黎明高等学校の朝は、いつも静かだった。
キヴォトスには、広大な自治区を有し、数千人もの生徒を抱える巨大な学園がある。その名を冠した街があり、独自の交通網や商業施設を備え、ときには他の学園との間に複雑な利害関係さえ生じるのだから、学園という言葉から一般に想像される規模とは、いささか趣を異にしていた。
しかし、そうした華やかな学園の陰には、地図をよほど注意深く眺めなければ見落としてしまいそうな、小さな学校も存在している。
黎明高等学校も、その一つだった。
市街地の外れ、古い住宅街を抜けた先の緩やかな丘に建つその学校には、全学年を合わせても十数人の生徒しか在籍していない。校舎は三階建てで、かつては各階にいくつもの教室が使われていたらしいが、現在では授業に用いられる部屋の方が少なく、長く閉ざされたままの扉には、いつから貼られているのか分からない紙札が残っていた。
校庭を囲む金網にはところどころ錆が浮き、体育館の屋根は雨の強い日に限って水を漏らした。廊下の窓枠には塗装の剥がれた箇所があり、階段の手すりも長年の使用によってすっかり艶を失っている。それでも、正門から玄関へ続く道には季節の花が植えられ、教室の床には毎朝きちんと雑巾が掛けられていた。人の少ない学校だからこそ、一人ひとりの手入れが隅々にまで行き届いているような、そんな慎ましい清潔さがあった。
月白玲は、その学校の二年生だった。
朝の八時を少し過ぎた頃、玲は校舎の二階へ続く階段を上り、廊下の突き当たりにある教室へ向かっていた。
腰の辺りまで流れる銀白の髪は、窓から差し込む光を受けるたびに淡く輝き、歩調に合わせて静かに揺れる。細く整った眉の下には、深い紫を湛えた瞳があり、その色彩は光の加減によって微妙に姿を変えた。正面から見れば紫水晶のように澄んでいるのに、わずかに顔を傾ければ青みが差し、窓から射す陽光を受けると、虹彩の奥に薄紅や淡い金色が浮かび上がる。見る者によっては、そこに虹の欠片が閉じ込められているように感じることさえあった。
その不思議な瞳と、陶器を思わせる白い肌、端正な顔立ちが相まって、玲にはどこか現実離れした美しさが備わっていた。頭上に浮かぶ淡い光のヘイローもまた、彼女の姿に静かな神秘性を添えている。
初めて彼女を見る者は、しばしばその場で言葉を失った。
本人も、そのことはよく知っていた。
そして、たいそう気に入っていた。
(いやあ、今日もいい感じだなあ。)
廊下の窓に映った自分の姿を横目に確かめながら、玲は胸の内で満足げに頷いた。
銀髪。虹色を宿す瞳。長い睫毛。透き通るような肌。そして、何よりも、この少し近寄りがたい雰囲気。
素晴らしい。
我ながら、実に素晴らしい。
かつての自分が、画面の向こうにいる美少女たちを眺めながら憧れていたものが、今では鏡を見るだけで確認できるのだから、人生というのは何が起こるか分からない。
もっとも、人生という表現が正しいのかどうかは、少々怪しいところではあった。
玲には、前世の記憶がある。
以前の自分は、キヴォトスとは別の世界で暮らす、ごく普通の青年だった。学校へ通い、あるいは仕事をし、休日には好きなゲームを遊び、気に入ったキャラクターの実装に一喜一憂する。特別な力もなければ、世界の運命を左右するような秘密も持たない、どこにでもいる一人の人間である。
その彼が、どういうわけか『ブルーアーカイブ』の世界に生まれ変わり、気がつけば月白玲という少女として生活していた。
理由は分からない。
転生の瞬間を覚えているわけでもなければ、誰かに事情を説明されたこともない。キヴォトスには玲の学籍があり、住まいがあり、彼女を昔から知っているという人々もいるのだが、玲自身の記憶は、こちらの世界で自分の生活を意識し始めた頃からしか確かな輪郭を持っていなかった。
普通に考えれば、なかなか不可解な境遇である。
しかし、玲はそのことについて、さほど深刻に悩んでいなかった。
もちろん、最初のうちは驚いた。鏡に映る姿を見て驚き、頭上に浮かぶヘイローに驚き、街を歩けば銃を携えた生徒たちがごく当たり前のように買い物をしていることに驚いた。だが、それらの驚きがひととおり落ち着いてしまうと、最後に残ったのは、どうしようもなく単純な感想だった。
――ブルアカの世界に来てしまった。
しかも、美少女として。
これはもう、喜ぶしかないのではないだろうか。
そういうわけで、玲は現在の生活をたいへん前向きに受け入れていた。
ただし、一つだけ問題があった。
せっかく、これほど見事な容姿を手に入れたというのに、肝心の中身が以前と大して変わっていないのである。
好きなものを前にすれば興奮するし、褒められれば嬉しいし、面倒な課題はできれば後回しにしたい。休日には遅くまで眠っていたいし、おいしいものがあれば遠慮なく食べたい。
これでは、外見に中身が追いついていない。
そこで玲は、ある決意をした。
……謎めいた美少女になろう。
誰も知らないことを知っているような、何気ない一言に深い意味が隠されているような、静かな微笑みだけで周囲を圧倒するような、そんな少女である。
幸い、材料には恵まれていた。
容姿は申し分ない。声も柔らかく、少し低めに落とせば、なかなか雰囲気が出る。加えて、自分には前世のゲーム知識があるのだから、普通の生徒なら知り得ないことを、ほんの少しだけ知っている。
あとは言葉遣いと振る舞いを磨けばよい。
そう考えた玲は、密かに一冊のノートを用意した。
表紙には何も書かれていない、濃紺の小さなノートである。
中身は、他人に見せる予定のない台詞集だった。
夜明け、運命、記憶、選択、約束。そうした言葉を組み合わせ、いかにも意味がありそうな一文を作っては書き留め、気に入ったものには丸をつける。ときには鏡の前で声に出し、どの程度の間を置けば効果的かまで確かめるという、本人にとっては至極真面目な研究を続けていた。
なお、その研究成果を他人に知られた場合、謎めいた美少女としての評価がどうなるかについては、考えないことにしている。
「玲、おはよう。」
教室の扉を開けると、窓際の席にいた少女が顔を上げた。
「おはよう、真帆。」
玲は柔らかく微笑んで挨拶を返した。
相手は同じ二年生の朝倉真帆である。肩の辺りで切り揃えた栗色の髪と、よく動く明るい目が印象的な少女で、玲とは入学以来、何かと一緒に過ごすことが多かった。
黎明高等学校の二年生は、玲と真帆を含めて五人しかいない。席替えをしても顔ぶれは変わらず、誰かが欠席すれば教室の空気まで違って感じられるほどの人数だった。
「今日、ちょっと早いね。何かあった?」
「別に。朝の空気が、少し気持ちよかったから。」
玲は窓の外へ視線を向けた。
校庭の向こうでは、低い建物の屋根が朝日に照らされている。雲の少ない空は淡い青色をしており、遠くの街からは車の走る音が微かに聞こえてきた。
こういうときこそ、何か一言添えたい。
玲は昨日の夜に考えた台詞を思い出した。
「……朝というのは、不思議なものだね。昨日と同じ景色のはずなのに、昨日とは違うものを見せてくれる。」
玲が窓の外を眺めながらそう言うと、真帆はしばらくその横顔を見つめていた。朝日を受けた銀白の髪が淡く輝き、こちらへ向けられた瞳には、いつもの紫とは違う青みが差している。
「……玲って、たまにすごく綺麗なこと言うよね。」
「そうかな。」
「うん。何ていうか、普通に聞いたらちょっと不思議な言葉なのに、玲が言うと似合うんだよね。」
玲は微笑みながら、内心では盛大に喜んでいた。
(よしっ! 今のは完璧だった!)
しかし、その感動に浸る間もなく、真帆は思い出したように端末を持ち上げた。
「あ、そうだ。昨日の数学、終わった? 学習記録の提出、今日までだったよね。」
玲の微笑みが、ほんのわずかに固まった。
「……数学?」
「うん。学習用BDの第六講。最後の確認問題までやって、記録を提出することになってたでしょ。」
玲は鞄の中へ手を入れ、端末を取り出した。
学習管理用の画面を開く。
数学、第二学年、基礎課程。
第六講。
進捗状況――未完了。
実に見事な未完了である。
(しまったあああああ!)
昨夜はノートに新しい台詞を書いていた。
思いついた一文がなかなか気に入らず、表現を変えているうちに夜が更けてしまったのだ。しかも、ようやく完成したと思ったところで別の言い回しを思いつき、結局、寝る直前まで机に向かっていた。
その代償が、今ここに現れている。
「玲?」
真帆が不思議そうに首を傾げた。
玲は端末の画面を伏せると、静かに息を吐いた。
「……人は、ときに、昨日の自分が残したものと向き合わなければならない。」
真帆はその言葉を聞いて、少しだけ目を丸くした。
「……ああ、なるほど。」
それから、ふっと笑った。
「玲らしい言い方だね。でも、今からならまだ間に合うと思うよ。確認問題だけなら、そんなに時間かからないし。」
「……そうだね。ありがとう。」
玲は素直に頷き、イヤホンを取り出した。
謎めいた美少女にも、学習記録の提出期限は平等に訪れるのである。
♢
黎明高等学校の授業は、主として学習用のBDや端末に保存された教材を用いて行われていた。
生徒たちは時間割に従って教室へ集まり、各自の進度に合わせて講義映像を視聴したり、演習問題に取り組んだりする。分からないところがあれば映像を巻き戻し、必要に応じて互いに教え合う。教材の更新や学習記録の管理については生徒会が中心となって取りまとめており、学校の規模が小さいこともあって、学年を越えて勉強を教え合う光景も珍しくなかった。
キヴォトスのすべての学園が同じ方式を採用しているわけではないだろうが、少なくとも黎明高等学校にとっては、これが昔から続く日常だった。
かつて使われていたという教壇は、今では教室の隅に寄せられ、上には予備の教材と古い映像機器が置かれている。黒板も残ってはいるものの、そこに書かれるのは主に連絡事項や、誰かが解き方を説明するときの数式くらいである。
玲は、この授業方式をそれなりに気に入っていた。
講義映像は分かりやすく、理解できなかった部分を何度でも見直せるし、少人数なので周囲の生徒とも気軽に相談できる。何より、教室の雰囲気が落ち着いているのがよかった。
ただし、自由度が高いということは、自分で学習を管理しなければならないということでもある。
その日の数学の時間、玲は朝から取り組んでいた確認問題をようやく終え、学習記録を送信したところだった。
端末に表示された「提出完了」の文字を見て、玲は小さく息を吐いた。
危なかった。
実に危なかった。
昨日の自分を恨みたい気持ちもあったが、昨夜完成させた台詞はなかなかの出来だったので、全面的に否定するのも惜しい。
玲がそんなことを考えていると、隣の席から真帆が顔を覗かせた。
「終わった?」
「うん。何とか。」
「よかった。玲って、普段はちゃんとしてるのに、たまに変なところで抜けてるよね。」
真帆は笑いながらそう言ったが、その声に呆れや嘲りの色はなかった。
玲は少しだけ肩をすくめた。
「……完璧な人間なんて、どこにもいないからね。」
「それはそうだけど。玲の場合、普段が落ち着いてるから余計に意外なんだよ。」
そう言って真帆は自分の端末へ視線を戻した。
玲はしばらくその横顔を眺めてから、静かに微笑んだ。
真帆は、玲にとって気の置けない友人だった。
玲の言葉を必要以上に深読みすることもなければ、かといって軽く扱うこともない。彼女の独特な感性を自然に受け止め、ときには感心し、ときには親しい友人らしく笑う。
その距離感が、玲には心地よかった。
♢
昼休みになると、教室には弁当の包みを開く音が広がった。
生徒数の少ない黎明高等学校では、昼食の時間もどこか家庭的だった。学年の違う者同士でも顔と名前を知っているため、空いている教室へ集まって一緒に食事をすることも珍しくない。今日も一年生が二人、二年生の教室へ遊びに来ており、窓際では三人ほどの生徒が端末の画面を覗き込みながら、何やら楽しそうに話していた。
玲は真帆と向かい合って弁当を広げていた。
窓を少し開けておくと、秋の気配を含んだ風がカーテンを揺らし、机の上に置かれた弁当の包みをかすかに鳴らした。玲は卵焼きを一口食べながら、向かいの席で真帆が熱心に何かを読んでいることに気づいた。
「何を見ているの?」
「これ。生徒会から配られたやつ。」
差し出された端末には、来月実施される学校説明会についての案内が表示されていた。
黎明高等学校では毎年、進学先を探している生徒たちを対象に、小規模な学校説明会を開いている。以前はそれなりの参加者があったらしいが、近年は申し込みが減り、昨年度などは見学者より案内役の生徒の方が多かったという。
「今年は、ちょっと頑張りたいんだって。生徒会長が言ってた。」
「そうなんだ。」
「ほら、うちって生徒が少ないでしょ。来年も新入生が少なかったら、さすがにいろいろ厳しいみたいで。」
真帆の声は普段と変わらなかったが、その言葉には、どこか落ち着かない響きが混じっていた。
玲は画面に目を落とした。
学校説明会。
参加希望者募集。
生徒による校内案内。
どれも、ありふれた言葉である。
けれど、その案内の下に記された小さな文字を見ているうちに、玲は自分たちの学校が置かれている状況を、改めて考えずにはいられなくなった。
黎明高等学校は、確かに小さい。
食堂も売店もなく、昼食を忘れた日には相当に困る。部活動の種類は片手で数えられるほどしかなく、体育の時間に球技をしようにも、人数の関係で競技そのものを工夫しなければならない。
教材も古いものが多く、映像機器が故障すれば、修理できる生徒を探して校内を歩き回ることになる。図書室には貴重な資料もあるが、新刊の購入は年々難しくなっており、校舎の補修についても、予算の都合で先送りされている箇所が少なくなかった。
しかし、玲はこの学校が嫌いではなかった。
朝の静かな廊下も、窓際の席も、少人数だからこそ気軽に声を掛け合える雰囲気も、今ではすっかり日常の一部になっている。何より、真帆をはじめとする友人たちと過ごす時間は、玲にとって思いのほか居心地がよかった。
「……なくなったら、寂しいね。」
玲がぽつりと言うと、真帆は顔を上げた。
「学校?」
「うん。せっかく、ここにいるんだから。」
それは、玲の率直な気持ちだった。
前世の知識があるからといって、この学校の未来が分かるわけではない。黎明高等学校という名前は、少なくとも玲の知るゲームの主要な物語には登場しなかったし、学校が今後どうなるかについても、手掛かりになる情報を持っていなかった。
だからこそ、少し心配だった。
もっとも、心配しているだけでは何も変わらない。
玲はもう一度案内を眺めた。
「説明会、私も手伝おうかな。」
「本当? それなら生徒会長、喜ぶと思うよ。」
「校内案内くらいなら、できると思うし。」
「玲が案内したら、見学に来た人、びっくりするんじゃない?」
「……どうして?」
玲は首を傾げた。
真帆は、何を今さらという顔をした。
「だって玲、すごく目立つもん。綺麗だし、雰囲気もあるし。初めて会った人なんて、絶対びっくりすると思う。」
玲は危うく卵焼きを落としかけた。
綺麗。
雰囲気がある。
それは、彼女が日頃から目指している評価そのものだった。
しかも、普段から遠慮なくものを言う真帆の口から、何気ない調子で出てきたのである。
これは、かなり嬉しい。
玲は表情を崩さないように注意しながら、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「……そう見えるのなら、少し意外だね。」
「意外ってことないでしょ。玲、自分が目立つの分かってると思ってた。」
「……そうかな。」
「そうだよ。だって、入学したときなんて、みんな玲のこと見てたじゃん。」
真帆は懐かしそうに笑った。
玲も、その頃のことを覚えていた。
初めて教室へ入った日、同級生たちが一斉にこちらを見たこと。廊下ですれ違った上級生が、思わず振り返ったこと。そして、自己紹介を終えたあと、しばらく誰も話しかけてこなかったこと。
当時の玲は、その反応をたいそう気に入っていた。
もっとも、あとから真帆に聞いたところによれば、単に綺麗すぎて話しかけるのに緊張していただけらしい。
「でも、今はみんな玲のこと好きだよね。話してみたら優しいし、困ってる人がいたら放っておかないし。」
真帆は何気ない調子で言った。
玲は少しだけ目を伏せた。
美しいと言われるのは嬉しい。
謎めいていると言われるのも嬉しい。
けれど、こうして自分の内面を褒められるのは、それらとはまた違った照れくささがあった。
「……ありがとう。」
玲が小さく答えると、真帆は嬉しそうに笑った。
「うん。だから、説明会も一緒に頑張ろうね。」
その言葉に、玲は静かに頷いた。
♢
午後の学習時間が終わる頃には、朝から晴れていた空に薄い雲が広がり始めていた。
放課後、玲は図書室へ向かうために廊下を歩いていた。生徒数の少ない学校では、学習時間が終わると校舎が急に静かになる。階下から聞こえてくるのは生徒会室の扉が開閉する音と、どこかの教室で椅子を動かす音くらいで、窓の外では校庭の木々が風に揺れていた。
階段の近くまで来たところで、玲は一人の下級生が掲示板の前に立っているのを見つけた。
小柄な少女だった。
制服の襟元には一年生を示す色の細い線が入り、胸の前には数枚の紙を抱えている。掲示板に貼られているのは、先ほど真帆と話していた学校説明会の案内である。
「……どうかしたの?」
玲が声をかけると、少女は驚いたように振り返った。
「あ、月白先輩。」
玲はその顔に見覚えがあった。
一年生の雨宮栞。図書室で何度か顔を合わせたことがあり、以前、借りたい本の場所が分からず困っていたところを案内したこともある。
「説明会のこと?」
「はい。私も手伝おうと思って、申し込みの紙をもらったんですけど……。」
栞は抱えていた紙を見下ろした。
その様子から、何か迷っていることがあるのだと分かった。
玲は急かさず、隣に立って掲示板を眺めた。
「何か、気になることがあるのかな。」
「……あの、先輩。」
「うん。」
「この学校って、本当になくなっちゃうんでしょうか。」
栞は、ひどく小さな声で尋ねた。
玲はすぐには答えなかった。
実際のところ、分からなかったからである。
生徒数が少ないことは事実だし、学校説明会への参加者を増やそうとしていることにも、きっと理由がある。しかし、それだけで閉校が決まったわけではないし、まだ何も正式に知らされていない以上、軽々しく断言することはできなかった。
「……どうして、そう思ったの?」
玲が尋ねると、栞は少し俯いた。
「この前、生徒会の先輩たちが話しているのを聞いちゃって。来年の人数がどうとか、今のままじゃ難しいとか……。私、まだ入学したばっかりなのに、もし学校がなくなったらどうしようって。」
その声には、玲が思っていた以上に切実な不安が滲んでいた。
栞は入学してまだ半年ほどしか経っていない。ようやく学校に慣れ、友人ができ、これから三年間を過ごしていく場所だと思っていたのだろう。そんな学校がなくなるかもしれないと聞けば、不安になるのも無理はなかった。
玲は、どう答えるべきか考えた。
大丈夫だと断言するのは簡単だったが、確かな根拠があるわけではない。だからといって、分からないとだけ答えてしまうのも、目の前の後輩には少し冷たい気がした。
何か、気の利いた言葉はないだろうか。
そう考えた瞬間、玲の頭に、昨夜のノートへ書き留めた一文が浮かんだ。
あれは、なかなか良い出来だった。
使う機会があるなら、ぜひ使ってみたいと思っていたのである。
玲は窓の外へ目を向けた。
午後の光は朝よりも柔らかく、校庭の木々の影が長く伸びている。遠くの建物の向こうには、まだ青さを残した空が広がっていた。
実に申し分のない舞台だった。
「……栞。」
「はい。」
「夜が長いからといって、朝が来ないわけじゃないでしょう。」
玲は、静かに言った。
それから少しだけ間を置き、栞へ微笑みかける。
「今はまだ、何も決まっていないんだよ。だったら、私たちにできることも、きっと残っている。」
決まった。
玲は確信した。
これは、かなり良い。
前半で比喩を用い、後半で現実的な励ましへつなげる。単なる意味深な台詞で終わらず、相手の不安にもきちんと応えている。しかも、夕方の光を背にした銀髪の美少女という、これ以上ないほど恵まれた状況で披露できた。
もし今の場面を誰かが絵に描いてくれたなら、ぜひ部屋に飾りたいくらいである。
しかし、そんな内心とは裏腹に、玲の表情は穏やかなままだった。
栞はしばらく黙っていたが、やがて胸に抱えていた紙を見下ろし、小さく頷いた。
「……そう、ですよね。」
「うん。」
「まだ、何も決まってないんですよね。」
「そうだよ。私も説明会を手伝おうと思っているし、一緒に頑張ろう。」
玲がそう言うと、栞はようやく少し笑った。
「ありがとうございます、先輩。私、何だか安心しました。」
「それなら、よかった。」
玲は微笑んだ。
栞はもう一度礼を言ってから、申し込み用紙を提出するために生徒会室の方へ歩いていった。その足取りが、先ほどよりも軽くなっているように見えたことが、玲には嬉しかった。
誰かを励ますことができた。
しかも、格好いい台詞まで決まった。
今日は、実に良い日である。
玲は満足げに頷くと、改めて図書室へ向かった。
♢
その日の夕方、黎明高等学校の生徒会室では、三年生の生徒会長が書類の整理に追われていた。
小さな学校とはいえ、生徒会の仕事が少ないわけではない。むしろ、教材の管理や施設の維持、行事の準備などを少人数で分担しなければならないため、一人あたりの負担は決して軽くなかった。
会長の机には、学校説明会に関する資料が積み上げられている。
今年は、何としても参加者を増やしたい。
その思いは、生徒会役員の誰もが共有していた。
しかし、具体的に何をすればよいのかとなると、簡単には答えが出ない。学校の魅力を伝えると言っても、大規模な設備や豊富な部活動を売りにできるわけではないのだから。
会長が小さく息を吐いたところで、生徒会室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼します。」
顔を覗かせたのは、一年生の栞だった。
「あら、雨宮さん。どうしたの?」
「あの、説明会のお手伝いに申し込みたくて。」
栞は申し込み用紙を差し出した。
会長は礼を言って受け取り、名簿へ名前を書き加えた。そこで、栞が何か言いたそうにしていることに気づいた。
「ほかに、何かある?」
「……あの、月白先輩もお手伝いするって言ってました。」
「玲さんが?」
会長は少し驚いた。
玲は普段、生徒会の活動へ積極的に口を出す方ではない。頼まれれば快く手伝ってくれるものの、自分から行事の運営に関わろうとするのは珍しかった。
「それは助かるわ。あとで本人にも確認してみるね。」
「はい。それと……。」
栞は少し迷ってから、昼間の出来事を話し始めた。
学校がなくなるかもしれないと不安に思っていたこと。
廊下で玲に相談したこと。
そして、玲が口にした言葉。
「月白先輩、言ってたんです。夜が長くても、朝はちゃんと来るって。まだ何も決まっていないんだから、私たちにできることが残っているって。」
会長はその言葉を聞いて、穏やかに微笑んだ。
「……そう。玲さんらしいわね。」
玲は、昔から少し独特な言葉遣いをする生徒だった。
その静かな佇まいや、不思議な色彩を宿す瞳のせいもあって、初対面の者には近寄りがたい印象を与えることがある。しかし、実際には誰に対しても分け隔てなく接し、困っている生徒がいれば自然に手を差し伸べる、優しい少女である。
会長も、そのことをよく知っていた。
「玲さんも手伝ってくれるのね。それは助かるわ。」
会長は素直に喜んだ。人手の足りない黎明高等学校では、協力を申し出てくれる生徒が一人増えるだけでもありがたい。まして、玲は下級生からも慕われており、学校説明会で案内役を任せるには適任だった。
「月白先輩、学校はまだ諦めなくていいって言ってくれたんです。」
「そう。……ふふ、玲さんらしいわね。」
会長は微笑み、名簿に玲の名前を書き加えた。
少し独特な言葉遣いをするものの、玲が困っている生徒を放っておけない性格であることは、彼女もよく知っていた。
「ありがとう、雨宮さん。申し込み、確かに受け取ったわ。」
栞が生徒会室を出ていったあと、会長は名簿へ視線を落とした。
まだ空欄の多い紙だったが、そこには確かに、一年生の名前が一つ増えていた。
そして、その横には、これから確認しなければならない二年生の名前がある。
月白玲。
会長はその名を眺めながら、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの光が、古い校舎の壁を淡く染めていた。
学校を残すために何ができるのか、まだ答えは見つかっていない。けれど、少なくとも、自分たちだけで悩んでいるわけではないのだと分かった。
それだけでも、少し心強かった。
♢
その頃、玲は自室の机に向かっていた。
窓の外では、すでに夕日が建物の向こうへ沈みかけている。机の上には学習用の端末と数冊の参考書が積まれていたが、玲が熱心に見つめているのは、そのどれでもなかった。
濃紺のノートである。
玲はページを開き、今日の出来事を思い返していた。
朝の台詞は、真帆に好評だった。
普段から自分のことをよく知っている友人に褒められたのだから、これはなかなか大きな成果と言えるだろう。
しかし、放課後の一件は、それ以上だった。
栞は確かに感動していた。
目を輝かせていた、と言ってもよいかもしれない。
少なくとも、玲にはそう見えた。
玲は嬉しそうにペンを走らせた。
『夜が長いからといって、朝が来ないわけじゃない。』
その下に、小さな文字で注釈を加える。
『使用実績あり。後輩への励ましとして成功。夕暮れの廊下との相性が非常によい。』
しばらく眺めてから、さらに一文を書き足した。
『評価:九十五点。』
満足だった。
実に満足だった。
残りの五点は、もう少し声を落としてもよかったのではないかという、演出上の反省である。
玲はノートを閉じ、椅子の背もたれへゆっくりと体を預けた。
この世界へ来てからというもの、驚くようなことばかりが続いている。街を歩けば見覚えのある企業の看板があり、ニュースには聞き覚えのある学園の名前が登場し、ときには銃声さえ日常の一部として聞こえてくる。
それなのに、自分の学校生活は驚くほど穏やかだった。
少人数の教室。
気の置けない友人。
少し古びた校舎。
そして、今日のように、誰かを励ますことのできる時間。
玲は、この生活を気に入っていた。
もちろん、いつかは憧れの生徒たちにも会ってみたい。
砂狼シロコ。
空崎ヒナ。
聖園ミカ。
ほかにも、会いたい人物を挙げればきりがない。
そして、何より。
「……先生、かあ。」
玲は小さく呟いた。
前世では画面の向こうから見守ることしかできなかった、あの世界の先生。
もし、本当に会うことができたなら。
いったい、どんな言葉をかけようか。
普通に挨拶するのも悪くない。けれど、せっかくなら、相手の記憶に残るような出会い方をしたい。
玲はしばらく考えた末に、再びノートを開いた。
新しいページの上部へ、丁寧な文字で見出しを書き込む。
『先生との初対面で使いたい台詞候補』
そして、その下に一行。
『……ようやく、会えたね。』
玲はペンを止めた。
悪くない。
いや、かなりいい。
初対面の相手に「ようやく」と言うことで、以前から存在を知っていたような印象を与えられる。しかも、先生がその意味を尋ねてきた場合には、いくらでも意味深な返答へつなげられる。
玲は思わず口元を緩めた。
これは、ぜひ使いたい。
ただし、先生に会える日がいつになるかは分からない。
そもそも、シャーレの先生が今どこで何をしているのかさえ、玲は正確には知らなかった。ゲームで描かれた出来事を覚えていても、そのすべてが同じ時期、同じ順序で起こる保証などないのである。
それでも、いつか会えるだろう。
キヴォトスは広いが、憧れの世界へ来られたのだから、少しくらい都合のよい偶然を期待しても罰は当たるまい。
玲はノートを閉じ、机の引き出しへ大切にしまった。
そのとき、端末に一件の通知が届いた。
学校の連絡網からだった。
『来月の学校説明会について、協力を希望する生徒は生徒会まで申し出てください。』
玲は画面を眺め、昼間の真帆との会話を思い出した。
そういえば、自分も手伝うと言ったのだった。
せっかくなら、学校の良いところをきちんと伝えたい。少人数だからこそできることもあるし、何より、ここで過ごす毎日は思っていた以上に楽しいのだから。
玲は明日、生徒会長へ話をしに行こうと決めた。
そして、ふと考えた。
学校説明会。
見学者。
校内案内。
もし、自分が案内役になったら。
銀白の髪を揺らしながら、古い校舎の廊下を歩き、初めて訪れた生徒たちへ静かに語りかける。
――ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。
「……おお。」
玲は思わず声を漏らした。
これは、いい。
実にいい。
学校の名前にも掛かっている。
しかも、説明会という場面にふさわしい。
玲は慌てて引き出しを開け、しまったばかりのノートを取り出した。
そのころには、数学の次の講義が、まだ途中だったことなど、すっかり忘れていた。