュはそのたびに背中をさすり、水を飲ませ、また眠るまで傍にいた。
拾った物を交換に出して、薬になりそうなものを探した。
どれも、気休めにしかならなかった。
年が明けて、ひと月ほど経った夜だった。
いつもの咳の発作が収まった後、爺さんが、珍しく自分から口を開いた。
「アッシュ」
「……なんだ」
「お前を拾った時の話を、したことがあったか」
「灰の中から出てきたから、アッシュ。何度も聞いた」
爺さんは、喉の奥で笑った。笑ったせいで、また少し咳き込んだ。
「俺もな、捨てられたんだ。ここに」
アッシュは、背中をさする手を止めた。
「お前よりは、ずっと大きくなってからだがな。外で、いろいろあって、もう要らねえって言われて、ここに捨てられた。それから何十年も、ここで、ゴミを拾って生きてきた」
白く濁った目が、暗い天井を見上げていた。
「外の連中は、なんでも捨てていく。壊れた物も、使えなくなった人間も。俺は、それを拾って生きてきた。拾った物の中で、一番ましだったのが、お前だ」
「……ひどい言い方だな」
「褒めてんだよ」
爺さんは、また喉の奥で笑った。
それから、ごつごつした手が、アッシュの手首を掴んだ。
思っていたよりもずっと、力のない手だった。
「行け」
「……え」
「俺が死んだら、ここを出ろ。お前の友達を、探しに行け。お前はもう、外で生きていけるくらいには強くなった。俺が保証する」
「爺さん、そんなこと——」
「言いそびれたことが、あるんだろう」
爺さんの目が、アッシュを見た。片方の濁った目と、もう片方の、まだ光の残る目で。
「俺はな、言いそびれたまま、ここに捨てられた。言いたかったやつは、とっくにどこかで死んでるだろうよ。だから、お前は」
爺さんの手に、ほんの少しだけ、力がこもった。
「生き延びて、言え。今度こそ」
アッシュは、何も言えなかった。
ただ、爺さんの手を、両手で握り返した。
その夜、爺さんは眠ったまま、二度と目を覚まさなかった。
朝になって、アッシュは教会へ行った。
神父と、流星街の大人が数人、小屋まで来てくれた。
爺さんの体は、粗末な布にくるまれて、教会の裏の墓地へ運ばれた。
墓地には、小さな十字架がいくつも並んでいた。
驚くほど小さい、子どもの墓ばかりだった。
その列の端に、爺さんの墓が一つ、加わった。
墓穴に土をかける間、アッシュは泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
ただ、爺さんの最後の言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。
生き延びて、言え。今度こそ。
「これから、どうするのかね」
埋葬が終わった後、神父が聞いた。
アッシュは、小屋の壁に引いた線のことを思い出した。
北。あの針が指していた方角。
「外へ行きます」
出ていく前の日、アッシュは東の山の麓へ行った。
告げる必要があるのかどうか、少し迷った。深く関わらないようにしてきた。
名前を知っている程度の、近所の子どもたちだ。
黙っていなくなったところで、誰も困りはしないだろう。
それでも、足はそちらへ向かっていた。
子どもたちは、いつものように廃材の山の周りにいた。
四年の間に、皆、少しずつ大きくなっていた。
「あ、兄ちゃんだ!」
クロロが、最初に気づいた。十になっても、その笑顔は変わらなかった。
アッシュは、皆の前に立った。少しだけ、言葉を探した。
「明日、ここを出る」
子どもたちが、一斉に動きを止めた。
「爺さんが死んだ。だから、外に行く」
「外?」
クロロの目が、大きく見開かれた。
「流星街の外? 本当に?」
「ああ」
「旅だね!」
クロロは、本を閉じて立ち上がった。
驚きよりも、羨ましさのほうが勝っている顔だった。
「何しに行くの?」
「……人を探しに」
「誰?」
アッシュは、少し黙った。
「昔の、友達だ」
クロロは、それ以上は聞かなかった。代わりに、にっこりと笑った。
「見つかるといいね」
それから、何かを思いついたように、ぱっと顔を輝かせた。
「ねえ、兄ちゃん。ぼくね、いつか、みんなで劇をやるんだ。拾ったビデオのお話を、みんなが分かる言葉にして、みんなの前でやるの。だから、帰ってきたら見に来てね」
劇。アッシュには、何の話なのかよく分からなかった。
この子がそんなことを考えていたことも、知らなかった。
四年間、近くにいたのに。
「……ああ。いつか、見に戻る」
「約束だよ!」
クロロが、小指を差し出した。アッシュは少し戸惑ってから、それに自分の小指を絡めた。
山の上から、王様がのっそりと降りてきた。
「ま、外だろうがどこだろうが、お前はお前だろ。たまには帰ってこいよ。相撲の続きがあるからな。次は俺が勝ち越す」
「もう勝ち越してるだろ」
「もっと勝ち越すんだよ!」
眉の薄い子が、げらげらと笑った。目の細い子は、何も言わずに、少しだけ顎を上げてみせた。それが、あの子なりの別れの挨拶らしかった。
パクは、何も言わなかった。
小さい子の髪を結い終えると、立ち上がって、アッシュのそばまで歩いてきた。
肩にかけていた、拾い物を入れる麻袋。その口に、何かを押し込んだ。
パンの半分だった。
アッシュが何か言う前に、パクはもう背を向けていた。
「渡してない。置いてくだけ」
小さな声で、そう言った。
アッシュは、麻袋の中のパンを見下ろした。
いつか、自分があの子の膝に置いていったのと、同じ形の半分。
「……ありがとな」
パクは、振り返らなかった。
けれど、小さい子の手を引いて歩き出すその背中は、少しだけ、ためらっているように見えた。
帰り道、アッシュは何度か振り返った。子どもたちは、もういつもの遊びに戻っていた。
明日も、その次の日も、きっと、この景色は変わらないのだろう。
持ち物は、麻袋一つだけだった。替えのシャツが一枚。拾った小刀が一本。
交換に出さずに取っておいた、いくらかの硬貨。
そして、パクが置いていった、パンの半分。
小屋の戸を閉める前に、もう一度だけ、中を振り返った。
爺さんの寝床。継ぎ接ぎの壁。その壁に、自分で引いた一本の線。北。
方位磁針は、もうない。
だから、方角は自分で覚えておくしかなかった。
日の昇る方を右手に。夜なら、動かない星を前に。爺さんに教わったやり方だった。
アッシュは、瓦礫の上を跳んだ。
最後に、もう一度だけ、西へ回った。
飯場は、まだ眠っていた。
宿舎の屋根のトタンが、夜明けの薄明かりにぼんやりと光っている。
アッシュは、柵の破れ目をくぐって、共同便所の裏へ回った。
壁の下の、浮いたレンガ。
指をかけて、引いた。奥の隙間は、四年前と同じように、空っぽだった。
アッシュは、少し考えてから、麻袋の中を探った。
小屋を出る時に、一つだけ拾ってきた物があった。
爺さんがいつも使っていた、錆びた鉄の留め具。
拾い物を束ねるのに使っていた、何の価値もない金具。
それを、空っぽの隙間に置いて、レンガを元に戻した。
なぜそうしたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、ここを空っぽのままにしておきたくなかった。
いつか、もし誰かがこのレンガを引いた時に、何かが残っているように。
「行ってくる」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
アッシュは、柵をくぐって、飯場を後にした。
流星街の端は、思っていたよりもずっと遠かった。
ゴミ山を越え、また次のゴミ山を越え、日が高くなっても、まだ終わりは見えなかった。
どこまで行っても、捨てられた物の山が続いていた。
外の世界が、どれだけの物を、どれだけの人間を、ここに捨ててきたのか。
その広さが、そのまま、この街の広さだった。
日が傾きかけた頃、ようやく、ゴミの山が途切れた。
乾いた荒れ地の向こうに、一本の道が伸びていた。
舗装された、灰色の道。その先に、霞んだ街の影が見えた。
外の世界だった。
アッシュは、道の手前で立ち止まって、一度だけ振り返った。
夕陽に照らされたゴミの山が、どこまでも続いていた。
あの山のどこかに、爺さんの墓がある。小屋がある。浮いたレンガがある。
そして、明日も変わらず遊んでいるはずの、子どもたちがいる。
アッシュは、前を向いた。
日の沈む方を、左手に。北へ。
針の指していた方角へ。
翌年の春のことだった。
ゴミ山の子どもたちの中から、一人の少女がいなくなった。
明るくて、よく笑う、いつもハートの形の小さな鞄を提げている子だった。
子どもたちは、総出で少女を探した。そして、見つけた。
小さな十字架が、また一つ、教会の裏に増えた。
その日から、子どもたちは、少しずつ変わっていった。