最初の雇い主は、港町の賭博場の主人だった。
仕事は単純だった。主人が店を回る時に、後ろについて歩く。
酔って暴れる客がいれば、外へ放り出す。
取り立てに行く時には、黙って横に立っている。
それだけで、相手は大抵、金を出した。
身元は、本当に問われなかった。仲介屋の言った通りだった。
腕が立つかどうか。裏切らないかどうか。この世界で問われるのは、その二つだけだった。
記録のない人間には、ちょうどいい場所だった。
賭博場の次は、密輸品を扱う商人だった。
その次は、高利貸し。
その次は、表向きは貿易商を名乗る、正体のよく分からない男。
雇い主は、半年か一年ごとに変わった。
仲介屋が次の口を持ってきて、アッシュはそれに乗る。
どの雇い主も、まともな商売をしている人間ではなかった。
それでも、金は良かった。安宿の宿代に追われることはなくなった。
用心棒の仕事をするうちに、アッシュは、自分なりの一線を決めた。
守るだけ。それ以上は、しない。
雇い主を狙ってくる者は、叩きのめして追い払う。
だが、殺さない。雇い主に命じられても、誰かを襲いには行かない。
脅しの場に立つことはあっても、自分から手を上げることはしない。
「お前は、甘いな」
高利貸しの男に、そう言われたことがある。
逃げた債務者を追って、締め上げてこいと命じられた時だった。
アッシュが首を横に振ると、男は呆れたように笑った。
「そんなんじゃ、この世界じゃ長生きできねえぞ」
「守れと言われた仕事はする。それ以外は、しない」
男は、しばらくアッシュの顔を眺めていたが、やがて肩をすくめた。
「ま、いい。腕は確かだからな」
結局、その男の下で一年働いた。
一度も、誰かを襲いに行かされることはなかった。
念は、相変わらず、誰の前でも使わなかった。
体を包む温もりは、いつも内側へ閉じ込めていた。
それでも、精孔が開いてから鍛え続けた体は、この世界の荒くれ者たちを相手にしても、まず負けることはなかった。
ナイフを持って飛びかかってくる男の手首を払い、勢いを横へ流して転がす。
銃を抜く前の腕に触れて、狙いをずらす。
触れて、ずらして、崩す。ウボォーとの相撲で覚えた戦い方が、ここでも役に立った。
ゴミ山の王様のことを、ふと思い出すことがあった。
今頃、どうしているだろう。まだ、あの山のてっぺんで寝転がっているのだろうか。
クロロは、みんなで劇をやるという夢を、叶えたのだろうか。
「いつか、見に戻る」
小指を絡めた約束を思い出して、アッシュは少しだけ笑った。
それから、目の前の仕事に意識を戻した。
戻るのは、ジャイロを見つけてからだ。
裏の世界で働くうちに、アッシュは、情報を変えることを知った。
どの街にも、情報屋がいた。
酒場の奥の席に座って、金と引き換えに、知っていることを売る。
誰がどこで何を取引したか。どの組織が誰を探しているか。
どの役人に、いくら握らせれば話が通るか。
稼いだ金の一部を、アッシュはそこに注ぎ込んだ。
流星街から出てきた、二十歳くらいの男を探している。
名前は、ジャイロ。痩せていて、口数が少ない。頭がよく回る。
もしかしたら、どこかの現場で、人を使う立場になっているかもしれない。
情報屋たちは、金を受け取り、数日後に首を振った。
「流星街の出の人間なんざ、名乗らなけりゃ分からねえよ。記録がねえんだからな」
「ジャイロって名前だけじゃあなあ。偽名を使ってりゃ、それまでだ」
一人だけ、少し長く考え込んだ情報屋がいた。
「頭が切れて、現場を回すのがうまくて、流星街の出。そういう若いのが、どこかで名を上げてりゃ、噂くらいは流れてくるはずだがね。流れてこないってことは」
情報屋は、アッシュの顔を見た。
「死んでるか、表の世界に紛れ込んでるか。どっちかだろうよ」
アッシュは、何も言わなかった。
死んでいる。その可能性を、考えなかったわけではない。
十二の子どもが、金袋一つ持って、一人で外へ出ていったのだ。
爺さんも言っていた。そいつだって、生き延びられるかどうか分からん、と。
それでも、アッシュは探すのをやめなかった。やめられなかった。
ある晩、同じ雇い主の下で働いていた年配の用心棒と、夜番を組んだ。
ドノヴァンという、頬に古い傷のある男だった。この世界に二十年いるという。
用心棒の中では珍しく、口数の多い男だった。
「お前、人を探してるんだってな。情報屋の間じゃ、ちょっとした噂だぞ。金払いのいい若造が、流星街のガキを探し回ってるって」
「……悪いか」
「悪かねえよ。ただ、効率が悪い」
ドノヴァンは、煙草に火をつけた。
「本気で人を探したいなら、ハンターに頼むのが一番だ」
「ハンター」
その言葉に、アッシュの胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「ハンター証ってのを持ってる連中だ。協会が認めた、特別な許可証でな。それがあれば、普通は入れねえ場所にも入れる。普通は見られねえ情報も見られる。各国の役所も、警察も、大抵はあの証を見せれば教えてくれるんだとよ」
「……そんなものが」
「ああ。人探しなら、そういう連中の専門だ。高えがな。それに、ハンターにもいろいろいる。宝を探すやつ、珍しい獣を探すやつ。中でも、俺たちみたいな稼業の人間が一番会いたくねえのが」
ドノヴァンは、煙を長く吐いた。
「ブラックリストハンター。賞金首を狩る連中だ。協会のリストに載った犯罪者を、どこまでも追いかけてくる。雇い主の名前がそのリストに載ったら、俺はその日のうちに逃げるね。給料なんざどうでもいい。あいつらとやり合ったら、命がいくつあっても足りねえ」
アッシュは、夜の庭を見つめていた。
ハンター。
その言葉を、前世の記憶が知っていた。
釣り竿を持った少年が、ハンターになろうとする話だった。父親を探すために。
人を、探すために。
「ハンターには、どうやったらなれる」
アッシュの問いに、ドノヴァンは目を丸くした。それから、喉の奥で笑った。
「試験がある。年に一度な。世界中から何百人、何千人と集まって、受かるのは数人だ。死ぬやつも出るって話だ。腕っぷしだけじゃどうにもならねえ。普通の人間には、まず無理だよ」
普通の人間には。
アッシュは、体の内側に閉じ込めている温もりのことを考えた。
それから、安酒場で見た、あの痩せた男のことを。
素人が何か齧っているな、と値踏みした、退屈そうな目のことを。
仲介屋が、これまでで一番の口を持ってきた。
「報酬は、今までの倍だ。いや、三倍出すと言ってる。雇い主は、ある国の古い家柄の旦那でな。品のいい、穏やかなお人だよ。古い時計やオルゴールを集めるのが趣味だそうだ」
「なんで、そんな人間に用心棒が要る」
「金持ちには、敵が多いもんさ」
仲介屋は、いつもの、目の笑っていない笑顔で言った。
屋敷は、郊外の丘の上にあった。高い塀に囲まれた、古い石造りの館。
手入れの行き届いた庭。
正面の広間には、大小の時計とオルゴールが、壁一面に並べられていた。
どれも、丁寧に磨かれていた。
雇い主のグラナートは、仲介屋の言った通りの男だった。
銀色の髪を後ろに撫でつけた、六十過ぎの紳士。物腰は柔らかく、声は低く穏やかで、使用人にも丁寧な言葉を使う。
初めて会った日、グラナートは自らアッシュに紅茶を淹れてくれた。
「君の噂は聞いているよ。腕が立って、口が堅くて、決して余計なことをしない。私が一番欲しかったのは、そういう人だ」
「守れと言われた仕事は、します」
「それで十分だとも」
グラナートは、目を細めて微笑んだ。それから、ふと、アッシュの顔をじっと見つめた。
「君は、どこの出身かね」
「……東のほうです」
「ふむ」
グラナートは、紅茶を一口含んだ。
「流星街ではないかね」
アッシュの手が、一瞬だけ止まった。
「あそこの人間は、目で分かるのだよ。何も持たずに生まれて、何も持たずに育った者の目だ。私は、そういう目をした人間が嫌いではない。むしろ、とても好ましく思っている」
穏やかな声だった。悪意は、少しも感じられなかった。
それなのに、なぜか、背中の産毛が逆立った。
屋敷での仕事は、楽なものだった。
グラナートが外出する時に付き添い、夜は他の用心棒たちと交代で屋敷の見回りをする。
主人が誰かに襲われるようなことは、ひと月の間、一度もなかった。
だが、アッシュの中の違和感は、日に日に大きくなっていった。
屋敷の裏手に、離れが一棟あった。窓には鉄格子がはまり、扉には常に鍵がかかっている。見回りの範囲からも、外されていた。
「あそこは、旦那様の大事な品を保管しておく倉庫だ。俺たちは近づかなくていい」
古株の用心棒は、そう言って目を逸らした。
ひと月に一度か二度、夜更けに、屋敷の裏門へ幌のかかったトラックが入ってくる。
荷を降ろす時には、使用人たちが総出で、用心棒は表に回される。
何を運び込んでいるのか、誰も口にしなかった。
ある朝、見回りの途中で、アッシュは裏庭の植え込みの陰に、小さなものを見つけた。
子どもの靴だった。
片方だけ。泥にまみれて、底が擦り切れている。四つか五つくらいの子どもの、小さな、小さな靴だった。
アッシュは、それを拾い上げて、しばらく見つめた。
この屋敷に、子どもはいない。
使用人は皆、大人だ。グラナートには、家族もいないと聞いていた。
頭の奥で、何かが鳴った。
子どもを連れてく、悪い大人がいるんだって。
ずっと昔、まだ小さかったクロロが、明るい声でそう言っていた。
流星街の人間は、記録の上では存在しない。だから、さらっても、誰も罪に問われない。
流星街の人間は、目で分かるのだよ。
アッシュは、靴を握りしめた。
証拠は、何もない。ただの思い過ごしかもしれない。
どこかの使用人が、自分の子どもの靴を落としただけかもしれない。
守れと言われた仕事は、する。それ以外は、しない。
その一線が、初めて、ひどく脆いものに思えた。
アッシュは、靴を植え込みの陰に戻した。
そして、何も見なかったように、見回りを続けた。
その日の夕方、グラナートが用心棒全員を広間に集めた。
広間には、用心棒が七人集められていた。
グラナートは、壁一面のオルゴールを背にして立っていた。
いつもと同じ、穏やかな微笑みを浮かべている。
だが、その指先が、落ち着きなく懐中時計の蓋を開け閉めしていた。
「諸君に、伝えておかねばならないことがある」
低く、穏やかな声だった。
「近いうちに、この屋敷に客が来る。招かれざる客だ。おそらく、今夜か、明日の夜」
用心棒たちが、顔を見合わせた。
「どこの組の者で?」
古株の一人が尋ねた。グラナートは、小さく首を振った。
「組ではない。ハンターだよ」
広間の空気が、一瞬で凍りついた。
「ブラックリストハンター、と言ったほうが正確かね。どうやら私の名前が、協会の妙なリストに載ってしまったらしい」
グラナートは、困ったように眉を下げた。
「もちろん、濡れ衣だとも。私は、身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を世話してきただけだ。それを、商売敵か何かが、悪し様に吹き込んだのだろう。ハンターなどというのは、所詮、懸賞金目当ての狩人だ。真実など、どうでもいいのだよ」
身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を。
アッシュの頭の中で、植え込みの陰の小さな靴が、ぐらりと揺れた。
「報酬は、今の倍を出そう。いや、無事に追い払えたなら、十倍でもいい。頼むよ、諸君。私は、ただの年寄りの収集家なのだから」
用心棒たちの何人かが、ごくりと唾を飲んだ。十倍。
この世界の人間なら、誰もが目の色を変える額だった。
だが、古株の用心棒の顔からは、血の気が引いていた。
雇い主の名前がそのリストに載ったら、俺はその日のうちに逃げるね。
かつて夜番を共にしたドノヴァンの声が、耳の奥で蘇った。
その夜、屋敷の用心棒は、五人に減っていた。
古株の一人と、もう一人の若い男が、日が暮れるまでの間に姿を消した。
荷物も、報酬も、置いたまま。
アッシュは、残った。
なぜ残ったのか、自分でもうまく説明できなかった。
十倍の報酬に目が眩んだわけではない。守れと言われた仕事はする。
その一線を、まだ手放せなかったのかもしれない。
あるいは、確かめたかったのかもしれない。あの靴が、ただの思い過ごしなのかどうか。
グラナートが本当に濡れ衣を着せられた老人なのか。
夜半、アッシュは、屋敷の東側の見回りについていた。
月の明るい夜だった。手入れの行き届いた庭が、青白く照らされている。
屋敷の窓からは、オルゴールの音色が、かすかに漏れていた。
グラナートが、眠れずに鳴らしているのだろう。
体の内側に閉じ込めていた温もりを、アッシュは、ほんの少しだけ外へ広げた。
誰にも見せたことのない力だった。
だが、相手がハンターなら、話は別だ。念を知らない人間ではない。
おそらく、あの安酒場の痩せた男と同じ側の人間だ。
肌が、ぴりりと粟立った。
来る。
理屈ではなかった。体を包む温もりが、勝手に、何かに反応していた。
屋敷の外から、何かが近づいてくる。ゆっくりと、隠そうともせずに。
アッシュは、顔を上げた。
屋敷を囲む、高い石塀。その上に、人影が一つ、立っていた。
月を背負っていて、顔は見えなかった。ただ、すらりとした輪郭と、風にはためく外套の裾だけが、青白い夜空に黒く切り抜かれていた。
その人影から、圧が降ってきた。
あの夜の、安酒場の男と同じ種類のもの。
いや、それよりも、ずっと静かで、ずっと深い。
押し潰すのではなく、水が満ちるように、庭全体をゆっくりと浸していく。
アッシュの体を包んでいた温もりが、また、縮み上がりそうになった。
歯を食いしばって、それを、留めた。
人影が、わずかに首を傾けた。こちらを見ている。
塀の上から、屋敷の庭で一人だけ、気配を消さずに立っている若い用心棒を。
「……へえ」
夜風に乗って、低い声が届いた。
「念の分かるのが、一匹いるじゃないか」
人影は、塀の上から、音もなく庭へ降りてきた。