十月に入ってからというもの、黎明高等学校の生徒会室では、午後になっても机の上が片づかない日が増えていた。
学校説明会に関する資料の整理が一段落したかと思えば、今度は次年度の運営計画が待っている。連邦生徒会への報告書、施設の維持管理に関する記録、学習設備の更新予定、そして、来春に入学するかもしれない生徒たちへの案内。どれも急に生まれた仕事ではなかったが、これまで新入生の見込みがほとんど立たなかった黎明では、来年度を具体的に想定して準備を進めること自体が、どこか久しぶりの出来事だった。
校舎の外では、秋の風が街路樹の葉を揺らしている。窓から差し込む光は夏の頃より幾分柔らかくなり、長机の表面に残った細かな傷まで、淡い金色に浮かび上がらせていた。廊下を通る生徒の足音は相変わらず少なく、校舎の奥では誰かが学習用端末を操作する音が、ときおり静寂を破るばかりである。
現在の黎明高等学校の生徒会は、会長、副会長、会計を務める三年生三人で構成されており、玲たちは、学校説明会をきっかけにその仕事を手伝うようになった一般生徒だった。
もっとも、玲はこの場所をすっかり気に入っていた。
生徒会室という響きが、まずよい。
壁には校章が掲げられ、窓の向こうには校庭が広がり、古い書棚には学校の歴史を記したファイルが並んでいる。特に午後の光が差し込む時間帯など、窓辺に立って外を眺めるだけで、いかにも何かを知っていそうな人物の雰囲気が生まれた。
銀白の髪に紫の瞳。頭上には、この世界の生徒たちが当たり前のように持つヘイロー。
素材としては、申し分ない。
あとは本人の振る舞い次第である。
もっとも、現在の玲がしていることといえば、見学者へ送る資料を封筒に入れ、宛先と中身を照らし合わせるという、実に地道な作業だった。
「玲、そっちの確認は終わった?」
向かいの席から声を掛けられ、玲は手元の封筒を揃えた。
「うん。必要な資料は全部入っているよ。念のため、一覧とも照らし合わせておいた。」
「ありがとう。じゃあ、こっちで最終確認するね。」
真帆は封筒を受け取ると、端末に表示された送付先の一覧へ目を向けた。
真帆は、こうした仕事の進め方が上手かった。必要な作業を整理し、誰が何を担当するかを決め、途中で問題が起きればその場で手順を見直す。本人にとっては当たり前のことらしいが、玲には到底まねのできない手際である。
隣の席では、一年生の雨宮栞が資料の束を種類ごとに分けていた。
学校説明会の準備に参加して以来、栞も生徒会室へ顔を出す機会が増えている。初めのうちは先輩たちに頼まれた仕事を遠慮がちに引き受けていたものの、最近では必要な資料を自分から探し、分からないことがあれば、その場で確認するようになっていた。
「あの、こちらの案内なんですけど……。」
栞が、手元の紙を一枚持ち上げた。
「施設利用の時間が、前に作った一覧と違っていて。どちらが正しいんでしょうか。」
生徒会の会計担当が隣から覗き込み、二つの資料を見比べた。
「あら、本当ね。新しい方が正しいわ。古い案内の数字が残っていたのね。」
「じゃあ、こちらを直しておきます。」
「ありがとう。助かったわ。」
栞は安心したように頷き、修正する箇所へ印をつけた。
玲はその様子を眺めながら、少し感心していた。
「栞は、こういう作業が得意なんだね。」
声を掛けると、栞は顔を上げた。
「いえ、そんな……。まだ分からないことばかりです。」
「それでも、ちゃんと違いに気づけるのはすごいことだと思うよ。私なら見落としていたかもしれない。」
玲がそう言うと、栞は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。もう少し、頑張ってみます。」
その返事を聞いて、玲も微笑んだ。
細かな違いを見つけることも、それを曖昧にせず確認することも、簡単そうに見えて案外難しい。少なくとも玲は、同じような数字が並んだ書類を長時間眺めていると、途中からどれも同じに見えてくる自信があった。
栞がそうした作業を苦にしないのなら、それは立派な長所だろう。
そう考えながら、玲は次の封筒へ手を伸ばした。
学校の未来を左右するような大きな仕事も、結局は、こうした小さな確認の積み重ねによって支えられている。
もっとも、その事実を理解したからといって、玲が細かな事務作業を好きになれるかどうかは、また別の話だった。
♢
連邦生徒会から次年度の運営計画について照会が届いたのは、翌日の午後だった。
通知を確認した生徒会長は、しばらく端末の画面を見つめていたが、やがて机の上に置かれた資料を引き寄せ、真帆に声を掛けた。
「真帆さん、少し相談してもいいかしら。」
「はい。どうしました?」
「来年度の施設利用計画について、連邦生徒会から確認が来ているの。毎年提出しているものだけれど、今年は入学希望者のこともあるから、少し詳しく整理しておきたくて。」
真帆が席を移し、会長の端末を覗き込む。玲も手元の作業を終えてから、二人の近くへ向かった。
文書には、校舎の利用状況、学習設備の更新予定、施設維持に必要な経費、次年度の在籍生徒数の見込みなどが列挙されていた。どれも学校を運営するうえで必要な項目だが、黎明にとって難しいのは、必要なものをすべて揃えるだけの余裕がないことだった。
「学習用端末は、そろそろ更新が必要なんですよね。」
真帆の問いに、会長は頷いた。
「ええ。今のところ大きな問題は出ていないけれど、古いものが増えているから。通信設備の点検も必要だし、校舎の補修についても、先延ばしにできない部分があるわ。」
会長は資料をめくり、別の項目を指で示した。
「それから、交流棟の扱いもね。」
玲は、その名前に目を留めた。
以前、第二資料室で見つけた古い記録には、交流棟が活発に利用されていた頃の写真が残されていた。学校説明会でも、それらの写真は展示資料として使われている。
かつての黎明には、他学園の生徒を迎えて交流行事を行うだけの活気があった。
今では、その建物の大部分が使われなくなっている。
「交流棟は、すぐに使える状態ではないんですよね。」
「そうね。利用を再開するには、設備の点検や修繕が必要になると思う。ただ、具体的な費用までは分かっていないの。」
会長は、少し困ったように笑った。
「学校の歴史を考えると、残しておきたい気持ちはあるのだけれど……。」
真帆は資料を見比べながら考えていた。
「今の予算だと、交流棟の修繕まで一度に進めるのは難しそうですね。そもそも、修繕費用が確定していない以上、計画に入れるのも無理があります。」
「ええ。だから、利用方針だけでも整理しておきたいの。」
玲は、二人の話を聞きながら、資料に掲載された古い建物の写真を眺めていた。
交流棟には、確かに魅力がある。
長いあいだ使われていない建物、かつての生徒たちが残した記録、今では忘れられてしまった行事。そうしたものを大切にしたいという気持ちは、玲にもよく分かった。
しかし、今の黎明には、もっと差し迫った問題がある。
来年度、何人の生徒が入学するかも分からない。
学校の存続そのものが不安定な状況で、使われていない建物の修繕を優先するのは、少々難しいだろう。
「……過去を守ることと、未来を守ることは、必ずしも同じではありませんから。」
玲が口を開くと、会長と真帆が顔を上げた。
玲は写真から視線を離さずに続けた。
「交流棟を大切にしたいという気持ちは、私にもあります。でも、今の学校に必要なものを後回しにしてまで、修繕を急ぐべきなのかは……少し、考えたいです。」
会長は、しばらく玲を見つめていた。
真帆は端末の画面へ目を戻した。
「じゃあ、玲は学習設備の方を優先したい?」
「うん。少なくとも、今は。」
玲は頷いた。
「交流棟については、今ある記録を整理しておけば、後から利用を検討することもできるでしょう。建物の状態を悪くしないための管理は必要だと思うけれど、すぐに使えるようにすることとは、別の話だから。」
真帆は、その言葉を聞いて小さく頷いた。
「それなら、報告書も整理しやすいね。現状の維持管理と、将来的な利用の検討を分けて書けばいい。」
会長も、資料へ視線を落とした。
「……そうね。交流棟については、当面の利用予定がないことを正直に報告しましょう。そのうえで、施設の記録を残し、今後の活用については継続して検討する。学習設備の更新は、次年度の優先事項として整理するわ。」
玲は、議論がまとまったことに少し安心した。
そして、それとは別に、先ほどの言葉を心の中で反芻していた。
過去を守ることと、未来を守ることは、必ずしも同じではない。
なかなかよい響きである。
自分で言っておいて何だが、少々気に入ってしまった。
ただ、真帆がすぐに具体的な判断を求めてきたため、格好のよい台詞だけで済ませることはできなかった。
それも当然だろう。
学校の運営計画は、雰囲気で決めるものではない。
玲は、改めて資料へ目を向けた。
その隣で、会長は、玲と真帆が相談しながら報告書の項目を整理していく様子を眺めていた。
玲は物事を考えるきっかけを作り、真帆はそれを具体的な仕事へ落とし込む。
もちろん、二人の意見がいつも一致するわけではない。真帆は玲の言葉に遠慮なく質問を返すし、玲も、分からないことは素直に尋ねる。
その関係が、会長には少し頼もしく思えた。
もっとも、今は目の前の書類を片づける方が先である。
会長は二人に礼を言うと、再び端末へ向き直った。
♢
十月の終わりが近づく頃、学校説明会に参加した生徒たちから、少しずつ連絡が届くようになった。
追加の資料を求める者もいれば、入学後の学習計画について質問する者もいる。
中には、もう一度学校を見学したいという問い合わせもあった。
ただし、それらの連絡が、そのまま出願につながるわけではない。
進路を決めるには時間が必要であり、特に黎明のような小規模校を選ぶとなれば、本人だけでなく周囲の理解も欠かせない。
玲は、そのことを理解していた。
学校説明会の日、栗色の髪を二つに結んだ少女と話したことを、時折思い出す。
彼女は、自分の進路について迷っていた。
玲は、その迷いに答えを与えたわけではない。
ただ、学校の現状を伝え、分からないことは分からないと答えた。
それでよかったのだろうか。
今でも、少し考えることがある。
もっとも、玲自身が誰かの人生を決められるわけではないし、決めるべきでもない。
あの少女がどの学校を選ぶにしても、自分で納得できる道を見つけてくれればよい。
そう考えて、玲はその記憶を胸の内にしまっていた。
その日の放課後、生徒会室では、真帆と栞が次年度の予算資料を整理していた。
栞は最近、会計担当の三年生から、会計記録の見方を教わるようになっている。
最初は、単に資料整理の手伝いだった。
ところが、栞は数字を一つずつ確認することを苦にせず、記録の不一致にもよく気づいたため、会計担当の先輩が、少しずつ仕事を教えるようになったのである。
玲が生徒会室へ入ると、栞は会計担当の三年生と並んで、端末の画面を覗き込んでいた。先輩の説明に頷きながら、手元のノートへ何かを書き込んでいる。
「栞、最近はすっかり助手だね。」
玲が隣の真帆にそう言うと、真帆は少し笑った。
「本人も楽しそうだし、先輩も助かってるみたい。あの二人、結構気が合うんじゃないかな。」
玲は、もう一度栞の方へ目を向けた。
説明会の準備を始めた頃には、何を頼むにも遠慮がちだった少女が、今では自分から仕事を覚えようとしている。
その変化を、玲は嬉しく思った。
真帆は、手元の資料を一度揃えてから、玲へ向き直った。
「ところで、玲。次年度の運営計画なんだけど、会長から少し相談があるみたい。」
「……そうなの?」
「うん。来週あたり、時間を取ってほしいって。」
玲は頷いた。
連邦生徒会への報告書について、まだ確認が必要な部分があるのだろう。
そう考えながら、玲は机の上に置かれた資料へ目を向けた。
学校の運営に関わる仕事は、思っていた以上に多い。
それでも、こうして少しずつ形になっていくのを見るのは、悪い気分ではなかった。
♢
十一月の初め、生徒会室に玲と真帆が呼ばれた。
窓の外では、校庭の木々が少しずつ色づき始めていた。午後の陽射しは柔らかく、室内には、紙をめくる音と端末の小さな操作音だけが響いている。
会長は、二人が席に着くのを待ってから口を開いた。
「今日は、来年度の生徒会について相談したいの。」
玲は、少しだけ首を傾げた。
「……来年度、ですか。」
「ええ。私たち三年生は、今年度で卒業するでしょう。だから、その前に次の役員を決めて、仕事を引き継がなければならないの。」
真帆は頷いた。
「そうですね。」
「それで、二人にお願いがあるの。」
会長は、机の上に置かれた資料を一度揃え、それから二人を見つめた。
「次の生徒会役員に、立候補してもらえないかしら。」
玲は、会長の言葉を聞いて瞬きをした。
隣に座る真帆へ目を向けると、彼女は驚いた様子もなく、会長の話を聞いている。どうやら、この話を初めて聞くのは自分だけらしい。
「……役職についても、お考えがあるのでしょうか。」
玲が尋ねると、会長は頷いた。
「ええ。真帆さんには副会長を、そして玲さんには、生徒会長への立候補をお願いしたいと思っているの。」
玲は、しばらく言葉を失った。
生徒会長。
実に魅力的な響きである。
黎明高等学校の代表として、銀白の髪を揺らしながら生徒会室の窓辺に立つ自分の姿など、想像するだけでも実に素晴らしい。
しかし、その光景に浸るより先に、玲の脳裏には別のものが浮かんでいた。
先日、机の上に積み上げられていた運営計画の資料である。
施設の維持管理、予算の確認、連邦生徒会への報告。あれらは、当然ながら、生徒会長になった途端に消えてなくなるものではない。
むしろ、自分の仕事になる。
玲は、改めて生徒会長という役職について考え直した。
そして会長は、その沈黙を急かさなかった。
学校の存続さえ確かなものとは言えない今、次の生徒会長を引き受けることが、どれほど大きな決断になるか。きっと玲もまた、その重さを考えているのだろう。
そう思えば、軽々しく返事を求める気にはなれなかったのである。
もっとも、実際のところ、玲が考えていたのは、主に自分へ降りかかってくる仕事の量についてだったのだが。
「……少し、考える時間をいただけますか。」
やがて玲が口を開くと、会長は穏やかに頷いた。
「もちろん。大切なことだから、ゆっくり考えて。」
玲は礼を述べた。
実際、大切なことだった。
憧れだけで引き受けるには、どうにも書類が多すぎる。
それでも、玲はもう一つ気になることがあった。
「……真帆は、知っていたんだね。」
玲が尋ねると、真帆は申し訳なさそうに笑った。
「うん。実は、先に相談を受けていたんだ。玲にも話そうと思ったんだけど、正式にお願いするなら、会長から直接話してもらった方がいいと思って。」
「……なるほど。」
玲は頷いた。
確かに、筋は通っている。
しかし、長年の友人が自分の知らないところで生徒会長への推薦に関わっていたとは、なかなか油断ならない。
そして、推薦に関しては真帆の表情を見る限り、悪戯のつもりではなさそうだった。
「最初は、真帆さんに会長をお願いしようと思っていたの。」
会長が言葉を継いだ。
「でも、真帆さん自身が、玲さんを推薦してくれたのよ。自分は副会長として支えたい、と。」
玲は、改めて真帆を見た。
真帆は、今度は少し照れくさそうに笑った。
「……そういうこと。」
玲は、しばらく真帆を見つめていた。
真帆は、自分のことをよく知っている。
少し格好をつけたがるところも、時々妙な言い回しをするところも、そして、思っている以上に心配性なところも。
それでも、真帆は自分を推薦した。
そのことが、少し嬉しかった。
「……どうして、私なの?」
玲が尋ねると、真帆は少し考えてから答えた。
「玲は、私が気づかないところに気づくことがあるから。」
真帆は、少し考えながら続けた。
「学校説明会のときも、見学者が何を気にしているのか、ちゃんと見ていたでしょう。私は準備や進行のことばかり考えていたけど、玲は、一人ひとりの様子を見ていたと思う。」
玲は、少しだけ視線を落とした。
確かに、見学者と話したことは覚えている。
ただ、あれは何か特別なことをしたつもりではなかった。
困っているように見えたから、声を掛けた。
質問されたから、分かる範囲で答えた。
それだけである。
「それに、玲は分からないことを、分からないって言えるでしょ。」
真帆は笑った。
「私は、そこがいいと思う。」
玲は、少し驚いた。
会長も頷いた。
「そうね。学校の代表だからといって、何でも一人で決められる必要はないわ。むしろ、周囲の意見を聞いて、必要なときに判断できることが大切だと思うの。」
会長は、玲を見つめた。
「玲さんには、人の話を聞こうとする姿勢がある。真帆さんには、それを具体的な仕事へつなげる力がある。二人なら、互いに支え合いながら学校を運営していけるんじゃないかと思ったの。」
玲は、しばらく黙っていた。
思っていたより、ずっと真面目な理由だった。
自分は、ただ格好よく振る舞いたいという気持ちから、生徒会というものに憧れていただけなのに。
しかし、困っている人を放っておけなかったのは、本当だった。
この学校が好きだという気持ちも、嘘ではない。
玲は、ゆっくりと息を吐いた。
「……少し、考えさせてください。」
会長は微笑んだ。
「もちろん。急いで決めることではないわ。」
「ありがとうございます。」
玲は、小さく頭を下げた。
その姿を見て、会長は安心したように頷いた。
玲が責任の重さを理解し、慎重に考えていることが伝わったからである。
そして玲自身も、実際に慎重に考えていた。
生徒会長という肩書きは、あまりにも魅力的だ。
しかし、その仕事は大変そうである。
しかも、学校の存続問題まで関わっている。
これを、格好よさだけで引き受けてよいものだろうか。
玲は、穏やかな微笑みを浮かべたまま、真剣に悩んでいた。
♢
その日の帰り道、玲は真帆と並んで歩いていた。
十一月の風は少し冷たく、街路樹の葉が歩道の端に集まっている。夕暮れの空は淡い橙色に染まり、遠くの建物の窓には、少しずつ明かりが灯り始めていた。
しばらく歩いてから、玲は口を開いた。
「……真帆。」
「ん?」
「私を、生徒会長に推薦したんだって?」
真帆は、少しだけ笑った。
「うん。」
「……そう。」
「怒ってる?」
「いいえ。ただ、少し驚いただけ。」
玲は、穏やかに答えた。
真帆は、その横顔を見つめてから笑った。
「かなり驚いてるでしょ。」
「……否定はしないよ。」
玲がそう答えると、真帆は楽しそうに笑った。
しばらく二人は、並んで歩いた。
玲は、足元に落ちた葉を見つめながら考えていた。
真帆は、自分のことをよく知っている。
少し格好をつけたがるところも、時々妙な言い回しをするところも、そして、思っている以上に心配性なところも。
それでも、真帆は自分を推薦した。
そのことが、少し嬉しかった。
「……真帆は、それでいいの?」
玲が尋ねると、真帆は顔を向けた。
「何が?」
「副会長で。真帆の方が、私よりずっと仕事ができるでしょう。」
真帆は、少し考えてから答えた。
「私は、前に立つより、後ろで仕事を進める方が向いてると思うんだ。」
「……そうかな。」
「うん。それに、玲が会長なら、私も遠慮なく意見を言えるし。」
真帆は笑った。
「玲が変なことを言い始めたら、私が止めればいいでしょう。」
玲は、少しだけ眉を上げた。
「……私が、そんなに変なことを言うかな。」
「たまにね。」
真帆は、あっさりと答えた。
玲は、少しだけ不満そうに真帆を見た。
しかし、反論はしなかった。
心当たりが、まったくないわけではない。
「……もし、私が会長になったら。」
玲は、少し間を置いた。
「きっと、迷惑を掛けると思う。」
真帆は、すぐに笑った。
「今さらじゃない?」
玲は、思わず目を見開いた。
「……真帆。」
「冗談だよ。」
真帆は笑いながら続けた。
「でも、本当にそう思ってる。分からないことがあったら、一緒に考えればいいし、できないことがあったら、できる人に頼ればいい。生徒会って、そういうものじゃない?」
玲は、しばらく真帆を見つめた。
それから、小さく笑った。
「……そうだね。」
冬の気配を含んだ風が、二人の間を通り抜けていった。
玲の銀白の髪が、淡く揺れる。
真帆は、その横顔を見つめながら、少しだけ安心していた。
玲は、まだ迷っている。
けれど、逃げようとはしていない。
それなら、きっと大丈夫だろう。
真帆は、そう思った。
その一方で、玲はというと。
生徒会長、月白玲。
再び、その響きを反芻していた。
やはり、格好いい。
その点についてだけは、どうしても否定できなかった。
♢
会長から次期生徒会長への立候補を打診されてから、一週間が過ぎた。
玲は、その間に真帆と何度か話し合い、現生徒会の仕事についても改めて確認していた。
そして、ようやく一つの結論を出した。
自分にすべてができるとは思わない。
それでも、この学校のためにできることがあるなら、引き受けてみたい。
そう考えて、玲は立候補を決めた。
真帆も、副会長候補として名を連ねることになった。
そして、もう一人。
「……私が、会計ですか?」
栞は、会長からの提案を聞いて、目を丸くした。
生徒会室には、玲と真帆も同席していた。
会長は、穏やかに頷いた。
「ええ。もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、栞さんは資料の整理も丁寧だし、細かな確認作業も得意でしょう。」
栞は、少しだけ俯いた。
「……でも、私、会計の仕事なんてしたことがありません。」
「それは当然よ。最初からできる人なんていないもの。」
会長は微笑んだ。
「今の会計担当から、引き継ぎの期間に必要なことを教えてもらえるようにするわ。」
栞は、しばらく考えていた。
その横顔には、不安が浮かんでいる。
玲は、静かに声を掛けた。
「……栞。」
「はい。」
「私は、栞と一緒にやれたら嬉しいな。」
栞は顔を上げた。
玲は、穏やかに微笑んだ。
「もちろん、簡単な仕事じゃないと思う。でも、分からないことがあれば、一緒に考えればいい。」
栞は、玲を見つめた。
その言葉は、決して大げさなものではなかった。
けれど、栞には、玲が自分を信じてくれているように感じられた。
学校説明会の準備で、写真を並べたこと。
資料室で古い記録を整理したこと。
そして、最近になって教わり始めた会計の仕事。
そうした小さな仕事を、玲は覚えていてくれたのだ。
栞は、ゆっくりと頷いた。
「……私でよければ、頑張ってみたいです。」
会長は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、よろしくお願いね。」
真帆も笑った。
「これで三人だね。」
玲は、静かに頷いた。
生徒会長、月白玲。
副会長、朝倉真帆。
会計、雨宮栞。
三人の名前が並ぶ光景を想像すると、少しだけ胸が高鳴った。
玲は、窓の外へ目を向けた。
秋の陽射しが、校庭を淡く照らしている。
その光景を眺めながら、玲は小さく微笑んだ。
「……これから、よろしくね。」
栞は、少し緊張したように頷いた。
「はい。よろしくお願いします。」
真帆は、そんな二人を見て笑っていた。
♢
生徒会役員選挙は、十一月の下旬に行われた。
立候補者は、玲、真帆、栞の三人だけだった。
学校の規則に従って告示と受付が行われ、全校生徒による承認のための集会が開かれた。
玲は、壇上に立っていた。
小さな講堂には、全校生徒が集まっている。
その数は決して多くない。
しかし、玲にとっては、十分に緊張する光景だった。
玲は、ゆっくりと会場を見渡した。
真帆が、前の方の席で微笑んでいる。
栞も、少し緊張したような表情でこちらを見ていた。
そして、現生徒会長が、静かに頷いた。
玲は、口を開いた。
「月白玲です。」
声は、思っていたより落ち着いていた。
「私は、この学校が好きです。」
会場は静かだった。
「人数は少なく、設備も十分とは言えません。これから先、どうなるのか分からないこともたくさんあります。」
玲は、少しだけ視線を落とした。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、ここには、私たちが過ごしてきた時間があります。私たちの青春の物語があります。」
その言葉は、飾りではなかった。
玲は、学校で過ごした日々を思い返していた。
真帆と笑い合ったこと。
栞と資料を整理したこと。
説明会で、見学者たちと話したこと。
そして、現生徒会の三人が、学校を守るために努力してきたこと。
玲は、静かに続けた。
「……私は、何でもできるわけではありません。」
会場の何人かが、少し驚いたように顔を上げた。
玲は微笑んだ。
「でも、だからこそ、皆さんの声を聞きたいと思っています。」
少しだけ間を置く。
「一人では届かない場所にも、誰かと一緒なら、手を伸ばせるかもしれませんから。」
その言葉に、栞は小さく頷いた。
真帆も、穏やかに笑っていた。
玲は、最後にもう一度、会場を見渡した。
「だからどうか、よろしくお願いします。」
深く頭を下げる。
拍手が起こった。
決して大きな拍手ではなかった。
けれど、玲には十分だった。
壇上を降りながら、玲は静かに息を吐いた。
終わった。
そして、心の中で小さく拳を握った。
今の演説は、結構よかったのではないだろうか。
少しだけ謎めいた雰囲気も出せた。
真面目な話もできた。
何より、最後まで噛まなかった。
玲は、満足していた。
♢
投票の結果、玲は次期生徒会長に選出された。
真帆も、副会長として承認された。
栞も、会計として新しい生徒会に加わることになった。
その知らせを受けたとき、玲は静かに頷いた。
「ありがとうございます。」
それだけだった。
少なくとも、周囲からはそう見えた。
しかし、内心では、喜びと不安が同時に押し寄せていた。
生徒会長。
ついに、その肩書きを手に入れてしまった。
しかも、今度は正式な役職である。
玲は、静かな微笑みを保った。
真帆は、その横顔を見て、少しだけ笑った。
「玲。」
「何かな。」
「おめでとう、会長。」
玲は、ゆっくりと真帆を見た。
会長。
その呼び方が、胸の奥に静かに落ちてきた。
「……ありがとう、副会長。」
玲は微笑んだ。
真帆も笑った。
そのやり取りを見ていた栞は、思わず小さく息を呑んだ。
銀白の髪を揺らし、静かに微笑む新生徒会長。
その隣で、穏やかに笑う副会長。
二人の姿は、栞の目には、これからの学校を支える頼もしい存在として映っていた。
そして、玲自身はというと。
会長と呼ばれたことに、ひそかに感動していた。
やはり、よい響きだった。
少なくとも、その点についてだけは、誰にも譲れない。
♢
十二月に入ると、新生徒会への引き継ぎが始まった。
現生徒会の三年生たちは、これまでの活動記録や会計資料、連邦生徒会との連絡履歴などを整理し、玲たちへ少しずつ仕事を引き渡していった。
玲は、会長から学校運営に関する資料を受け取っていた。
真帆は、副会長から行事の調整や連絡業務について説明を受けている。
栞は、会計担当の三年生と並んで、予算の管理方法を確認していた。
生徒会室には、これまで以上に多くの書類が並ぶようになった。
玲は、その光景を眺めながら、少しだけ苦笑した。
生徒会長という肩書きは、確かに魅力的だった。
しかし、その実態は、どうやら思っていた以上に地道な仕事の積み重ねらしい。
それでも、後悔はしていなかった。
むしろ、これからのことを考えると、少しだけ胸が高鳴る。
ある日の放課後、現会長は玲へ一冊のファイルを手渡した。
「これが、今年度の運営計画と、連邦生徒会への報告記録よ。」
玲は、両手で受け取った。
「ありがとうございます。」
「来年度の計画については、まだ確認が必要な部分もあるけれど、基本的な資料は揃っているわ。何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いてね。」
「はい。」
玲は、ファイルの表紙へ目を落とした。
そこには、黎明高等学校の校章が印刷されていた。
古い校章だった。
長いあいだ、この学校を見守ってきたものだ。
玲は、指先でその輪郭をなぞった。
「……会長。」
「なあに?」
「これまで、ありがとうございました。」
玲は、静かに頭を下げた。
会長は、少し驚いたように玲を見つめた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「……こちらこそ。これから、よろしくね。」
玲は頷いた。
その言葉を聞いて、会長は少しだけ安心したようだった。
そして、玲自身も、ようやく実感し始めていた。
自分は、本当に生徒会長になるのだ。
学校の代表として、何かを決めなければならない日が来る。
そのとき、自分はどうするのだろう。
玲は、少し考えた。
分からない。
少なくとも、今の自分には、まだ答えがない。
けれど、真帆がいる。
栞もいる。
そして、この学校には、まだ守りたい日常が残っている。
玲は、ゆっくりと息を吐いた。
「……頑張ります。」
その言葉は、飾りではなかった。
それに会長は、嬉しそうに頷いた。
♢
その夜、玲は自室の机に向かっていた。
目の前には、新しい生徒会の資料が並んでいる。
会計記録。
行事予定。
施設管理の報告書。
そして、連邦生徒会へ提出する次年度の運営計画。
玲は、一枚ずつ目を通していた。
書類の量は、想像していたよりも多い。
しかも、分からないことが山ほどある。
玲は、静かに資料を置いた。
そして、天井を見上げた。
生徒会長という肩書きは、確かに魅力的だった。
しかし、その実態は、どうやら思っていた以上に地道な仕事の積み重ねらしい。
玲は、少しだけ苦笑した。
それでも、後悔はしていなかった。
むしろ、これからのことを考えると、少しだけ胸が高鳴る。
玲は、机の引き出しから濃紺のノートを取り出した。
そして、新しい頁を開いた。
『黎明高等学校、生徒会長。月白玲。』
その文字を、しばらく眺める。
なるほど。
実に素晴らしい。
玲は、満足げに頷いた。
しかし、その下に、もう一行を書き加えた。
『……なお、仕事内容については、現在勉強中。』
玲は、少しだけ笑った。
それから、ノートを閉じた。
窓の外では、冬の夜が静かに更けていく。
そして、遠く離れたキヴォトスのどこかでは、まだ誰も知らない変化が、少しずつ近づいていた。
玲は、そのことを知らなかった。
ただ、新しい肩書きに胸を躍らせながら、明日の予定を確認していた。
生徒会長として迎える、これからの一年間。
その日々が、どのようなものになるのか。
玲には、まだ分からなかった。