”黎明”
三月には、黎明高等学校からも卒業生が巣立っていった。
これまで学校を支えてきた三年生たちの中には、玲たちに生徒会の仕事を教えてくれた三人もいた。卒業式の日、普段は人の少ない校舎がいつもより賑やかに感じられたことを、玲はよく覚えている。
前生徒会長は、最後まで自分たちのことを心配していた。
何か困ったことがあれば連絡してほしいと言い、引き継ぎ資料の保管場所をもう一度確認し、真帆から「それは昨日も聞きました」と笑われていた。本人も笑っていたが、式が終わって校門を出ていくときには、さすがに名残惜しそうに校舎を振り返っていた。
玲は、その背中を見送りながら、もう自分たちがこの学校の最上級生なのだという事実を、改めて実感したものだった。
そして四月、今度は八人の新入生が黎明の門をくぐった。
昨年の学校説明会を訪れた生徒の中から入学を決めた者もいれば、その後の個別見学や問い合わせを通じて学校を知った者もいる。進路を決めるまでの事情はそれぞれ違っていたが、少なくとも八人の生徒が、この学校で過ごす未来を選んだのである。
全校生徒が十数人しかいなかった黎明にとって、それは決して小さな数字ではなかった。
卒業によって減った人数を補い、なお余りある新入生がやって来たことで、校舎には目に見える変化が生まれていた。廊下で聞こえる話し声も増え、昼休みには、見慣れない顔が校舎のあちこちを歩いている。
学校の存続を巡る問題が解決したわけではない。施設の老朽化も、限られた予算も、依然として残っている。
それでも、玲は思う。
昨年、自分たちが準備した学校説明会は、確かに無駄ではなかったのだと。
春の陽射しが差し込む廊下を歩いていると、向こうから新入生らしい二人組がやって来た。片方は背の高い黒髪の少女で、もう片方は栗色の髪を二つに結んでいる。
玲は、その顔に見覚えがあった。
学校説明会の日、交流棟について質問してきた少女たちである。
「あっ、月白先輩!」
栗色の髪の少女が、玲を見つけるなり表情を明るくした。
「おはようございます。あの、昨日はありがとうございました。教室の場所、教えてもらって。」
「おはよう。ちゃんと辿り着けたようでよかったよ。」
「はい! でも、今日も少し迷っちゃって……。この学校、思っていたより廊下が複雑なんですね。」
少女は照れくさそうに笑い、隣の友人から「さっき曲がるところを間違えたのは自分でしょう。」と指摘されて、慌てて言い訳を始めた。
玲は、そのやり取りを微笑ましく眺めていた。
学校説明会のときには、まだ入学するかどうかも決まっていなかった二人が、今は黎明の制服を着て、自分たちの教室へ向かっている。その光景には、昨年の苦労を思い出させるだけの力があった。
「最初は誰でも迷うものだよ。私も一年生の頃は、資料室を探して違う階へ行ったことがあるから。」
「月白先輩でも、そんなことがあるんですか?」
「もちろん。」
玲は、少し考えた。
ここで「迷うこともまた、道を知るための一歩だからね」とでも言えば、なかなか趣のある言葉になるのではないだろうか。
しかし、相手は単に教室の場所を間違えただけである。
さすがに大げさかもしれない。
「……そのうち、自然に覚えるよ。」
玲は、無難な結論を選んだ。
少女たちは礼を述べ、楽しそうに話しながら歩いていった。
その後ろ姿を見送り、玲は生徒会室へ向かう。
廊下の窓には、銀白の髪を揺らして歩く自分の姿が映っていた。
月白玲、三年生。
黎明高等学校生徒会長。
なかなか、よいではないか。
少なくとも、肩書きについては申し分ない。
問題があるとすれば、その肩書きに伴う仕事の量である。
♢
「玲、これ、今日中に確認しておいてね。」
生徒会室へ入ると、真帆が一枚の書類を差し出してきた。
「……おはよう、真帆。」
「おはよう。で、これ。」
「挨拶の余韻というものはないのかな。」
「余韻で書類は片づかないから。」
まったくもって正論だった。
玲は席に着き、真帆から受け取った書類へ目を通した。
新入生向けの学習設備に関する確認事項である。八人もの新入生を迎えたことで、これまで余裕のあった備品にも不足が生じ始めていた。特に学習用端末の周辺機器や消耗品は、当初の見積もりを見直す必要があるらしい。
窓際では、栞が会計資料を整理していた。
「……あの、月白先輩。」
玲が顔を上げると、栞は少し遠慮がちに資料を持ち上げた。
「新入生の備品なんですけど、前に予定していた分は、もうほとんど揃っていて……。それで、少しだけ予算が残りそうなんです。」
「そうなんだ。ありがとう、栞。」
「はい。ただ、その……今後も必要になるものがあるかもしれないので、残った分をどうするか、相談したくて。」
栞は以前よりも仕事に慣れてきたが、こうして何かを報告するときには、相変わらず言葉を丁寧に選ぶ。玲は、その慎重さを好ましく思っていた。
「急ぎで必要なものは、もうないんだよね。」
「はい。今のところは、大丈夫だと思います。」
「それなら、しばらく残しておこうか。新入生が増えたばかりだし、何か足りなくなることもあるだろうから。」
「……分かりました。じゃあ、そのように整理しておきます。」
栞が安心したように頷く。
玲は、手元の書類へ視線を戻した。
生徒会長らしい判断だったのではないだろうか。
少なくとも、今のところは。
「玲、こっちの署名もお願い。」
真帆が、もう一枚の書類を差し出してきた。
「……ずいぶん多いね。」
「会長だからね。」
「なるほど。」
玲は、ペンを取った。
生徒会長という立場には、どうやら署名欄を増殖させる特殊な力があるらしい。
けれどそうした日々は、忙しくはあっても、決して悪いものではなかった。
新入生たちが少しずつ学校に馴染み、真帆や栞と相談しながら仕事を進め、時には予算の不足に頭を悩ませる。
去年の今頃には、まだ自分が生徒会長になるなど考えてもいなかった。
それが今では、学校の運営について真剣に話し合っている。
玲は、その変化を少し不思議に思うことがあった。
そして、そんな日常が、しばらく続くものだとも思っていた。
少なくとも、その日の午後までは。
♢
連邦生徒会からの回答が遅れていると真帆が気づいたのは、放課後のことだった。
黎明高等学校では、昨年度から継続していた運営計画について、いくつかの確認事項を提出していた。施設維持の優先順位や学習設備の更新予定、そして新入生を迎えたことによる在籍状況の変更などである。
いずれも急を要するものではなかったが、通常であれば、そろそろ担当部署から確認の連絡が届いていてもおかしくない時期だった。
「……おかしいな。」
真帆が端末の画面を見つめながら呟いた。
玲は、手元の書類から顔を上げた。
「どうしたの?」
「連邦生徒会からの返信。先週問い合わせた件なんだけど、まだ受付中のままなんだよね。」
「担当の人が忙しいんじゃないかな。」
「私も最初はそう思ったんだけど、ほかの申請も止まってるみたい。受付そのものはできてるのに、その先へ進まないんだ。」
真帆は受信履歴を開き、画面を玲の方へ向けた。
「担当部署に問い合わせても、今は確認に時間がかかってるって返事しか来ないし。何かあったのかな。」
玲は画面を覗き込み、そこに表示された連邦生徒会の文字を見つめた。
連邦生徒会。
行政手続きの遅延。
各学園への影響。
それらの言葉が頭の中で結びついた瞬間、玲は、ある可能性に思い当たった。
そういえば。この世界に来る前、自分が遊んでいたゲームの物語は、確か、連邦生徒会長の失踪から始まっていたはずである。
正確には、その失踪によって生じた混乱の中、キヴォトスへやって来た先生が、連邦生徒会の七神リン首席行政官から依頼を受けるところから物語が動き出す。
そして先生は、シャーレの権限を引き継ぎ、さまざまな学園の問題へ関わっていくことになる。
玲は、ゆっくりと端末から目を離した。
まさか。
いや、しかし。
考えてみれば、時期としてはおかしくない。
自分がこの世界に生まれ変わってから、原作の出来事がいつ始まるのかについては、ずっと曖昧なままだった。そもそもゲームの中では、学園の年度や時間の流れが、現実のように厳密に整理されていたわけではない。
それでも、いつかは始まるのだろうと思っていた。
そして、そのいつかが、今なのかもしれない。
「……玲?」
真帆の声で、玲は我に返った。
「何か気になることでもあった?」
玲は、すぐには答えなかった。
連邦生徒会長の失踪。
もし本当にそれが起きているのなら、キヴォトス全体にとって重大な事件である。
しかし、今の自分には確かな情報がない。
ゲームの知識を根拠に、いきなり連邦生徒会長が失踪したなどと言い出せば、さすがに不審に思われるだろう。
何より、単に事務処理が遅れているだけという可能性も、まだ残っている。
「……少し、気になるね。」
玲は、そう答えた。
「ただの遅延ならいいけれど、連邦生徒会の仕事が広い範囲で止まっているなら、何か事情があるのかもしれない。」
真帆は、端末へ目を戻した。
「そうだよね。こっちから確認できることは、もうあんまりないんだけど。」
「今のうちに、こちらの資料だけは揃えておこう。向こうの事情が分からない以上、私たちにできるのは、それくらいだと思う。」
「うん。そうする。」
真帆は頷き、作業を再開した。
玲も手元の書類へ視線を戻したが、意識の一部は、すでに遠く離れた連邦生徒会へ向いていた。
もし、原作が始まったのだとしたら。
先生が来る。
シャーレが動き出す。
そして、キヴォトスのあちこちで、あの物語が進んでいく。
玲は、胸の奥に奇妙な高揚を覚えていた。
懐かしさ、と呼ぶには少し違う。
この世界は、すでに玲にとって現実だった。真帆も栞も、黎明の生徒たちも、ゲームの画面の向こうにいる誰かではない。
それでも、かつて画面越しに見ていた物語が、今まさに自分の生きる世界で始まろうとしているのかもしれないと思うと、どうしても落ち着かない。
玲は、窓の外へ目を向けた。
春の陽射しは、相変わらず穏やかだった。
その光景が、かえって不思議に思えた。
♢
その日の放課後、玲は生徒会室に一人残っていた。
真帆は職員室へ書類を届けに行き、栞は会計資料を整理するため、別室へ向かっている。
玲は端末を開き、連邦生徒会に関する情報を確認していた。
ニュースサイトには、連邦生徒会の業務が一部滞っているという記事が掲載されていた。各学園からの問い合わせが増えていることや、行政手続きに遅れが生じていることも報じられている。
しかし、その理由については、どの記事も明確に説明していなかった。
連邦生徒会長の名前も、ほとんど出てこない。
玲は、画面を見つめながら考えた。
やはり、まだ公にはなっていないのだろうか。
原作の序盤では、連邦生徒会長の失踪について、七神リン首席行政官が先生や各学園の関係者へ説明していたはずだ。少なくとも、誰もが最初から事情を知っていたわけではなかった。
ならば、今の段階で自分が知っていることを口にするのは、あまりにも危険である。
玲は、端末を閉じた。
そもそも、今の自分が連邦生徒会長の失踪を知っていたところで、何ができるというのだろう。
黎明高等学校は、キヴォトスの中でも小さな学園である。連邦生徒会の上層部が、わざわざ一つの小規模校の生徒会長へ連絡してくることなど、まず考えられなかった。
そして、原作の物語は、先生を中心に進んでいく。
自分が無理に関わる必要はない。
むしろ、関わらない方がいいのではないだろうか。
玲は、そう考えた。
原作の知識があるからといって、すべてを知っているわけではない。細かな出来事の順序も、登場人物たちの行動も、曖昧な部分が多い。
何より、自分が余計なことをすれば、物語が変わってしまう可能性もある。
玲は、椅子の背もたれに身を預けた。
……いや。
そこまで考える必要もないかもしれない。
自分は、ただの小さな学校の生徒会長なのだから。それに、ミステリアスにふるまうのが自分の目的だったはずだ。
玲は、少しだけ笑った。
壮大な物語の始まりを前にして、妙に身構えてしまっていたらしい。
そのとき、生徒会室の扉が開いた。
「玲、まだいたんだ。」
真帆が戻ってきた。
「うん。少し調べ物をしていたんだ。」
「連邦生徒会のこと?」
「……まあ、そんなところかな。」
真帆は、玲の机に置かれた端末へ目を向けた。
「やっぱり気になる?」
「そうだね。」
玲は、少し考えてから答えた。
「……あまり、長引かなければいいけれど。」
真帆は、玲の顔を見つめた。
「何か、心配なことでもあるの?」
玲は、すぐには答えなかった。
心配なこと。
もちろん、ある。
連邦生徒会長の失踪。
先生の赴任。
そして、キヴォトス全体を巻き込んでいく、さまざまな事件。
しかし、そのどれも、今の真帆に説明できることではなかった。
「……今は、まだ何とも言えないよ。」
玲は、そう答えた。
真帆は、少しだけ首を傾げた。
その言い方が、妙に気になった。
玲は昔から、時折、意味深なことを言う。
何でもない場面で、わざわざ格好のつく言葉を選んだり、少し大げさな表現を使ったりすることがある。
真帆は、その癖をよく知っていた。
だから、今の言葉も、いつもの玲らしい言い回しだと思えば、それで済むはずだった。
けれど、何となく違う気がした。
玲は、今、何かを隠しているのだろうか。
真帆は、そう思った。
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
考えすぎだろう。
玲が何かを知っているなら、必要なことは話してくれるはずだ。
「……まあ、そうだよね。」
真帆は笑った。
「私たちが心配しても、どうにもならないことだし。」
「うん。」
玲も、微笑んだ。
その表情は、いつもと変わらなかった。
真帆は、少しだけ安心した。
そして、話題を変えた。
「それより、明日の新入生向けの案内、確認してくれる?」
「もちろん。」
玲は、真帆から資料を受け取った。
連邦生徒会のことは、ひとまず胸の奥へしまっておくことにした。
♢
数日後、連邦生徒会から、各学園へ向けた事務連絡が届いた。
そこには、現在、一部の行政手続きに遅延が生じていること、問い合わせへの対応に通常より時間がかかること、そして、緊急性の高い案件については別途連絡を行うことが記されていた。
しかし、遅延の理由については、やはり明確な説明がなかった。
真帆は、その通知を読みながら、困ったように眉を寄せた。
「……これ、結局、何も分からないよね。」
「そうだね。」
玲は、真帆の隣で画面を見つめた。
「でも、少なくとも、連邦生徒会の側でも状況を把握しているということだろう。」
「それはそうなんだけど……。」
真帆は、しばらく考えてから、玲へ顔を向けた。
「玲は、どう思う?」
「何について?」
「この先、もっと手続きが遅れたりするのかな。」
玲は、少し考えた。
原作の記憶が正しければ、連邦生徒会の混乱は、すぐにすべて解決するわけではない。
七神リン首席行政官が業務を代行し、先生がシャーレを通じてさまざまな問題へ関わっていく。
しかし、今の段階で、どこまで話してよいのか分からない。
玲は、言葉を選んだ。
「……しばらくは、今までどおりにはいかないかもしれないね。」
真帆は、玲の顔を見つめた。
「どうして?」
「どうして、とは?」
「いや、玲、今の言い方だと、何か知ってるみたいだったから。」
玲は、そこで初めて、自分の発言を振り返った。
しまった。
少しばかり、知っていることを前提に話しすぎたかもしれない。
「……推測だよ。」
「ふうん。」
真帆は、それ以上追及せずに端末へ目を戻した。
玲は、内心で安堵した。
しかし、真帆は、先ほどの言葉を忘れてはいなかった。
玲は、昔から意味深なことを言うのが好きだった。
それは真帆もよく知っている。
けれど、今の言葉は、いつものように格好をつけているだけには聞こえなかった。
何かを知っている。
あるいは、何かを予想している。
そう思わせるだけの、妙な確信があった。
真帆は、玲の横顔をちらりと見た。
銀白の髪が窓の光を受け、紫の瞳は端末の画面へ向けられている。
その姿は、いつもと変わらない。
だからこそ、真帆は少しだけ不思議に思った。
玲は、いったい何を考えているのだろう。
♢
その日の夕方、生徒会室には、いつもより遅くまで明かりが灯っていた。
真帆は施設管理の資料を整理し、栞は会計記録を確認している。
玲は、連邦生徒会へ提出する回答文の下書きを作っていた。
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ暗くなり、校庭の木々が長い影を落としている。新入生たちの声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「玲、そろそろ帰ろう。」
真帆が時計を見ながら言った。
「続きは明日でも大丈夫だよ。期限までは、まだ余裕があるし。」
玲は、端末の画面を確認した。
「……そうだね。今日はここまでにしよう。」
栞も資料を片づけ始めた。
三人で机の上を整理し、照明を消す準備をする。
そのとき、真帆がふと口を開いた。
「……玲。」
「何かな。」
「連邦生徒会のこと、どう思う?」
玲は、少しだけ動きを止めた。
「……どう、というと?」
「これから、どうなるのかなって。」
真帆は、窓の外へ目を向けた。
「連邦生徒会って、キヴォトス全体をまとめる立場の人たちでしょう。そこで何か問題が起きてるなら、私たちにも関係してくるのかなって。」
玲は、真帆の横顔を見つめた。
確かに、そうだ。
原作を知っている自分にとっては、連邦生徒会長の失踪は物語の始まりを告げる出来事だった。
しかし、この世界の人々にとっては、突然起きた重大事件である。
その違いを、玲は改めて意識した。
「……そうだね。」
玲は、静かに答えた。
「でも、今はまだ、何が起きたのか分からない。だから、分からないことを無理に決めつける必要はないと思う。」
真帆は頷いた。
「うん。」
玲は、少し考えてから続けた。
「ただ、連邦生徒会の仕事が滞っているからといって、キヴォトスのすべてが止まるわけではないでしょう。」
真帆が顔を上げた。
玲は、窓の外へ目を向けた。
「誰かが、その仕事を引き継ぐはずだから。」
それは、玲にとっては原作の記憶に基づく言葉だった。
七神リン首席行政官が連邦生徒会の業務を代行していることは、玲だけが知っている。
そして、先生がシャーレの仕事を引き継ぐことも、玲は知っていた。
もっとも、その先生が今どこで何をしているのかまでは、分からない。
玲は、そこまで考えて、小さく微笑んだ。
「……きっと、大丈夫だよ。」
真帆は、その言葉を聞いて、少しだけ安心したように笑った。
「玲がそう言うなら、少し安心かな。」
玲は、真帆を見た。
そんなに信用されても困る。
自分は、ただゲームの序盤を覚えているだけなのだから。
しかし、真帆の表情を見ていると、わざわざ不安を煽る必要もないように思えた。
「……私にも、分からないことは多いよ。」
「知ってる。」
真帆は笑った。
「でも、玲は変に慌てないから。」
玲は、少しだけ苦笑した。
慌てていないわけではない。
むしろ、内心では、原作が始まったという事実にかなり動揺している。
ただ、それを表に出しても仕方がないと思っているだけだった。
真帆は、そんな玲の様子を見て、再び笑った。
「……じゃあ、帰ろうか。」
「うん。」
三人は生徒会室を出た。
廊下には、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
玲は、最後にもう一度、校舎の奥を振り返った。
この学校には、まだ守りたいものがある。
新しく入学してきた八人の生徒たち。
真帆や栞と過ごす日常。
そして、かつての生徒たちが残してきた歴史。
それらを守るために、自分ができることは何だろう。
玲は、少し考えた。
答えは、まだ出ない。
けれど、今はそれでいい。
少なくとも、明日も生徒会室へ行き、必要な仕事を続けることはできる。
玲は、校舎の外へ歩き出した。
春の風が、銀白の髪を揺らす。
遠くの空には、夕焼けの名残が薄く広がっていた。
その光景を眺めながら、玲は心の中で呟いた。
――いよいよ、始まったんだな。
かつて画面の向こうで見ていた物語が、今、自分の生きる世界で動き始めている。
その事実に、玲は少しだけ胸を高鳴らせた。
そして同時に、ふと思った。
先生は、今頃どうしているのだろう。
シャーレの建物へ向かっているのか。
それとも、まだリン首席行政官と話しているところなのか。
ゲームの中では、何度も見たはずの場面だった。
けれど、こうして現実の出来事として考えると、どこか不思議な気分になる。
玲は、静かに笑った。
いつか、会うこともあるのだろうか。
そう考えながら、夕暮れの道を歩いていった。