休日のD.U.には、学園都市の中心部らしい賑わいがあった。
平日の朝ともなれば、通りを埋め尽くすのは授業や仕事へ急ぐ生徒たちであり、駅の改札から吐き出される人波も、交差点を横切る足取りも、どこか一様な慌ただしさを帯びるものだが、休日の午後には、そうした時間に追われる者たちの姿が幾分少なくなり、代わって、何を買うでもなく店先を覗き込む者や、友人との話に夢中になって歩道の端で立ち止まる者、あるいは、広場のベンチに腰を下ろして、行き交う人々をぼんやり眺めている者などが目につくようになる。
街路樹には若葉が芽吹き、商業施設の大きな硝子窓には春物の衣服が飾られていた。高架を走る列車が建物の間を横切るたび、午後の陽射しは一瞬だけ翳り、やがて再び明るさを取り戻す。その光の移ろいに合わせるように、通りに面した喫茶店の庇が淡い影を揺らし、店先からは焼き菓子の甘い匂いが漂ってきた。
玲は、そんな街の一角で、ひどく真剣な顔をしていた。
「……真帆。」
「何?」
「少し、困ったことになったかもしれない。」
その声があまりにも落ち着いていたので、隣に立っていた真帆は、何か面倒なことでも起きたのかと、思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「見て。」
玲が指差したのは、通りに面した洋菓子店のショーウインドーだった。
硝子の向こうには、色とりどりの菓子が並んでいる。艶やかなチョコレートをまとった小さなケーキ、薄く焼き上げた生地を幾重にも重ねた菓子、果実を惜しげもなく飾りつけたタルト。どれも丁寧に作られているらしく、午後の陽射しを受けた果実は、まるで磨き上げられた宝石のように輝いていた。
玲は、その中の二つを交互に見つめていた。
「苺のタルトもおいしそうだけど、こっちのチョコレートも捨てがたいんだよね。」
真帆はしばらく黙っていたが、やがて肩を震わせた。
「……玲。」
「何?」
「そんな顔をするから、何か大変なことが起きたのかと思ったじゃない。」
「大変だよ。どちらか一つしか選べないんだから。」
「両方買えばいいでしょ。」
「それは、ちょっと違う気がする。」
「何が?」
「選ぶ楽しみがなくなっちゃうよ。」
玲はもっともらしく頷き、再び硝子の向こうへ視線を戻した。
真帆は呆れたように笑っていたが、玲としては、決してふざけているつもりばかりでもなかった。
目の前の菓子は、確かにどちらも魅力的なのである。
苺の方は、薄紅色の果実と白いクリームの取り合わせが何とも春らしく、見ているだけで心が弾む。一方のチョコレートは、落ち着いた色合いの中に控えめな華やかさがあり、少し大人びた気分を味わうには、こちらも悪くなさそうだった。
もっとも、玲がここまで迷っているのには、もう一つ理由があった。
どちらを選ぶ方が、より自分らしいだろうか。
そう考えてしまったのである。
銀白の髪を春風に揺らし、硝子の向こうに並ぶ菓子を静かに見つめる少女。傍らの友人が何を尋ねても、ただ微笑むばかりで答えようとしない。やがて、何かを悟ったかのように目を細め、選んだ一品をそっと指差す。
……うん。
なかなか、絵になる気がする。
玲は試しに、少しだけ顎を引いてみた。
硝子に映る自分の姿は、思った以上に様になっている。
今日の玲は、淡い灰青色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、銀白の髪を緩く編んで肩へ流していた。飾り気の少ない服装ではあったが、かえってその控えめさが、彼女の持つどこか浮世離れした美しさを際立たせている。
角度を少し変えると、紫を基調とした瞳の奥に、淡い青と薄紅が混じった。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
……などと考えていた、そのときだった。
「玲、苺の方が食べたいんでしょ?」
真帆の声が、あまりにもあっさりと、ささやかな空想を打ち砕いた。
「……え?」
「さっきから、そっちばっかり見てるもの。」
「……そんなに分かりやすかった?」
「かなりね。」
真帆が笑う。
玲は少しばかり不服そうな顔をしたものの、結局、つられて笑ってしまった。
「……参った。真帆には敵わないね。」
「今さらでしょ。」
真帆はそう言って店の入口へ向かい、玲もその後を追った。
結局、苺のタルトを選んだ。
それも、二つ。
一つは自分の分で、もう一つは真帆の分だった。
何しろ、真帆も先ほどから、少しばかり羨ましそうな顔をしていたのである。
本人は隠しているつもりだったのかもしれないが、長い付き合いの玲には、その程度のことは大抵分かってしまう。
お互い様、というわけだった。
♢
店を出た二人は、大通りを少し歩いたところにある広場で、買った菓子を食べることにした。
噴水を囲むように設けられたベンチには、買い物の途中らしい生徒たちが腰を下ろし、広場の片隅では、誰かが小さな楽器を奏でている。音楽は決して上手とは言えなかったが、春の午後の穏やかな空気には、むしろその少しばかり不器用な旋律がよく似合っていた。
玲はベンチへ腰を下ろし、紙袋からタルトを取り出した。
小さな果実が、薄いクリームの上に丁寧に並べられている。
ひと口かじると、苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、続いて、ほのかなバターの香りが鼻へ抜けた。
「……おいしい。」
「本当だね。これ、結構好きかも。」
「うん。選んだ甲斐があったよ。」
「ずいぶん悩んでたもんね。」
真帆が笑いながら言う。
玲は少しだけ頬を緩め、残っていたタルトをもう一口かじった。
こういう時間は、悪くない。
新学期が始まって以来、生徒会の仕事は何かと忙しかった。昨年より生徒が増えたとはいえ、黎明高等学校が小規模な学園であることに変わりはなく、校内の設備を整えるにしても、新入生の生活を支えるにしても、三人で相談しながら一つずつ進めていかなければならない。
もっとも、忙しいこと自体は嫌いではなかった。
誰かと一緒に何かを作り上げていくことには、独特の楽しさがある。
ただ、それとは別に、こうして何の予定もなく街を歩き、気になる店を覗き、友人と菓子を分け合う時間もまた、大切にしたかった。
玲は、噴水の向こうへ目を向けた。
広場を横切る人々の姿が、午後の光の中をゆっくりと流れていく。
それぞれに行き先があり、それぞれに事情があり、互いのことなどほとんど知らないまま、ほんの一瞬だけ同じ場所を通り過ぎていく。
そう考えると、街というものは、何とも不思議な場所だった。
「……玲?」
真帆が声を掛けた。
「また何か考えてる?」
「ううん。ちょっと、ぼんやりしてただけ。」
「そう?」
「うん。風が気持ちいいなって。」
玲は微笑み、空を見上げた。
高い建物の間には、雲の少ない青空が広がっている。
ふと、風に乗って一枚の花びらが舞い降り、玲の膝の上へ落ちた。
薄紅色の、小さな花びらだった。
玲はそれを指先で拾い上げ、しばらく眺めた。
「……桜?」
「こんなところまで飛んできたんだね。」
「そうみたい。」
玲は、花びらを掌に載せた。
薄く透けたその一片は、ほんの少し指を動かしただけでも飛んでいってしまいそうなほど軽かった。
「……遠くまで来たね。」
玲が小さく呟く。
真帆は、その言葉を聞いて笑った。
「何だか、花びらに話しかけてるみたい。」
「……そう聞こえた?」
「うん。」
玲は少しだけ目を細めた。
「それなら、そういうことにしておこうかな。」
「また格好つけてる。」
「……ばれた?」
「ばればれ。」
玲は笑い、花びらをそっと風に放した。
薄紅の一片は、しばらく宙を漂ったあと、噴水の向こうへ運ばれていった。
それを見送りながら、玲はふと思った。
自分もまた、随分と遠くまで来たものだ、と。
もっとも、今さらそのことに驚くつもりはない。
ここには学校があり、友人がいて、日々の暮らしがある。今の自分にとって、そうしたものは、もはや何かの代わりなどではなく、紛れもない現実だった。
だからこそ、玲は今日という休日を、心から楽しんでいた。
「そういえば、玲。」
「うん?」
「このあと、どこに行く?」
「少し本屋さんを覗いてみたいな。昨日、面白そうなお店を見つけたんだ。」
「本屋さん?」
「うん。古い本を扱ってるところ。大通りから少し外れた場所にあるみたい。」
「へえ。玲らしいね。」
「そうかな。」
「うん。じゃあ、行ってみようか。」
玲は頷き、食べ終えた菓子の包みを片づけた。
噴水の水音を背に、二人は再び歩き始めた。
♢
大通りから一本外れると、街の表情は随分と変わった。
背の高い商業施設が途切れ、代わりに古い煉瓦造りの建物や、低い軒先を持つ個人商店が並び始める。道幅はそれほど広くないが、ところどころに街路樹が植えられ、建物の間には小さな広場も設けられていた。
玲が目当てにしていた古書店は、この通りの奥にあるらしい。
「……こっちで合ってる?」
真帆が端末の地図を覗き込みながら尋ねた。
「うん。たぶん、もう少し先。」
「たぶん?」
「昨日調べたときは、ここを曲がるはずだったんだけど。」
「玲、道を覚えるのは苦手だもんね。」
「自分では得意なつもりだったんだけどね。」
玲は苦笑した。
目印にしていたはずの時計店が見当たらない。
地図を確認すると、どうやら一本手前の道を曲がってしまったらしい。
「……あ、こっちじゃないみたい。」
「もう。」
「ごめんね。すぐ戻れるから。」
「別にいいよ。急いでるわけじゃないし。」
真帆は笑い、端末をしまった。
二人は来た道を少し戻り、次の角を曲がる。
その先には、通りの中央に小さな噴水を設けた広場があった。周囲には喫茶店や雑貨店が並び、ベンチでは買い物帰りらしい生徒たちが休んでいる。
玲は、噴水の向こうに見える古びた看板を見つけた。
「あ、あった。」
「本当だ。」
看板には、少し掠れた文字で書店の名前が記されていた。
玲が嬉しそうに歩き出そうとした、そのときだった。
広場の端から、何かが地面へ落ちる音が聞こえた。
続いて、短い悲鳴が上がる。
「……あっ!」
二人が振り返ると、雑貨店の前で一人の少女が立ち尽くしていた。
まだ幼さの残る顔立ちで、制服の胸元には見慣れない学園の徽章がついている。両腕には紙袋をいくつも抱えていたが、そのうちの一つが破れ、中から小さな箱や包みが歩道へ散らばっていた。
少女は慌ててしゃがみ込み、落ちたものを拾い集めようとしている。
ところが、残った荷物を抱えたままでは上手く手が届かないらしく、何度も立ち上がってはしゃがみ直し、そのたびに別の荷物まで落としかけていた。
「……真帆。」
「うん。行こう。」
玲は頷き、少女のもとへ歩み寄った。
「大丈夫? 手伝うよ。」
声を掛けると、少女は驚いたように顔を上げた。
「あっ、いえ! 大丈夫です! すぐ片づけますから……!」
「そんなに急がなくてもいいよ。ほら、こっちの袋は持っておくね。」
玲は少女の返事を待ち、差し出された紙袋を受け取った。真帆も散らばった包みを拾い始め、三人で作業を進めるうちに、歩道の上はほどなく元の状態に戻った。
ただ、一つだけ問題が残った。
少女が落とした箱のうち、最も大きなものの角が潰れ、包装紙が破れてしまっていたのである。
「……ああ。」
少女はそれを見た途端、肩を落とした。
「どうしよう……。」
玲は、箱へ目を向けた。
「中身、壊れちゃった?」
「いえ、中は大丈夫だと思います。でも……。」
少女は箱を抱き締めるように持ち直した。
「これ、今日、お世話になった人に渡すものなんです。みんなでお金を出し合って買ったもので、包装も綺麗にしてもらったのに……。」
「そっか。」
玲は小さく頷いた。
「大切な贈り物なんだね。」
「……はい。」
少女の声が、少しだけ震えた。
どうやら、単に包装が傷んだことだけを気にしているのではないらしい。自分が任されたものを、きちんと届けられなかったことが悔しいのだろう。
玲は、しばらくその箱を眺めていた。
包装紙は破れているが、中身に損傷はない。新しい紙とリボンがあれば、十分に包み直せそうだった。
通りの向こうには、ちょうど文具店がある。
ならば、話は簡単だ。
玲は少女へ視線を戻し、そっと微笑んだ。
「……ねえ。」
「……はい?」
「少し、顔を上げてみて。」
少女は戸惑いながらも、言われたとおりに顔を上げた。
その瞬間、目の前にいた銀白の少女と、真正面から視線が重なった。
春の光を受けた髪は、白銀というより、どこか淡い月光を思わせる色をしていた。紫がかった瞳には、角度によって青や薄紅が混じり、見つめているうちに、どこまでが光の反射なのか分からなくなる。
玲は、その瞳を少しだけ細めた。
「……君は、今日、その人に何を届けるつもりだったの?」
「え……?」
「この箱の中に入っているもの。それだけかな。」
少女は、思わず口を閉じた。
玲は、答えを急がせなかった。
しばらくして、少女が小さく首を振る。
「……違います。」
「うん。」
「今まで、ありがとうございましたって……。みんなで、ちゃんとお礼を言いたくて。」
「そう。」
玲は、静かに微笑んだ。
「それなら、何も失くしていないよ。」
少女は目を瞬かせた。
「……え?」
「箱は少し傷ついてしまったけど、君たちが届けたかったものは、まだちゃんとここにある。」
玲は、少女の胸元へそっと視線を落とし、それから再び目を合わせた。
「……大丈夫。君が大切にしているものは、そんなに簡単に壊れたりしないから。」
風が吹いた。
銀白の髪が頬をかすめ、柔らかな光を受けて揺れる。
玲は、そこでほんの少しだけ間を置いた。
――……うん。
なかなか、いい感じではないだろうか。
困っている少女へ、静かに語りかける銀白の美少女。
しかも、言っていることは決して嘘ではない。
ここで少しだけ、余韻を残すように微笑めば。
「……それに。」
玲は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「君がここで立ち止まったのも、きっと悪いことばかりじゃないよ。」
「……どういう、意味ですか?」
「さあ。どうだろうね。」
玲は、少しだけ首を傾げた。
「ただ……人と人が出会う理由なんて、後になってから分かることもあるでしょう?」
少女は、何も言わなかった。
ただ、目の前の美しい少女を見つめている。
玲はその反応を見て、内心でひそかに満足した。
よし。
今のは、かなりよかった気がする。
もっとも、真帆はすぐ隣で、少し呆れたような笑みを浮かべていた。
「玲。そろそろ、箱をどうするか考えよう?」
「……あ、そうだね。」
玲は何事もなかったように頷いた。
「向こうに文具店があるから、新しい包装紙を探してみようか。」
「えっ……でも、そこまでしてもらうのは……。」
「気にしなくていいよ。私たちも、今日は時間があるから。」
玲はそう言って、少女から傷んだ箱を受け取った。
そのときだった。
「……あの、よかったら。」
背後から、落ち着いた声が聞こえた。
「私にも、少し手伝わせてもらえないかな。」
玲は振り返った。
そこには、一人の大人が立っていた。
年齢は、周囲を行き交う生徒たちより明らかに上だろう。特別に目立つ服装をしているわけではなかったが、その立ち居振る舞いには、どこか穏やかな落ち着きがあった。
その人は、少女の抱えている荷物へ目を向けた。
「新しい箱を探すなら、荷物を持つ人がいた方がいいと思って。もちろん、迷惑じゃなければだけど。」
少女は、驚いたように目を瞬かせた。
「えっ……でも……。」
「大丈夫。ちょうど手が空いているから。」
その人は微笑んだ。
玲は、その横顔を見つめていた。
――……あれ。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
どこかで。
いや、違う。
どこかで見たことがある、という話ではない。
その人の声を聞いた瞬間、玲の中に浮かんだものは、もっと曖昧で、それでいて妙に確かな感覚だった。
――……もしかして。
玲は、相手の顔を改めて見た。
けれど、その人は玲の視線に気づいた様子もなく、少女へ向かって穏やかに話しかけている。
「荷物、重そうだね。よかったら、一つ持つよ。」
「あ……ありがとうございます。」
少女が差し出した紙袋を、その人は丁寧に受け取った。
その仕草を見て、玲は思わず口元を緩めた。
――……なるほど。
これは、思っていたより面白いことになったかもしれない。
玲は、抱えていた箱を持ち直した。
「……ありがとうございます。助かります。」
相手がこちらを向く。
「ううん。こちらこそ、声を掛けるのが遅くなっちゃって。」
「そんなことないですよ。」
玲は微笑んだ。
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「……むしろ、ちょうどいい頃合いだったのかもしれません。」
「……え?」
「いえ。こちらの話です。」
相手は少し不思議そうにしていたが、すぐに笑った。
「そっか。じゃあ、行こうか。」
玲は頷き、少女と真帆を促した。
四人は、通りの向こうにある文具店へ向かって歩き始めた。
♢
文具店の扉を開けると、頭上で小さな鈴が鳴った。
店内には紙と木材の匂いが薄く漂っており、入口から奥へ伸びる通路の両側には、便箋や封筒、筆記具、色紙などが所狭しと並べられていた。通りに面した硝子窓から午後の光が差し込んでいるものの、棚の奥まったところまでは届かないらしく、古い木製の什器と落ち着いた照明のせいもあって、外の賑わいが嘘のように静かだった。
玲は店内を一通り見渡し、包装用品の置かれた一角を見つけると、少女をそちらへ案内した。
「箱の大きさは、今のものと同じくらいでいいかな。中身が動かないように、少し余裕がある方がいいかもしれないね。」
「はい。あの、でも……。」
少女はそこで言い淀み、玲の抱えている箱へ目を落とした。
何か気になることがあるらしい。
玲が視線で続きを促すと、少女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「これ、最初に買ったお店で包んでもらったんです。だから、同じようにできるか分からなくて……。私、こういうの、あんまり得意じゃないんです。」
「なるほど。確かに、綺麗に包むのは少し難しいかもしれないね。」
玲はあっさりと認めた。
少女は意外そうに顔を上げたが、玲は気にする様子もなく、棚に並んだ包装紙を眺め始めた。
「でも、最初と同じにしなくてもいいんじゃないかな。せっかくだから、君たちが選んだって分かるようなものにしてもいいと思う。」
「……私たちが、選んだって?」
「うん。ほら、こういうのとか。」
玲が手に取ったのは、淡い青色の包装紙だった。表面には細い銀の線で小さな花模様が描かれており、派手ではないものの、光の加減によって模様が浮かび上がる。
少女はそれを見つめ、少しだけ表情を明るくした。
「……綺麗ですね。」
「でしょう? 私も好きだな、こういうの。」
「でも、あの人、こういう色が好きだったかな……。」
少女は再び考え込んだ。
玲は、そこで包装紙を棚へ戻した。
「じゃあ、ほかも見てみようか。せっかく時間があるんだから。」
隣では、真帆が箱の大きさを確かめていた。
元の箱と似たものをいくつか取り出し、傷んだ部分を避けて寸法を測っている。その手際が妙によかったので、玲は感心しながら眺めていたが、真帆に視線を向けられると、何食わぬ顔で別の包装紙を手に取った。
「……玲。」
「何?」
「見てないで、こっちも手伝って。」
「……はい。」
玲は素直に頷いた。
そのやり取りを聞いて、少女が小さく笑った。
先ほどまでの沈んだ表情とは違い、少しずつ余裕が戻ってきたらしい。
それが分かると、玲も何となく嬉しくなった。
♢
しばらくして、少女は一枚の包装紙を選んだ。
薄い生成り色の地に、小さな草花が描かれたものだった。目立つ色ではないが、近くで見ると、花の輪郭が丁寧に印刷されている。
「……これにします。」
少女は、少し照れたように言った。
「その人、あんまり派手なものは好きじゃないんです。でも、お花は好きで……。だから、これならいいかなって。」
「うん。素敵だと思う。」
玲が答えると、少女は嬉しそうに頷いた。
その様子を見ていた先生が、穏やかに声を掛けた。
「きっと喜んでもらえるよ。ちゃんと、その人のことを考えて選んだんだから。」
少女は先生を見上げた。
「……そうでしょうか。」
「うん。少なくとも、私だったら嬉しいかな。」
先生は、少し考えるように続けた。
「自分の好きなものを覚えていてくれたって、それだけでも嬉しいと思うんだ。」
玲は、隣でその言葉を聞いていた。
何気ない言葉だった。
けれど、先生がそれを口にしたとき、少女の顔から、最後に残っていた緊張が少しだけ消えたように見えた。
玲は、そこでふと考えた。
この人は、どうしてこういう言葉を選べるのだろう。
誰かを励ますとき、立派なことを言おうとする人は少なくない。相手を安心させるために、物事を大きく捉えたり、何か特別な意味を見いだそうとしたりすることもある。
けれど、先生は違った。
少女が選んだ包装紙を見て、その選択に込められた気持ちを、ただ素直に受け止めている。
それだけのことが、少女にとっては何よりも嬉しかったらしい。
玲は、思わず口元を緩めた。
――……なるほど。
こういうところ、なんだろうな。
前世の記憶の中にいる先生は、いつも生徒たちのために奔走していた。
もちろん、画面越しに見ていた物語の中では、先生がどのような表情で言葉を選び、どんなふうに相手の返事を待っていたのか、細かなところまで分かるわけではなかった。
けれど、こうして目の前で見ていると、何となく納得できるものがあった。
先生は、少女の不安を否定しなかった。
その代わり、少女自身が大切にしているものへ、そっと目を向けさせた。
玲は、そんな先生の横顔を眺めながら、胸の内で小さく笑った。
――……やっぱり、先生だ。
もっとも、まだ名前を聞いたわけではない。
そのため、玲はひとまず、何も知らない生徒の顔をしておくことにした。
「……ところで。」
玲が声を掛けると、先生がこちらを向いた。
「はい?」
「こういう包装って、得意ですか?」
先生は、一瞬だけ考えた。
「……得意、というほどではないかな。」
「そうなんですね。」
「うん。でも、簡単なものなら手伝えると思うよ。」
玲は、少しだけ目を細めた。
「……頼もしいですね。」
「そうかな?」
「はい。少なくとも、私はあまり得意じゃないので。」
その言葉を聞いた真帆が、横から口を挟んだ。
「玲、去年の文化発表会で、飾りつけのリボンを結ぶのに随分苦労してたもんね。」
「……真帆。」
「何?」
「その話は、今しなくてもいいんじゃないかな。」
真帆は笑った。
先生も、つられるように笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、みんなで協力しよう。」
「……はい。」
玲は、少しだけ不服そうに頷いた。
もっとも、内心では悪い気がしていなかった。
先生とこうして、何でもない会話を交わしている。
それだけで、何となく楽しかったのである。
♢
店員に事情を説明すると、奥にある作業台を使わせてもらえることになった。
店員は、傷んだ箱の状態を確かめ、新しい箱と緩衝材を用意してくれた。包装紙を切るための道具も貸してもらえたので、四人はそこで作業を始めた。
まず、中身を移し替える。
少女は少し緊張した様子で箱を開けたが、幸い、贈り物そのものに目立った傷はなかった。
中に入っていたのは、小さな置物だった。
透明な硝子で作られた花の形をしており、台座には短い言葉が刻まれている。
玲は、その文字を読もうとして、途中で視線を外した。
これは、少女たちが誰かへ贈るために選んだものだ。
自分が必要以上に覗き込むものではないだろう。
代わりに、緩衝材を丁寧に整え、置物が動かないように箱へ収めた。
「……これで大丈夫かな。」
玲が尋ねると、少女は何度も頷いた。
「はい! ありがとうございます。」
次に、包装紙を広げる。
真帆が箱の大きさに合わせて紙を切り、先生が端を押さえる。玲は折り目を整える役を引き受けたが、最初の一度は角が少しずれてしまい、真帆にやり直しを勧められた。
「……難しいね。」
「玲、そこはもう少し引っ張った方がいいよ。」
「こう?」
「うん。そうそう。」
真帆は慣れた手つきで紙を折り込み、玲もそれを真似た。
先生は二人の様子を見ながら、少女へ声を掛けた。
「せっかくだから、最後のリボンは君が結んでみる?」
「……私が、ですか?」
「うん。もちろん、難しかったら一緒にやろう。」
少女は、少し考えた。
それから、小さく頷いた。
「……やってみたいです。」
先生は微笑み、リボンを少女へ渡した。
玲は、そのやり取りを見ていた。
先生は、何でも自分でやってしまうわけではないらしい。
手伝うべきところは手伝い、相手に任せられるところは任せる。
それは、言葉にすれば簡単なことだったが、実際には案外難しい。
困っている人を見れば、つい、すべてを代わりにやってあげたくなることもある。特に、相手が自信を失っているときには、失敗させないことを優先してしまいがちだ。
けれど、先生は、少女が自分でできることを奪わなかった。
玲は、少しばかり感心した。
――……うん。
これは、覚えておこう。
そんなことを考えながら、玲は少女の手元へ視線を戻した。
少女は、慎重にリボンを結んでいた。
最初は左右の長さが揃わず、何度か結び直すことになったが、先生も真帆も急かすことなく待っていた。
玲も、余計な口を挟まずに見守った。
やがて、少し不揃いではあるものの、可愛らしい蝶結びができあがった。
「……できた。」
少女が、小さく呟いた。
先生は、嬉しそうに頷いた。
「うん。綺麗にできたね。」
真帆も微笑んだ。
「いい感じだと思うよ。」
玲は、完成した箱を眺めた。
包装紙の草花模様と、淡い緑色のリボンがよく似合っている。最初の包装とは随分違うものになったが、むしろ、少女が贈る相手のことを考えて選んだという点では、こちらの方がふさわしいのかもしれなかった。
「……素敵だね。」
玲がそう言うと、少女は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「うん。とても。」
玲は、少女へ箱を差し出した。
「これなら、胸を張って渡せるんじゃないかな。」
少女は、両手でそれを受け取った。
しばらく、何も言わずに眺めていた。
やがて、少しだけ目を潤ませながら、笑った。
「……はい。」
その声には、先ほどまでの不安がほとんど残っていなかった。
♢
店を出る頃には、午後の陽射しが少し傾き始めていた。
通りを行き交う人々の影が長く伸び、建物の壁面には、街路樹の枝が細かな模様を描いている。
少女は、包み直した贈り物を大切そうに抱え、何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。皆さんがいなかったら、私、どうしたらいいか分からなくて……。」
「気にしなくていいよ。」
真帆が答える。
「無事に渡せそうでよかったね。」
「はい!」
少女は、嬉しそうに頷いた。
それから、玲の方へ向き直った。
「……あの。」
「うん?」
「さっき、言ってくれましたよね。私が大切にしているものは、簡単には壊れないって。」
玲は、少しだけ目を瞬かせた。
「……うん。」
「私、あの言葉、すごく嬉しかったです。」
少女は、包みを抱え直した。
「箱が壊れたとき、みんなに申し訳なくて、もうどうしようもないって思ったんです。でも、皆さんと一緒に包み直してたら、何だか……最初より、ちゃんと自分の気持ちを込められたような気がして。」
玲は、黙って耳を傾けていた。
「だから、今日のことも、ちゃんとみんなに話そうと思います。失敗しちゃったことも、助けてもらったことも。」
「……そう。」
玲は、穏やかに微笑んだ。
「それは、きっといいと思う。」
少女は、少し照れたように笑った。
「……ありがとうございました。」
そして、先生と真帆にももう一度礼を言い、通りの向こうへ歩き出した。
何度か振り返り、そのたびに小さく手を振る。
やがて、その姿は人混みの向こうへ消えていった。
玲は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
すると、隣から声が掛かった。
「……よかったね。」
振り返ると、先生がこちらを見ていた。
「うん。あの子、最後は笑ってた。」
玲は頷いた。
「そうですね。最初は、随分と落ち込んでいましたから。」
「そうだね。」
先生は、少女が歩いていった方へ目を向けた。
「でも、君たちが先に声を掛けてくれていてよかったよ。あの子、一人だったら、もっと困っていたかもしれない。」
玲は、その言葉を聞いて、少しだけ首を傾げた。
「……先生も、きっと声を掛けていたと思いますけど。」
口にしてから、玲は内心で、あ、と声を漏らした。
先生。
まだ、相手がそう名乗ったわけではない。
つい、自然に呼んでしまったのである。
先生も、それに気づいたらしい。
「……あれ?」
不思議そうに、玲を見た。
「私、先生だって話したっけ?」
真帆も、玲の方を向いた。
玲は、ほんの一瞬だけ考えた。
ここで慌てて取り繕うのも、何となく面白くない。
それに、せっかくなのだから。
玲は、静かに微笑んだ。
「……まだ、伺っていませんね。」
「……そうだよね?」
「はい。」
玲は頷いた。
そして、少しだけ目を細める。
「でも、何となく、そんな気がしたんです。」
先生は、きょとんとした。
「……何となく?」
「ええ。」
玲は、穏やかに答えた。
「困っている生徒を見つけたとき、自然に手を差し伸べられる人。相手の気持ちを大切にしながら、できることを一緒に考えてくれる人。」
そこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「……そういう人を、先生と呼びたくなるのは、不思議なことでしょうか。」
先生は、しばらく何も言わなかった。
それから、少し照れたように笑った。
「……そんなふうに言ってもらえると、嬉しいな。」
玲は微笑んだ。
――……うん。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
先生と呼んでしまったことを、こうして自然に言い換えられたのだから、我ながら上出来ではないだろうか。
もっとも、真帆は隣で、少し不思議そうな顔をしていた。
玲が時折、意味深なことを言うのは珍しくない。
けれど、今の言葉には、普段とは少し違うものが混じっていたような気がしたのである。
それが何なのか、真帆には分からなかった。
ただ、玲が楽しそうであることだけは、真帆にはよく分かった。
♢
「……そういえば、まだ自己紹介をしていなかったね。」
先生が、思い出したように言った。
「私は、連邦捜査部シャーレの先生をしているんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、玲は胸の奥で、小さく息を呑んだ。
――……やっぱり。
予感は、確信へ変わった。
目の前にいるのは、あの先生だった。
連邦生徒会長が設立した、超法規的な権限を持つ組織、シャーレ。
その顧問であり、キヴォトスでただ一人の、特別な先生。
前世で何度も見た名前が、今、こうして目の前の人物の口から語られている。
玲は、何とも言えない感慨を覚えた。
けれど、それをそのまま顔に出すわけにはいかない。
何しろ、今の自分は、シャーレの設立を知っている一人の生徒にすぎないのだから。
玲は、ゆっくりと微笑んだ。
「……シャーレの先生、ですか。」
「うん。」
先生は頷いた。
「まだできたばかりの組織だから、知らない人も多いと思うけど。」
「いえ。存じています。」
玲は、穏やかに答えた。
「先日、設立されたばかりですよね。連邦生徒会長直属の、特別な権限を持つ組織だと伺っています。」
「……あ、知ってるんだ。」
先生は少し驚いたようだった。
玲は頷いた。
「はい。私も、生徒会に所属していますから。連邦生徒会の動きについては、ある程度、確認するようにしているんです。」
「なるほど。そういうことだったんだね。」
先生は納得したように笑った。
「それなら、改めてよろしくね。」
玲は、静かに頭を下げた。
「……こちらこそ。」
そして、顔を上げる。
「黎明高等学校、生徒会長の月白玲です。」
「黎明高等学校……。」
先生は、少し考えるように繰り返した。
「聞いたことがある気がする。確か、小さな学園だったよね。」
玲は、少しだけ目を見開いた。
「……ご存じなんですね。」
「うん。詳しいことまでは知らないけど、名前は見たことがあるよ。」
先生は、少し申し訳なさそうに続けた。
「まだ、キヴォトスの学園について勉強しているところなんだ。だから、間違ってたらごめんね。」
「いえ。合っていますよ。」
玲は微笑んだ。
「全校生徒は、現在十七名です。規模としては、かなり小さい方だと思います。」
「十七名……。」
先生は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「それは、確かに小さいね。」
「ええ。でも、今年は新入生も入ってきてくれたので、去年より少し賑やかになりました。」
玲の声には、自然と明るさが混じった。
「まだ、十分な設備が整っているとは言えませんし、課題もたくさんありますけど……。少しずつ、いい学校にしていけたらと思っています。」
先生は、静かに耳を傾けていた。
そして、玲が話し終えると、穏やかに頷いた。
「……そっか。」
その声には、何かを考えるような響きがあった。
「十七人の学校を、生徒会長として支えているんだね。」
「支えている、というほど立派なことはしていませんよ。」
玲は、少し照れたように笑った。
「副会長の真帆や、会計の栞という子にも随分助けてもらっていますから。」
「いや、玲は結構、学校のためにいろいろやってると思うけどね。」
真帆が横から口を挟んだ。
玲は、少し困ったように笑った。
「……真帆。」
「本当のことでしょ。」
先生は、二人のやり取りを見て微笑んだ。
「仲がいいんだね。」
「はい。長い付き合いなので。」
真帆が答える。
玲も頷いた。
「……そうですね。」
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「私にとって、とても大切な友人です。」
真帆は、少し驚いたように玲を見た。
玲がこういうことを口にするのは、決して珍しいわけではない。
けれど、面と向かって言われると、やはり少し照れくさいものがある。
「……もう。急に何?」
「本当のことだよ。」
玲は、悪戯っぽく笑った。
先生も、そんな二人の様子を見て笑っていた。
♢
しばらくして、真帆が端末を確認した。
「……あ、玲。そろそろ本屋さんに行かないと、閉まっちゃうかもしれないよ。」
「……あ。」
玲は、そこでようやく、今日の本来の目的を思い出した。
古書店。
そうだった。
自分たちは、古書店へ行く途中だったのである。
すっかり忘れていた。
先生が、少し不思議そうに尋ねた。
「本屋さん?」
「はい。近くに、古い本を扱っているお店があるらしくて。今日は、そこへ行こうと思っていたんです。」
「へえ。古書店か。」
先生は、少し興味を引かれたようだった。
「どんな本を探しているの?」
「特に、これと決めているわけではないんですけど……。古い文学作品とか、キヴォトス各地の伝承を扱った資料があれば、見てみたいなと思って。」
「伝承?」
「はい。」
玲は頷いた。
「この世界には、不思議なことがたくさんありますから。昔の人たちが、それをどんなふうに考えていたのか、少し興味があるんです。」
先生は、感心したように頷いた。
「……なるほど。面白そうだね。」
「ふふ。そうでしょう?」
玲は、少し嬉しそうに笑った。
「ただ、こういう本って、なかなか見つからないんですよね。だから、今日は少し期待しているんです。」
「いい本が見つかるといいね。」
「はい。」
玲は頷いた。
そして、ふと、先生の顔を見た。
――……そういえば。
先生は、これからどこへ行くのだろう。
何か用事があるのかもしれない。
それとも、今日のように、街を歩きながら困っている生徒を見つけては、手を貸しているのだろうか。
玲は、少しだけ考えた。そして、かねてより考えていたセリフを思い出した。せっかくなのだし、この絶好の好機、意味深な言葉を吐かなくてはもったいなく、それでは今日までの積み重ねが無駄になってしまう。
玲は、静かに口を開いた。
「……先生。」
「うん?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん。」
玲は、少しだけ目を細めた。
「先生は……どうして、あの子を助けようと思ったんですか?」
先生は、少し意外そうな顔をした。
「……どうして?」
「はい。」
玲は頷いた。
「私たちが先に声を掛けていましたし、先生がわざわざ手伝わなくても、何とかなったかもしれません。それでも、先生は声を掛けてくださいましたよね。」
先生は、しばらく考えていた。
やがて、少し照れたように笑った。
「……うーん。そんなに深く考えたわけじゃないんだけど。」
玲は、黙って続きを待った。
「困っている子がいて、自分にも何かできることがあるなら、手伝いたいなって思ったんだ。」
先生は、穏やかに続けた。
「もちろん、私にできることなんて限られているし、何でも解決できるわけじゃない。でも、だからって、何もしない理由にはならないでしょう?」
玲は、その言葉を聞いていた。
何でもないように語られた、その考え方。
けれど、玲にとっては、ひどく懐かしいものだった。
――……ああ。
やっぱり。
この人は、先生なんだ。
玲は、静かに微笑んだ。
「……そうですね。」
そして、少しだけ視線を落とし、かねてより考えていた言葉を選ぶ。
「……でも、先生。」
「うん?」
「いつか、その優しさだけでは、どうにもならないことに出会うかもしれません。」
先生は、少し驚いたように玲を見た。
玲は、ゆっくりと顔を上げた。
紫を基調とした瞳が、午後の光を受けて淡く揺れる。
「助けを求めることさえできない生徒もいるでしょう。自分が困っていることに、気づいていない生徒だっているかもしれません。」
その声は、穏やかだった。
けれど、先ほどまでの軽やかな会話とは、どこか違う響きを帯びていた。
「……それでも、先生は。」
玲は、ほんの少しだけ間を置いた。
「手を差し伸べることを、やめないでいてくださいますか?」
先生は、すぐには答えなかった。
玲の言葉が、思いがけず深いところへ触れたからだった。
目の前の少女は、まだ若い。
小さな学園の生徒会長だという。
けれど、その問いかけには、年齢に似つかわしくない重みがあった。
まるで、誰かの苦しみを、すでに知っているかのような。
あるいは、これから起こる何かを、静かに見据えているかのような。
先生は、しばらく玲を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……うん。」
その返事は、決して大きな声ではなかった。
けれど、迷いはなかった。
「できる限り、そうしたいと思ってる。」
玲は、黙って耳を傾けた。
「もちろん、私一人で全部できるとは思わない。間違えることだってあると思うし、助けたいと思っても、上手くいかないこともあるかもしれない。」
先生は、少しだけ笑った。
「でも、だからこそ、諦めたくないんだ。」
玲は、何も言わなかった。
ただ、静かに先生を見つめていた。
「……そうですか。」
やがて、小さく呟く。
その声には、何とも言えない安堵が混じっていた。
――……うん。
それなら、大丈夫だ。
少なくとも、今は。
玲は、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます。」
先生は、不思議そうに首を傾げた。
「……お礼を言われるようなこと、したかな?」
「ふふ。」
玲は、小さく笑った。
「……どうでしょうね。」
そして、少しだけ目を細める。
「ただ、先生の言葉を聞けて、嬉しかったんです。」
先生は、しばらく玲を見つめていた。
やがて、穏やかに笑った。
「……そっか。」
玲も、微笑み返した。
♢
先生と別れたのは、それから間もなくのことだった。
先生には、このあと別の用事があるらしく、端末で時刻を確認すると、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。もう少し話していたかったんだけど、そろそろ行かないと。」
「いえ。こちらこそ、長々とお引き留めしてしまって。」
玲は、丁寧に頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました。」
「ううん。こちらこそ、楽しかったよ。」
先生は微笑んだ。
「また、どこかで会えたらいいね。」
玲は、少しだけ目を細めた。
そして、静かに答えた。
「……ええ。」
その口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「きっと、またお会いできますよ。」
先生は、少し不思議そうに笑った。
「……そう?」
「はい。」
玲は頷いた。
「そんな気がするんです。」
先生は、しばらく玲を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……じゃあ、楽しみにしてるよ。」
「私もです。」
玲は微笑んだ。
先生は、真帆にも軽く会釈をし、通りの向こうへ歩き出した。
その背中が人混みに紛れるまで、玲は静かに見送っていた。
やがて、隣から真帆が声を掛けた。
「……玲。」
「うん?」
「何だか、ずいぶん嬉しそうだね。」
玲は、少しだけ目を瞬かせた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん。」
その返事は、ひどく素直だった。
「とても、嬉しいよ。」
真帆は、そんな玲の顔を見て、小さく笑った。
「……そっか。」
それ以上は、何も尋ねなかった。
玲もまた、何も言わなかった。
ただ、春の街を行き交う人々を眺めながら、静かに微笑んでいた。
――……先生。
その名を、心の中でそっと呼ぶ。
ようやく会えた。
そして、確かめることができた。
あの人は、やはりあの人だった。
それが、何より嬉しかった。
玲は、ゆっくりと空を見上げた。
高い建物の隙間に、淡い青空が覗いている。
春の風が、頬を撫でた。
――……さて。
玲は、ほんの少しだけ目を細めた。
――これから、どんな物語が始まるのかな。
その口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
そして、その瞳の奥には、誰にも知られることのない、小さな期待が宿っていた。
春の街は、今日も賑やかだった。
人々はそれぞれの目的地へ向かい、店先には笑い声が溢れ、遠くでは列車の走る音が響いている。
そんな、何でもない休日の午後。
月白玲は、初めて先生と出会った。