学校説明会の朝、月白玲は鏡の前で三度目の微笑みを浮かべた。
一度目は、少し優しすぎた。二度目は、どうにも冷たく見えた。そして三度目にして、ようやく納得のいく表情ができたのである。
唇の端をわずかに持ち上げ、相手の目を静かに見つめる。何かを知っているようで、何も語ろうとはしない、そんな微笑み。
完璧だった。
少なくとも、本人はそう思った。
(ふふふ……今日という日のために、私は生まれてきたのかもしれない。)
もちろん、そんなわけはない。
学校説明会は、黎明高等学校の存続に関わる大切な行事である。玲自身、それを十分に理解していたし、準備にも真面目に取り組んできた。
ただ、それはそれとして、初対面の人間に謎めいた印象を与える絶好の機会でもあった。
何しろ、相手は玲の普段の姿を知らない。
授業中に真帆へ助けを求めているところも、購買で最後の菓子パンを買い逃して落ち込んでいるところも、誰も見たことがないのである。
つまり、今日の玲は、純粋に第一印象だけで勝負できる。
これほど恵まれた条件が、ほかにあるだろうか。
玲は鏡の中の自分を眺め、満足げに頷いた。
腰近くまで流れる銀白の髪は、朝の光を受けて淡く輝き、深い紫の瞳には、角度によって青や薄桃色、金色の光が浮かぶ。頭上のヘイローも、今日ばかりは普段より神秘的に見える気がした。
実際には、昨日と何も変わっていない。
それでも、気分というものは大切だった。
玲は鞄を手に取り、いつもの白銀と濃紺を基調とした銃を肩に掛けると、玄関へ向かった。
扉を開ける直前、ふと思いついて振り返る。
誰もいない部屋へ向かって、静かに告げた。
「……さて。今日は、どんな縁が結ばれるのかな。」
数秒の沈黙。
(……いい。)
玲は満足した。
これなら、説明会でも十分に戦える。
もっとも、何と戦うつもりなのかについては、本人にもよく分かっていなかった。
♢
黎明高等学校の校門には、普段見慣れない案内板が立てられていた。
白い板に青い文字で記された「学校説明会」の文字は、決して豪華なものではなかったが、丁寧に整えられている。校門から玄関までの道も綺麗に掃かれ、花壇には小さな季節の花が並んでいた。
玲が到着したときには、すでに数人の生徒が受付の準備を始めていた。
「おはよう、玲。」
真帆が、受付用の机から顔を上げた。
その手には、参加者名簿と案内資料がある。
「おはよう、真帆。早いね。」
「玲もね。……何だか、今日はいつもより機嫌がよさそう。」
「そうかな。」
「うん。ちょっと楽しそう。」
玲は静かに微笑んだ。
「……新しい出会いというのは、いつだって心を躍らせるものだからね。」
真帆は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「そっか。私も楽しみだよ。」
実に自然な返答だった。
玲としては、もう少し意味深な反応を期待していたのだが、真帆はすっかり慣れている。
こういうところが、長い付き合いの難しさである。
もっとも、玲は真帆のそうしたところも気に入っていた。
「ところで、受付の名簿なんだけど。」
真帆は端末を差し出した。
「一人、申し込みのあとで連絡が来ていてね。見学中に少し休憩できる場所があるか、確認したいんだって。」
「休憩?」
「うん。理由までは書いてなかったけど、人が多い場所が苦手なのかもしれないし、念のため図書室の隣の小部屋を使えるようにしてあるよ。」
玲は頷いた。
見学者は九人。
学校の規模を考えれば十分に多い人数だが、それでも、大きな学園の説明会と比べれば静かなものだろう。
ただ、人によって落ち着ける環境は違う。
休憩場所を用意しておくのは、よい考えだと思った。
「……真帆は、そういうところまで気が回るんだね。」
「会長と相談して決めたんだよ。せっかく来てもらうんだし、無理なく見てほしいから。」
玲は微笑んだ。
やはり真帆は頼りになる。
もし自分が一人で準備を任されていたら、案内の台詞ばかり考えて、こうした細かな配慮を忘れていたかもしれない。
その可能性は、不本意ながらかなり高かった。
♢
最初の見学者が到着したのは、開始予定時刻の十五分ほど前だった。
栗色の髪を二つに結んだ少女と、背の高い黒髪の少女。二人は友人同士らしく、校門の前で何かを相談してから、少し遠慮がちに受付へ近づいてきた。
真帆が明るく挨拶し、名前を確認する。
玲はその隣に立ち、穏やかな微笑みを浮かべていた。
すると、栗色の髪の少女が玲を見た。
正確には、見上げたまま、しばらく動かなかった。
玲の銀白の髪は、陽射しを受けて柔らかく輝いていた。白い肌に映える深紫の瞳は、光の加減で微妙に色を変え、静かにこちらを見つめている。
少女は、思わず息を呑んだ。
「あの……。」
「はい。」
「……先輩、ですよね?」
「うん。二年生の月白玲です。」
玲は微笑んだ。
「……今日は、来てくれてありがとう。」
少女は慌てて頭を下げた。
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」
隣の黒髪の少女が、友人の袖を小さく引いた。
二人は受付を済ませ、案内された待機場所へ向かっていく。
その背中を見送りながら、玲は静かに息を吐いた。
(……ふむ。)
悪くない。
少なくとも、第一印象は上々らしい。
しかし、玲が満足しているあいだにも、二人の少女は小声で話していた。
「……ねえ、今の先輩、すごく綺麗だったね。」
「うん。ちょっとびっくりした。」
「何か、普通の先輩って感じじゃなかった。」
「そう?」
「……うまく言えないけど、なんだか私の内側まで見透かしてるような目だったかも。」
黒髪の少女は、少し首を傾げた。
「単に、目が綺麗なだけじゃない?」
「それはそうなんだけど……。」
栗色の髪の少女は、もう一度だけ受付の方を振り返った。
玲はちょうど、次の見学者を迎えるために姿勢を正しているところだった。
その横顔は、先ほどと同じように穏やかだった。
その少女は、何となく胸の奥が落ち着かないのを感じた。
♢
説明会は、生徒会長の挨拶から始まった。
会長は学校の概要を説明し、少人数であること、自習を中心とした学習形態であること、そして生徒会が学校運営の多くを担っていることを、できるだけ分かりやすく伝えていった。
見学者たちは、時折頷きながら話を聞いている。
しかし、設備の古さや生徒数の少なさに触れたときには、何人かの表情に不安が浮かんだ。
玲は会場の後方で、その様子を眺めていた。
学校の現状を隠すことはできない。
それでも、ここに来た人たちが、少しでも学校の良さを感じてくれたら嬉しい。
そう思いながら、玲は説明会の進行を見守った。
やがて、校内見学の時間になった。
玲と真帆は、四人の見学者を担当する。
最初に案内したのは、普段使っている学習室だった。
そこでは数人の生徒が端末を使って学習を進めており、見学者たちは、思っていたより静かな教室に少し驚いたようだった。
「……大人は、いないんですか?」
一人の少女が尋ねた。
真帆は頷いた。
「普段は、自分たちで計画を立てて学習しています。分からないところは教材を見直したり、ほかの生徒に相談したりすることが多いですね。」
「大変そう……。」
少女は小さく呟いた。
玲は、少しだけ微笑んだ。
「……誰かに答えを与えてもらうのと、自分で答えを見つけるのとでは、見える景色も違うからね。」
見学者たちは、玲へ視線を向けた。
玲は、ゆっくりと続けた。
「もちろん、最初から一人でできる必要はないよ。分からないことがあれば、誰かに聞けばいい。大切なのは、自分で考えることをやめないことだと思う。」
少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そういう考え方もあるんですね。」
玲は微笑んだ。
その内心では、満足げに拳を握っていた。
(……よし。自然に決まった。)
今の言葉は、なかなかよかった。
しかも、きちんと学校の説明にもなっている。
これぞ理想的な謎めいた先輩の振る舞いである。
しかし、見学者の一人、栗色の髪の少女は、少し違うことを考えていた。
自分で答えを見つける。
その言葉が、妙に胸に残ったのである。
少女は、進路について悩んでいた。
周囲から勧められた学園に進むべきか、それとも自分が落ち着いて過ごせそうな場所を探すべきか。
まだ答えは出ていない。
けれど、玲の言葉は、まるでその迷いを見透かしたように聞こえた。
少女は、そっと玲の横顔を見つめた。
玲は何も知らない。
ただ、今日の自分の台詞が思った以上に上手く決まったことに、内心で浮かれているだけだった。
♢
図書室に入ると、見学者たちは壁に並んだ写真の前で足を止めた。
昔の校舎と、今の校舎。
かつての交流会と、現在の学校生活。
その違いは、一目で分かるものだった。
真帆が展示について説明し、玲は見学者たちの質問に答えた。
栗色の髪の少女は、昔の集合写真をしばらく眺めていた。
「……昔は、こんなに人がいたんですね。」
「うん。今よりずっと多かったみたい。」
玲が答えると、少女は少し俯いた。
「……どうして、こんなに減っちゃったんですか?」
玲は、学校の現状について知っている範囲で説明した。
周辺の学園が大きくなったこと。
設備の更新が十分に進まなかったこと。
そして、少人数の学校に対する不安が、入学希望者の減少につながっていること。
少女は黙って聞いていた。
そして玲は、古い写真へ目を向けた。
そこには、今では知らない生徒たちが笑っていた。
同じ校舎で、同じように日々を過ごしていた人たち。
その姿を見ていると、少し不思議な気持ちになる。
「……人が少なくなったからといって、ここで過ごした時間まで消えるわけじゃないからね。」
玲は静かに言った。
少女が顔を上げる。
「……それに、今ここにいる私たちの時間も、ちゃんと続いている。」
玲は、現在の集合写真へ視線を移した。
真帆や栞、ほかの生徒たちが笑っている。
玲自身も、その中にいた。
「……過去があるから、今がある。そして、今があるから、これから先も生まれていくんだと思う。」
少女は、しばらく黙っていた。
玲は微笑んだ。
その言葉は、少しだけ格好をつけたものだった。
けれど、嘘ではなかった。
この学校で過ごした時間が、自分にとって大切なものであることは、本当だった。
少女は、写真を見つめたまま、小さく呟いた。
「……先輩は、何か知ってるんですか?」
玲は瞬きをした。
「……何を?」
少女は慌てたように首を振った。
「あっ、いえ……何でもないです。」
玲は少し首を傾げた。
しかし、少女がそれ以上話そうとしなかったため、無理に尋ねることはしなかった。
その横で、黒髪の少女が友人の袖を引いた。
「……どうしたの?」
「……何でもない。」
栗色の髪の少女は、そう答えた。
けれど、その表情には、まだ何かを考えているような色が残っていた。
♢
体験学習の時間になると、見学者たちは二人ずつ机に分かれ、普段の授業で使っている端末を操作することになった。
教材は、短い文章を読んで考える形式のものだった。
内容そのものは難しくない。
しかし、正解を一つに決めるのではなく、自分の考えをまとめる必要があるため、見学者たちは少し戸惑っているようだった。
玲は、栗色の髪の少女の隣に座り、自分の用意した教材を開いて操作方法を説明していた。
「……分からないところがあったら、聞いてね。」
「はい。」
少女は頷き、画面へ目を向けた。
課題には、ある人物が二つの選択肢の間で迷っている場面が描かれていた。
一つは、周囲の人たちが勧める道。
もう一つは、自分が興味を持っている道。
どちらを選ぶべきか、その理由とともに考えるという内容だった。
少女は、画面を見つめたまま動かなくなった。
玲は、その様子に気づいた。
「……難しい?」
少女は小さく頷いた。
「……ちょっと。」
玲は、画面の文章を読み直した。
確かに、簡単に答えが出る問題ではない。
どちらの選択肢にも、それぞれの理由がある。
玲は少し考えた。
ここで正解を教えることはできない。
そもそも、正解が一つに決まる問題ではないのだから。
玲は、ゆっくりと口を開いた。
「……誰かが選んだ道を歩くのは、悪いことじゃないよ。」
少女が顔を上げた。
「でも、その道を歩くのが自分なら、最後に決めるのも自分であってほしいな。」
玲は微笑んだ。
「……たとえ迷ったとしても、自分で選んだ道なら、きっと、その先で見えるものも変わるから。」
少女は、玲を見つめた。
その瞳が、わずかに揺れた。
「……どうして。」
小さな声だった。
玲は首を傾げた。
「ん?」
「……どうして、そんなことを言うんですか?」
玲は少し驚いた。
そんなこと、と言われても、自分の用意した目の前の課題について話しただけである。
「……この問題を見て、そう思ったからかな。」
玲は正直に答えた。
少女は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと画面へ視線を戻した。
玲は、それ以上何も言わなかった。
少女が考えているあいだ、隣で静かに待っていた。
やがて、少女は端末へ文字を入力し始めた。
その手つきは、最初より少しだけ確かだった。
玲は、ほっとした。
どうやら、課題に取り組めるようになったらしい。
しかし、少女の胸の内では、別の思いが生まれていた。
周囲から勧められた学園に進むべきか。
それとも、自分が本当に通いたいと思う場所を選ぶべきか。
その悩みを、少女は誰にも詳しく話していなかった。
なのに、目の前の先輩は、まるで自分の迷いを知っているかのように話してくる。
もちろん、偶然なのかもしれない。
課題の内容が、たまたま自分の悩みに似ていただけなのかもしれない。
それでも。
少女は、もう一度だけ玲の横顔を見つめた。
銀白の髪が、窓からの光を受けて淡く輝いている。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
♢
体験学習が終わる頃、栗色の髪の少女は少し疲れた様子を見せていた。
玲は、そのことに気づいていた。
最初は緊張しているだけかと思ったが、時間が経つにつれて、少女の視線が落ち着かなくなり、時折、周囲の声に小さく肩を揺らすようになっていた。
玲は、朝、真帆が話していたことを思い出した。
休憩できる場所を希望していた見学者が一人いる。
名前までは覚えていなかったが、もしかすると、この少女なのかもしれない。
玲は少し考え、静かに声を掛けた。
「……少し、休んでいく?」
少女は顔を上げた。
「……え?」
「図書室の隣に、静かな部屋があるんだ。もし疲れていたら、そこで少し休めるよ。」
少女は、驚いたように玲を見つめた。
「……どうして、分かったんですか?」
玲は少し首を傾げた。
「……少し、疲れているように見えたから。」
それは本当だった。
少女の顔色が悪いわけではない。
ただ、先ほどから少し落ち着かない様子だったので、気になっただけである。
しかし、少女には、その答えが別の意味を持って聞こえた。
自分が休憩場所について問い合わせたことを、この先輩は知っていたのだろうか。
それとも、何も聞いていないのに気づいたのだろうか。
少女は、しばらく玲を見つめた。
玲は穏やかに微笑んでいた。
「……無理はしなくていいよ。」
その言葉に、少女は小さく頷いた。
「……少しだけ、お願いします。」
玲は真帆へ声を掛け、少女を休憩室へ案内した。
廊下を歩くあいだ、少女はほとんど何も話さなかった。
玲も、無理に話しかけることはしなかった。
静かな部屋へ案内し、飲み物を用意すると、少女は少しほっとしたように椅子へ腰を下ろした。
「……ありがとうございます。」
「ううん。ゆっくりしてね。」
玲は微笑み、部屋を出ようとした。
そのとき、少女が小さく声を掛けた。
「……月白先輩。」
「はい?」
「……先輩って、何でも分かるんですか?」
玲は、思わず瞬きをした。
何でも分かる。
何という魅力的な響きだろう。
まさに、玲が目指している存在そのものではないか。
しかし、実際の玲は、何でも分かるわけではない。
むしろ、分からないことの方が多い。
だからこそ、ここで「そうだよ」と答えるわけにはいかなかった。
玲は少し考え、静かに微笑んだ。
「……いいえ。」
少女は、少し驚いたようだった。
「私にも、分からないことはたくさんあるよ。」
玲は窓の外へ目を向けた。
午後の光が、校庭の木々を淡く照らしている。
「……ただ、見ようとしなければ、見えないものもあるから。」
少女は黙って聞いていた。
「だから、できるだけ、ちゃんと見ていたいなって思うんだ。」
玲は微笑んだ。
その言葉は、半分ほど格好をつけたものだった。
けれど、嘘ではなかった。
玲は、目の前の人が困っているなら、できるだけ気づきたいと思っている。
それだけだった。
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……そう、なんですね。」
玲は小さく頭を下げ、部屋を出た。
廊下へ出た途端、内心で小さく歓声を上げる。
(……今の、かなりよかったのでは!?)
何でも分かるのか、と尋ねられた。
しかも、それに対して、あえて否定する。
そのうえで、少し意味深な言葉を残して立ち去る。
完璧である。
これこそ、玲が理想とする謎めいた美少女の振る舞いだった。
玲は満足げに歩き始めた。
しかし、休憩室に残された少女は、別のことを考えていた。
何でも分かるわけではない。
けれど、見ようとしなければ見えないものがある。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
少女は、膝の上で手を握った。
自分の悩みを、誰かに見抜かれたような気がした。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、少しだけ安心していた。
♢
説明会の最後には、質問を受け付ける時間が設けられていた。
学習の進め方や学校行事、部活動について、いくつかの質問が出た。
会長と真帆が中心になって答え、玲も必要に応じて補足した。
やがて、最後の質問を受け付けようとしたとき、一人の少女が手を挙げた。
栗色の髪の少女だった。
先ほど休憩室で少し休んだためか、顔色は落ち着いている。
しかし、その表情には、まだ緊張が残っていた。
「……あの。」
少女は、少し迷ってから口を開いた。
「この学校って……来年も、ありますか?」
会場が静かになった。
会長は、慎重に言葉を選んだ。
学校の存続については、まだ正式に決まっていない。
生徒数が減っていることも、今後の運営について検討が続いていることも、事実だった。
会長は、それらを隠さずに説明した。
少女は、静かに聞いていた。
そして、少し俯いた。
玲は、その姿を見つめた。
学校がなくなるかもしれない。
それは、玲自身にとっても不安なことだった。
だから、簡単に大丈夫だとは言えない。
けれど、少女が今日ここへ来て、何かを感じてくれたのなら、その気持ちを大切にしてほしかった。
玲は、ゆっくりと口を開いた。
「……一つ、いいかな。」
会長が玲へ視線を向けた。
玲は小さく頷き、少女へ向き直った。
「……未来のことは、誰にも分からないよ。」
少女は顔を上げた。
「私たちにも、この学校がどうなるのか、まだ分からない。」
玲は静かに続けた。
「でも、だからといって、何もできないわけじゃない。」
会場には、静かな空気が流れていた。
玲は、少しだけ目を細めた。
「……まだ書かれていない頁を、最初から白紙のまま終わらせる必要はないでしょう。」
少女は、息を呑んだ。
玲は穏やかに微笑んだ。
「今日、ここに来てくれたことも、その頁に残る一つの出来事だと思う。」
その言葉を聞いて、少女はゆっくりと視線を落とした。
まだ書かれていない頁。
それは、自分の進路にも当てはまる気がした。
周囲から勧められた学園へ進むこともできる。
けれど、自分がここに通いたいと思うなら、その気持ちを大切にしてもよいのかもしれない。
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。」
玲は微笑んだ。
その内心では、静かな歓喜が生まれていた。
(……決まった。)
今の台詞は、かなりよかった。
しかも、無理に未来を約束していない。
謎めいた雰囲気と誠実さを両立できた、理想的な一言だった。
玲は、満足していた。
しかし、会長は少し違うことを考えていた。
玲は、学校の存続について何も断言しなかった。
けれど、見学者の不安を受け止め、前を向けるように言葉を選んでいた。
その姿は、単に美しいだけの少女ではなかった。
会長は、玲の横顔を見つめた。
この子は、いったいどこまで考えているのだろう。
そう思った。
もちろん、玲が未来を知っているなどとは考えていない。
ただ、時折、年齢に似合わないほど落ち着いた言葉を口にすることがある。
そして、その言葉が、なぜか相手の心に届いてしまう。
会長は、少しだけ不思議な気持ちになった。
♢
説明会が終わる頃には、午後の陽射しが傾き始めていた。
見学者たちは受付で資料を受け取り、それぞれ校門へ向かっていく。
玲と真帆は、最後まで見送りを担当した。
栗色の髪の少女は、帰り際に玲の前で足を止めた。
「……月白先輩。」
「はい。」
「今日は、ありがとうございました。」
玲は微笑んだ。
「……こちらこそ。来てくれてありがとう。」
少女は少し迷ってから、言葉を続けた。
「……私、まだ進路を決められないんです。」
玲は黙って聞いていた。
「周りの人は、別の学園の方がいいって言うんです。でも、私は……。」
少女は言葉を詰まらせた。
玲は、急かさずに待った。
やがて、少女は顔を上げた。
「……今日、ここに来てよかったです。」
玲は微笑んだ。
「……それなら、よかった。」
少女は小さく頭を下げ、友人のもとへ戻っていった。
玲は、その背中を見送った。
進路を決めるのは、簡単なことではない。
自分が何をしたいのか、どこで過ごしたいのか。
それを考えるには、時間が必要なこともある。
玲は、少女が自分に合った道を見つけられたらいいと思った。
それが黎明高等学校であれば、もちろん嬉しい。
けれど、別の学園を選んだとしても、今日の時間が無駄になるわけではないだろう。
玲は、そう考えていた。
その一方で、少女は校門を出たところで、友人に小さく声を掛けていた。
「……ねえ。」
「ん?」
「月白先輩って、何者なんだろう。」
黒髪の少女は、少し驚いたように友人を見た。
「何者って……二年生の先輩でしょ?」
「そうなんだけど……。」
少女は、校舎を振り返った。
「私、進路のことで悩んでるって、誰にも詳しく話してなかったんだ。」
「うん。」
「なのに、先輩、何だか全部分かってるみたいだった。」
黒髪の少女は、少し考えた。
「……たまたまじゃない?」
「そうかもしれない。でも……。」
少女は言葉を切った。
あの銀白の髪。
光の角度で色を変える、不思議な瞳。
そして、静かな声。
思い出すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「……何か、普通じゃない感じがしたんだよね。」
黒髪の少女は、少し笑った。
「綺麗すぎるって意味なら、分かるけど。」
「それもあるけど……。」
少女は、もう一度だけ校舎を振り返った。
窓の向こうに、玲の姿は見えなかった。
それでも、あの言葉はまだ耳に残っていた。
――まだ書かれていない頁を、最初から白紙のまま終わらせる必要はないでしょう。
少女は、小さく息を吐いた。
「……また、会えるかな。」
友人は、少しだけ肩をすくめた。
「この学校に入れば、会えるんじゃない?」
少女は、困ったように笑った。
けれど、その表情は、朝よりずっと明るかった。
♢
夕方、生徒会室では、説明会の振り返りが行われていた。
会長は見学者から回収したアンケートを確認し、真帆がその内容を端末へまとめている。
玲も、隣で資料を整理していた。
好意的な感想もあれば、厳しい意見もある。
設備の古さが気になるという声。
自習中心の学習に不安を感じるという声。
少人数だからこそ落ち着いて過ごせそうだという声。
どれも、学校の現状を率直に受け止めたものだった。
会長は、アンケートを一枚ずつ確認しながら、小さく頷いていた。
「……思っていたより、前向きな感想が多いわね。」
真帆も嬉しそうに笑った。
「はい。展示も好評だったみたいです。」
「栞さんにも伝えてあげないとね。」
玲は微笑んだ。
今日の説明会で、学校の未来が決まったわけではない。
けれど、少なくとも、何も変わらなかったわけではなかった。
見学者たちは、学校のことを知ってくれた。
そして、何人かは、ここで過ごすことを考えてくれているらしい。
それだけでも、準備を重ねた意味はあったのだろう。
会長は、ふと玲へ視線を向けた。
「……玲さん。」
「はい。」
「今日、最後に話してくれたこと、ありがとう。」
玲は少し驚いた。
「……いえ。」
「私、あの質問には、上手く答えられなかったと思うの。」
会長は苦笑した。
「学校のことを考えると、どうしても、続けられるかどうかばかり気になってしまうから。」
玲は黙って聞いていた。
「でも、玲さんは、見学に来てくれた子たちのことを考えてくれたのね。」
玲は少し考えた。
確かに、あの少女が不安そうだったから、何か言いたかった。
けれど、そこまで立派なことを考えていたかと問われると、少々自信がない。
玲は、静かに微笑んだ。
「……私は、ただ、まだ何も決まっていないと思っただけです。」
会長は頷いた。
「ええ。だからこそ、よかったのかもしれないわ。」
真帆も微笑んでいた。
玲は少し照れくさくなり、視線を落とした。
その様子を見ながら、会長は、改めて玲のことを考えていた。
美しく、落ち着いていて、時折不思議な言葉を口にする少女。
けれど、その言葉は決して空虚ではない。
誰かが困っているとき、玲は自然に手を差し伸べる。
そして、相手が自分で前を向けるように、言葉を選ぶ。
会長は、そんな玲を頼もしく感じていた。
ただ、一つだけ、不思議に思うことがあった。
玲は、なぜあの少女の不安に、あれほど自然に寄り添えたのだろう。
もちろん、偶然かもしれない。
玲が人の表情をよく見ているだけなのかもしれない。
それでも、時折、何かを知っているように見えることがある。
会長は、玲の横顔を見つめた。
その銀白の髪が、夕陽を受けて淡く輝いている。
玲は、何も気づいていなかった。
ただ、今日の説明会が無事に終わったことに、静かな満足を感じていた。
♢
その夜、玲は自室の窓辺に立っていた。
夜の街には、無数の灯りがともっている。
遠くの道路を走る車の音が、静かな住宅街へ微かに届いていた。
玲は、今日の出来事を思い返していた。
見学者たちの表情。
真帆の笑顔。
栞が作った展示。
そして、最後の質問。
未来は、まだ誰にも分からない。
学校がどうなるのかも、来年も同じ校舎で過ごせるのかも、確かなことではなかった。
それでも、今日の説明会を通して、少しだけ希望が見えた気がした。
玲は、机の引き出しから濃紺のノートを取り出した。
いつものように、今日の出来事を書き留めようとしたのである。
しかし、ペンを持ったところで、ふと手が止まった。
今日、何度か見学者から不思議そうな目で見られたことを思い出したのだ。
そして何でも分かるのか、と尋ねられた。
何かを知っているのか、とも。
玲は、少しだけ口元を緩めた。
(……ふふ。)
もしかして。
もしかすると。
今日の自分は、かなり理想に近づいていたのではないだろうか。
玲はノートへ一行だけ書き込んだ。
『学校説明会。手応えあり。』
そして、少し考えてから、もう一行を加えた。
『謎めいた雰囲気の演出、成功。』
玲は満足げに頷いた。
もちろん、周囲が自分の言葉をどのように受け止めていたのかまでは、知る由もなかった。
ただ、今日の自分は、少なくとも少しは格好よく振る舞えたと思う。
それだけで、十分だった。
玲はノートを閉じ、机の引き出しへしまった。
窓の外では、夜の街が静かに輝いている。
その向こうで、自分の知らない誰かが、今日の出来事を思い返していることなど、玲は想像もしなかった。
そして、あの栗色の髪の少女が、友人へ送った短いメッセージのことも。
『今日の説明会に、すごく不思議な先輩がいたんだ。』
その一文は、まだ小さなものだった。
けれど、誰かの心に残った印象というものは、時として、本人の知らないところで少しずつ形を変えていく。
玲は、まだそのことを知らなかった。