「……先ほど、空席とおっしゃいましたね。」
連邦生徒会の制服を着た少女は、玲が見上げていた組織図へ視線を移した。問いかけは穏やかだったが、単なる世間話ではないことくらい、玲にも分かる。何しろ、ここは連邦生徒会の庁舎であり、自分が眺めていたのは、その組織の頂点に至るまでの役職を記した図なのだから。
――ああ、やっぱり聞こえてたんだ。
玲は、胸の内で小さく息を吐いた。
それにしても、よりによって七神リンである。
原作で幾度となく目にした、連邦生徒会の首席行政官。仕事に厳しく、責任感が強く、少々近寄りがたいところもあるが、その実、誰よりも真面目にキヴォトスのことを考えている人物だ。
玲としては、できればもう少し心の準備をしてからお会いしたかった。
何しろ、相手は画面の向こうで何度も見てきた人物なのである。ファンとしては、初対面の第一声くらい、もう少し気の利いたものにしたかった。まさか、連邦生徒会の組織図を見上げて独り言を漏らしたところを聞かれ、その意味を尋ねられることになるとは思ってもいなかった。
もっとも、今さらそんなことを考えても仕方がない。
玲は、目の前の少女の顔を見ながら、少しだけ思案した。
連邦生徒会長の不在。
それが今、どの程度まで知られているのか、玲には正確なところが分からなかった。
原作の冒頭では、トリニティやゲヘナの関係者が、連邦生徒会の異変について独自に情報を得ている様子があった。ただし、それは各学園の生徒なら誰でも知っているという話ではない。あれほどの規模と影響力を持つ学園だからこそ、その上層部にいる一部の生徒たちが、独自の経路で事情を探り当てていたのだろう。
では、黎明高等学校はどうか。
全校生徒は二十人にも満たず、生徒会役員は学校の備品管理から行事の準備まで、日々の細かな仕事を手分けしている。トリニティのような情報網もなければ、ゲヘナのように外部へ影響を及ぼす組織もない。財務室への相談一つとっても、生徒会長である玲が自ら足を運んでいるくらいだった。
そんな学園の生徒会長が、連邦生徒会長の不在を知っているかのようなことを口にした。
怪しまれない方が不自然である。
――うん。これは、ちょっと困ったな。
玲は、ほんの少しだけ考えた。
聞かれた言葉は、もう取り消せない。ここで慌てて取り繕えば、かえって相手の疑念を深めることにもなりかねなかった。
それに、目の前にいるのは七神リンである。
曖昧な言い訳を重ねて納得してもらえるような人物ではないことくらい、玲にも分かっていた。
ならば、いっそ。
――……腹をくくろうか。
玲は、胸の内でそう決めた。
もともと、自分が目指しているのは、少しばかり謎めいた、何を考えているのか容易には分からない少女だったはずだ。相手に警戒されることまで望んでいたわけではないが、聞かれた以上は仕方がない。
もちろん、知らないことまで知っているふりをするつもりはないし、連邦生徒会の内部事情を勝手に語るつもりもない。
ただ、自分が知っていることと、実際に経験してきたことを、あえてすべて説明せずに語る。
それくらいなら、できるだろう。
――それに、ここで逃げたら、格好がつかないから。
そう思った途端、先ほどまで頭の片隅にあった迷いが、不思議なほど静かになった。
玲は、ゆっくりと顔を上げた。
そのとき、玲の胸の奥深くで、本人すら自覚できない何かが、がっちりと音を立ててはまり、もともと深い紫色をしていた瞳の奥に、青白い銀が一瞬だけ差した。
もともと玲の瞳は、見る角度によって色合いを変える。だが、今の変化は、窓から差し込む光の加減だけでは説明しにくいものだった。
そしてリンは、その色彩に一瞬だけ目を留めた。
しかし、玲が口を開いたことで、意識はすぐに言葉の方へ戻った。
「……ええ。確かに、そう言いました。」
玲は、穏やかに微笑んだ。
その声には、先ほどまでのためらいがなかった。
「……何を指しての発言でしょう。」
リンは、組織図から視線を戻し、玲を見つめた。
玲は、少しだけ首を傾けた。
「そこに記された役職を見て、思い出したことがあったんです。私の学校でも、今年度に入り、生徒会長が代わりましたから。」
「……それは前任者のことを?」
「はい。卒業した先輩が、どれほど多くの仕事を引き受けていたのか。自分がその立場になって、初めて気づいたことがたくさんありました。」
玲は、組織図へ目を向けた。
黎明の前生徒会長は、三月に卒業した。
その人が残した引き継ぎ資料は、今も生徒会室に保管されている。古い備品の所在から、年度ごとの支出、近隣学園との連絡記録まで、細かな仕事が丁寧に整理されていた。
玲は、その資料に何度も助けられてきた。
そして、そのたびに思ったものだった。
先輩は、こんなことまで一人でやっていたのか、と。
「……席というのは、不思議なものですね。誰かが座っている間は、その人が支えているものの大きさに、なかなか気づけない。」
リンは、黙っていた。
玲は、その沈黙を急いで埋めようとはしなかった。
「けれど、その人がいなくなった後で、ようやく分かることもあります。残された仕事の多さも、そこに込められていた思いも。」
それは、玲にとって本当の話だった。
ただ、今、目の前の少女がその言葉をどう受け取るかについては、玲も十分に承知していた。
連邦生徒会長。
その不在。
そして、残された者たちが背負う仕事。
偶然にしては、あまりにも重なる。
玲は、静かな微笑を保った。
一方、リンは、目の前の少女を注意深く見つめていた。
月白玲。
聞き覚えのない学園の制服を着た、銀白の髪の少女。
話している内容そのものは、決して不自然ではない。
生徒会長を引き継いだばかりの生徒が、前任者の苦労を思い知る。どこの学園でも起こり得ることであり、むしろ真面目に仕事へ取り組んでいる証拠ともいえる。
しかし、問題は、その話をする場所だった。
連邦生徒会の組織図の前。
そして、空席という言葉。
リンは、わずかに目を細めた。
「……なるほど。ですが、なぜ、こちらの組織図をご覧になって、そのようなことを?」
玲は、静かに答えた。
「大きな組織ほど、一つの席に集まる責任も、大きくなるのでしょう。」
そして、少しだけ微笑んだ。
「……ただ、どれほど大きな席であっても、そこに座る人まで、前の人と同じである必要はないのだと思います。」
リンの指が、手元の端末の縁で止まった。
玲は、続けた。
「仕事を引き継ぐことと、その人の代わりになることは、違いますから。」
その言葉は、リンの胸に、思いがけない形で届いた。
会長がいない。
それは、今の連邦生徒会にとって、あまりにも大きな問題だった。
判断を待つ案件は積み重なり、各学園との調整も滞っている。連邦生徒会の機能を維持するため、リンは日々、できる限りの仕事を引き受けていた。
しかし、それは決して、自分が会長になったということではない。
会長の不在を埋めることと、会長の代わりになること。
その違いを、リン自身、誰よりも理解しているつもりだった。
だからこそ、目の前の少女の言葉が引っかかった。
まるで、今の連邦生徒会が抱える問題を知っているかのような言い方だった。
リンは、玲の顔を見つめた。
「……あなた、お名前は?」
「黎明高等学校、生徒会長。月白玲と申します。」
「黎明高等学校……。」
リンは、その名前を記憶に留めた。
聞き覚えはない。
少なくとも、連邦生徒会の中枢に関わるような大規模学園ではないはずだった。
「本日は、どのようなご用件で?」
「学園の運営計画について、財務室へ相談に参りました。先ほど、担当の方とのお話が終わったところです。」
「……そうですか。」
リンは、手元の端末を操作した。
訪問記録を確認すれば、所属や用件についてはすぐに裏付けが取れるだろう。
しかし、リンが知りたいのは、そこではなかった。
「……月白会長。一つ、確認させてください。」
「はい。」
「あなたは、連邦生徒会の現在の状況について、何かご存じなのですか。」
玲は、リンを見つめた。
来たか、と思った。
むしろ、ここまで聞かれずに済んだことの方が意外だった。
リンの立場を考えれば、当然の質問である。連邦生徒会の内部事情を知っているかのような言葉を口にする人物を、そのまま見過ごすわけにはいかない。
玲は、ほんの少しだけ考えた。
自分が持っているのは、あくまで前世の知識だった。
原作の展開を知っているからといって、今のキヴォトスで何が起きているのかを、すべて把握しているわけではない。
むしろ、時期や細かな事情については、分からないことの方が多かった。
だから、確かなことだけを答えればよい。
「……私が確かに知っているのは、誰かがいなくなった後、その人が残した仕事を引き受けるのは、決して簡単ではないということです。」
リンは、静かに聞いていた。
「それは、あなたの学校での経験ですね。」
「ええ。」
「では、連邦生徒会については?」
玲は、わずかに目を伏せた。
「……今の連邦生徒会について、私が断言できることはありません。」
リンは、しばらく黙っていた。
少なくとも、少女は連邦生徒会の内部事情を知っているとは明言していない。
しかし、知らないとも言わなかった。
「……断言できない、ということは、何らかの情報をお持ちだと?」
「耳にしたことや、考えたことはあります。けれど、それを確かな事実としてお話しするのは、違うと思いますから。」
玲は、静かに微笑んだ。
――……これくらいが、ちょうどいいかな。
自分から情報の出所を語るつもりはない。
かといって、何も知らないと断言するのも違う。
そして、リンがこの答えに納得しないことも、玲には分かっていた。
それでも、ここで無理に説明を重ねれば、かえって余計なことを口にするかもしれない。
ならば、これ以上は踏み込まない。
玲は、そう決めていた。
一方、リンは、少女の言葉を慎重に受け止めていた。
連邦生徒会長の不在については、すでに一部の学園が独自に情報を得ている可能性がある。
特に、トリニティやゲヘナのような大規模学園であれば、上層部の一部が異変を察知していても不思議ではなかった。
しかし、そうした学園の関係者と、目の前の少女とでは事情が違う。
黎明高等学校。
その名を聞いただけでは、連邦生徒会の内部事情に接する経路が思い浮かばない。
もちろん、学園の規模だけで情報の有無を判断することはできない。
小さな学園にも、独自のつながりはあるだろう。
それでも、気になる。
なぜ、この少女は、あのような言葉を口にしたのか。
そして、なぜ、こちらの質問に対して、これほど慎重に答えるのか。
リンは、静かに口を開いた。
「……月白会長。」
「はい。」
「あなたが何を耳にしたのかは分かりません。ただ、不確かな情報をもとに、連邦生徒会の状況を判断することは避けていただきたい。」
玲は、素直に頷いた。
「……ええ。おっしゃるとおりです。」
「また、ここは連邦生徒会の庁舎です。発言の内容によっては、周囲に不要な憶測を生むこともあります。」
「はい。気をつけます。」
玲は、静かに頭を下げた。
リンの指摘は、もっともだった。
玲自身、少しばかり格好をつけるつもりで言葉を選んでいる以上、その結果として警戒されることまで、相手の責任にするつもりはなかった。
それに、リンは何も間違ったことを言っていない。
むしろ、見知らぬ生徒に対しても、必要なことをきちんと確認し、注意すべきところは注意している。
その態度は、玲が原作で知っていた七神リンそのものだった。
――……やっぱり、しっかりした人だな。
玲は、内心で少しだけ感心した。
自分が相手の立場だったとしても、同じように対応できただろうか。
いや、ここまで冷静に質問できたかどうかは、正直怪しい。
少なくとも、玲が目指している神秘的な雰囲気だけでは、到底務まらない仕事である。
そんなことを考えているうちに、リンが端末を持ち直した。
「……本日の相談は、すでに終わっているのですね。」
「はい。財務室の方には、丁寧に対応していただきました。」
「でしたら、これ以上ここに留まる必要はないでしょう。」
リンは、淡々と告げた。
「お気をつけてお帰りください。」
玲は、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
そして、踵を返そうとした。
そのときだった。
リンの端末が、短く音を立てた。
画面へ視線を落としたリンは、わずかに眉を寄せた。
届いたのは、別の部署からの確認依頼だった。
内容そのものは珍しいものではない。
しかし、今すぐ対応しなければ、次の仕事が進まない。
リンは、短く返信を打ち込みながら、胸の内で小さく息を吐いた。
まだ、終わらない。
今日も、明日も。
会長が戻るまで、どれほどの仕事が積み重なるのか、考えたくもなかった。
それでも、止めるわけにはいかない。
連邦生徒会が機能しなければ、困るのは、ここで働く者たちだけではないのだから。
「……あの。」
声を掛けられ、リンは顔を上げた。
月白玲が、まだそこに立っていた。
リンは、わずかに眉を寄せた。
「……まだ何か?」
玲は、少しだけ迷っているようだった。
先ほどまでの、どこか余裕を感じさせる微笑とは違う。
その表情には、年相応のためらいがあった。
「……いえ。ただ。」
玲は、リンの手元にある端末へ視線を落とした。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……どうか、無理をなさらないでください。」
リンは、黙って玲を見た。
玲は、少しだけ微笑んだ。
「私には、こちらの事情は分かりません。でも……ずいぶん、お忙しそうでしたから。」
その言葉に、リンは一瞬だけ返答を忘れた。
玲は、静かに続けた。
「……誰かを支える人にも、支えてくれる人が必要なのだと思います。」
玲は、そこで言葉を切った。
そして、少しだけ視線を伏せた。
「先ほど、誰かの仕事を引き継ぐことについてお話ししましたけれど……どれほど大切な仕事でも、一人で背負い続ける必要はきっとありませんので。」
それは、玲が本当に伝えたかったことだった。
前世で見た物語の中で、リンは、いつも忙しそうだった。
厳しく、冷静で、時には近寄りがたい。
けれど、その厳しさの奥には、誰よりも責任を果たそうとする真面目さがあった。
玲は、そんな彼女を知っている。
もちろん、目の前のリンが、今、何を抱えているのかまでは分からない。
原作で見た出来事と、現在の状況が、完全に一致しているとも限らない。
それでも、疲れていることだけは、見れば分かった。
そして、目の前の少女が、誰かのために懸命に働いていることも。
玲は、少しだけ微笑んだ。
「……どうか、ご自身のことも、大切になさってください。」
リンは、しばらく何も言わなかった。
目の前の少女は、先ほどまで、こちらの質問に曖昧な答えを繰り返していた。
何を知っているのかも、なぜ知っているのかも、分からない。
そのことに対する警戒は、今も消えていない。
しかし、今の言葉は。
少なくとも、何かを探ろうとしているようには聞こえなかった。
玲は、ただ、目の前の相手を気遣っている。
それだけのことのように思えた。
リンは、静かに息を吐いた。
「……お気遣いは、ありがたく受け取っておきます。」
玲の表情が、わずかに和らいだ。
しかし、リンは続けた。
「ですが、あなたが心配すべきなのは、まずご自身の学園でしょう。」
「……はい。」
「生徒会長なのでしょう。でしたら、あなたにも果たすべき責任があるはずです。」
その言葉は、厳しかった。
けれど、玲には、不思議と嫌な感じがしなかった。
むしろ、少しだけ嬉しかった。
――……ああ。
やっぱり、あのリンだ。
玲は、胸の内でそう思った。
原作で知っていた彼女の姿が、目の前の少女と重なっていく。
仕事に厳しく、責任感が強く、そして、どこか不器用なほど真面目な人物。
玲は、静かに頷いた。
「……ええ。もちろんです。」
そして、穏やかに微笑んだ。
「私の帰る場所は、ちゃんとありますから。」
リンは、玲を見つめた。
その言葉に、何かを感じたのかもしれない。
しかし、表情は変わらなかった。
「……それなら結構です。」
玲は、もう一度頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました。」
そう告げて、今度こそ歩き始めた。
銀白の髪が、廊下に差し込む春の光を受けて揺れる。
玲は、落ち着いた足取りで、階段の方へ向かっていった。
その背中を、リンはしばらく見送っていた。
◇
階段へ向かう途中、玲は、ようやく小さく息を吐いた。
――……ふう。
思っていた以上に、長い立ち話になってしまった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
最初の独り言を聞かれたことは、確かに想定外だった。しかし、あそこで慌てて取り繕っていたら、きっと今よりもずっと不格好なことになっていただろう。
少なくとも、自分の言葉で話すことはできた。
リンが何を感じたのかまでは分からない。
ただ、最後に掛けた言葉だけは、きちんと伝わっていてほしかった。
玲は、窓の外へ目を向けた。
春の空が、明るく広がっている。
前世で知っていた物語の中で、七神リンは、いつも何かを背負っているように見えた。
会長の不在。
連邦生徒会の混乱。
そして、やがて訪れる先生との出会い。
それらが、今、この世界でどのように進んでいるのかは分からない。
けれど、少なくとも今日、玲は七神リンと出会った。
画面の向こうにいた人物が、今は同じ世界にいる。
そのことが、何よりも不思議だった。
玲は、少しだけ頬を緩めた。
それにしても、だ。
あの七神リンと、あれほど長く話すことになるとは思わなかった。
しかも、相手は最後まで、こちらの言葉を慎重に確かめようとしていた。
さすが、連邦生徒会の首席行政官である。
玲は、胸の内で満足げに頷いた。
――……なかなか、いい出会いだったかな。
もちろん、リンの側がどう思ったのかは分からない。
少なくとも、当初の目的通り、少し不思議な生徒だとは思われただろう。
悪くない。
玲は、静かに微笑んだ。
そして、階段を下りていった。
◇
一方、リンは、廊下に立ったまま、端末の画面を見つめていた。
先ほど届いた連絡は、財務室からのものだった。
複数の保留案件について、確認済み事項の通知方法を見直したいという、事務的な照会である。
今すぐ結論を出さなければならないほど緊急ではない。
ただし、放置してよいものでもなかった。
リンは、内容を読み進めた。
現在の決裁手順を変更せず、担当者による確認が完了した事項を申請者へ通知する。その際、最終承認とは異なることを明示し、予算執行を認めたものと誤解されないようにする。
妥当な検討だった。
少なくとも、財務室内で確認を進める価値はある。
リンは、短い返信を作成した。
現行規定との整合性を確認すること。
通知内容と権限の範囲を明確にすること。
そして、最終承認を経ない予算執行が生じないよう、十分に注意すること。
それらを記した後、リンは、添付された参考資料へ目を向けた。
そこに、一つの学園名があった。
黎明高等学校。
リンの指が止まった。
……黎明?
先ほどの少女が名乗った学校だった。
リンは、資料を開いた。
施設維持費の振替。
学習設備の更新。
八人の新入生。
小規模な学園にとって、決して軽くない変更申請である。
リンは、少しだけ眉を寄せた。
あの少女は、この件について相談に来ていたのか。
資料は丁寧に整理されていた。
必要性も明確である。
ただし、申請内容が妥当だからといって、手続きを省略できるわけではない。
リンは、そこを区別して考えた。
それでも、少しだけ意外だった。
先ほどの少女は、妙に回りくどい話し方をする少女だった。
質問に対して曖昧な答えを返し、こちらの時間を奪う。
少なくとも、第一印象はよくない。
しかし、この申請資料を見る限り、学校運営については、真剣に取り組んでいるようだった。
リンは、資料の末尾にある申請者名へ目を向けた。
月白玲。
確かに、そう記されている。
リンは、静かに息を吐いた。
……人は、見かけによらないものね。
もっとも、だからといって、あの曖昧な話し方を評価するつもりはなかった。
行政の場では、必要なことを明確に伝えるべきである。
それは、今も変わらない。
リンは、資料を閉じようとして、ふと手を止めた。
――仕事を引き継ぐことと、その人の代わりになることは、違いますから。
先ほどの少女の声が、不意に思い出された。
会長の不在。
増え続ける仕事。
判断を待つ案件と、各学園から寄せられる問い合わせ。
自分が立ち止まれば、連邦生徒会の機能はさらに滞る。それが分かっているからこそ、リンは日々、できる限りの仕事を引き受けていた。
しかし、あの少女は言った。
前にいた人と、同じになる必要はないのだと。
リンは、静かに目を伏せた。
……どこまで知っているのかしら。
月白玲。
黎明高等学校の生徒会長。
連邦生徒会の組織図を見上げて、空席と呟いた少女。
あの一連の発言を、単なる偶然で片づけることはできなかった。
少女は、何かを知っている。
少なくとも、連邦生徒会の現状について、何らかの事情を察していると考えるべきだろう。
問題は、その情報をどこから得たのかということだった。
トリニティやゲヘナのような大規模学園であれば、その上層部の一部が独自に情報を収集していても不思議ではない。だが、黎明高等学校は、資料を見る限り、ごく小規模な学園である。
そこに、連邦生徒会の内部事情へ通じる経路があるのだろうか。
あるいは、あの少女個人が、何らかのつながりを持っているのか。
現時点では、判断できない。
リンは、端末に表示された申請者名を見つめた。
月白玲。
奇妙なのは、彼女が自分の知識を利用して、何かを要求しようとする様子を見せなかったことだった。
連邦生徒会の事情を知っていると仄めかすことには、少なからず危険が伴う。にもかかわらず、少女は最後まで、何の見返りも求めなかった。
そして、別れ際。
――どうか、ご自身のことも、大切になさってください。
リンは、わずかに眉を寄せた。
あの言葉も、偶然ではないのだろう。
少女は、自分が何かを背負っていることを察したうえで、あえてあのような言葉を掛けたのだ。
それは、理解できる。
理解できるのだが。
……なぜ、私に?
今日、初めて会ったばかりの相手である。
こちらの事情を詳しく説明した覚えもない。むしろ、必要以上のことは話さないようにしていた。
それなのに、あの少女は、まるで以前から自分のことを知っていたかのように、静かに気遣いの言葉を残していった。
リンは、無意識に端末を持ち直した。
警戒すべき相手であることは、変わらない。
何を知っているのかも、何を考えているのかも、分からない人物を、軽々しく信用するわけにはいかなかった。
それでも。
あの言葉に、悪意があったとは思えなかった。
むしろ、あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐだった。
だからこそ、厄介だった。
リンは、静かに息を吐いた。
「……余計なお世話です。」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
だが、その言葉には、普段のような鋭さがなかった。
リンは、すぐに表情を引き締めると、端末の画面を閉じた。
まだ、仕事が残っている。
立ち止まっている時間はない。
ただ、廊下を歩き始めた後も、あの少女の姿は、なかなか頭から離れなかった。
銀白の髪。
角度によって不思議な色彩を帯びる瞳。
そして、こちらの事情を知っているかのように語りながら、最後には、何の見返りも求めずに気遣いだけを残していった少女。
月白玲。
リンは、その名前を、もう一度心の中で繰り返した。
……いったい、何者なのかしら。
その疑問に答えるものは、まだ誰もいなかった。