黎明高等学校の三階には、長いあいだ使われていない教室が三つあった。
そのうち二つは、古い机や椅子を保管するための物置になっている。残る一つは、廊下のいちばん奥にあり、扉の上には色褪せた「第二資料室」という札が掛けられていた。もっとも、現在の生徒たちがその部屋を資料室として利用することはなく、鍵も生徒会室の引き出しにしまわれたままだった。
月白玲は、その扉の前を通るたびに、少しだけ足を緩めることがあった。
何かが気になっているわけではない。
まして、扉の向こうに秘密が隠されていると感じているわけでもなかった。
ただ、古い校舎の薄暗い廊下と、長く閉ざされた扉という組み合わせが、たいへん好ましかったのである。
謎めいた美少女にとって、こういう場所は重要だ。
誰もいない廊下。窓から斜めに差し込む光。長い銀白の髪を揺らしながら、閉ざされた扉の前で静かに佇む少女。
それだけで、一枚の美しい絵になる。
しかも、そこで何か意味深な言葉を口にすれば、なおよい。
玲は以前から、そう考えていた。
そして、その日の放課後。
ついに、絶好の機会が訪れたのである。
♢
学校説明会の準備は、思っていた以上に忙しかった。
黎明高等学校では、全校生徒が十数人しかいないため、行事の準備も学年を越えて協力する必要がある。受付を担当する者、校内案内をする者、資料を整理する者、教室の展示を整える者。それぞれに役割を割り振っていくと、ほとんどの生徒が何らかの仕事を受け持つことになった。
玲と真帆は、校内案内の担当だった。
もっとも、案内する場所を決めるだけでは仕事にならない。
どの順番で回るのか、何を説明するのか、見学者から質問されたらどう答えるのか。そうした細かなことまで考えておかなければならず、二人は放課後になると、校舎のあちこちを歩き回るようになっていた。
「図書室は、やっぱり最後の方がいいかな。」
真帆が端末の画面を見ながら言った。
「そうだね。古い学校案内も見てもらいたいし、少し時間を取った方がよさそう。」
「じゃあ、最初に教室を見てもらって、そのあと体育館と校庭。最後に図書室かな。」
玲は頷いた。
その案内順は、なかなか合理的だった。
教室では学習用BDや端末を使った普段の学習を紹介し、体育館と校庭では学校行事や活動の様子を伝える。最後に図書室へ案内すれば、古い資料を通して学校の歴史にも触れてもらえる。
玲は端末に記された順路を眺めながら、少しだけ満足していた。
何しろ、最後が図書室なのである。
午後の光が差し込む図書室で、古い学校案内を手に取り、静かな声で黎明高等学校の歴史を語る。
その光景を想像するだけで、なかなか胸が躍った。
「……玲?」
真帆が顔を覗き込んだ。
「何かいいことあった?」
「ううん。少し、当日のことを考えていただけ。」
「そっか。玲が案内してくれるなら、見学に来た子たちも安心すると思うよ。」
真帆は自然な調子で言った。
玲は少し驚いた。
「……そうかな。」
「うん。玲って、話してると落ち着くから。最初はちょっと緊張するかもしれないけど、すぐに優しい人だって分かると思う。」
その言葉に、玲は静かに微笑んだ。
内心では、たいへん喜んでいた。
(真帆、いいこと言うなあ……!)
親友からの評価というのは、やはり嬉しい。
それも、自分が目指している神秘的な雰囲気と、実際の人柄の両方を褒めてもらえるのだから、これ以上ないほどありがたかった。
玲は少しだけ胸を張り、廊下の先へ視線を向けた。
そこには、例の第二資料室があった。
古い扉。
色褪せた札。
窓から差し込む午後の光。
そして、今、自分の隣には親しい友人がいる。
条件は整っていた。
玲は、かねてより温めていた一文を試してみることにした。
「……見えているものだけが、この学校のすべてとは限らないからね。」
真帆は玲の視線を追い、廊下の奥を眺めた。
「……うん、そうだね。」
玲は少し意外に思った。
思ったより、反応が早い。
真帆は閉ざされた教室の扉を見つめながら、続けた。
「私たち、学校のことって何でも知ってるつもりになってるけど、昔のことはあんまり知らないもんね。昨日の学校案内も、知らないことばっかりだったし。」
玲は静かに頷いた。
「……うん。」
なるほど。
そういう受け取り方もあるのか。
玲としては、単に閉ざされた扉の前で意味深な台詞を口にしてみたかっただけなのだが、真帆の解釈は思いのほか自然で、しかも学校説明会の準備という現在の状況にも合っていた。
これは、なかなか良い言葉だったのではないだろうか。
「ねえ、玲。」
「何?」
「あの部屋って、今は何が入ってるんだろう。」
真帆が第二資料室を指さした。
玲は扉を見つめた。
知らない。
実に、何も知らない。
「……さあ。私も、入ったことはないから。」
「だよね。生徒会長なら知ってるかな。」
「聞いてみてもいいかもしれないね。」
二人はそんな話をしながら、階段の方へ歩き出した。
玲は最後に一度だけ、閉ざされた扉を振り返った。
午後の光が、古い札の上に細い影を落としていた。
その光景は、やはり少しばかり神秘的だった。
(うん。今の台詞、八十八点くらいかな。)
玲は心の中で採点した。
相手の反応もよかったし、場所との相性も申し分ない。
ただし、もう少し静かな声で言えば、さらに雰囲気が出たかもしれない。
そんなことを考えながら、玲は真帆とともに階段を下りていった。
♢
翌日の昼休み、生徒会室では小さな騒ぎが起きていた。
原因は、学校説明会の資料整理だった。
古い学校案内に掲載されていた施設の一覧と、現在の施設台帳を照らし合わせていた生徒会役員が、いくつかの記録に食い違いがあることに気づいたのである。
「……これ、どういうことかしら。」
生徒会長は端末の画面を見つめ、眉を寄せた。
現在の施設台帳では、三階の第二資料室は「使用停止」と記されている。
ところが、十数年前の記録では、その部屋は「資料保管室」として扱われており、そこには学校の沿革資料や行事記録、過去の教材などが保管されていたことになっていた。
さらに新しい記録を確認すると、資料保管室は一度、別の部屋へ移転したことになっている。
しかし、その移転先が記されていない。
書類の一部が失われているのか、単に記録の更新が行われなかったのか、今となっては分からなかった。
「もしかして、まだ何か残っているんでしょうか。」
役員の一人が尋ねた。
「分からないわ。でも、確認しておいた方がよさそうね。」
会長はそう答えた。
説明会で使う資料を探している最中でもあるし、古い部屋に何が保管されているのかを確認すること自体は、決して無駄ではない。
それに、施設台帳の内容が正確でないのであれば、今後の管理にも支障が出る。
会長は鍵の保管場所を確認し、放課後に第二資料室を調べることにした。
そのとき、役員の一人がふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日、月白先輩たちがあの部屋の前にいましたよね。」
「玲さんたちが?」
「はい。校内案内の順路を確認していたみたいです。」
会長は頷いた。
玲と真帆が説明会の準備を進めていることは知っている。三階の廊下を歩いていても、何ら不思議ではない。
「そう。じゃあ、あとで二人にも声を掛けてみましょうか。」
会長はそう言って、端末を閉じた。
この時点では、誰も特別なことなど考えていなかった。
ただ、古い部屋の記録に不明な点が見つかり、確認することになった。
それだけの話だった。
♢
放課後、第二資料室の前には五人の生徒が集まっていた。
生徒会長と役員二人、それから玲と真帆である。
廊下には午後の光が差し込み、古い床板の上に長い影を落としていた。普段は人の少ない三階の奥に、これほど多くの生徒が集まるのは珍しい。
「それじゃあ、開けるわね。」
会長が鍵を差し込んだ。
錠前は少し固くなっていたが、何度か回すと小さな音を立てて動いた。
扉を開けると、長く閉ざされていた部屋特有の、乾いた紙と埃の匂いが漂ってきた。
室内には、古い棚がいくつも並んでいた。
窓には薄いカーテンが掛けられ、差し込む光が細かな埃を照らしている。壁際には使われなくなった映像機器が積まれ、棚の上には古い箱や書類の束が置かれていた。
玲は思わず目を見開いた。
(うわあ……。)
何ということだろう。
これは、想像以上に雰囲気がある。
長く閉ざされた資料室。
埃を被った棚。
窓から差し込む斜めの光。
そして、その中に立つ銀髪の美少女。
玲は、今すぐ誰かに写真を撮ってもらいたい気持ちになった。
しかし、もちろん口には出さなかった。
「結構、残ってるね。」
真帆が驚いたように言った。
「そうね。もっと空っぽだと思っていたわ。」
会長は棚の一つへ近づき、置かれていた箱を確認した。
箱には古い管理番号が記されている。
役員の一人が端末を取り出し、施設台帳と照らし合わせた。
「……あれ。この番号、今の台帳には載ってないです。」
「そうなの?」
「はい。昔の記録にはあるんですけど、移転したことになっていて……。」
会長は少し考えた。
どうやら、資料の移動記録が途中で途切れているらしい。
部屋の中に残された箱の多くは、現在の台帳では所在不明になっているものだった。
「まずは、何があるのか確認しましょう。勝手に持ち出さないようにして、番号を記録していけばいいわ。」
会長の指示に従い、生徒たちは手分けして箱を調べ始めた。
玲も棚の一角を任された。
そこには古い教材や行事の記録が積まれており、箱の中には、色褪せた写真や冊子が丁寧に収められていた。
玲は一冊のアルバムを取り上げた。
表紙には、黎明高等学校の校章が刻まれている。
ページを開くと、今よりもずっと多くの生徒が写った写真が現れた。
校庭で行われた行事。
体育館に並ぶ生徒たち。
教室で学習する少女たち。
そのどれもが、現在の学校とは異なる賑わいを伝えていた。
玲はしばらく、写真を見つめていた。
昨日、図書室で見つけた古い学校案内にも似た写真があった。
けれど、こちらにはもっと多くの記録が残されている。
写真の隅には、当時の生徒たちが手書きで残した短い言葉も添えられていた。
楽しかった行事のこと。
友人との思い出。
卒業を迎える日の気持ち。
玲はページをめくりながら、少し胸が温かくなるのを感じた。
この学校にも、こんなに多くの時間が積み重なっていたのだ。
「……玲さん?」
会長の声がした。
玲が顔を上げると、会長が近づいてきていた。
「何か見つかった?」
「はい。昔の行事の写真が、たくさん。」
玲はアルバムを差し出した。
会長はそれを受け取り、ページをめくった。
「……まあ。こんなものまで残っていたのね。」
その声には、素直な驚きがあった。
会長も、現在の学校しか知らない。
かつての黎明高等学校がどのような場所だったのか、詳しく知る機会はほとんどなかったのである。
「これ、説明会で使えそうですね。」
玲が言うと、会長は頷いた。
「ええ。学校の歴史を紹介するには、ちょうどいいわ。」
玲は微笑んだ。
役に立つものが見つかった。
それだけで、十分に嬉しかった。
しかし、その直後だった。
部屋の奥で、役員の一人が声を上げた。
「会長、ちょっと来てもらえますか。」
会長はアルバムを玲へ返し、声のした方へ向かった。
そこには、ほかの箱とは少し違う、細長い金属製の保管箱が置かれていた。
表面には古い学校の管理番号が刻まれ、蓋の隅には、赤い文字で「重要」と記されている。
「これ、何でしょう。」
役員が尋ねた。
会長は箱を確かめた。
鍵は掛かっていなかったが、封印用の紙が貼られており、長いあいだ開けられた形跡はなかった。
「……勝手に開けるのは、やめておきましょう。」
会長は慎重に答えた。
重要と記されている以上、何らかの管理資料が入っている可能性がある。内容を確認する必要はあるが、まずは記録を調べ、適切な手順を踏むべきだった。
役員たちも頷いた。
玲は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
金属製の箱。
重要という文字。
古い資料室。
これは、何というか。
(……すごく、それっぽい。)
何がそれっぽいのかと聞かれれば、うまく説明できない。
ただ、物語の中で何かが始まりそうな雰囲気があった。
玲は少しだけ胸を躍らせた。
もちろん、箱の中身が何なのかは知らない。
古い書類かもしれないし、単なる備品の記録かもしれない。
けれど、こういうものを前にすると、つい想像が膨らんでしまう。
玲は静かに微笑んだ。
「……長いあいだ、誰にも見つけられなかったものなんだね。」
それは、目の前の状況をそのまま言葉にしただけだった。
会長は箱へ視線を落とし、頷いた。
「そうね。少なくとも、私たちが入学してからは、誰も確認していなかったと思うわ。」
玲は少し考えた。
何か、もう一言添えたい。
ここは、絶好の場面である。
長く閉ざされた部屋。
古い箱。
そして、そこに集まった生徒たち。
玲は、昨日から考えていた言葉を思い出した。
「……見えているものだけが、この学校のすべてとは限らないからね。」
静かな声が、資料室に響いた。
会長は、ふと顔を上げた。
玲は窓の近くに立っていた。
午後の光を受けた銀白の髪が淡く輝き、深い紫の瞳には、薄い金色が浮かんでいる。古い資料に囲まれたその姿は、まるで最初からこの場所に何があるのか知っていたかのように、落ち着いて見えた。
会長は少しだけ首を傾げた。
「……玲さん。」
「はい。」
「昨日も、真帆さんとこの部屋の前にいたんですって?」
玲は頷いた。
「はい。校内案内の順路を確認していたときに。」
「そのとき、何か気になることがあったの?」
玲は一瞬、考えた。
気になること。
あったと言えば、あった。
閉ざされた扉が、たいへん雰囲気のあるものだった。
しかし、それをそのまま口にするのは、少々気恥ずかしい。
玲は言葉を選んだ。
「……昔から、少し気になっていた場所ではあります。」
嘘ではなかった。
通るたびに、絵になる場所だと思っていたのである。
会長は静かに頷いた。
「そうだったのね。」
それ以上、追及することはなかった。
ただ、会長の胸には、小さな疑問が残った。
玲は、以前からこの部屋を気にしていた。
そして昨日、真帆とともに部屋の前に立ち、学校にはまだ見えていないものがあるという趣旨の言葉を口にしたらしい。
その翌日、偶然にも、古い資料の所在が判明した。
もちろん、単なる偶然だろう。
玲が古い部屋を気に掛けていたことも、特に不思議ではない。彼女はもともと学校の歴史や風景に関心を示すことがあり、昨日も図書室で古い学校案内を見つけていたのだから。
それでも。
会長は、玲の横顔を見つめた。
窓から差し込む光が、その瞳に淡い色彩を浮かび上がらせている。
何を考えているのか、少し分かりにくい少女だった。
けれど、だからといって、何か特別な秘密を抱えていると考える理由はない。
会長はそう思い直し、資料の確認へ意識を戻した。
ただ一つ、確かなことがあった。
玲の言葉は、ときどき不思議なほど、その場の出来事によく似合う。
それだけは、否定できなかった。
♢
その日の夕方、生徒会室では、第二資料室で見つかった資料の整理が続いていた。
古い写真や行事記録の多くは、学校説明会で利用できそうだった。特に、過去の生徒たちが残した手書きの記録は、現在の黎明高等学校の姿を紹介するうえでも、貴重な資料になるだろう。
一方、金属製の保管箱については、古い管理番号を調べた結果、学校の施設に関する書類が収められている可能性があることが分かった。
ただし、内容はまだ確認できていない。
会長は端末へ記録を入力しながら、少し考えていた。
資料室の存在自体は、以前から知っていた。
しかし、あそこに何が残されているのかを確かめようとは、今まで誰も思わなかった。
学校説明会の準備がなければ、今回も扉を開けることはなかったかもしれない。
そう考えると、何とも不思議な巡り合わせだった。
「会長。」
役員の一人が声を掛けた。
「どうしたの?」
「月白先輩って、あの部屋のこと、前から知ってたんでしょうか。」
会長は顔を上げた。
「どうしてそう思うの?」
「昨日もあの部屋の前にいたって聞きましたし、今日も何だか落ち着いていたので。」
会長は少し考えた。
玲が落ち着いているのは、いつものことだった。
あの少女は、驚いたり慌てたりする姿をあまり見せない。初めて見るものを前にしても、静かに眺め、何かを考えているように見える。
それが彼女の性格なのだろう。
「……どうかしらね。」
会長は答えた。
「でも、玲さんがあの部屋に何かあると知っていたなら、もっと早く教えてくれたんじゃないかしら。」
「それもそうですね。」
役員は納得したように頷いた。
会長も、そこで話を終えるつもりだった。
しかし、端末へ視線を戻したとき、ふと一つのことを思い出した。
――見えているものだけが、この学校のすべてとは限らないからね。
玲は、そう言っていた。
偶然にしては、少し出来すぎているようにも思える。
もちろん、意味深な言葉が偶然その場の出来事と重なることなど、珍しくはないだろう。
けれど、もし。
もし、玲が何かを知っていたのだとしたら。
会長はそこまで考え、静かに首を振った。
考えすぎだ。
玲は優しく、少し独特な感性を持つ生徒である。
それ以上でも、それ以下でもない。
これまで自分が見てきたままの彼女なのだ。
♢
その夜、玲は自室の机に向かっていた。
濃紺のノートが開かれている。
今日の出来事は、なかなか印象的だった。
長く閉ざされていた資料室。
古い写真。
重要と記された金属製の箱。
そして、あの場面で披露した一言。
玲は満足げに頷いた。
これは、かなり良かった。
何より、雰囲気が完璧だった。
玲はペンを取り、ノートへ丁寧に書き込んだ。
『見えているものだけが、この学校のすべてとは限らない。』
その下に、使用状況を記録する。
『第二資料室にて使用。場所との相性が非常によい。』
さらに、少し考えてから評価を加えた。
『九十二点。』
玲はしばらく、その数字を眺めていた。
九十二点。
なかなかの高得点である。
しかし、満点ではない。
もう少し、間を取ってもよかったかもしれない。
あるいは、箱へ視線を向けながら言えば、より印象的だっただろうか。
玲は腕を組み、真剣に考え込んだ。
そのとき、端末に一件の通知が届いた。
学校の連絡網からだった。
『本日、第二資料室にて過去の学校資料が多数確認されました。学校説明会で利用できるものについて、今後整理を進めます。』
玲は画面を眺め、微笑んだ。
よかった。
学校の役に立つものが見つかったのだ。
これで、説明会の準備も少し進むだろう。
ただ、金属製の箱の中身については、まだ分からないらしい。
玲は少しだけ残念に思った。
(あの箱、何が入ってるんだろうなあ。)
古い書類だろうか。
それとも、学校の歴史に関わる何かだろうか。
玲は想像を膨らませた。
もしかすると、昔の生徒たちが残した手紙が入っているのかもしれない。
あるいは、学校の創立に関する記録かもしれない。
いずれにしても、少し楽しみだった。
玲はノートを閉じ、机の引き出しへしまった。
そして、ふと窓の外へ目を向けた。
夜の街には、いくつもの灯りがともっている。
遠くの道路を走る車の音が、静かな住宅街へ微かに届いていた。
玲は、その光景を眺めながら、今日の資料室を思い出した。
あの部屋には、かつての黎明高等学校の姿が残されていた。
自分たちが知らなかった時間。
自分たちがまだ生まれる前の、誰かの日常。
それらが、古い写真や記録となって、今も校舎の中に眠っていたのである。
玲は少しだけ目を細めた。
「……知らないことって、まだまだあるんだね。」
それは、心からの感想だった。
そして、皮肉なことに。
その言葉こそ、今の玲自身を最もよく表していた。
月白玲は、何も知らない。
自分が何気なく口にした言葉が、ほんの少しだけ、周囲の生徒たちの記憶に残り始めていることも。
その言葉が、やがて別の意味を持って語られるようになるかもしれないことも。
そして、今日見つかった古い箱が、黎明高等学校の未来に関わる一つの手掛かりになるかもしれないことも。
今の彼女は、まだ何も知らなかった。
だが一つ、確かなことがある。
明日の数学の課題は、まだ終わっていない。
玲は端末の画面を見つめ、静かに息を吐いた。
「……知識とは、ときに残酷なものだね。」
もちろん、数学の課題が終わらないことと、知識の残酷さには、特に関係がなかった。