月白玲は、朝の鏡が好きだった。
正確に言えば、朝の鏡に映る自分の姿が好きだった。
窓から差し込む柔らかな陽光を受け、腰まで届く銀白の髪が淡く輝いている。頭上には、薄い光を幾重にも重ねたようなヘイローが浮かび、整った顔立ちの中でひときわ目を引く瞳は、深い紫を基調としながら、顔を傾けるたびに微妙な色彩の変化を見せた。正面から覗き込めば紫水晶のように澄み、横から光が射せば青みを帯び、ほんのわずかな角度では薄紅や淡い金色が虹彩の奥に現れる。
鏡の中の少女は、何も語らずとも、何かを知っているように見えた。
静かで、優美で、どこか近寄りがたい。
その姿を見つめながら、玲は胸の内で深く頷いた。
(うん。今日も完璧。)
我ながら、何度見ても飽きない容姿である。
前世でこんな少女をゲームの画面越しに見かけたなら、間違いなく実装を心待ちにしていただろう。立ち絵が公開されただけで話題になり、瞳の色彩に何か秘密が隠されているのではないかと考察され、何気ない台詞の一つひとつに意味を見いだす人々が現れるに違いない。
実際には、当人が鏡の前で自分の容姿に見惚れているだけなのだが、そこは考えないことにした。
玲は襟元を整え、机の上から濃紺の小さなノートを取り上げた。
昨夜、学校説明会に向けて考えた言葉がある。
――ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。
なかなか気に入っていた。
学校名の「黎明」と掛かっているうえに、今の学校が置かれている状況とも重なる。少し寂しげでありながら、未来への希望も感じさせる。何より、銀髪の美少女が微笑みながら口にする言葉として、実に申し分がない。
玲は鏡へ向き直った。
肩の力を抜き、視線をわずかに伏せる。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。」
しばし、沈黙。
玲は自分の表情を確かめた。
(いい……!)
思わず拍手をしたくなった。
声の調子も、間の取り方も、最後に浮かべた微笑みも、昨日より自然になっている。あとは実際の説明会で披露できれば、きっと見学者の記憶に残ることだろう。
もっとも、学校の案内役として適切な言葉かどうかについては、まだ検討の余地があった。
何しろ、初めて訪れた学校で「まだ夜明けを待っている」と言われたら、学校が相当に厳しい状況にあることを暗示しているようにも聞こえる。
玲は少し考え、ノートの余白に小さく書き加えた。
『説明会で使用する場合、前後の説明を工夫すること。』
神秘的な美少女にも、言葉の使いどころを考える慎重さは必要なのである。
ノートを鞄の奥へしまい、玲は玄関へ向かった。
壁際には、彼女が普段から携帯している銃が置かれている。
白銀を基調とした銃身には、夜明け前の空を思わせる深い藍色の装飾が施され、細部には控えめな金色の意匠が刻まれていた。玲が扱うには少々長い銃だったが、肩に掛けると銀白の髪とよく馴染み、制服姿をいっそう印象的なものにしてくれる。
玲は慣れた手つきで装備を確かめ、肩へ掛けた。
キヴォトスでは、生徒が銃を携帯していることなど、取り立てて珍しい光景ではない。むしろ、何も持たずに街を歩いていれば、その方が目立つ場合さえある。通学路にはさまざまな学園の制服を着た生徒たちが行き交い、拳銃を腰に下げた者もいれば、長銃を背負った者もいる。それぞれの装備は、鞄や靴と同じように、その生徒の日常の一部だった。
玲にとっても、それはすでに当たり前のことになっている。
ただ、一つだけ、少し困ったことがあった。
(……これ、格好よすぎない?)
玄関の鏡に映る自分を見て、玲は思った。
銀白の長髪に、虹色を宿す瞳。そして、白銀の銃。
どう見ても、何か重大な秘密を抱えた少女である。
しかも、本人が何も語らなければ、周囲が勝手に想像を膨らませてくれそうな雰囲気まである。
玲は満足げに微笑んだ。
実際には、昨日の数学の課題を終わらせるために少し夜更かしをした程度の秘密しかないのだが、そこは本人の胸にしまっておけばよい。
玲は玄関の扉を開け、朝の街へ歩き出した。
♢
黎明高等学校の正門をくぐると、校庭の向こうから箒の音が聞こえてきた。
まだ始業まで時間があるというのに、数人の生徒が落ち葉を集めている。昨夜の風が強かったせいか、校舎の周囲には枯れ葉が散らばっており、花壇の縁にも小さな枝がいくつか落ちていた。
玲はその光景を眺めながら、足を止めた。
校舎は古い。
壁には細かなひびがあり、雨樋には修理の跡が残っている。窓枠の塗装もところどころ剥がれているし、正門に掲げられた校名の文字も、長い年月を経て少し色褪せていた。
それでも、学校は不思議なほど清潔だった。
生徒たちが毎日手入れをしているからである。
廊下を掃き、窓を拭き、花壇へ水をやる。壊れた備品を見つければ生徒会へ報告し、修理できるものは自分たちで直す。大規模な学園なら専任の職員が担っているような仕事も、黎明高等学校では生徒たちが少しずつ分担していた。
玲は、そうした学校のあり方を嫌いではなかった。
むしろ、どこか誇らしく思っている。
「おはようございます、月白先輩。」
箒を持っていた一年生が、玲に気づいて声を掛けた。
「おはよう。朝からありがとう。」
玲が微笑むと、少女は少し照れたように笑った。
「いえ。今日は落ち葉が多かったので。」
「昨日、風が強かったからね。私も手伝おうか?」
「大丈夫です。もうすぐ終わりますから。」
少女はそう言って、箒を持ち直した。
玲は周囲を見渡し、花壇の縁に落ちていた小さな枝を拾い上げた。それを落ち葉の集められた場所へ運んでから、改めて一年生へ声を掛ける。
「無理はしないでね。」
「はい。ありがとうございます。」
玲は軽く手を振り、校舎へ向かった。
その後ろ姿を、一年生はしばらく見送っていた。
月白玲は、校内でもよく知られた生徒だった。
その美しさはもちろんだが、何より印象に残るのは、彼女の不思議な雰囲気である。穏やかに微笑み、静かな声で言葉を選ぶ姿は、同じ制服を着ているはずなのに、どこか別の世界から来た人のようにも見えた。
けれど、実際に話してみれば優しい。
重い荷物を運んでいれば自然に手を貸してくれるし、学習で困っていれば一緒に考えてくれる。特別なことをしたつもりもない様子で、誰かのために動くことができる。
そのため、下級生の中には、玲に憧れを抱いている者も少なくなかった。
もちろん、本人はそのことを知らない。
知ってしまえば、きっと大喜びするだろうが。
♢
「玲、おはよう。」
教室へ入ると、朝倉真帆が窓際の席から手を振った。
「おはよう、真帆。」
玲は微笑んで応え、自分の席へ向かった。
机の上には、昨日配られた学校説明会の案内が置かれている。どうやら、真帆が朝のうちに整理してくれたらしい。
「昨日、生徒会長に話してきた?」
「ううん。今日、行こうと思ってる。」
「そっか。じゃあ、私も一緒に行こうかな。」
「真帆も?」
「もちろん。玲だけに任せるわけにはいかないでしょ。」
真帆は明るく笑った。
玲は、その言葉が少し嬉しかった。
昨日、自分から説明会を手伝おうと言い出したものの、何をすればよいのかはまだ分かっていない。生徒会の仕事は普段から忙しそうだし、説明会となれば準備することも多いだろう。
真帆が一緒にいてくれるなら、心強い。
「ありがとう。助かるよ。」
「うん。それに、私も学校がなくなるのは嫌だしね。」
真帆は何気ない調子で言った。
玲は少しだけ目を伏せた。
昨日、栞から聞かれた言葉が思い出される。
この学校は、本当になくなってしまうのだろうか。
いや、まだ、何も決まっていない。
けれど、何も決まっていないからこそ、不安になることもある。
「……できることは、しておきたいね。」
玲がそう言うと、真帆は頷いた。
「そうだね。」
そのあと、二人は今日の学習予定を確認した。
黎明高等学校では、学習用BDや端末を利用した自主学習が中心となっている。教材の進度は各自で管理し、分からないところがあれば互いに教え合う。人数の少ない学校では、同じ学年でも学習の進み方が異なることが珍しくなく、教室の中では、それぞれが別の講義映像を視聴していることもあった。
玲は端末を開き、数学の進捗状況を確認した。
昨日、夜遅くまで取り組んだ甲斐があって、ようやく第六講が完了になっている。
玲は小さく息を吐いた。
勝った。
何に勝ったのかは分からないが、とにかく勝った気分だった。
「玲、何だか嬉しそう。」
真帆が言った。
「……昨日の自分を、少しだけ越えられた気がして。」
玲は静かに答えた。
真帆は端末の画面を覗き込み、納得したように笑った。
「あ、数学終わったんだ。よかったね。」
「うん。」
「じゃあ、今日は次の講義に進めるね。」
玲の微笑みが、わずかに固まった。
次の講義。
そうだった。
数学というものは、一つ終われば次が現れるのである。
玲は静かに端末を閉じた。
「……学びに、終わりはないからね。」
真帆は少し感心したように頷いた。
「本当にそうだよね。私も頑張らなきゃ。」
玲は微笑んだ。
その内心では、終わりのない数学に対して、少しばかり複雑な感情を抱いていた。
♢
昼休みを迎える頃には、校舎の中が少し賑やかになっていた。
といっても、全校生徒が十数人しかいない学校である。大規模な学園の昼休みとは比べものにならないほど静かだったが、それでも教室の扉が開閉する音や、廊下を行き交う生徒たちの話し声が、普段より多く聞こえてきた。
玲と真帆は弁当を食べ終えると、生徒会室へ向かった。
廊下の窓からは、校庭の向こうに広がる街並みが見える。秋の陽光は柔らかく、遠くの建物の屋根には薄い霞がかかっていた。
玲はその景色を眺めながら、昨夜考えた台詞を思い出した。
――ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。
やはり、悪くない。
ただ、これをどの場面で使うべきかが問題だった。
説明会の冒頭で言うのか。
それとも、校内案内の最後に言うのか。
あるいは、見学者が帰るときに、静かに微笑みながら口にするのか。
玲は真剣に悩んでいた。
「玲?」
真帆が顔を覗き込んだ。
「何か考え事?」
「……少しね。」
「説明会のこと?」
「うん。どんなふうに案内すれば、この学校の良さが伝わるかなって。」
玲がそう答えると、真帆は嬉しそうに笑った。
「玲、ちゃんと考えてくれてるんだね。」
「……せっかく手伝うんだから。」
玲は微笑んだ。
もちろん、実際には格好いい台詞の披露場所について考えていた時間の方が長かったのだが、学校のことを真面目に考えているのも事実だった。
両者は、決して矛盾しない。
少なくとも、玲はそう信じていた。
生徒会室の前へ着くと、真帆が扉を叩いた。
「失礼します。」
中から返事があり、二人は部屋へ入った。
生徒会長は机に向かい、何枚もの資料を並べていた。
「あら、真帆さんに玲さん。どうしたの?」
「学校説明会のお手伝いをしたくて。」
真帆が答えると、会長は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。二人とも協力してくれるのね。」
「はい。私たちにもできることがあればと思って。」
玲がそう言うと、会長は頷き、机の上の資料を二人へ差し出した。
「実は、ちょうど案内の内容を考えていたところなの。去年までは校舎の中を順番に回るだけだったんだけど、今年はもう少し工夫したいと思っていて。」
資料には、学校説明会の予定が記されていた。
受付。
学校紹介。
校内見学。
質疑応答。
どれも一般的な内容だったが、玲はその中に一つ、気になる点を見つけた。
「……校内見学は、施設を案内するだけなんですか?」
「そうね。去年は教室と図書室、それから体育館を見てもらったわ。」
「普段の学習の様子を見てもらうのは、どうでしょう。」
玲がそう言うと、会長は顔を上げた。
「学習の様子?」
「はい。うちの学校って、人数が少ない分、みんなで教え合うことも多いでしょう。そういうところを見てもらえたら、設備だけでは伝わらない良さが分かるんじゃないかなって。」
会長は少し考え、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。それはいいかもしれないわね。」
真帆も、隣で頷いていた。
「確かに。私も入学したとき、こんなに上級生と話すことになるとは思ってなかったです。最初は少し緊張したけど、みんな優しくしてくれたし。」
「そうね。うちの学校の良さって、そういうところなのかもしれないわ。」
会長は資料の余白に何かを書き込んだ。
玲はその様子を見ながら、少し安心した。
自分の提案が、役に立ったらしい。
そして、ここで一つ、例の台詞を披露するべきではないかという考えが浮かんだ。
学校の良さ。
黎明という名前。
夜明け。
これほど条件が揃っているのだから、使わない手はない。
玲は窓の外へ目を向けた。
「……夜明けを待つ場所には、きっと、その場所にしかない光があるのでしょうね。」
静かな声が、生徒会室に響いた。
会長は少し目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「……素敵な言葉ね。」
玲は内心で小さく拳を握った。
(よしっ。)
「玲さんは、本当に言葉の選び方が綺麗ね。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。今の言葉、学校紹介の文章にも使えそうだわ。」
玲は、表情を崩さないようにするので精いっぱいだった。
採用。
まさかの採用である。
しかも、学校の公式な紹介文に使われるかもしれない。
これは、かなり大きな成果だった。
真帆も嬉しそうに笑っている。
「玲の言葉って、学校の名前にも合ってるよね。」
「そうね。黎明高等学校という名前にも、ぴったりだわ。」
会長は資料へ視線を落とし、何かを書き加えた。
玲は静かに微笑んだ。
内心では、今夜のノートに大きな丸をつけることを決めていた。
♢
話し合いは、その後も続いた。
校内見学では、普段の学習の様子を紹介することになった。
上級生が下級生に勉強を教える場面や、学習用BDを使っている様子を見てもらう。図書室では、古い資料だけでなく、生徒たちが作った読書紹介の掲示物も展示する。体育館では、少人数でも楽しめる活動を紹介し、校庭では花壇の手入れについて説明する。
どれも派手なものではない。
しかし、玲はそれでよいと思った。
黎明高等学校には、大きな学園のような豪華な設備はない。けれど、ここには、ここでしか生まれない日常がある。
それを見てもらえれば、きっと何かが伝わる。
「それじゃあ、玲さんには校内案内をお願いしてもいいかしら。」
会長が尋ねた。
玲は少し驚いた。
「私が、ですか?」
「ええ。玲さんは下級生ともよく話しているし、学校のことも大切に思ってくれているでしょう。案内役に向いていると思うの。」
玲は少し考えた。
校内案内。
見学者の前に立ち、学校を紹介する。
そして、最後にあの台詞を。
――ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。
玲は内心で、静かに歓声を上げた。
(来た……!)
ついに、その機会が訪れた。
もちろん、説明会まではまだ時間がある。実際にどのような案内をするかも決まっていないし、見学者が何人来るのかさえ分からない。
それでも、玲にとっては大きな一歩だった。
「……私でよければ、喜んで。」
玲は穏やかに微笑んだ。
会長も嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。真帆さんにも、一緒に案内をお願いしていい?」
「はい。もちろんです。」
真帆は明るく答えた。
こうして、二人は学校説明会の案内役を務めることになった。
♢
放課後、玲と真帆は図書室へ向かっていた。
説明会で紹介する資料を探すためである。
黎明高等学校の図書室は、校舎の三階にあった。窓が大きく、午後になると柔らかな光が差し込むその部屋には、古い本棚がいくつも並んでいる。蔵書の数は決して多くないが、長い年月をかけて集められた資料の中には、今では手に入りにくいものも含まれていた。
玲は、この場所が好きだった。
古い紙の匂い。
静かな空気。
窓の向こうに広がる街並み。
そして、何よりも、少し薄暗い本棚の間を歩く自分の姿が、たいへん絵になるのである。
玲は本棚の前に立ち、背表紙を眺めた。
真帆はその隣で、学校の沿革に関する資料を探している。
「玲、これ見て。」
しばらくして、真帆が一冊の古い冊子を取り出した。
表紙には、黎明高等学校の校章が印刷されている。
紙は少し黄ばんでおり、角も擦り切れていたが、文字はまだ十分に読めた。
「昔の学校案内みたい。」
玲は冊子を受け取った。
表紙を開くと、今よりもずっと多くの生徒が写った写真が現れた。
校庭に並ぶ制服姿の少女たち。
教室で学習する生徒たち。
体育館で行われた行事の様子。
どの写真にも、今の黎明高等学校では見られないほど多くの人影があった。
「……こんなに生徒がいたんだ。」
玲が呟くと、真帆は頷いた。
「昔は、結構大きな学校だったみたいだね。」
玲はページをめくった。
写真の中の校舎は、今とほとんど変わらない。
同じ窓。
同じ廊下。
同じ校庭。
けれど、そこを行き交う生徒たちの数だけが、まるで違っていた。
玲はしばらく、その写真を見つめていた。
自分が毎日歩いている廊下にも、かつてはこれほど多くの生徒がいたのだ。
今では使われなくなった教室にも、誰かの笑い声が響いていたのだろう。
そのことを思うと、少し不思議な気持ちになった。
「……時間って、面白いね。」
玲がぽつりと言った。
真帆は顔を上げた。
「どうして?」
「同じ場所なのに、そこにいる人が変わるだけで、まるで違う景色になるから。」
玲は冊子の写真へ視線を落とした。
「……でも、場所そのものは、ちゃんと覚えているのかもしれない。」
真帆はしばらく黙っていた。
窓から差し込む午後の光が、玲の銀白の髪を淡く照らしている。深い紫の瞳には、薄紅の色彩がかすかに浮かび、古い写真を見つめるその横顔は、どこか遠い昔の景色を眺めているようにも見えた。
「……玲って、本当に不思議だね。」
真帆が静かに言った。
玲は顔を上げた。
「そうかな。」
「うん。でも、何となく分かる気がする。」
真帆は冊子を覗き込み、微笑んだ。
「この学校、ずっとここにあったんだもんね。私たちが来る前から、ずっと。」
「……そうだね。」
玲は頷いた。
それから、もう一度写真を見つめた。
今の学校は、昔よりもずっと小さくなってしまった。
けれど、ここで過ごした生徒たちの時間まで消えてしまったわけではない。
玲は、そんなことを考えていた。
そして、ふと気づいた。
この冊子は、学校説明会で紹介するのにちょうどよいのではないだろうか。
昔の学校の様子と、今の学校の様子。
その違いを見せることで、黎明高等学校が長い時間をかけて続いてきた場所なのだと伝えられる。
「……これ、説明会で使えないかな。」
玲が尋ねると、真帆は目を輝かせた。
「いいね! 昔の写真を見てもらうの、面白そう。」
二人は冊子を机へ運び、使えそうなページを探し始めた。
その作業は、思っていた以上に楽しかった。
古い行事の写真を見つけては笑い、今では使われていない部屋の写真を見つけては驚く。中には、現在の校舎には存在しない設備も写っており、二人はそれがどこにあったのかを想像しながら、しばらく話し込んでいた。
やがて、窓の外が夕暮れの色に染まり始めた頃、玲は冊子を閉じた。
「……いい学校だね、ここ。」
それは、何気なく零れた言葉だった。
真帆は少し驚いたように玲を見て、それから柔らかく笑った。
「うん。私もそう思う。」
二人はしばらく、何も言わずに窓の外を眺めていた。
♢
その夜、玲は自室の机に向かっていた。
濃紺のノートが開かれている。
今日の出来事は、なかなか充実していた。
生徒会長から説明会の案内役を任され、学校紹介の文章に自分の言葉が採用されるかもしれないという話まで出た。さらに、図書室では古い学校案内を見つけ、説明会で使えそうな資料も集めることができた。
玲は満足げに頷いた。
そして、ノートの新しいページへ丁寧に文字を書き込んだ。
『学校説明会に向けた台詞候補』
その下に、昨夜考えた一文を書く。
『……ようこそ。ここは、まだ夜明けを待っている学校なんだ。』
玲はしばらくその文字を眺めた。
やはり、良い。
ただ、実際の説明会で使うには、もう少し工夫が必要かもしれない。
玲はペンを持ち直し、別の言葉を考え始めた。
黎明。
夜明け。
光。
未来。
どれも、学校の名前と相性のよい言葉だった。
しかし、あまりに大げさな表現を使えば、見学者に伝わりにくくなる。学校説明会は、あくまでも学校の魅力を紹介する場なのだから。
玲はしばらく悩んだ末に、新しい一文を書き込んだ。
『……夜明けは、誰かが待っているだけでは訪れない。』
書き終えたところで、玲は首を傾げた。
少し、意味が分かりにくい。
夜明けは、待っていても訪れるものである。
玲はその事実に気づき、静かにペンを置いた。
「……難しいね。」
思わず呟いた。
謎めいた言葉というのは、ただ難しくすればよいというものではない。意味がありそうで、しかも聞いた人の心に残る。そうした絶妙な言葉を生み出すには、相応の工夫が必要なのだ。
玲はしばらく考え、先ほどの一文に小さな三角印をつけた。
『要検討。』
そのとき、端末に一件の通知が届いた。
学校の連絡網からだった。
『学校説明会の準備に関する打ち合わせを、明日の放課後に行います。協力を申し出た生徒は、生徒会室へ集合してください。』
玲は画面を眺め、微笑んだ。
いよいよ、説明会の準備が本格的に始まるらしい。
少し楽しみだった。
学校のために何かできることがあるのは、嬉しい。
それに、案内役として見学者の前に立つことができるのなら、これまで練習してきた成果を披露する機会にもなる。
玲はノートを閉じ、机の引き出しへしまった。
そして、明日の学習予定を確認するために端末を開いた。
画面には、数学の次の講義が表示されていた。
第七講。
未着手。
玲はしばらく、その文字を見つめていた。
昨日、ようやく第六講を終えたばかりである。
にもかかわらず、もう次の講義が待ち構えている。
玲は静かに息を吐いた。
「……学びの道は、果てしないね。」
その声は、どこか達観したように響いた。
しかし、実際には、数学の課題が終わらないことを嘆いているだけだった。
窓の外では、夜の街に灯りがともり始めていた。
黎明高等学校の古い校舎も、今頃はすっかり静まり返っていることだろう。
玲はその光景を思い浮かべながら、明日のことを考えた。
学校説明会。
見学者。
そして、まだ見ぬ誰かとの出会い。
自分がこの世界へ来た理由は、今でも分からない。
けれど、こうして誰かと笑い、誰かのために何かを考えられる日々は、思っていた以上に大切なものになっていた。
だからこそ、この学校がこれからも続いてくれたらよいと思う。
それは、謎めいた美少女を演じるための言葉ではなく、月白玲という少女の、偽りのない願いだった。
そして、その願いがいつか、彼女自身も想像していなかった出来事へつながっていくことを、今の玲はまだ知らない。
もっとも、今夜の彼女にとって、何より重大な問題は別にあった。
第七講の講義映像は、全部で一時間二十分。
確認問題は、十五問。
玲は画面を見つめ、静かに目を閉じた。
「……運命は、時に試練を与えるものだね。」
もちろん、それは運命ではなく、単なる時間割だった。