春の午後、黎明高等学校の生徒会室には、窓から吹き込む風と、紙をめくる微かな音だけが満ちていた。
中庭の桜はすでに盛りを過ぎ、枝先に残った花も、風が吹くたび少しずつ数を減らしている。新学期が始まってまだ間もないというのに、季節というものは人間の都合など待ってくれないらしい。昨日まで白く霞んでいた校庭の隅には、いつの間にか若葉の色が目立ち始めていた。
玲は、開け放した窓のそばに立ち、そんな景色を眺めていた。
銀白の髪が風に揺れ、午後の陽光を受けて淡く輝く。片手には一枚の書類を持っていたが、そこに記された文字を読んでいる様子はない。何かを考えているようでもあり、ただ春の景色を楽しんでいるようでもあるその横顔は、傍目にはひどく静かなものだった。
「……玲。そろそろ、こっちに戻ってきてくれない?」
机に向かっていた真帆が、呆れを含んだ声を掛けた。
玲はゆっくりと振り返り、手元の書類へ目を落とす。
「ああ、ごめんね。少し風が気持ちよかったから。」
「それは分かるけど。さっきから、全然話が進んでないよ。」
「そうだったかな。」
「そうだったの。交流棟の教室をどうするかって話、玲が始めたんでしょ?」
真帆が指差した机の上には、交流棟の見取り図が広げられていた。
黎明高等学校には、長いあいだ使われていない教室がいくつもある。そのうちの一室を、自習や読書に使える場所として整えられないかという話が持ち上がったのは、つい先日のことだった。
もっとも、実際に使えるようにするには、まず部屋の状態を確認しなければならない。窓の立て付けや照明の具合、古い家具の処分など、考えるべきことは少なくなかった。
玲は書類を机に置き、真帆の隣へ歩み寄った。
「覚えてるよ。二階の奥の部屋だったよね。あそこなら日当たりもいいし、静かに過ごすにはちょうどいいと思うんだけど。」
「それは私も賛成。ただ、去年から窓が開かなくなってるらしいんだよね。」
「そうなの?」
「うん。だから、まずそこを確認しないと。」
「なるほど。……それなら、放課後に一度見に行こうか。栞も誘って。」
「最初からそう言ってくれればいいのに。」
真帆は苦笑しながら、見取り図の端に小さな印を書き込んだ。
玲はその様子を眺め、ふと、窓の外へ視線を戻した。
校庭の向こうでは、新入生らしい二人が何やら楽しそうに話している。片方が大きく手を振り、もう片方が笑いながらその背中を追いかけていった。
昨年の春には、見られなかった光景だった。
生徒の少ない学校では、ほんの数人が増えるだけでも、景色が随分と変わる。
廊下を歩く足音が増え、教室から聞こえる話し声が増え、放課後の校舎にも、人の気配が残るようになる。
玲は、そうした変化を好ましく思っていた。
「……賑やかになったね。」
ぽつりと呟くと、真帆が顔を上げた。
「何が?」
「学校。去年とは、随分違うでしょう?」
「ああ、そういうこと。確かにね。新入生が入ってきてから、急に学校らしくなった気がする。」
「学校らしく、か。」
玲はその言葉を口の中で転がすように繰り返し、それから、柔らかく微笑んだ。
「……いい言葉だね。」
「そう?」
「うん。何だか、これからもっと面白くなりそう。」
真帆は玲の顔を見た。
こういうときの玲は、少しだけ不思議な雰囲気をまとう。
普段は気さくで、冗談も言うし、くだらないことで笑うこともある。けれど、ときおり何でもない言葉を、まるで何か特別な意味があるかのように口にすることがあった。
最初の頃こそ戸惑ったものの、今では真帆も慣れている。
玲は昔から、少し格好をつけたがるところがあるのだ。
何かを言う前に、わざと間を置いてみたり、答えを知っているくせに曖昧に微笑んでみたり。本人はうまく隠しているつもりなのだろうが、長い付き合いの真帆には、その程度のことは大抵分かってしまう。
だから、今の言葉も、いつもなら軽く聞き流していたはずだった。
ただ、最近は少しだけ、事情が違っている。
玲が時折見せるあの表情には、以前とは異なるものが混じっているような気がするのだ。
単に格好をつけているだけではない。
何かを知っている。
それも、自分たちがまだ知らない、ずっと遠くの出来事について。
そんな印象を受けることが、少しずつ増えていた。
「……玲。」
「うん?」
「最近、何かあった?」
玲は、少しだけ目を瞬かせた。
「どうして?」
「何となく。前より楽しそうにしてることが多い気がして。」
「そうかな。」
「うん。何かいいことでもあった?」
玲はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向け、しばらく考えるような素振りを見せてから、静かに口を開く。
「……そうだね。少し、懐かしい人に会えたから。」
「懐かしい人?」
「うん。」
「誰?」
玲は真帆へ視線を戻し、微笑んだ。
「……秘密。」
真帆は、しばらくその顔を見つめていた。
「……また、そういう言い方する。」
「ふふ。気になる?」
「そりゃ、気になるよ。」
「それなら、いつか話せる日が来るかもしれないね。」
「……もう。」
真帆は、呆れたように息を吐いた。
いつもの玲なら、ここで少し得意そうな顔をする。
自分の言葉が相手の興味を引いたことを、密かに喜んでいるのが分かるのだ。
ところが、今の玲は違った。
その微笑みには、確かに楽しげな色がある。
けれど、それだけではない。
何か大切なものを思い出しているような、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。
――……本当に、誰かに会ったのかな。
真帆は、ふと考えた。
玲が隠し事をしているのは、別に珍しいことではない。
誰にだって、話したくないことの一つや二つはある。
だから、無理に聞き出そうとは思わなかった。
ただ、最近の玲が、以前より少しだけ遠くにいるように感じることがある。
すぐ隣に座っているのに、何か自分の知らない景色を見ているような。
そんな、奇妙な感覚だった。
――……まあ、玲だしね。
真帆は、そう思い直した。
昔から、玲はこういうところがある。
何でもないことを、妙に意味深に語る。
そのくせ、こちらが真剣に聞こうとすると、決まって曖昧に笑ってしまう。
それが玲なのだ。
少なくとも、今まではそうだった。
……ただ。
最近の玲は、ときどき、本当に何かを知っているように見える。
そのことだけが、どうにも気になっていた。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「失礼します。月白先輩、真帆先輩。今、大丈夫ですか。」
「大丈夫だよ。入って、栞。」
玲が声を掛けると、雨宮栞が端末を抱えて入ってきた。
栞は二人の顔を見比べ、それから机の脇へ歩み寄る。
「連邦生徒会から、各学園宛ての通知が届いていました。生徒会でも確認しておいた方がいいと思ったので。」
「連邦生徒会?」
真帆が顔を上げた。
「この前の件?」
「いえ、それとは別です。新しい組織の設立についてのお知らせみたいです。」
「新しい組織?」
「はい。こちらです。」
栞は端末を操作し、通知の件名を表示した。
玲は何気なく、その画面へ目を向けた。
そして。
そこに記された文字を認めた瞬間、胸の奥で、何かが静かに動いた。
『連邦捜査部シャーレの設立について』
――……ああ。
玲は、しばらくその文字を見つめていた。
シャーレ。
その名前を、見間違えるはずがなかった。
とうとう、この日が来たのだ。
胸の奥に、懐かしさにも似た感情が広がる。
いつかは訪れると知っていた。
それでも、こうして現実の出来事として突きつけられると、何とも不思議な心地がする。
――先生が、来た。
玲は、静かに息を吐いた。
思わず口元が緩みそうになる。
それを隠すように、ゆっくりと端末から目を離した。
「……月白先輩?」
栞が、少し不思議そうに玲を見ていた。
「どうかしましたか?」
「……ううん。少し、驚いただけ。」
玲は穏やかに微笑んだ。
「続けてくれる?」
「はい。」
栞は頷き、通知の本文を指し示した。
「シャーレは、学園の枠を越えて活動する組織だそうです。各学園からの相談や協力要請に応じることもある、と書かれています。」
「へえ。それは随分と大きな役割だね。」
真帆が興味深そうに画面を覗き込んだ。
「でも、学園の枠を越えてって、実際には相当大変なんじゃないかな。大きな学園同士の問題だけでも、いろいろありそうだし。」
「そうだろうね。」
玲は頷いた。
それは、決して大げさな心配ではなかった。
キヴォトスには、数多くの学園が存在している。
それぞれが独自の事情を抱え、異なる価値観のもとで運営されている以上、そこに生じる問題も一様ではない。
そのすべてに向き合おうとするなら、どれほどの時間があっても足りないだろう。
まして、先生は一人なのだから。
「……うちみたいな小さな学校まで、気に掛けてもらえるのかな。」
真帆が、何気なく呟いた。
玲は、すぐには答えなかった。
画面に記されたシャーレの文字を見つめながら、少しだけ考える。
そして、静かに口を開いた。
「……大丈夫だと思うよ。」
「そう思う?」
「うん。」
玲は、ゆっくりと微笑んだ。
「少なくとも、あの人は……差し伸べられた手の小ささで、救う相手を選んだりはしないだろうから。」
真帆が、玲を見た。
「……あの人?」
「シャーレの先生だよ。」
「玲、その先生と会ったことでもあるの?」
「ううん。まだ、一度も。」
「じゃあ。それなのに、どうしてそんなことが分かるの?」
玲は、少しだけ目を細めた。
春の陽射しが、その銀白の髪を淡く照らしている。
そして、玲は静かに笑った。
「……さあ。どうしてだろうね。」
真帆は、しばらく何も言わなかった。
目の前にいるのは、いつもの玲だ。
少し格好をつけたがりで、時折こうして意味深なことを言う、長い付き合いの友人。
それは分かっている。
分かっている、はずなのに。
――……本当に、知らないの?
ふと、そんな疑問が胸をよぎった。
玲は、嘘をついているようには見えない。
少なくとも、今の言葉に込められた確信は、単なる思いつきではないように思えた。
まだ会ったこともない人間を、あれほど自然に信頼できるものだろうか。
しかも、玲は「そういう人だったらいい」とは言わなかった。
「あの人は、そういう人だ」と。
まるで、すでに答えを知っているかのように。
「……玲。」
「うん?」
「本当に、会ったことないんだよね?」
玲は、真帆を見た。
その瞳には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「……今はまだ、ね。」
真帆は、思わず息を止めた。
今は、まだ。
その言い方が、妙に引っかかった。
会ったことがないのなら、ただそう言えばいい。
それなのに、玲は、まるでいつか必ず会うことになると知っているかのように答えた。
真帆は、何かを言いかけた。
けれど、その言葉は結局、口にされなかった。
玲は、いつものように微笑んでいる。
そして、その笑顔を見ていると、どうしても思ってしまうのだ。
この子は、本当に何も知らないのだろうか、と。
「……また、そういう言い方する。」
真帆は、小さく息を吐いた。
「そうかな。」
「うん。玲って、時々、本当に何を考えてるのか分からない。」
玲は少しだけ肩をすくめた。
「それは、お互い様じゃないかな。」
「私のどこが?」
「真帆だって、私の知らないことをたくさん知ってるでしょう?」
「……それは、そうだけど。」
「なら、同じことだよ。」
玲は、そう言って笑った。
真帆は、それ以上追及しなかった。
けれど、胸の奥に生まれた小さな疑問は、消えなかった。
玲が格好をつけたがることは、知っている。
だから、意味深な言葉を口にすること自体は、今さら不思議でも何でもない。
ただ。
最近の玲は、ときどき、言葉の向こう側に何かを隠しているように見える。
それが何なのか、真帆には分からない。
分からないけれど。
――……いつか、話してくれるのかな。
そんなことを思った。
玲が自分から話そうとしないのなら、無理に聞き出すつもりはない。
ただ、いつかその日が来たなら、ちゃんと聞いてあげたい。
それだけは、心の中で決めていた。
「月白先輩。」
栞が、端末の下部を指し示した。
「こちらに、今後の問い合わせ先についても記載されています。念のため、控えておきましょうか。」
「うん。お願いするよ。」
「分かりました。」
「でも、今すぐ相談することはなさそうだね。」
真帆の言葉に、玲は頷いた。
「そうだね。できれば、しばらくは平和に過ごしたいところだね。」
「本当に。せっかく新入生も増えたんだし、落ち着いて学校生活を送ってほしいよ。」
「まったくだね。」
玲は笑いながら、机の上の見取り図を引き寄せた。
シャーレが設立された。
先生が、この世界に現れた。
その事実は、玲にとって大きな意味を持っている。
けれど、だからといって、今すぐ何かをしなければならないわけではなかった。
先生に会いに行く理由はないし、原作の出来事へ積極的に関わるつもりもない。
そもそも、自分が知っているのは、前世で遊んだゲームの物語である。
今、この世界のどこで何が起きているのか、そのすべてを把握しているわけではない。
それに、玲には玲の生活がある。
真帆がいて、栞がいて、守りたい学校がある。
それらを放り出してまで、遠くの物語を追いかけるつもりはなかった。
そしてそのうえで、
――……いつか、会えるだろうか。
ふと、そんなことを思った。
先生と出会う機会があるのなら、それはきっと嬉しいことだろう。
できることなら、一度くらい、直接話してみたい。
そして、あの人が本当に、自分の知っている先生なのかを確かめてみたい。
玲は、画面に記されたシャーレの文字をもう一度見つめた。
――もし、先生に会えたなら。
そのときは、聞いてみたいことがある。
目の前に助けを求める生徒がいて、その子を救うために、自分自身が何かを失うことになるとしたら。
それでも、先生は手を差し伸べるのだろうか。
前世で知っていた先生なら、答えは決まっている。
けれど、玲は、その答えを本人の口から聞いてみたかった。
そして、もし思っていたとおりの言葉が返ってきたなら。
――……そのときは、少しばかり格好をつけてもいいかもしれない。
玲は、誰にも気づかれないように口元を緩めた。
何しろ、相手は先生なのだ。
少しくらい、印象に残る言葉を交わしてみたい。
それは、前世で物語を見つめていた者としての、ささやかな願いでもあった。
「玲。」
真帆が、見取り図の一角を指した。
「ここの部屋、やっぱり最初に確認した方がいいと思うんだけど。」
「うん。そうだね。」
「窓が開かないって話だったでしょ。だったら、先にそこを見ておこうよ。」
「分かった。放課後に見に行こう。」
玲は頷き、見取り図に印を付けた。
栞も隣から覗き込み、必要な道具についていくつか提案する。
やがて、生徒会室には、いつもの空気が戻っていた。
古い校舎のこと。
使われていない教室のこと。
新しい机を置くなら、どの辺りがいいだろうかということ。
どれも、キヴォトス全体から見れば、取るに足らない話なのかもしれない。
けれど、玲にとっては大切なことだった。
窓の外では、春の風が桜の花びらを運んでいる。
廊下の向こうからは、誰かの笑い声が聞こえてきた。
玲はその音に耳を傾けながら、ふと、先ほどの通知を思い出した。
シャーレ。
先生。
あの物語が、今、この世界で動き始めている。
そのことを考えると、やはり胸が躍った。
――……楽しみだな。
玲は、心の中で呟いた。
前世で知っていた物語が、これからどんな形で進んでいくのか。
自分は、その中で何を見ることになるのか。
そして、いつか先生と出会ったとき、どんな言葉を交わすことになるのか。
考えれば考えるほど、興味は尽きなかった。
ただ、その一方で。
玲は、机の上に広げられた見取り図へ視線を落とした。
明日の放課後には、交流棟の確認がある。
栞と一緒に備品の整理もしなければならないし、真帆に頼まれていた書類もまだ残っている。
世界がどれほど大きく動こうと、自分の日常が急になくなるわけではない。
それでいいのだと思った。
――先生は先生で、私は私。
玲は、少しだけ口元を緩めた。
――いつか会えたら、そのときはよろしくお願いします、ってことで。
春の陽射しが、窓辺に落ちている。
銀白の髪が、その光を受けて淡く輝いた。
その日、月白玲は、連邦捜査部シャーレの設立を知った。
けれど、まだ先生とは出会っていない。
自分がいつ、どこで、その人と顔を合わせることになるのかも、もちろん知らなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
玲は、その出会いを心から楽しみにしていた。
そして、もしその日が訪れたなら。
きっと、少しくらい格好をつけてしまうのだろう。
何しろ、相手は先生なのだから。