ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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ハンター編
7.念と力の使い方


外の世界は、爺さんの言った通りだった。

ずっと広くて、ずっと冷たかった。

流星街を出て最初にたどり着いた街で、アッシュはすぐにそれを思い知らされた。

 

仕事を探そうとすれば、名前を聞かれる。生まれた場所を聞かれる。

身分を証明するものを出せと言われる。

アッシュには、そのどれもなかった。

 

記録の上では、アッシュという人間は存在しない。

流星街で生まれた者は、皆そうだ。生まれた記録も、親の記録も、どこにもない。

この世界のどの帳簿にも、アッシュの名前は載っていなかった。

 

「どこから来た」

「……東のほうから」

 

正直に流星街と答えたのは、最初の一度だけだった。

それを聞いた雇い主の顔から、すっと表情が消えた。

ゴミ溜めの人間か、と吐き捨てるように言われ、その日のうちに追い出された。

 

それからは、聞かれても答えなかった。

身分のいらない仕事を探した。港の荷運び。日雇いの解体現場。

夜通しの皿洗い。どれも賃金は安く、明日の保証もなかった。

それでも、体だけは鍛えてあった。

重い荷を担いでも音を上げない若者は、どこの現場でもそれなりに重宝された。

 

街から街へ、渡り歩いた。

行く先々で、アッシュは尋ねた。十二くらいの、痩せた少年を見なかったか。

流星街から来た、口数の少ない子だ。

 

誰も、知らなかった。

当然だった。流星街の子どもは、記録の上では存在しない。

名前を名乗らなければ、誰の記憶にも残らない。

そして、ジャイロは、自分から名乗るような子ではなかった。

 

一年が過ぎ、二年が過ぎた。手がかりは、一つも見つからなかった。

それでも、アッシュは北へ向かい続けた。方位磁針の針が指していた方角。

 

あの子が、そちらへ向かったという証拠は何もない。

ただ、他に向かうべき方角を、アッシュは知らなかった。

夜、安宿の薄い布団にくるまりながら、考えることがあった。

 

このまま、闇雲に探し続けても、見つかるはずがない。世界は広すぎる。

十七の若者一人が、足で探し回れる広さではない。

探すための、力が要る。

そして、アッシュは、その力の名前だけを知っていた。

 

念。

前世の記憶の中で、その言葉は、ほとんど輪郭を持っていなかった。

体から湧き出る、生命の力。それを操って、人を超えたことができるようになる。

物語の中の少年たちは、その力で戦っていた。それくらいしか、覚えていない。

 

アッシュは、安宿の床に座り込んで、記憶の向こうを手探りした。

毎晩のように。何か一つでも、思い出せることはないか。

欠片は、少しずつ集まってきた。

人の体には、力の出口のような穴が無数にある。

普通の人間は、それがほとんど閉じている。

念を使うには、まず、その穴を開かなければならない。

 

開き方は、二つあった気がする。

一つは、すでに念を使える誰かに、外から無理やりこじ開けてもらう方法。

早いが、危ない。開いた穴から力が溢れ出して、止められなければ、そのまま死ぬ。

 

物語の中で、誰かがそうやって開かれて、危うく死にかけていた。

そんな場面が、ぼんやりと浮かんだ。

 

もう一つは、自分で、ゆっくりと開いていく方法。

時間はかかる。何か月も、何年もかかるかもしれない。けれど、安全だ。

アッシュには、選択肢などなかった。こじ開けてくれる誰かは、どこにもいない。

瞑想を、始めた。

 

やり方も、うろ覚えだった。座って、目を閉じて、呼吸を整える。

体の内側に意識を向ける。血の流れ。心臓の音。皮膚の下を巡っている、何か。

 

最初の何か月かは、何も起きなかった。

目を閉じても、浮かんでくるのは雑念ばかりだった。

明日の仕事のこと。足りない金のこと。

そして、月明かりの中に立っていた、金槌を提げた少年の顔。

それでも、毎晩、続けた。仕事でどれだけ疲れていても、眠る前に一刻は座った。

 

爺さんの言葉を、心の中で繰り返しながら。

生き延びて、言え。今度こそ。

半年が過ぎ、一年が過ぎた。

 

十八になった年の、ある冬の夜だった。

いつものように目を閉じて座っていると、指先が、ふと温かくなった。

 

最初は、気のせいだと思った。安宿の隙間風は冷たい。

指先が温かくなる理由など、どこにもない。

だが、温もりは消えなかった。指先から手のひらへ、手のひらから腕へ。

皮膚の内側から、何かがじわりと滲み出してくる。

湯気のような、陽炎のような、目に見えない何かが。

アッシュは、目を開けた。

自分の手を見下ろした。何も見えない。

いつもの、まめだらけの手だ。

けれど、その手の周りに、確かに何かがあった。

肌で感じる。体の内側から外へ、絶えず流れ出していく、温かいもの。

 

開いた。

 

そう思った瞬間、流れが一気に強くなった。

体中の穴という穴から、温もりが噴き出していく。

止まらない。止め方が分からない。

指先が冷たくなり、膝が震え、視界が暗くなっていく。

力が、命そのものが、体の外へ抜けていくのが分かった。

 

溢れ出して、止められなければ、そのまま死ぬ。

アッシュは、歯を食いしばった。

止めろ、と思うのではなく、留めろ、と思った。

流れ出ていくものを、体の周りに。逃がさずに、纏わせるように。

ゴミ山で、重い廃材を担いだまま、崩れかけた足場の上で体を止めた時のように。

力を抜かずに、力まずに、ただ、そこに留める。

噴き出していた流れが、少しずつ、緩やかになった。

体の周りに、薄い膜のように、温もりが留まり始めた。

 

それを最後に、アッシュは床に崩れ落ちた。

目が覚めたのは、昼過ぎだった。

全身が、ひどく重かった。

だが、体の周りには、まだ、あの温もりがうっすらと残っていた。

眠っている間も、流れ出さずに、そこに留まっていた。

 

一年と半年。十八歳の冬。

ようやく、入り口に立った。

 

体の周りに温もりを留めておくことは、それから三か月ほどで、意識しなくてもできるようになった。

 

眠っている間も、働いている間も、薄い膜のような温もりが、いつも体を包んでいる。

それだけで、体の感じ方が変わった。

重い荷を担いでも疲れにくい。

夜道で酔っ払いに絡まれても、殴られた頬がほとんど痛まない。

これが、念の最初の一歩なのだろう。そう思った。

 

次に思い出したのは、ある試し方のことだった。

コップに水を満たして、その上に葉っぱを一枚浮かべる。

その周りに手をかざして、体の中の力を、外へ押し出すように強める。

すると、水や葉っぱに何かが起きる。

何が起きるかで、その人の力がどういう性質なのかが分かる。

 

水が増える者がいた。

水の味が変わる者もいた。

他にも、色が変わったり、何かが浮かんできたり。

そして、葉っぱが動く者。

 

それが何を意味していたのか、アッシュには思い出せなかった。

全部で六つの種類があった。

それだけは、ぼんやりと覚えている。

どれがどれに当たるのかは、霧の向こうだった。

それでも、試さない理由はなかった。

 

安宿の主人から欠けたコップを一つ借りて、水を満たした。

窓の外の街路樹から、葉っぱを一枚ちぎってきた。

床に座り、コップを両手で囲むように、手をかざす。

 

体の周りに留めている温もりを、今度は、外へ押し出すように。

これも、簡単ではなかった。留めるのとは、まるで逆の力の使い方だった。

最初の何日かは、手のひらが熱くなるだけで、何も起きなかった。

 

少しでも強く押し出そうとすると、また、あの夜のように体から力が抜けていきそうになる。

 

留めながら、押し出す。手放さずに、強める。

 

十日目の夜だった。

コップの上で、葉っぱが、かすかに揺れた。

アッシュは、息を止めた。

隙間風のせいかもしれない。窓は閉めてある。

もう一度、手のひらに力を込めた。

葉っぱが、ゆっくりと回り始めた。

水面の上で、くるり、くるりと。風もないのに、誰も触れていないのに。

 

まるで、見えない指に押されているかのように。

水は増えなかった。色も、味も、変わらなかった。

ただ、葉っぱだけが、静かに回り続けていた。

葉っぱが動く。

それが、六つのうちのどれなのか。

アッシュは、霧の向こうを手探りした。答えは、出てこなかった。

だが、考えることはできた。

 

水が増えるのは、何かを強くする力だろう。

味が変わるのは、何かを別のものに変える力。

そして、葉っぱを、触れずに動かす力。

何かを、思い通りに動かす力。操る力。

操作。そんな言葉が、ふと浮かんだ。正しいのかどうかは、分からなかった。

 

それから、アッシュは、いろいろなものを試した。

手のひらに力を込めて、小石に触れる。触れたまま、動け、と念じる。

小石は、指先でかすかに震えた。転がりはしない。ほんの少し、震えるだけ。

床を這っていた虫に、指先で触れた。進め、と念じると、虫の脚が、一瞬だけ、もつれた。それだけだった。

 

触れたものに、力を流す。流したものを、少しだけ、思う方へ動かす。

それが、アッシュに今できる、精一杯だった。

人に試すことだけは、しなかった。

力を流した相手に何が起きるのか、アッシュには分からなかった。小石や虫なら、震えるだけで済む。

 

だが、人の体に、念を流し込んだら。その人の閉じた穴を、無理やりこじ開けることになる。

 

動け。進め。止まれ。

頭の中で念じる言葉が、どれも命令の形をしていることに気づいて、アッシュは少しだけ眉をひそめた。

 

人に、迷惑を、かけるな。

名前も呼ばなかった男が、息子に与えた、たった一つの命令。

 

アッシュは、虫から指を離した。虫は、何事もなかったように、床の隙間へ這っていった。

 

それから、二年が過ぎた。

アッシュは、思い出せる限りのことを試した。

体の周りの温もりを、逆に、体の内側へ閉じ込めること。

それができるようになると、人混みの中で、自分の気配がふっと薄くなるのが分かった。

背後から近づいても、誰も振り返らない。

 

押し出す力を、もっと強くすること。毎晩、コップの前に座った。葉っぱは、少しずつ速く回るようになった。

 

体を包む温もりも、少しずつ厚くなっていった。

留める。閉じる。強める。

そこまでは、できた。

その先が、どうしても分からなかった。

 

念を使う者は、自分だけの力を作り出す。

物語の中の少年たちは、それぞれの、たった一つの技を持っていた。

拳に力を込めるもの。何かを生み出すもの。そういう、その人にしかできない何か。

 

アッシュにできるのは、触れたものを、ほんの少し震わせることだけだった。

小石を震わせる。甲虫の脚をもつれさせる。

それ以上には、どうやっても進めなかった。

 

どう鍛えれば先へ行けるのか。何を目指せばいいのか。

霧の向こうには、何の手がかりもなかった。

教えを乞える相手を、探そうとしたこともある。

 

裏通りの噂で、超能力を教える道場があると聞いた。

だが、門を叩くには、紹介がいる。身元の保証がいる。

そして、大金がいる。アッシュには、そのどれもなかった。

記録のない人間に、扉を開けてくれる場所は、どこにもなかった。

 

それでも、腕っぷしだけは、目に見えて強くなった。

港で、荷を巡って揉めた男たちに囲まれたことがある。五人だった。

 

アッシュは、念を使わなかった。

念は、知らない人間の前で軽々しく見せるものではない。誰に教わったわけでもないのに、なぜか、そういう感覚だけが、記憶の底に残っていた。

 

だから、体を包む温もりも、内側へ閉じ込めた。

ただの、二十歳前の若者として、五人の前に立った。

それでも、勝てた。

精孔が開いてから、体そのものが変わっていた。

力が強くなった。目が良くなった。疲れにくくなった。

 

殴りかかってくる拳が、前よりもずっと遅く見える。

ゴミ山で鍛えた足腰と、ウボォーとの相撲で覚えた身のこなしが、それに追いついていた。

殴りかかってくる腕を払い、踏み込んでくる足を払い、相手の勢いを、ほんの少しだけ横へ流す。

 

それだけで、大の男たちが勝手によろけ、勝手に倒れていった。

アッシュは、ほとんど怪我もせずに、五人全員を地面に転がした。

念を使うまでもなく、素人相手に負けることは、もうなかった。

 

だから、余計に、それを思い知らされた夜は、堪えた。

安酒場の片隅で、食事をしていた時のことだった。

 

店の奥で、喧嘩が始まった。酔った大男が三人、一人の痩せた男に絡んでいる。

痩せた男は、杯を置きもしなかった。

次の瞬間、店の空気が、変わった。

痩せた男の体から、何かが溢れ出した。

目には見えない。けれど、アッシュには、肌で分かった。

 

自分の体を包んでいる温もりとは、比べものにならない量の、重く、濃い何か。

それが、店中を押し潰すように広がった。

大男たちは、殴られもしないうちに、腰を抜かしてへたり込んだ。

アッシュの体を包んでいた温もりが、縮み上がった。

勝手に。本能が、逃げろと叫んでいた。

 

痩せた男は、何事もなかったように杯を空けて、店を出ていった。

その途中で、一瞬だけ、アッシュのほうに目を向けた。

値踏みするような、退屈そうな目だった。

素人が、何か齧っているな。その目は、そう言っていた。

男が去った後も、アッシュは、しばらく箸を持ち上げられなかった。

 

二年かけて、ここまで来た。

だが、本物は、その遥か先にいた。

独りで手探りしているだけでは、何年かかっても、あそこまでは届かない。

このままでは、ジャイロを探すどころではない。

 

二十歳になった年の春、金が尽きかけていた。

港の仕事は、景気が悪くなって、ほとんどなくなっていた。

安宿の宿代も、もう二月分溜まっている。

 

そんな時、裏通りで、一人の男に声をかけられた。

「あんた、港で五人を転がしたっていう若いのだろう」

 

小太りの、愛想のいい男だった。目だけが、笑っていなかった。

 

「身のこなしが素人じゃねえって評判だ。いい仕事がある。金持ちの用心棒だ。身元は問わない。腕さえ立てばな」

 

アッシュは、男の顔を見た。まともな仕事ではないことは、その目を見れば分かった。

それでも、断る理由は、見つからなかった。

 

「……話を聞かせてくれ」

 

その夜、安宿に戻ったアッシュは、パンを包むのに使った古新聞を、何気なく広げた。

遠い国の小さな記事が、目に入った。

自然と共に生きることを掲げた、新しい団体が設立されたという。

設立者は、まだ二十一歳の若者だそうだ。

アッシュは、それを読み流して、新聞を丸めた。

 

明日からの仕事のことで、頭がいっぱいだった。

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