砂の向こうへ
黎明高等学校の生徒会室には、午後になると西日が差し込む。
窓際に置かれた古い書類棚は、かつて何十人もの生徒会役員が使っていた時代の名残であり、その上には、今となっては用途の分からない木箱や、色の褪せた行事の記録写真などが積まれていた。棚の扉には小さな傷が無数に残り、引き出しの一つは、少し持ち上げなければ最後まで閉まらない。
それでも、この部屋は玲にとって、なかなか居心地のよい場所だった。
何しろ、机が広い。
以前の生徒会が使っていた長机を三つつなげても、今の役員三人には十分すぎるほどの余裕があり、書類を広げても、飲み物を置いても、まだ空いている場所がある。窓を開ければ風が通るし、古い校舎にありがちな妙な匂いも、それほど気にならない。
もっとも、そんなことを考えていられたのは、ほんの十分ほど前までの話だった。
「……高いですね。」
栞が、机の上に並べた資料を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「高いわね。」
真帆が応じる。
「高いねえ。」
玲も、二人に倣って頷いた。
三人の視線が、同じ数字の上に集まっている。
それは、次年度の学習支援システムに関する見積書だった。
黎明高等学校では、以前から教育用BDを中心とした学習環境を整えている。キヴォトスでは珍しくもない方式だが、少人数であることを前提に運営されてきたこの学校では、通常の教材に加えて、学習状況を管理するための独自の仕組みが組み合わされていた。
生徒が端末から問題に取り組むと、解答の正誤だけでなく、解答に要した時間や誤答の傾向などが記録される。その結果をもとに、学習支援AIが理解度を推定し、必要に応じて基礎的な問題へ戻したり、反対に発展的な内容を提示したりする。
教育用BDで学んだ内容を、個々の生徒に合わせた演習で定着させる。
それが、黎明高等学校の教育を支える仕組みだった。
玲自身、このシステムは気に入っている。
何より、自分の苦手な部分が分かりやすい。
問題を間違えたとき、単に正解を表示して終わるのではなく、どの知識が不足している可能性があるのかを示してくれる。数学なら、現在取り組んでいる単元よりも前の内容に戻ることがあるし、語学なら、似たような誤答が続いたときに、関連する文法事項の確認を促してくれる。
もちろん、万能ではない。
AIの推定が外れることもあるし、記述問題では、人間が確認した方がよい場合もある。それでも、生徒一人ひとりの学習を支える道具としては、十分に価値があった。
問題は、その価値を維持するために、お金が必要だということである。
「去年より上がってる?」
玲が尋ねると、栞は資料を一枚めくった。
「はい。教材データの更新費用が増えています。それから、現在利用している分析機能の一部が、次の契約更新から別料金になるそうです。」
「別料金。」
「はい。」
「今まで使えていたものが?」
「はい。」
「……なるほど。世の中は厳しい。」
「玲先輩、感想を述べている場合ではありません。」
栞の声には、普段より少しだけ強い響きがあった。
彼女は会計担当になってからというもの、数字に対して容赦がない。
支出予定の欄に一つでも不明な項目があれば、納得するまで確認するし、玲が何となく欲しいと思っていた備品についても、必要性と優先順位を尋ねてくる。
頼もしいことである。
そして、少し怖い。
「分かってるよ。ちゃんと考えてる。」
「では、こちらも見てください。」
栞は別の資料を差し出した。
端末更新の予定表だった。
玲は、しばらくそれを眺めた。
「……こっちも?」
「はい。現在の端末は、すぐに使用できなくなるわけではありません。ただ、今後の更新を考えると、今年度から計画的に予算を確保しておく必要があります。」
「なるほどねえ。」
玲は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
古い蛍光灯が、かすかに唸っている。
学校を運営するというのは、実に面倒なことだった。
机や椅子があれば授業ができるわけではない。教材を買えば、それで終わるわけでもない。何かを導入すれば、その後も維持しなければならず、古くなれば更新する必要がある。
まして、黎明高等学校には十七人しか生徒がいない。
十七人という数字は、日常生活では案外大きい。全員で集まれば、それなりに賑やかだし、一人ひとりの顔と名前を覚えるには十分な人数である。
しかし、学校の運営という話になると、途端に心細い数字へ変わってしまう。
百人が利用する設備でも、十七人が利用する設備でも、必要な維持費が百分の十七になるわけではないのだから。
「ねえ、真帆。」
「何?」
「学校って、人数が少ないと安く運営できそうな気がするじゃない?」
「実際、安くなる部分もあるでしょうね。」
「でも、安くならないものも結構あるんだね。」
「今さら気づいたの?」
真帆は呆れたように言ったが、すぐに玲の手元にある資料へ目を落とした。
「それに、今の環境を維持するだけなら、まだ方法はあると思う。でも、玲がやりたいのは、それだけじゃないんでしょう。」
「うん。」
玲は姿勢を戻した。
窓の外では、校庭の端に植えられた木々が、風に揺れている。
「今の仕組み、悪くないと思うんだ。実際、便利だしね。でも、教材によっては対応していない分野もあるし、問題の種類も十分とは言えない。もう少し使いやすくできるところもあると思う。」
「記述式の問題についても、改善したいとおっしゃっていましたね。」
「そうそう。全部をAIに任せるつもりはないけど、考え方を整理する手助けくらいはできるかもしれない。それに、学習の記録も、もう少し見やすくしたいな。」
話しながら、玲は自分が少し欲張りになっていることを自覚していた。
去年までなら、ここまで考えなかっただろう。
生徒会長になったからといって、急に教育の専門家になれるわけではない。それでも、今の学校をどうにかしたいという思いは、以前よりずっと強くなっていた。
卒業していった先輩たちが守ってきた学校である。
自分たちが卒業した後にも、誰かが通ってくれる学校であってほしい。
できれば、ただ存続しているだけではなく、ここへ来てよかったと思ってもらえる場所であってほしい。
そのために必要なことを考えると、どうしても、今のままで十分だとは思えなかった。
「問題は予算よね。」
真帆が言った。
「そうなんだよね。」
「分かっているなら、まずは現実的なところから考えましょう。今あるものを全部維持して、さらに新しい機能も増やして、端末も更新する。そんな計画をそのまま出したって、通るとは思えないわ。」
「うん。だから、ちょっと考えたいことがあるんだけど。」
「何?」
「お金を増やす方法。」
真帆は、玲を見た。
栞も、顔を上げた。
「……玲。」
「何かな。」
「変なことを考えていないでしょうね。」
「ひどいなあ。私はいつだって、学校の未来を真剣に考えているよ。」
「そういう言い方をするときが、一番心配なのよ。」
玲は、心外だと言わんばかりに胸に手を当てた。
もっとも、具体的な案があるわけではない。
ただ、以前から気になっていたことがあった。
連邦生徒会へ提出した予算配分の見直しに関する相談である。
施設の維持管理に充てられている予算の一部を、教育環境の整備へ振り向けられないか。そう考えて提出した資料について、まだ正式な結論は出ていなかった。
もちろん、配分変更が認められたとしても、すべての問題が解決するわけではない。
しかし、限られた予算をどう使うかという話なら、ほかにも方法があるのではないか。
玲がそんなことを考えていた、そのときだった。
栞の端末が、小さな通知音を鳴らした。
「あ、連邦生徒会からです。」
「おや。」
玲は思わず身を乗り出した。
「噂をすれば、というやつだね。」
「まだ何も噂していませんけど。」
「私の心の中で。」
「それは分かりません。」
栞は冷静に返しながら、届いた文書を確認した。
差出人は、連邦生徒会の財務担当部署。
以前の相談に関する追加資料の案内だった。
玲は、栞から共有された文書を自分の端末で開いた。
丁寧な事務文書である。
提出済みの資料について、施設維持費の内訳と、教育環境整備に係る支出見込みをもう少し詳しく示してほしいという内容だった。
それに加えて、末尾には、関連する支援制度の案内が添えられていた。
小規模学園教育支援制度。
玲は、その文字を指先でなぞった。
「……へえ。」
「何かありましたか?」
「ちょっと待ってね。」
玲は添付資料を開いた。
そこには、生徒数や財政状況などの事情によって教育環境の維持が困難な学園に対し、学習機会の保障と教育の質の向上を目的とした支援を行う、という趣旨が記されていた。
対象となる取り組みは、教材の整備、教育設備の更新、学習支援体制の充実など、比較的幅広い。
具体的な改善計画については、必要性や実現可能性を審査したうえで追加支援を検討し、実施後の成果によっては継続的な支援や予算の増額も認められるという。
特定の技術を導入するための制度ではない。
学校が抱える教育上の課題に対して、改善の見込みがある取り組みを支援する仕組みらしかった。
「真帆、栞ちゃん。これ、見て。」
玲は二人に資料を共有した。
しばらく、生徒会室に静かな時間が流れた。
栞は最初から順に読み進め、真帆は途中で何度か画面を戻している。
「……なるほど。」
先に口を開いたのは真帆だった。
「教育環境の改善を目的とした事業なら、追加支援の対象になる可能性があるのね。」
「うん。今のシステムを維持するための費用だけじゃなくて、改善のための予算も申請できるかもしれない。」
「ただし、審査があります。」
栞が付け加えた。
「申請すれば必ず支援されるわけではありませんし、事業の成果についても報告が必要です。支援額がどの程度になるかも、現時点では分かりません。」
「そこは当然だね。」
玲は頷いた。
制度があるからといって、都合よく予算が増えるわけではない。
何に困っているのか。
何を改善するのか。
それによって、どんな成果が期待できるのか。
そうしたことを、きちんと説明しなければならない。
玲はもう一度、資料を読み返した。
そして、ある記述のところで指を止めた。
学園間の連携による教育機会の拡充。
それ自体は、支援対象となり得る取り組みの一例として挙げられているだけだった。連携が必須というわけではないし、参加校の数に応じて自動的に予算が増えるという話でもない。
しかし、玲の頭の中で、別々だったいくつかの考えが、ゆっくりと結びつき始めた。
「……ねえ。」
「今度は何?」
「うちの学習システムって、十七人で使ってるでしょう。」
「そうね。」
「これ、別の学校でも使えるようにしたら、どうなるかな。」
真帆は、すぐには答えなかった。
栞も、画面から顔を上げる。
「別の学校、ですか?」
「うん。例えば、うちと同じくらい小さな学校。教材を十分にそろえるのが難しいところとか、学習の進み具合を確認する仕組みが欲しいところとか。そういう学校と、共同で使えたらどうかなって。」
「……それは、学園間連携の事業として申請するということですか?」
「そういうこと。」
玲は頷いた。
「うちだけで使うためにシステムを改良するより、ほかの学校でも使えるようにした方が、支援を受ける理由としては強くなるんじゃないかな。もちろん、相手にも使う意味がなきゃ駄目だけど。」
栞は考え込むように眉を寄せた。
「ただ、利用者が増えれば、それだけ費用も増えます。現在の契約では、他校への提供が認められているかどうかも分かりません。」
「うん。そこは確認が必要だね。」
「それに、学習履歴には個人情報も含まれます。学校ごとに管理を分ける必要がありますし、問題の利用権限についても整理しなければなりません。」
「そうだね。勝手にほかの学校の成績が見えちゃったら大問題だ。」
「分かっているならいいのですが。」
栞は少しだけ安心したようだった。
真帆は腕を組み、窓の外へ目を向けた。
「でも、考え方は悪くないと思う。」
「お。」
「まだ賛成したわけじゃないわよ。」
「はい。」
「今ある仕組みを生かせるなら、最初から全部作るよりは現実的でしょうし、うちと同じような事情の学校なら、関心を持ってくれるかもしれない。ただ、共同利用のための費用が補助金より高くなったら意味がないから、そこは慎重に調べないと。」
「うん。まずは、どこまでできるかを確認するところからだね。」
玲は端末を引き寄せ、空白の文書を開いた。
画面の上部に、仮の表題を入力する。
『小規模学園におけるAI学習支援システムの共同利用に関する事業構想』
長い。
いかにも事務的で、少し面白みに欠ける。
けれど、今はそれでよかった。
玲は表題を眺めながら、ふと考えた。
十七人。
たった十七人の学校が、ほかの学校の学習まで支える仕組みを考える。
文字にすると、なかなか大それた話である。
もっとも、実際にやろうとしていることは、そこまで壮大ではない。
今あるものを、できるだけ長く使いたい。
できれば、もっとよくしたい。
そのために、同じような学校と協力する。
それだけのことだ。
けれど、その小さな思いつきが、どこまで広がるのかは、まだ誰にも分からなかった。
「玲。」
真帆の声に、玲は顔を上げた。
「先に言っておくけど、全部一人で抱え込まないでよ。計画を立てるのも、資料を作るのも、私たち三人の仕事なんだから。」
玲は、少しだけ目を丸くした。
それから、いつものように柔らかく微笑んだ。
「もちろん。頼りにしてるよ、副会長。」
「そういうときだけ役職で呼ぶんだから。」
「ふふ。では、会計殿にも期待している。」
「玲先輩。」
栞が、真面目な顔で言った。
「期待していただくのは構いませんが、まずは必要な費用を調べましょう。事業の規模が分からなければ、予算計画も立てられません。」
「……はい。」
玲は素直に頷いた。
どうやら、神秘的な生徒会長を演じている場合ではないらしい。
その日の生徒会室では、いつもより少し遅い時間まで、三人の話し声が続いた。
♢
数日後。
玲の端末には、いくつもの資料が並んでいた。
既存システムの契約条件、教材提供元への確認事項、追加利用者を受け入れた場合の概算費用、学園ごとに学習記録を分離するための仕様、そして支援制度への申請に必要な書類。
調べれば調べるほど、簡単な話ではないことが分かってくる。
幸い、現在利用している学習管理サービスには、複数の教育機関での利用を想定した契約形態が存在していた。ただし、利用規模や機能によって費用は変わり、教育用BDの内容をそのまま他校へ配信できるわけでもない。
共有できる教材と、各校が個別に利用契約を結ぶ必要のある教材を区別しなければならない。
AIによる問題の出題や学習分析についても、追加の利用料が必要になる。
それでも、ゼロからシステムを構築するよりは、はるかに現実的だった。
「……うん。」
玲は椅子に座り直した。
机の上には、真帆が整理した運用上の課題と、栞が作成した費用の試算表がある。
二人とも、実に仕事が早い。
特に栞の表には、条件を変えた場合の費用が細かくまとめられており、玲が軽い気持ちで「参加校が増えたらどうなるかな」と尋ねた結果、思っていた以上に本格的な資料が出来上がっていた。
玲は、改めてその数字を眺めた。
共同利用の規模が小さすぎれば、追加の管理負担に見合わない。
反対に、最初から多くの学校を受け入れようとすれば、費用も運営上のリスクも大きくなる。
ならば、まずは少数の学園と試験的に運用し、実際の効果を確かめる。
その結果をもとに、次の段階を考える。
そんな方針が、ようやく見えてきたところだった。
「問題は、協力してくれる学校だよねえ。」
玲は独り言を漏らした。
誰でもいいわけではない。
すでに十分な教育設備を持っている大規模学園なら、わざわざ黎明高等学校の仕組みを利用する必要は薄いだろう。
反対に、設備がまったく整っていない学園では、導入するための負担が大きくなる。
できれば、少人数で、教育環境の改善に関心があり、最低限の端末や通信環境を利用できる学園がいい。
玲は、公開されている学園情報を一つずつ確認していった。
名前を聞いたことのない学校もある。
規模は小さくても、独自の教育方針を持っている学校もある。
中には、資料が古く、現在の状況がよく分からないところもあった。
玲は候補となりそうな学園をいくつか記録し、備考欄に確認すべき事項を書き込んでいく。
その作業を続けていたときだった。
画面に表示された一つの名前に、指が止まった。
『アビドス高等学校』
玲は、しばらく瞬きを忘れた。
アビドス。
見間違えるはずもない名前だった。
かつて、自分が画面越しに見ていた物語の舞台。
砂に埋もれかけた学園と、そこに残された五人の少女たち。
そして、彼女たちの前に現れる、一人の大人。
玲は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか。」
今さらながら、不思議な気持ちがした。
この世界で暮らすようになってから、原作で知っていた名前を目にすることは何度もあった。連邦生徒会を訪れたときもそうだったし、つい先日には、あの先生と偶然言葉を交わすことさえあった。
けれど、アビドスという名前には、少し違う響きがある。
物語の始まりに近い場所。
自分がよく知っているはずで、それでいて、実際にはほとんど何も知らない場所。
玲は画面を見つめたまま、考えた。
アビドス高等学校が厳しい状況にあることは知っている。
ただし、それは、かつてゲームを通して得た知識である。
現在の財政状況や教育設備について、正式な資料を持っているわけではないし、原作で描かれなかった部分まで分かるわけでもない。
だから、候補校として検討するなら、ほかの学園と同じように条件を確認する必要がある。
それでも。
「……会ってみたいなあ。」
思わず、声が漏れた。
あの五人に。
もちろん、単なる興味だけで学校の予算を動かすわけにはいかない。
けれど、事業の目的に合っていて、相手にも利益があるのなら。
そのうえで、少しくらい個人的な期待が混じっていても、罰は当たらないだろう。
玲は、候補校一覧にアビドス高等学校の名前を加えた。
備考欄には、確認が必要な事項をいくつか記入する。
学園規模。
既存の学習環境。
端末の利用状況。
共同事業への参加意向。
どれも、ごく普通の項目だった。
けれど、最後の文字を入力したあと、玲はしばらく画面を眺めていた。
遠い砂漠の学園。
まだ会ったことのない少女たち。
自分たちの学校を守るために始めた計画が、思いがけず、そこへ続く道になるかもしれない。
玲は、そっと口元を緩めた。
「さて。」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
「まずは、ちゃんとした提案書を作らないとね。」
窓の外では、夕方の光が校舎の壁を淡く染めていた。
黎明高等学校の生徒会室で生まれた小さな計画は、まだ何一つ形になっていない。
それでも、玲の手元にある候補校一覧には、確かにその名前が記されていた。
アビドス高等学校。
かつて物語の中で知った学園が、今、彼女自身の未来と交わろうとしていた。
♢
連携事業の提案書が完成したのは、アビドス高等学校の名前を候補校一覧に加えてから、さらに四日が過ぎた日のことだった。
完成した、と言ってしまえば簡単だが、その四日間に生徒会室で交わされた議論の量を考えると、いささか味気ない表現でもあった。
玲が思いついたことを口にし、真帆が実現可能性を確かめ、栞が費用を計算する。そうして出来上がった案を三人で読み直すと、それまで見落としていた問題が見つかり、再び最初に戻る。そんなことを繰り返しているうちに、当初は数枚で済ませる予定だった資料が、最終的には十数枚にまで膨らんでいた。
もっとも、玲はそのことを少しも苦にしていなかった。
むしろ、自分の頭の中にあった曖昧な構想が、数字や条件を与えられることで、少しずつ現実のものへ変わっていく過程を楽しんでいたくらいである。
「……うん。なかなか立派になったねえ。」
端末に表示された提案書を眺めながら、玲は満足そうに頷いた。
「他人事みたいに言わないで。途中で何度も計画を広げようとしたのは玲でしょう。」
向かいに座る真帆が、呆れたように言った。
「いやあ、考えているうちに、いろいろ欲しくなっちゃって。」
「そのたびに費用が増えるんだから、少しは自重してほしいわ。栞なんて、昨日もずっと計算し直していたんだから。」
「反省しております。栞ちゃんには、あとで何か甘いものをご馳走しよう。」
「お気持ちは嬉しいですけど、その費用は生徒会の予算から出さないでくださいね。」
「……まだ何も言っていないのに。」
「念のためです。」
栞が真面目な顔で答えると、真帆はとうとう小さく吹き出した。
そんな二人を眺めながら、玲は少しばかり不服そうに頬を膨らませたものの、すぐに表情を戻して、机の上に広げられた資料へと視線を落とした。
今回の計画は、黎明高等学校で利用しているAI学習支援システムを改良し、希望する小規模学園でも共同利用できるようにするというものだった。
教育用BDによる授業を中心に、学習者ごとの理解度に応じた問題の提示、復習内容の提案、学習履歴の管理を組み合わせる。既存の仕組みを活用するため、まったく新しいシステムを構築する必要はない。ただし、学園ごとのデータ管理や利用契約の変更には追加費用が発生するため、その部分については連邦生徒会の小規模学園教育支援制度を活用する予定である。
参加学園は、共同事業への参加とは別に、自校の教育環境を維持・改善するための補助金や助成金を申請できる可能性もあった。
老朽化した学習端末の更新、通信設備の整備、教育用BDの購入や維持管理。さらに、事業を通じて学習状況の改善が認められれば、その成果を次年度以降の教育関連予算の増額申請に活用することも考えられる。
もちろん、申請したものがすべて認められるわけではない。支援対象となる経費には制限があり、事業の成果についても報告が求められる。
それでも、資金に余裕のない学園にとって、教育環境を整えるための選択肢が増えるというだけで、決して小さな話ではなかった。
「……それで、最終的な試算なんですけど。」
栞が、別の資料を開いた。
「候補校のうち、条件のよい五校については、一校でも共同利用に参加していただければ、黎明高等学校が単独でシステムを維持する場合より、費用負担を抑えられる見込みです。」
「うん。そこは大きいね。」
「はい。ただし、これは複数学園向けの契約条件が、事前に確認した内容で確定した場合です。共同事業への補助金が採択されれば、さらに負担を軽減できますが、そちらは確定していません。」
栞は、数字の並んだ表を指し示した。
「補助金が採択されなかった場合についても試算しています。正式な契約前に費用を確認し、当初の削減目標を満たさない場合は、導入を見送る方針です。」
「つまり、支援がもらえることを前提にして、先にお金を使うわけじゃないってことね。」
真帆が確認すると、栞は頷いた。
「はい。そこは絶対に守りたいと思っています。」
「頼もしいなあ、栞ちゃん。」
「会長も守ってくださいね。」
「……もちろん。」
玲が少し間を置いて答えたため、真帆が疑わしそうに目を細めた。
もっとも、玲自身も、この点については最初から譲るつもりがなかった。
黎明高等学校は、決して裕福な学園ではない。
十七人の生徒が通う、小さな学校である。
誰かのために何かをしたいと思うことは自由だが、その結果として、自分たちの学園を危うくしてしまっては本末転倒だった。
玲は生徒会長である。
その立場にある以上、善意だけで予算を動かすわけにはいかない。
だからこそ、今回の計画は、黎明にとっても利益があることを前提に組み立てていた。
ほかの学園と協力することで、維持費を抑えられる。
教育支援制度を利用できれば、システムの改良にも取り組める。
参加する学園にも、それぞれの事情に応じた利益が見込める。
そうした条件が揃って、初めて実行に移す価値が生まれる。
玲は、そのことを理解していた。
「……これで、ようやく候補校に送れそうですね。」
栞が言った。
「費用については、まだ概算の部分もありますが、現時点で確認できる条件は整理できています。正式な契約や補助金の申請は、参加校との協議を終えてからになります。」
「うん。十分だと思うよ。最初から全部決めてしまったら、向こうの事情を聞く余地がなくなっちゃうからね。」
「それはそうですけど……。」
栞は一度言葉を切り、候補校一覧に視線を落とした。
「本当に、この六校でよろしいんですか?」
玲は、わずかに瞬きをした。
「どうして?」
「五校については、学園規模や教育環境、現在利用している設備などを比較した資料がありますよね。ただ、アビドス高等学校だけは、少し条件が違うように思いまして。」
玲は、すぐには答えなかった。
アビドス高等学校。
その名前を目にするたび、胸の奥に生まれる感情がある。
それは、懐かしさに似ていた。
もっとも、今の玲は、あの学園を訪れたことがない。対策委員会の五人と、言葉を交わしたことさえなかった。
それでも、彼女たちのことを知っている。
砂漠化によって衰退していく街と、そこに残された小さな学園。そして、誰もが見捨てかねないその場所を、懸命に守ろうとする五人の少女たちを。
かつて画面越しに見ていた彼女たちの姿は、今でも鮮明に思い出せた。理不尽な現実に腹を立て、時には途方に暮れながら、それでも互いに支え合って前へ進もうとする姿を、玲は心から好ましく思っていたのである。
あのころの自分にできたのは、ただ物語を見守ることだけだった。
けれど、今は違う。
月白玲は、この世界に生きている。
小さいながらも一つの学園の生徒会長であり、自分の判断で動かせるものが、ほんの少しだけある。
ならば、その手の届く範囲で、彼女たちの力になれないだろうか。
そう考えることは、玲にとって、ごく自然なことだった。
もちろん、アビドスの現状をすべて知っているわけではない。
かつて知った物語と、この世界の現実が、どこまで同じなのかも分からない。
ただ、少なくとも、あの五人が学校を守ろうとしていることだけは、信じていた。
だからこそ、今回の候補校一覧にアビドスの名前を見つけたとき、玲はどうしても声をかけてみたくなったのである。
もっとも、だからといって、黎明高等学校の予算を好き勝手に使ってよいわけではない。
十七人の生徒が通うこの学園にも、守らなければならない日常がある。自分が誰かを助けたいと思ったからといって、その負担を真帆や栞、あるいはほかの生徒たちに押しつけるつもりは、玲にはなかった。
その点については、すでに栞と何度も確認している。
今回、条件を比較して選定した五校のうち、一校でも共同利用に参加すれば、黎明が単独でシステムを維持する場合よりも費用負担を抑えられる見込みがあった。
つまり、アビドスの参加を前提にしなくても、事業として成立する可能性は十分にある。
そのうえで、六校目としてアビドスに声をかける。
設備の状況によっては、参加を見送ることになるかもしれない。仮に参加できたとしても、当初はごく限られた機能しか利用できない可能性だってある。
それでも、まずは選択肢を届けたかった。
アビドスの五人が、その提案をどう受け止めるかは分からない。そもそも、今の彼女たちが何を必要としているのか、玲がすべてを知っているわけでもない。
だからこそ、話を聞いてみたいのだ。
――そして、できることなら。
玲は、胸の内で小さく付け加えた。
あの子たちが、少しでも楽になってくれたら嬉しいな。
もちろん、実際に会って話してみたいという気持ちもある。それは否定しない。かつて親しんだ物語の登場人物たちが、同じ世界のどこかで日々を送っているのだから、興味を抱かない方が難しいだろう。
けれど、もし会えなかったとしても、この提案が彼女たちの役に立つのなら、それで構わなかった。
玲は、そう思っていた。
「……確かに、設備面では不安があるね。」
玲は、栞に向き直った。
「でも、そこは実際に確認してみないと分からないでしょう。それに、今回の計画は、アビドスが参加しないと成立しないものでもない。だったら、候補に加えること自体は、悪くないと思うんだ。」
「それは、そうですが……。」
「教育環境を改善するための制度なのに、環境が厳しいからという理由だけで最初から除外してしまうのも、少し違う気がするしね。もちろん、無理な費用負担をするつもりはないよ。できることがあるかどうか、まずは一緒に考えてみたいんだ。」
栞は、しばらく考え込んだ。
やがて、手元の試算表をもう一度確認すると、納得したように頷いた。
「……そうですね。ほかの候補校との契約が成立すれば、アビドス高等学校の参加可否にかかわらず、当初の費用削減目標は達成できる見込みです。先方の設備状況を確認すること自体に、大きな費用がかかるわけでもありませんし。」
「うん。」
「ただし、導入に追加費用が必要となる場合は、必ず再試算をお願いします。」
「もちろん。そこは栞ちゃんにお任せするよ。」
「……任せきりにはしないでくださいね。」
玲が微笑むと、栞は困ったように眉を下げた。
そのやり取りを聞いていた真帆が、ふと口を開く。
「でも、玲がそこまで言うのは、少し珍しいわね。」
「そうかな?」
「ええ。ほかの候補校については、どちらかというと慎重だったでしょう。アビドスに関しては、ずいぶん前向きだから。」
玲は、一瞬だけ言葉に詰まった。
もっとも、真帆の疑問は当然である。
ほかの五校については、条件を比較したうえで候補に加えた。アビドスについては、最初から加えたいという気持ちが先にあったのだから。
けれど、その理由をすべて説明するわけにはいかない。
玲は、少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……そうだね。きっと、放っておけないんだと思う。」
「放っておけない?」
「うん。自分たちの居場所を守ろうとしている人たちには、できることなら、頑張ってほしいから。特にアビドスは砂漠化で、私たち以上に大変だろうし……。」
玲にとっては、飾り気のない本音だった。
けれど、真帆はその言葉を聞くと、しばらく黙って玲を見つめた。
十七人しかいない黎明高等学校。
卒業していった先輩たちから、生徒会を引き継いだばかりの自分たち。
決して余裕のある環境ではないのに、それでも学園を存続させようと、玲はこれまでいくつもの提案を重ねてきた。
そんな彼女が、遠い砂漠の学園について、放っておけないと言う。
真帆には、その気持ちが少し分かるような気がした。
「……そっか。」
やがて、真帆は柔らかく微笑んだ。
「玲らしいわね。」
「ふふ。そうでしょう?」
玲は、少し得意げに胸を張った。
その内心では、真帆がどこまで納得してくれたのか、いささか気になっていたのだけれど。
ともあれ、これでアビドスにも提案を送れる。
あの五人の努力が、少しでも報われるきっかけになればいい。
玲は、心からそう願っていた。
「それじゃあ、案内文の最終確認をするわよ。」
真帆が資料を共有した。
玲は頷き、端末に目を落とした。
共同事業の概要、利用できる機能、想定される費用、補助金や助成金の申請についての説明。それぞれの学園が個別に申請できる支援と、共同事業として申請する支援は区別されており、参加によって必ず予算が増えるわけではないことも明記されている。
過不足のない、よくまとまった案内文だった。
「……うん。いいと思う。」
「じゃあ、送るわね。」
「お願い。」
栞が送信先を確認する。
六つの学園。
それぞれに異なる事情があり、それぞれに異なる未来がある。
玲は、その一覧の中にある一つの名前を、もう一度だけ眺めた。
アビドス高等学校。
胸の奥に、ひそかな期待が灯る。
「……さて。」
玲は椅子に深く腰掛け、少しだけ声を落とした。
「小さな学び舎から、遠い誰かのもとへ。私たちの願いが、届くといいね。」
真帆はその瞬間、送信ボタンに指を伸ばしかけた栞を見た。
「……今のポエム、案内文に入ってないわよね?」
「入っていません。」
「ならいいわ。」
「ちょっと、二人とも。」
玲の抗議をよそに、栞は送信を完了した。
こうして、黎明高等学校から六つの学園へ、一通の提案書が送り出された。
♢
アビドス高等学校の対策委員会室では、今日もアヤネが書類と格闘していた。
砂漠化の進む地域にある学校では、設備を維持するという、それだけのことにも手間がかかる。
窓の隙間から入り込む砂は、掃除をしても翌日には元に戻り、精密機器にとっても決してよい環境ではない。古くなった端末は、いつ不具合が起きてもおかしくない状態のものがあり、通信設備についても、できれば一度きちんと点検したいところだった。
しかし、必要だからといって、すぐに買い替えられるわけではない。
学校には、ほかにも支出しなければならないものが山ほどある。
そして何より、アビドスには、あの途方もない負債があった。
アヤネは、机の上に置かれた端末を操作しながら、今日も予算表の数字とにらめっこしていた。
そんなとき、受信一覧に見慣れない差出人が現れた。
黎明高等学校生徒会。
「……あれ?」
アヤネは首を傾げた。
聞き覚えのない学園だった。
件名には、学習支援システムの共同利用に関する提案、とある。
最初は、よくある勧誘の一種かと思った。
アビドスの財政状況は、外部にもある程度知られている。そうした事情につけ込もうとする相手がいないとは限らないため、見知らぬ差出人からの連絡には慎重にならざるを得なかった。
しかし、添付されていた資料は、想像していたものとは少し違っていた。
教育用BDを中心とした学習に、AIによる理解度分析や個別の問題提示を組み合わせる仕組み。
その共同利用を、小規模学園の間で検討しているという。
ここまでは、特に珍しい話でもない。
アヤネが目を留めたのは、その後に続く、連邦生徒会の支援制度についての説明だった。
「……小規模学園教育支援制度?」
小さく呟き、該当する箇所を読み返す。
制度の対象となる学園では、教育設備の維持や更新に必要な費用について、一定の支援を申請できる可能性があるという。
さらに、教育改善事業として認められれば、教材整備や新たな学習支援の導入に必要な費用についても助成を受けられる場合がある。
事業の実施後、学習状況の改善などが確認された場合には、その成果を根拠として、次年度以降の教育関連予算の増額を申請することもできる。
アヤネは、思わず姿勢を正した。
これは、単なる教材の共同利用という話ではない。
もちろん、補助金を借金の返済に使えるわけではない。支援の対象は教育環境の維持や改善に必要な経費に限られており、用途も報告しなければならない。
それでも、これまで学校の通常予算から捻出していた教材費や設備維持費の一部を、補助金で賄えるようになれば。
アヤネは、頭の中でいくつかの数字を思い浮かべた。
老朽化した端末の更新。
通信設備の点検と整備。
教育用BDの購入費用。
今すぐには手を付けられないと思っていたものの中にも、支援の対象となるものがあるかもしれない。
もちろん、申請が認められる保証はない。
しかし、検討する価値は十分にあった。
「アヤネちゃーん。何かいいことでもあった?」
背後から、のんびりとした声がした。
振り向くと、ホシノがソファにもたれかかり、こちらを見ていた。
「あ、ホシノ先輩。実は、少し気になる提案が届いていまして。」
「提案?」
「はい。ほかの学園から、学習支援システムを共同利用しませんか、というお誘いなんです。」
「へえ。うちに?」
「そうなんです。ただ、システムの話だけではなくて、教育環境の維持に関する補助金や助成金についても案内がありまして……。」
ホシノは、少しだけ目を細めた。
「ふうん。お金の話もあるんだ。」
「はい。まだ詳しく確認する必要はありますが、もし対象になるのであれば、今後の設備維持にかかる負担を軽くできるかもしれません。」
「それは、ありがたい話だねえ。」
ホシノはそう言ったが、すぐに付け加えた。
「でも、何か条件があるんじゃない?」
「もちろんあります。ですから、まずはみんなにも相談しようと思っていたところです。」
アヤネは資料を共有し、対策委員会のメンバーに声をかけた。
♢
「……それって、本当に大丈夫なの?」
説明を聞き終えたセリカは、真っ先にそう言った。
「補助金とか助成金とか、聞こえはいいけど、結局こっちが何か払わなきゃいけないんじゃないの?」
「その可能性はあります。」
アヤネは、あえて曖昧にせず答えた。
「共同利用に必要な費用がすべて支援対象になるとは限りませんし、採択されなかった場合の負担についても確認が必要です。ただ、今回の案内では、正式な参加を決める前に費用や条件を協議すると書かれています。」
「だったら、まだ何も決まってないってこと?」
「そうですね。今の段階では、関心がある学園と話し合いを始めたい、ということだと思います。」
セリカは腕を組んだ。
「……だったら、最初からそう言えばいいのに。」
「言ってると思う。」
シロコが静かに指摘した。
「資料の最初に書いてある。」
「読んだわよ! ちゃんと読んだけど、確認しただけ!」
ノノミが、楽しそうに二人のやり取りを見守っていた。
「でも、もし学習端末の更新費用を補助してもらえるなら、助かりますよね。最近、少し調子の悪いものもありますし。」
「そうなんです。」
アヤネは頷いた。
「それに、教育用BDや通信設備の維持費についても、条件を満たせば申請できる可能性があります。もちろん、共同事業に参加しなくても利用できる支援はあるようですが、今回の取り組みを通じて学習環境の改善を具体的に計画できれば、申請の根拠を整理しやすくなると思います。」
「ん。学習状況の記録も残る。」
シロコが言った。
「成果を説明するときに使える。」
「はい。単に『設備が必要です』と申請するだけでなく、実際にどのような改善が見込まれ、導入後にどのような変化があったのかを示せるのは、大きな利点ですね。」
アヤネの説明に、セリカは少し考え込んだ。
「……でも、それなら、うちだけで申請すればいいんじゃないの?」
「それも一つの方法です。」
「でしょ?」
「ただ、新しい学習支援システムを自分たちだけで導入するとなると、選定から契約、運用方法の検討まで、すべてこちらで行う必要があります。黎明高等学校は、すでに似た仕組みを利用しているそうなので、共同事業に参加できれば、その経験を生かせるかもしれません。」
「なるほどねえ。」
ホシノが、ゆっくりと頷いた。
「つまり、向こうにも得があって、うちにも得があるかもしれない、ってことか。」
「はい。少なくとも、提案書にはそのように書かれています。」
「だったら、話を聞いてみる価値はありそうだねえ。」
ノノミも賛成した。
「私も、いいと思います。学習環境がよくなるのは嬉しいですし、学校の負担が少しでも軽くなるなら、ぜひ検討したいですね。」
「ん。私も。」
シロコが頷く。
セリカは、まだ少し不満そうだったが、反対するほどの理由も見つからないらしかった。
「……まあ、話を聞くだけならいいけど。でも、変な契約だけは絶対にしないでよね。」
「はい。そこは慎重に確認します。」
アヤネは微笑んだ。
しかし、そこで一つ、気になることを思い出した。
「……ただ、少し不思議なんですよね。」
「何が?」
セリカが尋ねる。
「どうして、私たちに声をかけてくれたんでしょうか。」
アヤネは、提案書の送付先に関する説明を示した。
今回、黎明高等学校が案内を送ったのは、六つの学園だという。
無作為に大量の案内を送ったわけではなく、ある程度の条件をもとに候補を選んでいるらしい。
「小規模学園という点では、確かに私たちも当てはまります。でも、アビドスは砂漠化が進んでいますし、設備の維持も簡単ではありません。共同でシステムを運用するなら、もっと条件のよい学園もあると思うんです。」
「……ああ。」
セリカも納得したようだった。
「確かにね。うちの端末なんて、いつ壊れるか分からないものもあるし。」
「ん。通信も、いつも安定しているわけじゃない。」
シロコが付け加えた。
ノノミは、少し残念そうに眉を下げた。
「そうですね……。せっかくお誘いいただいても、ちゃんと利用できなかったら申し訳ないですし。」
ホシノは、しばらく黙って資料を眺めていた。
やがて、のんびりとした口調で言う。
「まあ、向こうにも何か考えがあるんじゃない? 気になるなら、聞いてみればいいと思うよ。」
「そうですね。」
アヤネは頷いた。
相手が何を考えているのか、こちらで推測していても仕方がない。
それに、今の段階で不安な点を確認しておくことは、双方にとって必要なことだろう。
アヤネは返信文を作成した。
共同事業に関心があること。
教育環境の改善や、補助金・助成金の活用について、詳しい説明を希望すること。
設備の状態や通信環境に不安があること。
そして、最後に一つ。
『差し支えなければ、本校を連携候補として選定された理由についても、お聞かせいただけますと幸いです。』
文面を確認し、送信する。
アヤネは端末を閉じると、椅子の背にもたれた。
まだ、何も決まっていない。
けれど、もし今回の話がうまく進めば、今まで後回しにしてきた設備の整備にも、少しは手を付けられるかもしれない。
そう考えるだけで、胸の内に小さな期待が生まれた。
♢
「……あ。」
黎明高等学校の生徒会室で、玲が小さく声を上げた。
受信一覧に、見覚えのある名前が表示されている。
アビドス高等学校。
差出人は、対策委員会の奥空アヤネ。
玲は、思わず端末を持ち上げた。
奥空アヤネ。
知っている。
もちろん、知っている。
原作では何度も見てきた、あの真面目で苦労性の後輩である。
その名前が、今、自分宛ての連絡に記されている。
玲は、しばらく画面を見つめた。
それから、そっと口元を緩める。
「……ふふ。」
「玲?」
真帆が顔を上げた。
「何かあった?」
「うん。アビドスからお返事が来たよ。」
「あら、本当?」
「共同事業に関心があるみたい。詳しい説明を聞きたいって。」
「それはよかったじゃない。」
真帆も、少し嬉しそうに頷いた。
栞が近づき、玲の端末を覗き込む。
「設備面についても、確認事項がありますね。」
「そうだね。」
玲は文書を読み進めた。
教育環境の改善に関する質問。
補助金や助成金の申請条件。
設備や通信環境に関する懸念。
どれも、もっともな内容だった。
そして、最後の質問。
本校を連携候補として選定された理由について。
玲の指が止まった。
なるほど。
そこを聞いてくるか。
いや、当然だろう。
アビドスの現状を考えれば、共同利用先として適しているのか疑問に思うのは自然なことだ。
問題は、その質問にどう答えるかである。
まさか、前世であなたたちのことを知っていて、ずっと応援していたからです、などと言えるはずがない。
玲は、しばらく考えた。
「……真帆、栞ちゃん。ちょっと相談してもいい?」
「何?」
「アビドスから、どうして候補に選んだのかって聞かれてるんだ。」
真帆は、少し考えてから答えた。
「小規模学園であることと、教育環境の改善が必要と考えられること。その二つが主な理由でしょうね。」
「はい。ただ、設備面の条件が十分に確認できていないことは、正直に伝えた方がよいと思います。」
栞も頷いた。
「そうだね。」
玲は端末を机に置き、返信文を作り始めた。
まず、選定理由について。
小規模学園であること。
教育環境の維持に課題を抱えていると考えられること。
共同事業を通じて、双方の教育環境を改善できる可能性があること。
ただし、現時点では設備や通信環境の詳細を把握していないため、参加の可否については、今後の協議を通じて判断したいこと。
そこまで書いて、玲は少し手を止めた。
アビドスの砂漠化は、広く知られている。
それを知らなかったように装う必要はない。
むしろ、相手が不安に思っていることについては、きちんと答えた方がいいだろう。
玲は、文章を続けた。
『貴校周辺における砂漠化の進行については、私たちも承知しております。設備の維持管理が容易ではないことも、今回の事業を検討するうえで考慮すべき課題だと認識しています。』
さらに、利用環境に関する説明を加える。
『ただし、十分な設備が整っていることを、参加の絶対条件とする考えはありません。既存の端末や通信環境で利用可能な範囲を確認し、必要に応じて設備更新を含めた教育環境の改善についても検討したいと考えています。』
もちろん、設備更新に必要な費用がすべて補助されるわけではない。
そのため、制度の対象となる経費や審査の条件についても、慎重に説明した。
玲は一度文章を読み返し、満足そうに頷いた。
「……うん。こんなところかな。」
真帆が確認する。
「いいんじゃない? 変に期待させるような書き方にもなっていないし。」
「そうだね。」
栞も頷いた。
「ただ、実際に利用できるかどうかは、オンラインで詳しく確認する必要がありますね。」
「うん。そこは、ちゃんと相談しよう。」
玲は返信文を閉じようとして、ふと手を止めた。
画面の最後に、まだ少し余白がある。
事務的な説明としては、十分だった。
必要なことは書いたし、質問にも答えている。
けれど。
「……ねえ真帆。」
玲が声をかけると、真帆はすぐに顔を上げた。
「何?」
「最後に、少しだけ文章を加えてもいいかな。」
真帆は、嫌な予感がしたような顔になった。
「……また?」
「また、とは失礼な。」
「前にも、事務文書に私情で詩情を盛り込もうとしていたでしょう。」
「今回は、ちゃんと意味があるんだよ。」
「どういう?」
玲は、少しだけ考えた。
アビドスの五人が、どれほど苦労してきたか。
そのすべてを知っているわけではない。
けれど、少なくとも、彼女たちが学校を守るために努力していることは知っている。
砂漠化が進み、生徒が減り、学校を維持することさえ難しくなっている。
それでも、あの五人は諦めていない。
かつて見た彼女たちの姿を思い出すと、玲は、自然と胸の奥が温かくなるのを感じた。
もちろん、今のアビドスで何が起きているのか、細かな事情までは分からない。
それでも、伝えたいことはあった。
「……せっかく、遠くの学校からお返事をもらえたんだからね。」
玲は、柔らかく微笑んだ。
「少しくらい、私たちの気持ちも伝えておきたいなって。」
真帆は、しばらく玲を見つめた。
やがて、小さく息をつく。
「……変なことを書かないなら、いいわよ。」
「ふふ。任せて。」
玲は端末に向き直った。
そして、ゆっくりと文字を打ち始めた。
『私たちの学園も、決して恵まれた環境にあるわけではありません。小さな学び舎を今日まで守り、明日へつなごうとすることが、どれほど容易ではないか。その苦労は、私たちなりに理解しているつもりです。』
そこまで書いて、少し考える。
悪くない。
けれど、もう少し。
せっかくなら、あの五人への敬意を、きちんと伝えたい。
『砂に覆われゆく土地にあって、なお学園の灯を絶やさずにいる皆さまの歩みには、深い敬意を抱いております。』
玲は、満足そうに頷いた。
うん。
なかなかいい。
そして、最後に。
『どうか、私たちの提案を、何かを与えるための申し出とはお考えにならないでください。私たちもまた、自分たちの学園を守りたいと願う者です。置かれた場所も、歩んできた道も異なりますが、その願いにおいて、私たちはきっと同じなのでしょう。』
玲は、少しだけ目を細めた。
最後の一文は、どうしようか。
あまり長くなりすぎるのもよくない。
けれど、ここまで書いたのだから、締めくくりも美しくしたい。
しばらく考えた末、玲は静かに指を動かした。
『もしお許しいただけるのなら、これから先の道を、ほんの少しだけ、ご一緒できれば幸いです。』
完成。
玲は、しばらく画面を眺めた。
我ながら、なかなか美しい文章ではないだろうか。
特に最後の一文。
これから先の道を、ほんの少しだけ、ご一緒できれば幸いです。
うん。
実にいい。
どことなく神秘的で、それでいて、押しつけがましくない。
理想的な生徒会長の文章というものは、こういうものなのかもしれない。
「……玲。」
真帆が声をかけた。
「何かな。」
「ちょっと長くない?」
「気持ちを込めた結果だよ。」
「それは分かるけど……。」
真帆は、文章を最初から読み返した。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……まあ、いいんじゃない。」
「おや。」
「変なことは書いていないし。少し気取ってるけど、玲らしいわ。」
「褒め言葉として受け取っておこうかな。」
栞も、横から画面を確認した。
「私も、問題ないと思います。事務的な説明とは分けてありますし、相手の学園に敬意を示す内容ですから。」
「ありがとう、栞ちゃん。」
玲は、嬉しそうに微笑んだ。
そして、返信文を送信した。
その瞬間、彼女の頭にあったのは、これから始まるかもしれないアビドスとの交流だった。
ホシノに会えるかもしれない。
シロコやノノミ、セリカやアヤネとも、直接話せるかもしれない。
そう考えると、どうしても頬が緩んでしまう。
もちろん、今回の計画が学校のためになることも、ちゃんと考えている。
アビドスの力になりたいという気持ちも、本当だった。
ただ、候補校を選んだとき、ほかの五校については条件を一つずつ比較していたのに、アビドスだけは、名前を見つけた瞬間に心の中で小さく歓声を上げていたことなど、誰にも話していない。
そして、今後も話す予定はなかった。
それはそれ、これはこれである。
玲は、端末の画面を眺めながら、ひそかに微笑んだ。
「……楽しみだなあ。」
その声には、神秘的な意味など何一つなかった。
ただ、かつて応援していた少女たちと、今度は同じ世界の住人として言葉を交わせる。
それが、どうしようもなく楽しみだった。
♢
アビドス高等学校に返信が届いたのは、その日の夕方だった。
アヤネは、端末に表示された通知を確認し、少し驚いた。
思っていたより、ずっと早い返事だった。
文面を開くと、質問に対する回答が丁寧にまとめられている。
候補校として選定した理由。
設備や通信環境に関する考え方。
補助金や助成金の申請についての説明。
そして、今後の協議の進め方。
どれも、こちらが尋ねた内容にきちんと答えていた。
「……なるほど。」
アヤネは、静かに頷いた。
アビドスの砂漠化についても、相手は承知しているらしい。
そのうえで、設備が十分に整っていないことを理由に、最初から候補から外すつもりはないという。
もちろん、実際に参加できるかどうかは、今後の確認次第だ。
けれど、少なくとも、アビドスの現状を知らずに連絡してきたわけではなかった。
それだけでも、安心できる材料だった。
アヤネは、さらに文章を読み進めた。
そして、最後の段落で、ふと手を止めた。
そこには、これまでの事務的な説明とは少し違う文章が添えられていた。
小さな学び舎を守り、明日へつなごうとすることの難しさ。
砂に覆われゆく土地にあって、なお学園の灯を絶やさずにいる者たちへの敬意。
そして、自分たちもまた、同じように学園を守りたいと願っているという言葉。
アヤネは、しばらく画面を見つめた。
不思議な気持ちだった。
アビドスが厳しい状況にあることは、決して秘密ではない。
砂漠化が進んでいることも、生徒が少ないことも、調べれば分かる。
けれど、これまで外部から届いた連絡の多くは、そうした事情を単なる問題点として扱うものだった。
設備が不足している。
財政状況が厳しい。
学校の維持が困難である。
それらは、確かに事実だった。
しかし、その学校を今日まで守ってきた生徒たちの努力について、わざわざ言葉にしてくれる相手は、そう多くなかった。
アヤネは、もう一度文章を読み返した。
『どうか、私たちの提案を、何かを与えるための申し出とはお考えにならないでください。私たちもまた、自分たちの学園を守りたいと願う者です。』
その一文が、妙に心に残った。
助けてあげる、とは書かれていない。
協力してほしい、とも、ただ一方的に頼んでいるわけではない。
同じ立場にいる者として、一緒に考えたい。
そう言っているように思えた。
「……アヤネちゃん?」
ホシノの声に、アヤネは顔を上げた。
「あ、ホシノ先輩。」
「さっきから、ずいぶん真剣に読んでるねえ。」
「はい。黎明高等学校から、お返事が届いたんです。」
「おお。早いねえ。」
ホシノは、のんびりと近づいてきた。
アヤネは、返信の内容を簡単に説明した。
設備面の問題についても考慮してくれること。
補助金や助成金の申請について、今後詳しく相談できること。
そして、オンラインでの打ち合わせに応じてもらえること。
「へえ。それなら、悪くなさそうだね。」
「はい。それに……。」
アヤネは、少し迷ってから、最後の文章を示した。
「こんなことも、書いてくださっているんです。」
ホシノは、画面に目を落とした。
ゆっくりと文章を読み進める。
その表情は、いつもと大きく変わらなかった。
けれど、最後まで読み終えると、少しだけ目を細めた。
「……ふうん。」
「どう思われますか?」
「そうだねえ。」
ホシノは、しばらく考えた。
「ずいぶん、丁寧な子みたいだね。」
「はい。私も、そう思います。」
「それに、おじさんたちのこと、結構買ってくれてるみたい。」
アヤネは、少しだけ微笑んだ。
「そうですね。私たちが学校を守ろうとしていることを、認めてくださっているように感じます。」
ホシノは、もう一度文章を見た。
立派なことを書く人間が、必ずしも立派なことをするとは限らない。
そんなことは、これまでの経験から十分に知っている。
けれど、少なくとも、この返信には、相手を見下すようなところがなかった。
設備の不安についても、都合の悪い話として避けるのではなく、きちんと答えている。
そのうえで、最後に、こんな言葉を添えてくる。
少し変わった子なのかもしれない。
ホシノは、そんなことを思った。
「ま、実際に話してみないと分からないけどねえ。」
そう言って、いつものように肩をすくめる。
「でも、おじさんは、ちょっと会ってみたくなったかな。」
「私もです。」
アヤネは、素直に頷いた。
その後、ほかの三人にも返信の内容が共有された。
セリカは、最後の文章を読んで、少しだけ顔をしかめた。
「……何よ、これ。ずいぶん気取った書き方ね。」
「でも、素敵な文章だと思いますよ?」
ノノミが微笑む。
「私たちのことを、ちゃんと見てくださっているみたいで。」
「そ、それは……別に、悪い気はしないけど。」
セリカは、少しだけ視線を逸らした。
シロコは、文章を読み終えると、静かに頷いた。
「ん。対等な協力関係を考えてくれてる。」
「そうですね。」
アヤネは答えた。
「少なくとも、こちらの事情を無視して話を進めるつもりはないみたいです。」
それは、五人にとって大切なことだった。
アビドスは、確かに厳しい状況にある。
けれど、だからといって、誰かに一方的に救ってもらいたいわけではない。
自分たちの学校は、自分たちの手で守りたい。
その思いを尊重してくれる相手なら、話をしてみたいと思えた。
「……それじゃあ。」
アヤネは、端末を開いた。
「オンラインでの打ち合わせについて、日程を相談してみますね。」
「ん。お願い。」
「はーい。」
「変な契約だけはしないでよね!」
「ふふ。もちろんです。」
アヤネは、微笑みながら返信文を作成した。
その最後に、相手の名前を確認する。
黎明高等学校生徒会長。
月白玲。
十七人の小さな学園を率いながら、ほかの学園にも目を向け、厳しい環境にある学校の努力を認めてくれる人物。
少なくとも、今のアヤネには、そのように思えた。
もちろん、実際にどのような人なのかは、まだ分からない。
けれど、会って話してみたい。
そう思うには、十分な理由があった。
アヤネは、送信ボタンを押した。
♢
そのころ、黎明高等学校の生徒会室では、玲が端末を閉じようとしていた。
今日の仕事は、ひとまず終わりである。
アビドスへの返信も送った。
あとは、向こうからの連絡を待つだけだった。
「……ふふ。」
玲は、誰にも聞こえないほど小さく笑った。
それにしても、先ほどの文章は、なかなかよく書けたと思う。
少し気取っていたかもしれないが、あのくらいなら許されるだろう。
何しろ、相手はアビドスなのだ。
あの五人が、学校を守るためにどれほど頑張ってきたか。
玲は、それを知っている。
だから、敬意を伝えたかった。
それは、間違いなく本音だった。
ただし、彼女がその努力を知っているのは、アビドスについて徹底的に調査したからではない。
かつて、画面の向こうで彼女たちの物語を見ていたからである。
そして、今回アビドスを候補に加えた理由も、決して高潔なものばかりではなかった。
ほかの五校については、学園規模や設備状況を比較し、共同事業として成立する可能性を検討した。
そのうえで、アビドスを六校目に加えた。
自分たちの学園に不利益が生じない範囲で、あの五人にも選択肢を届けたかったからだ。
もちろん、ホシノに会ってみたいという気持ちもある。
シロコやノノミ、セリカやアヤネとも、直接話してみたい。
けれど、それ以上に、かつて画面の向こうで応援していた少女たちが、今は同じ世界で懸命に生きているという事実が、玲にはどうにも嬉しかった。
もし、自分にできることがあるのなら。
ほんの少しでも、その努力が報われるきっかけになれたなら。
それは、きっと素敵なことだろう。
玲は、椅子の背にもたれ、窓の外を眺めた。
夕暮れの光が、校舎の壁を淡く染めている。
遠い砂漠の向こうでは、今ごろ、あの五人が何をしているのだろう。
自分の返信を読んでくれただろうか。
少しくらい、いい印象を持ってもらえただろうか。
そんなことを考えると、自然に頬が緩んだ。
「……さて。」
玲は、静かに呟いた。
「次は、どんな出会いが待っているのかな。」
その胸の内にあるのは、ただの期待である。
かつて物語の中で知った少女たちと、今度は同じ世界の住人として言葉を交わせる。
それが、どうしようもなく楽しみだった。
そして、そのころ。
遠いアビドス高等学校では、月白玲という名前が、対策委員会の五人の記憶に、少しずつ刻まれ始めていた。
彼女たちは、まだ玲を知らない。
玲もまた、彼女たちの今を、すべて知っているわけではない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
黎明高等学校の生徒会長が、何気なく綴った敬意の言葉は、彼女自身が思っていた以上に、遠い砂漠の学園で大切に受け止められていた。
そのことを、月白玲は、まだ知らなかった。