男が、庭に降り立った。
月明かりの下で、ようやくその姿が見えた。
三十をいくつか過ぎたくらいの、背の高い男だった。短く刈り込んだ黒髪。日に焼けた肌。古びた革の外套の下に、厚い胸板が覗いている。顎には無精髭。目つきは鋭いが、口元には、どこか面倒くさそうな笑みが浮かんでいた。
「そう構えるなよ、若いの」
男は、肩を回しながら言った。
「用があるのは、中の爺さんだけだ。お前らに恨みはねえ。どいてくれりゃ、それで済む」
その時、屋敷の両側から、足音が駆けてきた。アッシュの他に残っていた、四人の用心棒だった。手には、それぞれ刃物や棍棒を持っている。
「ハンターだ! 囲め!」
四人が、男を取り囲んだ。
男は、ため息をついた。
「話を聞かねえ連中だな」
一人目が、背後から棍棒を振り下ろした。
男は、振り返りもしなかった。
半歩横にずれて棍棒を空振らせ、そのまま肘を相手のみぞおちに叩き込む。
用心棒の体が、くの字に折れて崩れ落ちた。
二人目と三人目が、同時に刃物を突き出した。
男は、片方の手首を掴んでもう片方の刃先に向けて引き寄せ、二人をぶつけ合わせた。
鈍い音がして、二人が重なり合って倒れる。
四人目は、腰の拳銃に手を伸ばしていた。
抜く前に、男の拳が、その顎を下から打ち上げていた。
四人が地面に転がるまで、十も数えないうちだった。
アッシュは、その一部始終を見ていた。そして、気づいた。
この男は、念を使っていない。
塀の上から降ってきた、あの圧は、今は跡形もなく消えている。
四人を倒した拳にも、肘にも、何の力も込められていなかった。
ただの、鍛え抜かれた体と、場数を踏んだ技だけで、武装した男たちを片づけていた。
男が、倒れた用心棒たちを跨いで、アッシュのほうへ歩いてきた。
「さて」
五歩ほどの距離で、立ち止まる。
「残るは、お前だけだな」
アッシュは、構えを解かなかった。
「お前も、どいてくれると助かるんだがな。念の分かるやつと、念の分かるやり方でやり合うのは、こっちも面倒なんだよ」
「……守れと言われた仕事は、する」
自分の声が、少しだけ掠れていた。
男は、片眉を上げた。
「そうかい」
それから、どこか可笑しそうに、喉の奥で笑った。
「律儀なこった。中の爺さんが何をしてるか、知ってて言ってんのか」
アッシュは、答えられなかった。
植え込みの陰の、小さな靴。鍵のかかった離れ。
夜更けに入ってくる、幌のかかったトラック。
身寄りのない子どもたちに、新しい居場所を。
知らない。確かめていない。
「……知らない」
「なら、教えてやるよ」
男の体から、圧が溢れ出した。
塀の上で感じたものと、同じだった。
水が満ちるように、静かに、深く、庭全体を浸していく。
「俺を倒せたらな」
男が、踏み込んできた。
小細工は、何もなかった。ただ、まっすぐに。最短の距離を、最速で。右の拳が、アッシュの顔面めがけて飛んでくる。
速い。だが、見えた。アッシュは首を傾けて、拳の側面に左手を添えた。
港で、何十人もの男を相手にやってきたことだ。真正面からは受けない。
勢いを、ほんの少しだけ横へ流す。
手のひらが、拳に触れた。
流れなかった。
岩だった。いや、岩よりも硬く、重い。
添えた手のひらが、まるで走ってくる鉄の塊に触れたように弾き飛ばされた。
腕の芯まで痺れが走る。
拳は、アッシュの頬を掠めて通り過ぎ、背後の植え込みを風圧だけでなぎ倒した。
掠めただけで、頬の皮が裂けていた。
アッシュは、跳び退がった。心臓が、早鐘を打っている。
「おっ、よく避けたな」
男が、楽しそうに言った。
「素人なら、今ので首が飛んでる」
男の体を包むオーラは、厚かった。
アッシュが体に纏わせている薄い膜とは、まるで別のものだった。
皮膚の上に、もう一枚、鋼の鎧を着込んでいるような。
それが、拳にも、肩にも、脚にも、隙間なく張り巡らされている。
力が、全部、体に向いている。
難しいことは何もしていない。。拳を硬くし、脚を速くし、体を強化している。
それだけだ。それだけのことを、アッシュの想像も及ばない深さで、やっている。
二撃目が来た。
今度は、左のフック。アッシュは身を沈めて躱し、懐に潜り込んだ。
がら空きの脇腹に、全身の力を込めた拳を叩き込む。
手応えはなかった。
殴った拳のほうが痺れた。
分厚いゴムの塊を殴ったような、跳ね返されるような感触。
男は、身じろぎもしなかった。
「軽いな」
男の膝が、アッシュの腹に食い込んだ。
息が、肺から全部抜けた。体が宙に浮く。地面に叩きつけられ、二度、三度と転がった。
体を包んでいた温もりが、衝撃のを吸い取ってくれた。
そうでなければ、今ので内臓が潰れていた。それが、自分でも分かった。
立ち上がろうとして、膝が震えた。
勝てない。
二年かけて独りで積み上げてきたものが、この男の前では、紙切れほどの意味も持たない。
拳は届かない。流そうとしても、流れない。
ゴミ山で、港で、裏の世界で覚えてきた戦い方の、どれ一つとして通用しない。
それでも、アッシュは立った。
守れと言われた仕事は、する。それだけを、杖のように握りしめて。
男が、また踏み込んできた。
右の拳。さっきと同じ、まっすぐな一撃。避けられない。足が、もう言うことを聞かない。
だから、アッシュは、避けなかった。
迫ってくる男の右腕に、両手を添えた。拳ではなく、肘の内側に。
そして、体の内側に溜めていた温もりを、ありったけ、手のひらから流し込んだ。
小石を震わせた時のように。虫の脚を、もつれさせた時のように。
ずれろ。
男の右腕が、ほんのわずかに、軌道を外れた。
拳は、アッシュの耳の横を通り過ぎた。さっきよりも、指一本分だけ、外側を。
それだけだった。
次の瞬間、男の左手が、アッシュの胸ぐらを掴んでいた。軽々と持ち上げられ、そのまま背中から地面に叩きつけられた。視界が白く弾けた。
仰向けに倒れたまま、もう指一本動かせなかった。
体を包んでいた温もりも、ほとんど空っぽになっていた。
月が、ひどく遠くに見えた。
その月を遮るように、男がアッシュの顔を覗き込んだ。
さっきまでの面倒くさそうな笑みは、消えていた。代わりに、何かを確かめるような、真剣な目をしていた。
男は、自分の右腕を見下ろした。肘の内側を、もう片方の手でさすっている。
「……今、俺の腕がおかしかったな」
独り言のような声だった。
「お前、何をした」
「……触って、流し込んだ」
掠れた声で、アッシュは答えた。
「ずれろ、と思って」
男は、しばらく黙ってアッシュを見下ろしていた。それから、ふっと息を吐いて、笑った。さっきまでの面倒くさそうな笑みとは違う、心底面白がっているような笑い方だった。
「ずれろ、ねえ」
男は、アッシュの腕を掴んで、引きずり起こした。足に力が入らない。男の肩に半分担がれるようにして、ようやく立った。
「シンだ」
男が言った。
「ブラックリストハンターのシン。で、お前は」
「……アッシュ」
「よし、アッシュ。歩けねえだろうが、ついて来い。教えてやるって言ったろ。中の爺さんが、何をしてるか」
シンは、アッシュを担いだまま、屋敷の裏手へ歩き出した。
途中で、屋敷の裏口が勢いよく開いた。
銀色の髪を振り乱して、グラナートが飛び出してくる。手には小さな鞄を一つ抱えていた。裏門へ向かって、老人とは思えない速さで駆けていく。
シンは、アッシュを担いだまま、足元の小石を一つ蹴り上げた。
小石は、まっすぐにグラナートの膝の裏を打った。老人の体が、前のめりに転がる。鞄が地面に投げ出され、中から札束と書類がばらばらと散らばった。
「逃げ足だけは達者だな、爺さん」
シンは、片手でグラナートの襟首を掴んで、ずるずると引きずった。
老人は何か喚いていたが、シンは聞いていなかった。
離れの前に着いた。
鉄格子のはまった窓。分厚い鉄の扉。大きな錠前が、二つ。
シンは、アッシュを壁に寄りかからせた。
それから、錠前に手をかけた。鍵を探すでもなく、ただ、握った。
金属が、ひしゃげる音がした。
錠前が二つとも、粘土のように握り潰されて、地面に落ちた。
シンが扉を引くと、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てて開いた。
湿った空気と、饐えた匂いが流れ出してくる。
アッシュは、壁に寄りかかったまま、それを見た。
檻だった。
離れの中は、いくつもの小部屋に区切られていた。どの部屋にも、鉄格子がはまっている。その奥に、小さな影が、いくつも身を寄せ合っていた。
子どもたちだ。
四つか五つくらいの子から、十くらいの子まで。十人近くいた。どの子も痩せていて、汚れた服を着ている。ランプの明かりに目を細めて、怯えたようにこちらを見ていた。
誰も、声を上げなかった。泣く子も、いなかった。
泣いても無駄だと、もう知っている顔だった。
「流星街。この国の外れのスラム。戦争で焼けた村。生まれた記録も、親の記録もねえ子どもたちを、この爺さんは買い集めてた。いや、さらってた、のほうが正しいな」
シンは、床に散らばった書類の一枚を拾い上げた。アッシュの目の前に、それを突きつける。
日付と、年齢と、性別と、値段。そして、売った先の名前。何十行も、びっしりと並んでいた。
「収集家ってのは、嘘じゃねえ。こいつは、時計やオルゴールと同じように、子どもを集めて、磨いて、売りさばいてたんだ。記録がねえから、どこに売られても、誰も探さねえ。足がつかねえ。こいつにとっちゃ、最高の商品ってわけだ」
「私は」
床に転がされたグラナートが、喘ぐように言った。
「私は、彼らに居場所を与えてやったのだ。ゴミ溜めで野垂れ死ぬはずだった子どもたちに。何も持たない子どもたちに、価値を与えてやったのだ。感謝されこそすれ」
アッシュの体が、勝手に動いていた。
足は、もう動かないはずだった。それなのに、壁から体を引き剥がして、グラナートのほうへ一歩踏み出していた。拳を握っていた。
空っぽのはずの体の奥から、何かが、また溢れ出そうとしていた。
その肩を、シンの手が掴んだ。
「やめとけ」
「……離せ」
「今のお前が念を込めて殴ったら、この爺さんは死ぬ。それじゃ駄目なんだよ」
シンの声は、低く、静かだった。
「こいつは、生きて裁かれなきゃならねえ。この書類に載ってる、売られた先の連中も、全部な。殺したら、そこで終わりだ。売られた子どもたちの行き先が、分からなくなる」
アッシュの拳が、震えていた。
やがて、ゆっくりと、力が抜けていった。
シンが、檻の扉を一つずつ、素手で引き開けていった。
一番奥の檻の隅に、小さな女の子がうずくまっていた。四つか五つくらい。膝を抱えて、こちらを見上げている。
その足には、靴が、片方しかなかった。
アッシュは、膝をついた。女の子と、目の高さを合わせた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
守れと言われた仕事はする。
自分は、ひと月の間、この子を閉じ込めている男を、守っていたのだ。
女の子が、おずおずと手を伸ばしてきた。汚れた、小さな手だった。アッシュは、その手を、そっと握った。
夜が明ける頃、屋敷の前に何台もの車が着いた。
シンが呼んだ、協会の関係者たちだった。手際よく子どもたちを毛布でくるみ、車に乗せていく。グラナートは手錠をかけられ、別の車に押し込まれた。最後まで、何かを喚いていた。誰も、耳を貸さなかった。
屋敷の石塀に、シンが腰かけていた。
外套のポケットから取り出した固いパンを、むしゃむしゃと齧っている。
アッシュは、その下の地面に座り込んだ。全身が、まだ悲鳴を上げていた。
「食うか」
シンが、パンを半分にちぎって差し出してきた。アッシュは、少しためらってから、受け取った。
しばらく、二人とも黙ってパンを齧っていた。
「……俺は、ひと月、あの男を守ってた」
やがて、アッシュがぽつりと言った。
「あの靴を見つけた日に、気づいてた。何かおかしいって。それなのに、何も見なかったことにした。守れと言われた仕事はする。それだけ考えて」
シンは、パンを飲み込んだ。
「知らなかったんだろ」
「知ろうとしなかった」
「なら、これから知れ」
シンの声は、相変わらず面倒くさそうだった。けれど、その目は、まっすぐにアッシュを見ていた。
「守る相手を、自分で選べるようになれ。誰に言われたからじゃなく、自分の目で見て、自分で決めろ。それができりゃ、昨日の律儀さは、悪いもんじゃねえ」
アッシュは、パンを握ったまま、黙っていた。
「で、お前、念はどこで習った」
「……独学だ」
シンが、パンを喉に詰まらせかけた。
「独学? 誰にも習わずに?」
「瞑想で、精孔を開いた。二年かかった。それから、思いつく限りのことを試した。でも、その先が分からなかった」
シンは、しばらく呆れたようにアッシュを見ていた。それから、腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! 独学で! 無茶しやがる! 一歩間違えりゃ、精孔が開いた瞬間に干からびて死んでるぞ、お前!」
「……死にかけた」
「だろうな!」
ひとしきり笑ってから、シンは、ふと真顔に戻った。
「俺はな、強化系だ」
自分の右腕を、軽く叩いた。
「難しいことは、何もできねえ。オーラを全部、体に回す。拳を硬くして、脚を速くして、体を強くする。殴る、守る、走る。それだけを、十五年かけて極めてきた。正面からの殴り合いなら、そうそう誰にも負けねえ」
シンは、肘の内側をさすった。昨夜、アッシュの手が触れた場所を。
「その俺の腕を、お前は、指一本分ずらした」
「……指一本分だけだ」
「指一本分もだよ」
シンの声が、少しだけ低くなった。
「強化系の俺の体は、外から何かを流し込まれたって、そう簡単には揺るがねえ。それを、独学で、形にもなってねえ念で、ずらしやがった。お前、触ったものを操るタイプだろう。操作系だ。それも、相当な素質がある」
操作系。安宿の床で、葉っぱが回るのを見ながら、霧の中から拾い上げた言葉。間違っていなかったのだ。
「だが、今のままじゃ、どこにも行けねえ。昨日の俺に、手も足も出なかったようにな」
シンは、石塀から飛び降りて、アッシュの前に立った。
「俺のところに来い。叩き込んでやる」
アッシュは、顔を上げた。
「……なんで、俺を」
「さあな」
シンは、肩をすくめた。
「強いて言えば、昨日、檻の前で、お前は爺さんを殴りかけて、止まった。頭に血が上ってる時に、止まれるやつは、伸びる。止まれねえやつは、いつか自分の力に食われる」
それから、にやりと笑った。
「あとは、律儀なのは嫌いじゃねえ」
アッシュは、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
「人を、探してる」
「ほう」
「十二年前に、流星街から一人で出ていった友達だ。ずっと探してるけど、手がかりが一つもない。ハンターになれば、探せると思った。でも、今の俺じゃ、試験に受かるどころか」
「なら、ちょうどいい」
シンは、アッシュに手を差し出した。
「ハンター試験まで、きっちり叩き込んでやる。ただし、俺の修行はきついぞ。独学で死にかけたのが、かわいく思えるくらいにな」
アッシュは、差し出された手を見た。
分厚い、硬い手だった。爺さんの手とも、ジャイロのひび割れた手とも違う。
けれど、どこか、同じ温かさがあった。
アッシュは、その手を握った。
「……よろしく頼む」
「おう」
シンが、アッシュを引っ張り上げた。全身の痛みに、アッシュは顔をしかめた。
丘の向こうから、朝日が昇ってきた。
日の昇る方を、右手に。アッシュは、無意識に、その向きを確かめていた。