ゴミ山から始まる友情   作:板前さん

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9.念と力の使い方

男が、庭に降り立った。

月明かりの下で、ようやくその姿が見えた。

三十をいくつか過ぎたくらいの、背の高い男だった。短く刈り込んだ黒髪。日に焼けた肌。古びた革の外套の下に、厚い胸板が覗いている。顎には無精髭。目つきは鋭いが、口元には、どこか面倒くさそうな笑みが浮かんでいた。

 

「そう構えるなよ、若いの」

 

男は、肩を回しながら言った。

「用があるのは、中の爺さんだけだ。お前らに恨みはねえ。どいてくれりゃ、それで済む」

その時、屋敷の両側から、足音が駆けてきた。アッシュの他に残っていた、四人の用心棒だった。手には、それぞれ刃物や棍棒を持っている。

 

「ハンターだ! 囲め!」

 

四人が、男を取り囲んだ。

男は、ため息をついた。

 

「話を聞かねえ連中だな」

 

一人目が、背後から棍棒を振り下ろした。

男は、振り返りもしなかった。

半歩横にずれて棍棒を空振らせ、そのまま肘を相手のみぞおちに叩き込む。

用心棒の体が、くの字に折れて崩れ落ちた。

二人目と三人目が、同時に刃物を突き出した。

男は、片方の手首を掴んでもう片方の刃先に向けて引き寄せ、二人をぶつけ合わせた。

鈍い音がして、二人が重なり合って倒れる。

四人目は、腰の拳銃に手を伸ばしていた。

抜く前に、男の拳が、その顎を下から打ち上げていた。

四人が地面に転がるまで、十も数えないうちだった。

 

アッシュは、その一部始終を見ていた。そして、気づいた。

この男は、念を使っていない。

塀の上から降ってきた、あの圧は、今は跡形もなく消えている。

四人を倒した拳にも、肘にも、何の力も込められていなかった。

ただの、鍛え抜かれた体と、場数を踏んだ技だけで、武装した男たちを片づけていた。

 

男が、倒れた用心棒たちを跨いで、アッシュのほうへ歩いてきた。

「さて」

五歩ほどの距離で、立ち止まる。

「残るは、お前だけだな」

アッシュは、構えを解かなかった。

 

「お前も、どいてくれると助かるんだがな。念の分かるやつと、念の分かるやり方でやり合うのは、こっちも面倒なんだよ」

 

「……守れと言われた仕事は、する」

自分の声が、少しだけ掠れていた。

男は、片眉を上げた。

「そうかい」

それから、どこか可笑しそうに、喉の奥で笑った。

「律儀なこった。中の爺さんが何をしてるか、知ってて言ってんのか」

 

アッシュは、答えられなかった。

植え込みの陰の、小さな靴。鍵のかかった離れ。

夜更けに入ってくる、幌のかかったトラック。

身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を。

知らない。確かめていない。

 

「……知らない」

「なら、教えてやるよ」

 

男の体から、圧が溢れ出した。

塀の上で感じたものと、同じだった。

水が満ちるように、静かに、深く、庭全体を浸していく。

 

「俺を倒せたらな」

 

男が、踏み込んできた。

小細工は、何もなかった。ただ、まっすぐに。最短の距離を、最速で。右の拳が、アッシュの顔面めがけて飛んでくる。

 

速い。だが、見えた。アッシュは首を傾けて、拳の側面に左手を添えた。

港で、何十人もの男を相手にやってきたことだ。真正面からは受けない。

勢いを、ほんの少しだけ横へ流す。

手のひらが、拳に触れた。

流れなかった。

岩だった。いや、岩よりも硬く、重い。

添えた手のひらが、まるで走ってくる鉄の塊に触れたように弾き飛ばされた。

腕の芯まで痺れが走る。

拳は、アッシュの頬を掠めて通り過ぎ、背後の植え込みを風圧だけでなぎ倒した。

掠めただけで、頬の皮が裂けていた。

アッシュは、跳び退がった。心臓が、早鐘を打っている。

 

「おっ、よく避けたな」

男が、楽しそうに言った。

「素人なら、今ので首が飛んでる」

 

男の体を包むオーラは、厚かった。

アッシュが体に纏わせている薄い膜とは、まるで別のものだった。

皮膚の上に、もう一枚、鋼の鎧を着込んでいるような。

それが、拳にも、肩にも、脚にも、隙間なく張り巡らされている。

力が、全部、体に向いている。

難しいことは何もしていない。。拳を硬くし、脚を速くし、体を強化している。

それだけだ。それだけのことを、アッシュの想像も及ばない深さで、やっている。

 

二撃目が来た。

今度は、左のフック。アッシュは身を沈めて躱し、懐に潜り込んだ。

がら空きの脇腹に、全身の力を込めた拳を叩き込む。

手応えはなかった。

殴った拳のほうが痺れた。

分厚いゴムの塊を殴ったような、跳ね返されるような感触。

男は、身じろぎもしなかった。

 

「軽いな」

 

男の膝が、アッシュの腹に食い込んだ。

息が、肺から全部抜けた。体が宙に浮く。地面に叩きつけられ、二度、三度と転がった。

 

体を包んでいた温もりが、衝撃のを吸い取ってくれた。

そうでなければ、今ので内臓が潰れていた。それが、自分でも分かった。

立ち上がろうとして、膝が震えた。

勝てない。

二年かけて独りで積み上げてきたものが、この男の前では、紙切れほどの意味も持たない。

 

拳は届かない。流そうとしても、流れない。

ゴミ山で、港で、裏の世界で覚えてきた戦い方の、どれ一つとして通用しない。

それでも、アッシュは立った。

守れと言われた仕事は、する。それだけを、杖のように握りしめて。

 

男が、また踏み込んできた。

右の拳。さっきと同じ、まっすぐな一撃。避けられない。足が、もう言うことを聞かない。

だから、アッシュは、避けなかった。

迫ってくる男の右腕に、両手を添えた。拳ではなく、肘の内側に。

そして、体の内側に溜めていた温もりを、ありったけ、手のひらから流し込んだ。

小石を震わせた時のように。虫の脚を、もつれさせた時のように。

 

ずれろ。

 

男の右腕が、ほんのわずかに、軌道を外れた。

拳は、アッシュの耳の横を通り過ぎた。さっきよりも、指一本分だけ、外側を。

それだけだった。

次の瞬間、男の左手が、アッシュの胸ぐらを掴んでいた。軽々と持ち上げられ、そのまま背中から地面に叩きつけられた。視界が白く弾けた。

 

仰向けに倒れたまま、もう指一本動かせなかった。

体を包んでいた温もりも、ほとんど空っぽになっていた。

月が、ひどく遠くに見えた。

その月を遮るように、男がアッシュの顔を覗き込んだ。

 

さっきまでの面倒くさそうな笑みは、消えていた。代わりに、何かを確かめるような、真剣な目をしていた。

男は、自分の右腕を見下ろした。肘の内側を、もう片方の手でさすっている。

 

「……今、俺の腕がおかしかったな」

独り言のような声だった。

「お前、何をした」

 

「……触って、流し込んだ」

掠れた声で、アッシュは答えた。

「ずれろ、と思って」

 

男は、しばらく黙ってアッシュを見下ろしていた。それから、ふっと息を吐いて、笑った。さっきまでの面倒くさそうな笑みとは違う、心底面白がっているような笑い方だった。

 

「ずれろ、ねえ」

男は、アッシュの腕を掴んで、引きずり起こした。足に力が入らない。男の肩に半分担がれるようにして、ようやく立った。

 

「シンだ」

男が言った。

「ブラックリストハンターのシン。で、お前は」

「……アッシュ」

「よし、アッシュ。歩けねえだろうが、ついて来い。教えてやるって言ったろ。中の爺さんが、何をしてるか」

 

シンは、アッシュを担いだまま、屋敷の裏手へ歩き出した。

途中で、屋敷の裏口が勢いよく開いた。

銀色の髪を振り乱して、グラナートが飛び出してくる。手には小さな鞄を一つ抱えていた。裏門へ向かって、老人とは思えない速さで駆けていく。

 

シンは、アッシュを担いだまま、足元の小石を一つ蹴り上げた。

小石は、まっすぐにグラナートの膝の裏を打った。老人の体が、前のめりに転がる。鞄が地面に投げ出され、中から札束と書類がばらばらと散らばった。

 

「逃げ足だけは達者だな、爺さん」

 

シンは、片手でグラナートの襟首を掴んで、ずるずると引きずった。

老人は何か喚いていたが、シンは聞いていなかった。

離れの前に着いた。

鉄格子のはまった窓。分厚い鉄の扉。大きな錠前が、二つ。

シンは、アッシュを壁に寄りかからせた。

それから、錠前に手をかけた。鍵を探すでもなく、ただ、握った。

金属が、ひしゃげる音がした。

錠前が二つとも、粘土のように握り潰されて、地面に落ちた。

シンが扉を引くと、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てて開いた。

 

湿った空気と、饐えた匂いが流れ出してくる。

アッシュは、壁に寄りかかったまま、それを見た。

檻だった。

離れの中は、いくつもの小部屋に区切られていた。どの部屋にも、鉄格子がはまっている。その奥に、小さな影が、いくつも身を寄せ合っていた。

子どもたちだ。

 

四つか五つくらいの子から、十くらいの子まで。十人近くいた。どの子も痩せていて、汚れた服を着ている。ランプの明かりに目を細めて、怯えたようにこちらを見ていた。

誰も、声を上げなかった。泣く子も、いなかった。

泣いても無駄だと、もう知っている顔だった。

 

「流星街。この国の外れのスラム。戦争で焼けた村。生まれた記録も、親の記録もねえ子どもたちを、この爺さんは買い集めてた。いや、さらってた、のほうが正しいな」

 

シンは、床に散らばった書類の一枚を拾い上げた。アッシュの目の前に、それを突きつける。

日付と、年齢と、性別と、値段。そして、売った先の名前。何十行も、びっしりと並んでいた。

 

「収集家ってのは、嘘じゃねえ。こいつは、時計やオルゴールと同じように、子どもを集めて、磨いて、売りさばいてたんだ。記録がねえから、どこに売られても、誰も探さねえ。足がつかねえ。こいつにとっちゃ、最高の商品ってわけだ」

 

「私は」

床に転がされたグラナートが、喘ぐように言った。

「私は、彼らに居場所を与えてやったのだ。ゴミ溜めで野垂れ死ぬはずだった子どもたちに。何も持たない子どもたちに、価値を与えてやったのだ。感謝されこそすれ」

 

アッシュの体が、勝手に動いていた。

足は、もう動かないはずだった。それなのに、壁から体を引き剥がして、グラナートのほうへ一歩踏み出していた。拳を握っていた。

空っぽのはずの体の奥から、何かが、また溢れ出そうとしていた。

その肩を、シンの手が掴んだ。

「やめとけ」

「……離せ」

「今のお前が念を込めて殴ったら、この爺さんは死ぬ。それじゃ駄目なんだよ」

シンの声は、低く、静かだった。

「こいつは、生きて裁かれなきゃならねえ。この書類に載ってる、売られた先の連中も、全部な。殺したら、そこで終わりだ。売られた子どもたちの行き先が、分からなくなる」

 

アッシュの拳が、震えていた。

やがて、ゆっくりと、力が抜けていった。

シンが、檻の扉を一つずつ、素手で引き開けていった。

一番奥の檻の隅に、小さな女の子がうずくまっていた。四つか五つくらい。膝を抱えて、こちらを見上げている。

その足には、靴が、片方しかなかった。

アッシュは、膝をついた。女の子と、目の高さを合わせた。

何か言おうとして、言葉が出てこなかった。

守れと言われた仕事はする。

自分は、ひと月の間、この子を閉じ込めている男を、守っていたのだ。

女の子が、おずおずと手を伸ばしてきた。汚れた、小さな手だった。アッシュは、その手を、そっと握った。

 

夜が明ける頃、屋敷の前に何台もの車が着いた。

シンが呼んだ、協会の関係者たちだった。手際よく子どもたちを毛布でくるみ、車に乗せていく。グラナートは手錠をかけられ、別の車に押し込まれた。最後まで、何かを喚いていた。誰も、耳を貸さなかった。

 

屋敷の石塀に、シンが腰かけていた。

外套のポケットから取り出した固いパンを、むしゃむしゃと齧っている。

アッシュは、その下の地面に座り込んだ。全身が、まだ悲鳴を上げていた。

 

「食うか」

シンが、パンを半分にちぎって差し出してきた。アッシュは、少しためらってから、受け取った。

 

しばらく、二人とも黙ってパンを齧っていた。

「……俺は、ひと月、あの男を守ってた」

やがて、アッシュがぽつりと言った。

「あの靴を見つけた日に、気づいてた。何かおかしいって。それなのに、何も見なかったことにした。守れと言われた仕事はする。それだけ考えて」

シンは、パンを飲み込んだ。

「知らなかったんだろ」

「知ろうとしなかった」

「なら、これから知れ」

 

シンの声は、相変わらず面倒くさそうだった。けれど、その目は、まっすぐにアッシュを見ていた。

 

「守る相手を、自分で選べるようになれ。誰に言われたからじゃなく、自分の目で見て、自分で決めろ。それができりゃ、昨日の律儀さは、悪いもんじゃねえ」

 

アッシュは、パンを握ったまま、黙っていた。

 

「で、お前、念はどこで習った」

「……独学だ」

シンが、パンを喉に詰まらせかけた。

「独学? 誰にも習わずに?」

「瞑想で、精孔を開いた。二年かかった。それから、思いつく限りのことを試した。でも、その先が分からなかった」

 

シンは、しばらく呆れたようにアッシュを見ていた。それから、腹を抱えて笑い出した。

 

「はっはっは! 独学で! 無茶しやがる! 一歩間違えりゃ、精孔が開いた瞬間に干からびて死んでるぞ、お前!」

 

「……死にかけた」

 

「だろうな!」

ひとしきり笑ってから、シンは、ふと真顔に戻った。

 

「俺はな、強化系だ」

 

自分の右腕を、軽く叩いた。

 

「難しいことは、何もできねえ。オーラを全部、体に回す。拳を硬くして、脚を速くして、体を強くする。殴る、守る、走る。それだけを、十五年かけて極めてきた。正面からの殴り合いなら、そうそう誰にも負けねえ」

 

シンは、肘の内側をさすった。昨夜、アッシュの手が触れた場所を。

「その俺の腕を、お前は、指一本分ずらした」

「……指一本分だけだ」

「指一本分もだよ」

シンの声が、少しだけ低くなった。

 

「強化系の俺の体は、外から何かを流し込まれたって、そう簡単には揺るがねえ。それを、独学で、形にもなってねえ念で、ずらしやがった。お前、触ったものを操るタイプだろう。操作系だ。それも、相当な素質がある」

 

操作系。安宿の床で、葉っぱが回るのを見ながら、霧の中から拾い上げた言葉。間違っていなかったのだ。

 

「だが、今のままじゃ、どこにも行けねえ。昨日の俺に、手も足も出なかったようにな」

 

シンは、石塀から飛び降りて、アッシュの前に立った。

 

「俺のところに来い。叩き込んでやる」

アッシュは、顔を上げた。

「……なんで、俺を」

「さあな」

シンは、肩をすくめた。

 

「強いて言えば、昨日、檻の前で、お前は爺さんを殴りかけて、止まった。頭に血が上ってる時に、止まれるやつは、伸びる。止まれねえやつは、いつか自分の力に食われる」

 

それから、にやりと笑った。

 

「あとは、律儀なのは嫌いじゃねえ」

アッシュは、しばらく黙っていた。

それから、口を開いた。

 

「人を、探してる」

「ほう」

「十二年前に、流星街から一人で出ていった友達だ。ずっと探してるけど、手がかりが一つもない。ハンターになれば、探せると思った。でも、今の俺じゃ、試験に受かるどころか」

 

「なら、ちょうどいい」

 

シンは、アッシュに手を差し出した。

 

「ハンター試験まで、きっちり叩き込んでやる。ただし、俺の修行はきついぞ。独学で死にかけたのが、かわいく思えるくらいにな」

 

アッシュは、差し出された手を見た。

分厚い、硬い手だった。爺さんの手とも、ジャイロのひび割れた手とも違う。

けれど、どこか、同じ温かさがあった。

アッシュは、その手を握った。

 

「……よろしく頼む」

「おう」

 

シンが、アッシュを引っ張り上げた。全身の痛みに、アッシュは顔をしかめた。

丘の向こうから、朝日が昇ってきた。

日の昇る方を、右手に。アッシュは、無意識に、その向きを確かめていた。

 

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