ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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8.念と力の使い方

最初の雇い主は、港町の賭博場の主人だった。

仕事は単純だった。主人が店を回る時に、後ろについて歩く。

酔って暴れる客がいれば、外へ放り出す。

取り立てに行く時には、黙って横に立っている。

それだけで、相手は大抵、金を出した。

 

身元は、本当に問われなかった。仲介屋の言った通りだった。

腕が立つかどうか。裏切らないかどうか。この世界で問われるのは、その二つだけだった。

記録のない人間には、ちょうどいい場所だった。

 

賭博場の次は、密輸品を扱う商人だった。

その次は、高利貸し。

その次は、表向きは貿易商を名乗る、正体のよく分からない男。

雇い主は、半年か一年ごとに変わった。

 

仲介屋が次の口を持ってきて、アッシュはそれに乗る。

どの雇い主も、まともな商売をしている人間ではなかった。

それでも、金は良かった。安宿の宿代に追われることはなくなった。

 

用心棒の仕事をするうちに、アッシュは、自分なりの一線を決めた。

守るだけ。それ以上は、しない。

 

雇い主を狙ってくる者は、叩きのめして追い払う。

だが、殺さない。雇い主に命じられても、誰かを襲いには行かない。

脅しの場に立つことはあっても、自分から手を上げることはしない。

 

「お前は、甘いな」

高利貸しの男に、そう言われたことがある。

 

逃げた債務者を追って、締め上げてこいと命じられた時だった。

アッシュが首を横に振ると、男は呆れたように笑った。

「そんなんじゃ、この世界じゃ長生きできねえぞ」

「守れと言われた仕事はする。それ以外は、しない」

 

男は、しばらくアッシュの顔を眺めていたが、やがて肩をすくめた。

 

「ま、いい。腕は確かだからな」

 

結局、その男の下で一年働いた。

一度も、誰かを襲いに行かされることはなかった。

念は、相変わらず、誰の前でも使わなかった。

 

体を包む温もりは、いつも内側へ閉じ込めていた。

それでも、精孔が開いてから鍛え続けた体は、この世界の荒くれ者たちを相手にしても、まず負けることはなかった。

 

ナイフを持って飛びかかってくる男の手首を払い、勢いを横へ流して転がす。

銃を抜く前の腕に触れて、狙いをずらす。

触れて、ずらして、崩す。ウボォーとの相撲で覚えた戦い方が、ここでも役に立った。

 

ゴミ山の王様のことを、ふと思い出すことがあった。

今頃、どうしているだろう。まだ、あの山のてっぺんで寝転がっているのだろうか。

クロロは、みんなで劇をやるという夢を、叶えたのだろうか。

 

「いつか、見に戻る」

 

小指を絡めた約束を思い出して、アッシュは少しだけ笑った。

それから、目の前の仕事に意識を戻した。

戻るのは、ジャイロを見つけてからだ。

 

裏の世界で働くうちに、アッシュは、情報を変えることを知った。

どの街にも、情報屋がいた。

酒場の奥の席に座って、金と引き換えに、知っていることを売る。

誰がどこで何を取引したか。どの組織が誰を探しているか。

どの役人に、いくら握らせれば話が通るか。

 

稼いだ金の一部を、アッシュはそこに注ぎ込んだ。

流星街から出てきた、二十歳くらいの男を探している。

 

名前は、ジャイロ。痩せていて、口数が少ない。頭がよく回る。

もしかしたら、どこかの現場で、人を使う立場になっているかもしれない。

 

情報屋たちは、金を受け取り、数日後に首を振った。

「流星街の出の人間なんざ、名乗らなけりゃ分からねえよ。記録がねえんだからな」

 

「ジャイロって名前だけじゃあなあ。偽名を使ってりゃ、それまでだ」

 

一人だけ、少し長く考え込んだ情報屋がいた。

 

「頭が切れて、現場を回すのがうまくて、流星街の出。そういう若いのが、どこかで名を上げてりゃ、噂くらいは流れてくるはずだがね。流れてこないってことは」

 

情報屋は、アッシュの顔を見た。

「死んでるか、表の世界に紛れ込んでるか。どっちかだろうよ」

アッシュは、何も言わなかった。

 

死んでいる。その可能性を、考えなかったわけではない。

十二の子どもが、金袋一つ持って、一人で外へ出ていったのだ。

爺さんも言っていた。そいつだって、生き延びられるかどうか分からん、と。

それでも、アッシュは探すのをやめなかった。やめられなかった。

 

ある晩、同じ雇い主の下で働いていた年配の用心棒と、夜番を組んだ。

ドノヴァンという、頬に古い傷のある男だった。この世界に二十年いるという。

用心棒の中では珍しく、口数の多い男だった。

 

「お前、人を探してるんだってな。情報屋の間じゃ、ちょっとした噂だぞ。金払いのいい若造が、流星街のガキを探し回ってるって」

 

「……悪いか」

 

「悪かねえよ。ただ、効率が悪い」

ドノヴァンは、煙草に火をつけた。

「本気で人を探したいなら、ハンターに頼むのが一番だ」

 

「ハンター」

その言葉に、アッシュの胸の奥で、何かが小さく揺れた。

 

「ハンター証ってのを持ってる連中だ。協会が認めた、特別な許可証でな。それがあれば、普通は入れねえ場所にも入れる。普通は見られねえ情報も見られる。各国の役所も、警察も、大抵はあの証を見せれば教えてくれるんだとよ」

 

「……そんなものが」

 

「ああ。人探しなら、そういう連中の専門だ。高えがな。それに、ハンターにもいろいろいる。宝を探すやつ、珍しい獣を探すやつ。中でも、俺たちみたいな稼業の人間が一番会いたくねえのが」

 

ドノヴァンは、煙を長く吐いた。

 

「ブラックリストハンター。賞金首を狩る連中だ。協会のリストに載った犯罪者を、どこまでも追いかけてくる。雇い主の名前がそのリストに載ったら、俺はその日のうちに逃げるね。給料なんざどうでもいい。あいつらとやり合ったら、命がいくつあっても足りねえ」

 

アッシュは、夜の庭を見つめていた。

ハンター。

その言葉を、前世の記憶が知っていた。

釣り竿を持った少年が、ハンターになろうとする話だった。父親を探すために。

人を、探すために。

 

「ハンターには、どうやったらなれる」

 

アッシュの問いに、ドノヴァンは目を丸くした。それから、喉の奥で笑った。

 

「試験がある。年に一度な。世界中から何百人、何千人と集まって、受かるのは数人だ。死ぬやつも出るって話だ。腕っぷしだけじゃどうにもならねえ。普通の人間には、まず無理だよ」

 

普通の人間には。

アッシュは、体の内側に閉じ込めている温もりのことを考えた。

それから、安酒場で見た、あの痩せた男のことを。

素人が何か齧っているな、と値踏みした、退屈そうな目のことを。

 

仲介屋が、これまでで一番の口を持ってきた。

 

「報酬は、今までの倍だ。いや、三倍出すと言ってる。雇い主は、ある国の古い家柄の旦那でな。品のいい、穏やかなお人だよ。古い時計やオルゴールを集めるのが趣味だそうだ」

「なんで、そんな人間に用心棒が要る」

 

「金持ちには、敵が多いもんさ」

 

仲介屋は、いつもの、目の笑っていない笑顔で言った。

屋敷は、郊外の丘の上にあった。高い塀に囲まれた、古い石造りの館。

手入れの行き届いた庭。

 

正面の広間には、大小の時計とオルゴールが、壁一面に並べられていた。

どれも、丁寧に磨かれていた。

雇い主のグラナートは、仲介屋の言った通りの男だった。

 

銀色の髪を後ろに撫でつけた、六十過ぎの紳士。物腰は柔らかく、声は低く穏やかで、使用人にも丁寧な言葉を使う。

初めて会った日、グラナートは自らアッシュに紅茶を淹れてくれた。

 

「君の噂は聞いているよ。腕が立って、口が堅くて、決して余計なことをしない。私が一番欲しかったのは、そういう人だ」

 

「守れと言われた仕事は、します」

 

「それで十分だとも」

グラナートは、目を細めて微笑んだ。それから、ふと、アッシュの顔をじっと見つめた。

 

「君は、どこの出身かね」

「……東のほうです」

「ふむ」

グラナートは、紅茶を一口含んだ。

「流星街ではないかね」

アッシュの手が、一瞬だけ止まった。

「あそこの人間は、目で分かるのだよ。何も持たずに生まれて、何も持たずに育った者の目だ。私は、そういう目をした人間が嫌いではない。むしろ、とても好ましく思っている」

 

穏やかな声だった。悪意は、少しも感じられなかった。

それなのに、なぜか、背中の産毛が逆立った。

 

屋敷での仕事は、楽なものだった。

グラナートが外出する時に付き添い、夜は他の用心棒たちと交代で屋敷の見回りをする。

主人が誰かに襲われるようなことは、ひと月の間、一度もなかった。

だが、アッシュの中の違和感は、日に日に大きくなっていった。

 

屋敷の裏手に、離れが一棟あった。窓には鉄格子がはまり、扉には常に鍵がかかっている。見回りの範囲からも、外されていた。

 

「あそこは、旦那様の大事な品を保管しておく倉庫だ。俺たちは近づかなくていい」

 

古株の用心棒は、そう言って目を逸らした。

ひと月に一度か二度、夜更けに、屋敷の裏門へ幌のかかったトラックが入ってくる。

荷を降ろす時には、使用人たちが総出で、用心棒は表に回される。

何を運び込んでいるのか、誰も口にしなかった。

 

ある朝、見回りの途中で、アッシュは裏庭の植え込みの陰に、小さなものを見つけた。

子どもの靴だった。

片方だけ。泥にまみれて、底が擦り切れている。四つか五つくらいの子どもの、小さな、小さな靴だった。

アッシュは、それを拾い上げて、しばらく見つめた。

この屋敷に、子どもはいない。

使用人は皆、大人だ。グラナートには、家族もいないと聞いていた。

 

頭の奥で、何かが鳴った。

子どもを連れてく、悪い大人がいるんだって。

ずっと昔、まだ小さかったクロロが、明るい声でそう言っていた。

流星街の人間は、記録の上では存在しない。だから、さらっても、誰も罪に問われない。

流星街の人間は、目で分かるのだよ。

アッシュは、靴を握りしめた。

 

証拠は、何もない。ただの思い過ごしかもしれない。

どこかの使用人が、自分の子どもの靴を落としただけかもしれない。

守れと言われた仕事は、する。それ以外は、しない。

その一線が、初めて、ひどく脆いものに思えた。

アッシュは、靴を植え込みの陰に戻した。

そして、何も見なかったように、見回りを続けた。

その日の夕方、グラナートが用心棒全員を広間に集めた。

 

広間には、用心棒が七人集められていた。

グラナートは、壁一面のオルゴールを背にして立っていた。

いつもと同じ、穏やかな微笑みを浮かべている。

だが、その指先が、落ち着きなく懐中時計の蓋を開け閉めしていた。

 

「諸君に、伝えておかねばならないことがある」

低く、穏やかな声だった。

「近いうちに、この屋敷に客が来る。招かれざる客だ。おそらく、今夜か、明日の夜」

用心棒たちが、顔を見合わせた。

 

「どこの組の者で?」

古株の一人が尋ねた。グラナートは、小さく首を振った。

「組ではない。ハンターだよ」

広間の空気が、一瞬で凍りついた。

 

「ブラックリストハンター、と言ったほうが正確かね。どうやら私の名前が、協会の妙なリストに載ってしまったらしい」

 

グラナートは、困ったように眉を下げた。

 

「もちろん、濡れ衣だとも。私は、身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を世話してきただけだ。それを、商売敵か何かが、悪し様に吹き込んだのだろう。ハンターなどというのは、所詮、懸賞金目当ての狩人だ。真実など、どうでもいいのだよ」

 

身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を。

アッシュの頭の中で、植え込みの陰の小さな靴が、ぐらりと揺れた。

 

「報酬は、今の倍を出そう。いや、無事に追い払えたなら、十倍でもいい。頼むよ、諸君。私は、ただの年寄りの収集家なのだから」

 

用心棒たちの何人かが、ごくりと唾を飲んだ。十倍。

この世界の人間なら、誰もが目の色を変える額だった。

だが、古株の用心棒の顔からは、血の気が引いていた。

雇い主の名前がそのリストに載ったら、俺はその日のうちに逃げるね。

かつて夜番を共にしたドノヴァンの声が、耳の奥で蘇った。

 

その夜、屋敷の用心棒は、五人に減っていた。

古株の一人と、もう一人の若い男が、日が暮れるまでの間に姿を消した。

荷物も、報酬も、置いたまま。

アッシュは、残った。

 

なぜ残ったのか、自分でもうまく説明できなかった。

十倍の報酬に目が眩んだわけではない。守れと言われた仕事はする。

その一線を、まだ手放せなかったのかもしれない。

あるいは、確かめたかったのかもしれない。あの靴が、ただの思い過ごしなのかどうか。

グラナートが本当に濡れ衣を着せられた老人なのか。

 

夜半、アッシュは、屋敷の東側の見回りについていた。

月の明るい夜だった。手入れの行き届いた庭が、青白く照らされている。

屋敷の窓からは、オルゴールの音色が、かすかに漏れていた。

グラナートが、眠れずに鳴らしているのだろう。

体の内側に閉じ込めていた温もりを、アッシュは、ほんの少しだけ外へ広げた。

 

誰にも見せたことのない力だった。

だが、相手がハンターなら、話は別だ。念を知らない人間ではない。

おそらく、あの安酒場の痩せた男と同じ側の人間だ。

肌が、ぴりりと粟立った。

来る。

理屈ではなかった。体を包む温もりが、勝手に、何かに反応していた。

 

屋敷の外から、何かが近づいてくる。ゆっくりと、隠そうともせずに。

アッシュは、顔を上げた。

屋敷を囲む、高い石塀。その上に、人影が一つ、立っていた。

月を背負っていて、顔は見えなかった。ただ、すらりとした輪郭と、風にはためく外套の裾だけが、青白い夜空に黒く切り抜かれていた。

 

その人影から、圧が降ってきた。

あの夜の、安酒場の男と同じ種類のもの。

いや、それよりも、ずっと静かで、ずっと深い。

押し潰すのではなく、水が満ちるように、庭全体をゆっくりと浸していく。

アッシュの体を包んでいた温もりが、また、縮み上がりそうになった。

歯を食いしばって、それを、留めた。

人影が、わずかに首を傾けた。こちらを見ている。

塀の上から、屋敷の庭で一人だけ、気配を消さずに立っている若い用心棒を。

 

「……へえ」

 

夜風に乗って、低い声が届いた。

 

「念の分かるのが、一匹いるじゃないか」

 

人影は、塀の上から、音もなく庭へ降りてきた。

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