四月の終わりが近づくにつれて、黎明高等学校の朝は少しばかり騒がしくなった。
といっても、ほかの学園のように、登校する生徒たちが校門から溢れたり、廊下を歩くのにも苦労したりするわけではない。昨年までの黎明を知る者でなければ、その変化に気づくことさえ難しかっただろう。それでも、二階の窓を開ければ一年生たちの笑い声が聞こえ、昇降口には見慣れない靴が並び、昼休みになると、誰も使っていなかった階段の踊り場にまで人の気配がするようになった。
玲は、そうした変化を好ましく思っていた。
人が増えれば、それだけ問題も増える。備品は足りなくなるし、教室の利用予定は重なり、昨日まで何の不自由もなかったことが、今日は誰かの不便になる。それでも、困りごとの一つひとつが、学校に人がいるからこそ生まれるものなのだと思えば、以前ほど煩わしくは感じられなかった。
もっとも、それは生徒会長としての立派な心構えであって、実際に書類へ目を通す際の気分とは、また別の話である。
「……真帆。」
「なに?」
「この学校には、いつからこんなに提出書類があったのかな。」
朝の生徒会室で、玲は机の上に置かれた薄い紙束を見つめていた。
昨日、帰る前に片づけたはずの書類が、今朝には再び増えている。誰かが夜中に持ち込んだのかと思いたくなるほどだったが、真帆によれば、どれも昨日の時点で存在していたらしい。
「最初からあったよ。玲が見ないようにしてただけで。」
「……そうだったかな。」
「そうだったよ。去年は先輩たちが処理してくれてた分もあるから、余計に多く感じるんだと思う。」
真帆は、端末に表示された予定表を確認しながら答えた。窓際には、栞が持ってきた小さな花瓶が置かれている。校庭の隅で咲いていたという白い花は、朝の光を受けて、机に淡い影を落としていた。
生徒会長になってから、玲は少しずつ分かってきたことがある。
学校というものは、何か大きな行事があるときだけ動いているのではない。
何事も起こらない一日を維持するために、実に多くの小さな仕事が必要なのだ。
昨年まで、その大半を先輩たちが引き受けてくれていた。
玲は卒業式の日を思い出した。
最後まで引き継ぎのことを気にしていた前生徒会長に、真帆が笑いながら何度も同じ説明をしていたこと。あのときは少々心配性な人だと思っていたが、今になってみれば、心配する理由は十分にあったらしい。
「先輩たちには、もっと感謝しておくべきだったね。」
「卒業式の日、ちゃんと感謝してたでしょう。」
「それとこれとは別の話だよ。」
「じゃあ、今度会ったときに言ってあげて。きっと喜ぶから。」
玲は小さく頷き、手元の書類へ視線を戻した。
そのとき、真帆の端末から短い通知音が鳴った。
真帆は何気なく画面を開いたが、そこに表示された内容を読み進めるうち、眉間にわずかな皺を寄せた。
「……またか。」
玲は顔を上げた。
「連邦生徒会?」
「うん。先週、確認をお願いしてた件。返信は来たんだけど……。」
真帆は言葉を切り、画面を玲の方へ向けた。
連邦生徒会の担当部署から届いた回答には、現在、一部の審査業務に通常より時間を要していること、提出済みの資料は受領していること、追加の案内があるまで待機してほしいことが、丁寧な文章で記されていた。
丁寧ではあった。
ただし、知りたいことは何一つ書かれていなかった。
「前にも同じ返事が来ていたよね。」
「そう。言い回しは少し違うけど、内容はほとんど同じ。問い合わせ先も変わってないし、これ以上聞いても同じことを言われそう。」
真帆は困ったように息をついた。
黎明が提出している運営計画には、昨年度から続く施設維持の問題と、新入生を迎えたことによる設備更新の見直しが含まれていた。交流棟の本格的な改修を後回しにして、授業に直接必要な設備を優先する方針については、校内での合意も取れている。
問題は、その計画を実行するために必要な確認が、連邦生徒会側で止まっていることだった。
玲は、画面の文字を追いながら考えた。
連邦生徒会長の失踪。
それが本当に起きているのなら、行政の混乱は当然のことかもしれない。
しかし、黎明に届いている情報だけでは、何が原因なのかは分からない。連邦生徒会の業務が滞っているという事実はあっても、その理由については、依然として曖昧な説明しかなされていなかった。
玲は原作の展開を思い出そうとした。
七神リン首席行政官。
連邦生徒会長の不在。
先生の到着。
そして、シャーレ。
記憶の中にあるそれらの出来事は、確かにつながっている。だが、玲が覚えているのは、あくまでも物語として描かれた部分だけだった。会長の失踪が各学園の事務処理へどの程度影響したのか、誰がどの時点で事情を知っていたのか、そんな細かなことまでゲームで説明されていた記憶はない。
何より、今が原作のどの時点に当たるのかさえ、正確には分からなかった。
玲は、端末から目を離した。
「……このまま待っているのは、少し困るね。」
「そうなんだよね。学校の方は、もう準備を進めてるのに。」
真帆は、机の上に広げていた資料を玲の前へ寄せた。
「特に困るのは、ここ。学習設備の更新に関する部分。」
玲は、指し示された箇所を見た。
昨年度の計画では、交流棟の修繕に使う予定だった予算の一部を、学習環境の改善へ振り向ける方針を立てていた。ただし、施設維持に関する支出と学習設備の更新では、申請上の扱いが異なるため、必要な確認を済ませてから実行することになっている。
新入生が八人も増えた今、学習設備の充実は以前にも増して重要になっていた。
「全部が止まっているわけではないんだよね。」
「うん。学校で判断できる範囲の購入は進めてるし、栞も予算を調整してくれてる。ただ、こっちの計画は、連邦生徒会の確認が必要だから。」
玲は資料を読み返した。
交流棟。
学習設備。
学校の存続。
それぞれ別の問題のようでいて、黎明にとっては一つにつながっている。
昨年の学校説明会で、新入生たちに伝えたかったのは、黎明がこれからも学校として続いていくという意思だった。そのために、使われていない建物を無理に直すより、今いる生徒たちが学ぶための環境を整えることを選んだ。
その判断自体は、今でも間違っていないと思う。
しかし、連邦生徒会の確認がいつまでも得られなければ、実行できることは限られてしまう。
「……一度、直接話を聞いてみようか。」
玲がそう言うと、真帆は顔を上げた。
「直接?」
「連邦生徒会の窓口へ行ってみようと思う。」
真帆は少し驚いたようだったが、すぐに考え込んだ。
「それは……確かに、いいかもしれないね。文書だけだと、細かい事情が伝わりにくいところもあるし。」
「うん。申請の進み具合を確認するだけじゃなくて、どの部分が止まっているのかを知りたいんだ。」
玲は資料の端を指で押さえた。
「全部の承認が必要なのか、それとも、私たちが考えている計画の一部だけなのか。そこが分かれば、今後の進め方も考えられるから。」
真帆は頷いた。
「そうだね。じゃあ、私も一緒に……。」
「いや、私一人で行くよ。」
玲は、そう答えてから、真帆の顔を見た。
真帆は、少し意外そうな表情をしていた。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。向こうで話を聞いて、必要なことを持ち帰るだけだから。」
「でも、資料のことなら私の方が詳しい部分もあるよ?」
「それはそうなんだけど……。」
玲は、少し考えた。
実際、真帆が同行してくれた方が、事務的な話はずっと円滑に進むだろう。書類の細かな内容を尋ねられても、真帆ならすぐに答えられる。
しかし、玲には別の思いもあった。
連邦生徒会。
キヴォトスの行政の中心。
そこには、原作に登場する人物たちがいるかもしれない。
自分が長年、画面越しに見てきた世界の中枢へ、初めて足を踏み入れるのである。
正直に言えば、少しばかり胸が躍っていた。
そして、そんな自分の様子を真帆に見られるのは、何となく気恥ずかしい。
玲は、できるだけ自然な表情を作った。
「学校のことは、誰かが見ていないといけないでしょう。新入生も増えたばかりだし、真帆にはこっちをお願いしたいんだ。」
真帆は、しばらく玲を見つめていた。
それから、少し笑った。
「……そっか。分かった。」
玲は、内心で安堵した。
「ありがとう。」
「でも、資料はちゃんと持っていってね。向こうで聞かれて、分かりませんじゃ困るから。」
「もちろん。」
「あと、分からないことは、その場で確認すること。曖昧なまま帰ってこないでよ。」
「……努力するよ。」
「努力じゃなくて、約束。」
玲は苦笑した。
「分かった。約束する。」
真帆は満足したように頷き、端末を開いた。
「じゃあ、訪問できるか確認してみるね。今は向こうも忙しそうだから、いきなり行っても対応してもらえないかもしれないし。」
玲も頷いた。
確かに、そのとおりである。
いくら生徒会長とはいえ、何の連絡もなく連邦生徒会の庁舎へ押しかけるのは、あまりにも無作法だろう。
まして、今は行政手続きが滞っているという。
玲は、机の上に広がる書類を眺めながら、少しだけ気持ちを引き締めた。
どうやら、原作の舞台へ足を踏み入れるには、まず訪問の予約から始めなければならないらしい。
♢
訪問の許可が下りたのは、その二日後だった。
連邦生徒会の担当部署から届いた返信には、指定された日時に窓口での相談を受け付けること、ただし現在の状況によっては、通常より対応に時間がかかる可能性があることが記されていた。
玲は、その通知を読んで、ようやく現実味を感じ始めた。
連邦生徒会へ行く。
たったそれだけのことなのに、妙に落ち着かない。
考えてみれば、前世の自分にとって、キヴォトスの行政区はゲームの背景として見ていた場所でしかなかった。画面の中では何度も目にしていたはずだが、そこへ向かう交通手段や、庁舎の入り口がどこにあるのかなど、知る由もない。
この世界で生きてきた玲にとっても、行政区へ行く機会はほとんどなかった。
黎明は小さな学園であり、これまで連邦生徒会とのやり取りは、ほぼすべて書類や通信で済んでいたからである。
玲は端末に表示された案内を読み返し、指定された窓口の場所を確認した。
その横では、真帆が必要な資料を揃えていた。
「運営計画の原本はこっち。写しは別のファイルに入れてあるから、必要なら渡して。」
「うん。」
「それから、去年の予算案と、今年度の変更案。施設の利用状況も、分かるようにしておいたよ。」
「ありがとう。助かる。」
「あと、訪問の確認通知。これがないと、受付で説明が面倒になるかもしれないから。」
玲は、一枚ずつ資料を確認した。
真帆が準備してくれたファイルは、項目ごとに見出しがつけられ、必要な資料をすぐに取り出せるようになっていた。
実に頼もしい。
同時に、これを自分一人で準備していたら、果たして何時間かかったのだろうという疑問も湧いてくる。
「真帆。」
「なに?」
「……いつもありがとう。」
玲がそう言うと、真帆は少し驚いたように顔を上げた。
「どうしたの、急に。」
「いや、こうして資料を揃えてもらうと、改めて助けられていると思ってね。」
真帆は、しばらく玲を見つめた。
それから、照れくさそうに笑った。
「別に、私の仕事だし。それに、玲もちゃんと会長の仕事してるでしょう。」
「そうかな。」
「してるよ。……たまに、変なところで格好つけるけど。」
「それは、仕事とは関係ないと思うんだけど。」
「関係ないから言ってるんだよ。」
玲は、反論を諦めた。
幼い頃からの付き合いというものは、時として厄介である。
自分がどれほど落ち着いた態度を取ろうとも、真帆には、昔から変わらない部分まで見透かされてしまう。
もっとも、だからこそ、こうして気兼ねなく話せるのだろう。
玲は、ファイルを鞄へ収めた。
そのとき、生徒会室の扉が控えめに叩かれた。
「……あの、失礼します。」
栞が顔を覗かせた。
「月白先輩、明日、連邦生徒会へ行かれるんですよね。」
「うん。そうだよ。」
栞は、両手で抱えていた薄い封筒を差し出した。
「これ、会計の資料です。もし予算のことを聞かれたら、必要になるかもしれないので……。」
「ありがとう、栞。」
玲が封筒を受け取ると、栞は少し安心したように微笑んだ。
「……あの、それと。」
「うん?」
「どうか、お気をつけて。」
栞は、少しだけ視線を伏せた。
「最近、連邦生徒会の方も大変そうですし……。月白先輩まで、何か困ったことになったら……。」
玲は、その言葉に小さく目を細めた。
栞は、いつもこうして人のことを心配する。
自分の仕事だけでも大変なはずなのに、誰かが忙しそうにしていると、放っておけないらしい。
「大丈夫だよ。」
玲は、穏やかに答えた。
「私は、学校の用事を済ませに行くだけだから。」
「……はい。」
「それに、向こうがどれほど大きな組織でも、私たちが守りたいものは変わらないでしょう。」
栞が顔を上げた。
玲は、窓の外へ目を向けた。
校庭では、数人の新入生が何やら楽しそうに話している。
その姿を見ながら、玲は少し考えた。
今の言葉は、なかなか悪くない。
せっかくなら、もう少しだけ続けてみてもいいだろう。
「……大きな場所へ行くからといって、自分まで大きく見せる必要はない。私は、黎明の生徒会長として、そこに立てばいいんだ。」
言い終えてから、玲は内心で頷いた。
うむ。
実に、よい。
少々格好をつけすぎた気もするが、今の自分の立場を考えれば、それほど不自然な言葉でもないだろう。
栞は、しばらく玲を見つめていた。
それから、胸の前で小さく手を握った。
「……月白先輩は、すごいですね。」
「……え?」
「私だったら、きっと緊張してしまうと思うんです。でも、先輩は、ちゃんと自分のするべきことを考えていらっしゃるから……。」
玲は、少しだけ困った。
実際には、かなり緊張している。
それも、行政手続きのことより、原作に登場する人物と会えるかもしれないという、少々不純な理由によって。
しかし、栞の真剣な表情を前にして、それを正直に説明するのも気が引けた。
「……そんなに大したことじゃないよ。」
玲は、微笑んだ。
栞は、なぜかますます感心したように頷いた。
その横で、真帆が小さく笑っている。
「栞、あんまり玲を褒めると、明日もっと格好つけちゃうよ。」
「……えっ?」
「真帆。」
「ほら、今もちょっと嬉しそう。」
「……そんなことはないよ。」
玲は、努めて平静を装った。
もちろん、嬉しくないわけではなかった。
尊敬する先輩として見られるのは、実に心地よい。
ただ、それを顔に出してしまうのは、少々格好がつかない。
真帆は、そんな玲を見て、ますます楽しそうに笑った。
♢
訪問前日の夜、玲は自室の机に向かっていた。
窓の外には、春の夜空が広がっている。遠くを走る車の音が、ときおり静かな住宅街を通り過ぎ、机の上では、端末の画面が淡い光を放っていた。
玲は、真帆から渡された資料をもう一度確認していた。
運営計画。
施設の利用状況。
予算案。
在籍生徒数の推移。
必要なものは揃っている。
相談したいことも、頭の中では整理できていた。
それでも、玲の意識は、どうしても別のことへ向かってしまう。
連邦生徒会。
七神リン首席行政官。
そして、先生。
玲は、端末を閉じた。
もし、原作の物語がすでに始まっているのなら、先生はもうキヴォトスへ来ているのだろうか。
それとも、まだ到着していないのだろうか。
原作の冒頭では、先生が連邦生徒会へ赴き、そこからシャーレの活動が始まっていったはずである。しかし、その出来事が具体的にいつ起きたのか、玲の記憶は曖昧だった。
まして、今の自分が暮らすキヴォトスは、ゲームの中で描かれていた世界と、すべてが同じとは限らない。
玲は、椅子の背もたれに身を預けた。
かつての自分は、画面の向こうにいる生徒たちの物語を楽しんでいた。
彼女たちの悩みを知り、喜びを知り、ときには悲しい出来事を見届けてきた。
そして今、自分もまた、その世界の一人として生きている。
真帆がいる。
栞がいる。
黎明の生徒たちがいる。
その誰も、玲にとっては、物語の登場人物などではなかった。
ならば、原作に登場する生徒たちも同じだろう。
画面越しに知っていたからといって、彼女たちのすべてを理解しているわけではない。知っているつもりで近づけば、かえって相手を傷つけることもあるかもしれない。
けれど。
玲は、机の上に置かれた資料へ目を向けた。
だからといって、何もせずに見守るだけでいいのだろうか。
自分が知っていることによって、誰かの苦しみを少しでも減らせるのなら。
何かを変えられるのなら。
それを試してみたいと思うことは、そんなにおかしなことではないはずだ。
もちろん、原作の知識を過信するつもりはない。
記憶は曖昧で、知らないことも多い。自分が行動すれば、覚えている展開から外れる可能性もある。
それでも、玲は、最初から関わらないと決めてしまうつもりはなかった。
黎明の生徒会長として学校を守ることと、原作で知った誰かに手を差し伸べること。
その二つは、必ずしも矛盾しない。
むしろ、今の自分には、以前の自分にはなかった立場がある。
小さな学校ではあっても、生徒会長として、ほかの学園と話し合うことができる。必要があれば、協力を申し出ることもできるだろう。
玲は、ふと微笑んだ。
……もっとも。
その機会が訪れたとき、少しくらい格好のよい台詞を口にしてみたいという気持ちも、ないわけではない。
例えば、誰かが自分の抱えている問題を打ち明けてくれたとき。
あるいは、困難な状況に置かれた生徒たちと出会ったとき。
落ち着いた声で、相手の不安を和らげるような言葉を掛けられたら、どれほどよいだろう。
銀白の髪を持つ、謎めいた生徒会長。
その姿には、やはり、そうした振る舞いが似合うと思う。
玲は、しばらく考えた。
そして、少しだけ頬を緩めた。
悪くない。
実に、悪くない。
もっとも、明日の目的は、あくまでも行政手続きの確認である。
連邦生徒会の窓口で、いきなり壮大な台詞を口にする機会など、そうそう訪れないだろう。
玲は、机の上の資料を揃え、鞄へ収めた。
最後に、訪問の確認通知をもう一度確かめる。
日時。
窓口。
必要書類。
すべて、問題ない。
玲は、部屋の明かりを落とした。
明日は、少し早く起きなければならない。
連邦生徒会へ向かう交通機関の時刻も確認してあるし、迷わないように道順も調べてある。
生徒会長として、遅刻するわけにはいかない。
まして、初めて訪れる場所で、道に迷ってしまうなどということは、できれば避けたい。
玲は、寝台へ身を横たえた。
目を閉じると、記憶の中にある連邦生徒会の建物が浮かんでくる。
ゲームの画面で見た、あの場所。
その中で働く人々。
そして、いつか出会うかもしれない、原作の登場人物たち。
玲は、胸の奥に小さな高揚を感じながら、静かに息をついた。
明日、自分が何を見ることになるのかは、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
黎明高等学校の生徒会長として、果たすべき仕事があるということだ。
玲は、その事実を胸に、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
♢
翌朝、玲は予定していた時刻よりも十五分早く目を覚ました。
目覚ましの音が鳴る前に起きられたことには、少なからず満足した。大切な用事を控えた朝に、慌ただしく寝台を飛び出すというのは、どうにも自分の理想とする姿ではない。余裕を持って起床し、身支度を整え、静かな朝の空気の中で一日の予定を確認する。そういう振る舞いこそ、神秘的な生徒会長にはふさわしいだろう。
もっとも、昨夜は連邦生徒会のことが気になって、普段より少し寝つきが悪かった。
早起きできたのも、単に眠りが浅かったからかもしれない。
玲は、その可能性については考えないことにした。
洗面台の鏡には、見慣れた少女の姿が映っていた。肩から背中へ流れる銀白の髪と、朝の光を受けて淡く色を変える紫の瞳。頭上には、今では自分の一部としてすっかり馴染んだヘイローが浮かんでいる。
前世の自分がこの姿を見たなら、きっと随分と騒いだことだろう。
実際、こちらの世界に生まれ変わったばかりの頃は、鏡を見るたびに妙な感動を覚えていたものだった。もっとも、十数年も同じ顔で暮らしていれば、さすがに毎朝驚いているわけにもいかない。
玲は髪を整え、制服の襟元を確かめた。
今日の目的は、黎明高等学校の運営計画に関する相談である。
連邦生徒会へ出向くのは初めてだったが、別に特別な式典へ参加するわけではない。普段どおりの制服で十分だし、何か目立つ装飾を加える必要もない。
ただ、少しだけ丁寧に髪を整えておくことにした。
初対面の相手に与える印象は大切である。
それが原作に登場する人物である可能性を考えれば、なおさらだった。
机の上には、昨夜のうちに用意した鞄が置かれていた。真帆が整理してくれた運営計画の資料、栞から預かった会計記録、訪問の確認通知。必要なものを順番に確かめ、玲は鞄の留め具を閉じた。
準備は整っている。
あとは、道に迷わず辿り着くだけだった。
……それが、少々心配ではあるのだけれど。
♢
黎明高等学校の最寄りの停留所から、行政区へ向かう公共交通機関に乗る。
朝の車内には通学途中の生徒たちが多く、座席の間を行き交う会話には、いくつもの学園の名前が混じっていた。玲の見知らぬ校章をつけた少女もいれば、制服の上に大きな上着を羽織り、眠たそうに窓へ寄りかかっている生徒もいる。
キヴォトスでは、それぞれの学園が一つの街のような規模を持っていることも珍しくない。
そのため、同じ都市圏に暮らしていても、別の学園の生徒と日常的に顔を合わせるとは限らなかった。玲にとって、こうしてさまざまな制服を一度に目にする機会は、意外なほど少ない。
車内の案内表示が切り替わり、次の停留所の名前が映し出される。
玲は窓の外へ目を向けた。
黎明の周辺では、背の低い建物と古い商店が続いていた街並みが、行政区へ近づくにつれて少しずつ姿を変えていった。道路は広くなり、交差点には複数の路線が集まり、遠くにはガラス張りの高層建築が幾重にも重なっている。
歩道を行き交う生徒たちの数も増えていた。
制服の色や形はさまざまで、なかには玲がゲームの中で見覚えのあるものもあった。
青と白を基調とした制服。
装飾の施された黒い上着。
整った襟元に、特徴的な校章。
それらを目にするたび、玲の胸の奥で、何かが小さく弾んだ。
――ああ、本当に。
玲は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
――キヴォトスなんだな。
今さら何を、という話ではある。
生まれてからずっと、この世界で暮らしてきたのだから。
けれど、黎明での日常があまりにも自然になっていたせいで、自分がかつて遊んでいたゲームの世界にいるという事実を、時折忘れそうになることがあった。
朝になれば学校へ行き、真帆と話し、栞と書類を確認し、昼食を取り、授業を受ける。
そんな毎日を送っていると、キヴォトスという世界の特異さは、日常の背景へ溶け込んでしまう。
しかし、今、窓の向こうには、ゲームで見たものとよく似た制服を着た少女たちが歩いている。
彼女たちは画面の中の立ち絵ではなく、実際に街を歩き、誰かと笑い、時には急ぎ足で交差点を渡っている。
その光景を眺めていると、玲は、懐かしさとも興奮ともつかない感情を覚えた。
前世で遊んでいた頃、自分はこの世界をどれほど理解していただろう。
知っているつもりだった。
学園の名前も、登場人物たちの関係も、物語の大きな流れも。
しかし、今こうして街を眺めていると、ゲームの中で描かれていたものが、この世界のほんの一部分にすぎなかったことを思い知らされる。
画面の中には映らなかった道がある。
名前も知らない生徒たちがいる。
そして、玲自身が暮らす黎明高等学校のように、原作では語られることのなかった場所も存在している。
玲は、少しだけ目を細めた。
その事実は、決して寂しいものではなかった。
むしろ、自分の知らないものがこれほど多くあることに、奇妙な喜びを感じていた。
物語の外側にも、確かに世界は続いている。
それを、自分は今、歩いているのだ。
♢
行政区に入る頃には、車内の乗客もずいぶん入れ替わっていた。
窓の外には、連邦生徒会の管轄に属する施設が目立つようになり、道路沿いには案内板や公共機関の建物が続いている。整備された歩道には植え込みが設けられ、朝の陽射しを受けた街路樹が、建物の壁面へ細かな影を落としていた。
玲は、端末に表示した経路案内を確認した。
目的地までは、あと二つ先の停留所で降りればいいらしい。
真帆が送ってくれた地図には、降車後の道順まで丁寧に書き込まれていた。
右へ曲がる交差点。
目印になる建物。
受付のある入口。
さらには、万が一道に迷った場合の連絡先まで添えられている。
玲は、その最後の項目を見つめた。
……そこまで心配されているのだろうか。
確かに、一年生の頃、校内で資料室を探して別の階へ行ったことはある。
しかし、それはもう二年も前の話である。
人は成長するものだ。
玲は、端末を閉じた。
今日こそは、その成長を示してみせよう。
そう思ったところで、隣の座席にいた少女が立ち上がった。
玲も、次の停留所で降りる準備を始める。
車内の案内表示には、行政区の主要施設を示す地図が映し出されていた。
その中に、連邦生徒会の名前を見つけた瞬間、玲の心臓が少しだけ速く打った。
いよいよである。
かつて、画面の向こうにあった場所。
その中心へ、今から自分は向かうのだ。
玲は、静かに息を整えた。
落ち着いて。
あくまでも、落ち着いて。
黎明高等学校の生徒会長として、堂々と振る舞えばいい。
そう自分に言い聞かせながら、玲は停留所で車を降りた。
そして、最初の交差点で、少しだけ立ち止まった。
……右だっただろうか。
それとも、左だっただろうか。
玲は、何事もなかったように端末を取り出した。
成長を示す機会は、どうやらもう少し先になりそうだった。
♢
連邦生徒会の庁舎は、遠くからでも分かるほど大きかった。
行政区の中心に位置するその建物は、周囲の施設とは明らかに異なる存在感を放っていた。広い敷地の奥にそびえる建築は、単に高さがあるというだけではなく、キヴォトス全体を統括する組織の威厳を、形にしたかのような印象を与える。
玲は、歩道の端で足を止めた。
……大きい。
まず、そう思った。
黎明の校舎とは、比べるべくもない。
もっとも、比較すること自体が間違っているのだろう。片や全校生徒が二十人に満たない小規模校、片やキヴォトス全体の行政を担う組織である。
規模が違うのは当然だった。
それでも、実際に目の前にすると、思わず見上げてしまう。
建物の正面には広い通路が設けられ、そこを多くの生徒や職員が行き交っていた。連邦生徒会の関係者らしい制服姿もあれば、各学園から訪れたと思われる生徒たちの姿もある。
玲は、その中に混じって歩き始めた。
周囲の人々は、それぞれの用事に追われているらしく、誰も玲を特別に気に留める様子はなかった。
それが、少しだけ不思議だった。
黎明では、生徒会長として校内を歩けば、誰かしら声を掛けてくれる。
しかし、ここでは、玲は数多くいる訪問者の一人でしかない。
銀白の髪も、紫の瞳も、周囲の視線を集めるほど珍しいものではなかった。
キヴォトスには、さまざまな容姿の生徒がいる。
玲自身も、それはよく知っている。
けれど、こうして大勢の中へ入ると、自分が特別な存在ではないことを改めて実感させられた。
玲は、少しだけ微笑んだ。
それでいい。
今日は、誰かに注目されるために来たわけではない。
黎明の運営計画について、必要な確認をするために来たのだ。
……もっとも。
もし、ここで原作の登場人物とすれ違ったなら、多少は興奮してしまうかもしれない。
玲は、そんなことを考えながら、庁舎の入口へ向かった。
♢
建物の中へ入ると、外の喧騒が少し遠ざかった。
広い吹き抜けの空間には、複数の案内表示が設けられ、受付へ向かう人々の列が整然と続いている。床は磨き上げられ、天井から差し込む光が、淡い模様を描いていた。
玲は、案内板の前で足を止めた。
連邦生徒会の各部署が、階ごとに表示されている。
行政関係の窓口。
各学園からの申請を扱う部署。
施設管理や財務に関する担当部署。
それらの名前を見ていると、連邦生徒会という組織が、想像していた以上に多くの仕事を抱えていることが分かった。
原作では、連邦生徒会の存在は物語の背景として描かれることが多かった。
しかし、現実には、こうした部署の一つひとつで、日々膨大な業務が行われているのだろう。
玲は、少しだけ感心した。
そして、同時に思った。
これだけの組織が混乱しているのなら、黎明の申請が滞るのも無理はないのかもしれない。
玲は、受付へ向かった。
そこでは、連邦生徒会の職員らしい少女が、訪問者への対応を行っていた。制服はきちんと整えられていたが、その表情には、わずかな疲れが見える。
玲は順番を待ち、やがて自分の番が来ると、静かに一礼した。
「おはようございます。黎明高等学校の月白玲と申します。本日、運営計画について相談のお時間をいただいております。」
職員は端末を確認した。
「黎明高等学校……月白玲様ですね。少々お待ちください。」
玲は頷き、用意していた確認通知を提示した。
職員は画面を見比べながら、いくつかの項目を確認していく。
その動作は丁寧だったが、どこか急いでいるようにも見えた。
玲は、周囲の様子へ目を向けた。
受付の奥では、別の職員が端末を操作しながら誰かと連絡を取っている。少し離れた窓口では、訪問者らしい生徒が、提出書類について説明を受けていた。
どの場所でも、仕事は続いている。
しかし、その流れは、どこかぎこちなかった。
玲は、原作の記憶を思い返した。
連邦生徒会長の失踪。
七神リン首席行政官による対応。
そして、先生の到着。
もし、今まさにその混乱の中にあるのだとしたら。
玲は、目の前の職員を見た。
彼女たちは、事情をどこまで知っているのだろう。
会長の不在を知っているのか。
それとも、ただ業務が滞っていることだけを伝えられているのか。
玲には分からなかった。
そして、分からない以上、軽々しく尋ねるべきではないとも思った。
職員が顔を上げた。
「お待たせいたしました。ご予約を確認できましたので、こちらの案内に従って、三階の相談窓口へお進みください。」
「ありがとうございます。」
玲は、案内を受け取り、再び一礼した。
職員は、次の訪問者へ対応を始める。
玲は、その背中を一度だけ振り返った。
忙しそうだった。
疲れているようにも見えた。
それでも、職員は最後まで丁寧に対応してくれた。
玲は、少しだけ考えた。
連邦生徒会の混乱を、原作の物語の始まりとして捉えていた自分は、どこかで、その出来事を遠くから眺めていたのかもしれない。
しかし、今ここにいる職員たちにとって、それは毎日の仕事に直接関わる問題なのだ。
玲は、手元の案内へ目を落とした。
自分もまた、黎明の問題を抱えてここへ来ている。
立場は違っても、何かを守ろうとしていることに変わりはない。
玲は、静かに歩き出した。
♢
三階へ向かう途中、玲は大きな窓の前で足を止めた。
そこからは、行政区の街並みがよく見えた。
広い道路を車両が行き交い、遠くにはいくつもの学園の建物が並んでいる。空はよく晴れており、春の光が街全体を明るく照らしていた。
玲は、しばらくその景色を眺めた。
黎明から見える景色とは、まるで違う。
けれど、その向こうには、同じキヴォトスの空が広がっている。
玲は、ふと、昨夜考えていたことを思い出した。
原作の物語に、どこまで関わるべきなのか。
自分が知っていることを、どこまで使うべきなのか。
その答えは、まだ出ていない。
ただ、今ここへ来たことで、一つだけ分かったことがある。
物語の中心にいる人々も、自分と同じように、この世界で日々を過ごしているのだ。
誰かが仕事をし、誰かが困り、誰かがそれを助けようとしている。
その積み重ねの中で、原作の出来事も起きていくのだろう。
玲は、窓に映る自分の姿を見つめた。
銀白の髪。
紫の瞳。
そして、頭上に浮かぶヘイロー。
かつては画面の向こうにあった世界に、今、自分は確かに立っている。
玲は、少しだけ微笑んだ。
……悪くない。
実に、悪くない。
ただし、今は感慨に浸っている場合ではない。
相談の時間が近づいている。
玲は端末を確認し、歩き出した。
その途中、廊下の向こうから、数人の職員が足早に歩いてくるのが見えた。
彼女たちは小声で何かを話していたが、玲の近くを通り過ぎるときには、自然と会話を控えた。
玲は、特に気に留めず道を譲った。
ただ、そのうちの一人が、手元の資料を抱え直しながら、疲れたように息をついたことだけが印象に残った。
連邦生徒会の混乱は、どうやら玲が想像していた以上に、現場へ影響しているらしい。
玲は、少しだけ眉を寄せた。
自分の学校の問題を相談しに来たとはいえ、今の状況で、どこまで話を聞いてもらえるのだろう。
あるいは、また「確認中です。」と言われて終わるのかもしれない。
それでも、何も分からないまま帰るわけにはいかなかった。
玲は、鞄の中の資料を確かめた。
真帆が整理してくれた運営計画。
栞が用意してくれた会計記録。
そして、昨年度から積み重ねてきた、黎明の学校運営に関する資料。
自分一人でここへ来たとはいえ、決して一人だけの仕事ではない。
玲は、そう思った。
そして、少しだけ背筋を伸ばした。
小さな学校の生徒会長。
それが、今の自分の立場である。
けれど、その小さな学校にも、守りたい日常がある。
玲は、三階の相談窓口へ向かった。
扉の前には、予約者の名前を確認するための端末が置かれていた。
玲は、そこへ自分の名前を入力した。
月白玲。
黎明高等学校生徒会長。
画面に受付完了の表示が現れる。
玲は、静かに息を整えた。
そして、扉の向こうへ足を踏み入れた。
♢
相談窓口の扉を開けると、玲を迎えたのは、紙の匂いと、規則正しく並んだ机の列だった。
広々とした一階の受付とは異なり、三階の一角に設けられた相談室は、いかにも実務を扱う場所らしい落ち着いた造りになっていた。壁際には資料を収めた書架が並び、中央にはいくつかの相談用の机が置かれている。衝立の向こうからは、端末を操作する音や、職員が小声で説明を交わす声が聞こえていた。
玲は入口で立ち止まり、室内を見渡した。
連邦生徒会。
その名から連想していたものは、もっと壮麗で、どこか近寄りがたい空間だった。実際、一階の広間にはそうした雰囲気もあったのだが、少なくともこの部屋に限って言えば、黎明の職員室や生徒会室と、それほど大きな違いはないように思える。
もっとも、机の数は比較にならない。
それに、どの机にも、見ただけで気が遠くなりそうな量の資料が積まれていた。
玲は、自分の鞄を見下ろした。
真帆が用意してくれた書類を、少し多すぎるのではないかと思っていたのだが、どうやら認識を改める必要がありそうだった。
「月白玲様ですね。お待ちしておりました。」
声を掛けてきたのは、連邦生徒会の制服を着た少女だった。
年齢は玲とそう変わらないように見える。濃い色の髪を後ろでまとめ、胸元には所属部署を示す識別票をつけていた。丁寧な口調とは裏腹に、その目元には薄い疲労の色が浮かんでいる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。黎明高等学校の月白玲です。」
玲が一礼すると、少女もそれに応じた。
「連邦生徒会行政委員会・財務室の高瀬と申します。どうぞ、こちらへ。」
案内されたのは、窓際にある相談用の机だった。
向かい合って座ると、高瀬は端末を開き、玲の提出した申請番号を入力した。画面には、黎明高等学校の名前と、これまでに提出された運営計画の履歴が表示されているらしい。
「事前にお送りいただいた資料は確認しております。施設維持計画の変更と、学習設備の更新に関するご相談ですね。」
「はい。現在、確認に時間がかかっていると伺っていますので、手続きの状況と、今後の進め方についてお聞きできればと思いまして・」
「承知いたしました。ただ、最初にお伝えしておきたいのですが、現在、一部の案件については通常の審査期間を超えてお待ちいただいている状況です。本日お越しいただいたことで、直ちに承認できるとは限りません。」
「ええ。それは承知しています。」
玲は穏やかに答えた。
その返事に、高瀬の表情がわずかに和らいだ。
おそらく、同じ説明を何度も繰り返しているのだろう。窓口まで出向いたのだから何とかしてほしいと求める訪問者も、少なくないに違いない。
玲にも、その気持ちは分かる。
黎明の申請だって、できることなら今日中に片づけてしまいたい。しかし、目の前の職員に無理を言ったところで、何かが変わるとは思えなかった。
それに、ここで強引な態度を取るのは、あまり格好よくない。
玲は、膝の上に置いていた鞄を開いた。
「まず、こちらをご覧いただけますか。」
取り出したのは、真帆が整理してくれた運営計画の概要だった。
高瀬は資料を受け取り、最初のページへ目を落とした。
そこには、黎明高等学校の現在の在籍状況と、昨年度からの施設利用計画がまとめられていた。新年度に八人の新入生を迎えたこと、使用頻度の低い交流棟の改修を延期したこと、そして、その代わりに授業で必要となる設備の更新を優先する方針が、順を追って記されている。
「……八人、ですか。」
高瀬が小さく呟いた。
「はい。今年度の新入生です。」
「失礼ですが、昨年度の在籍数から考えると、かなり大きな変化ですね。」
「私たちにとっても、嬉しい変化でした。」
玲は、自然と微笑んだ。
八人。
大きな学園であれば、一つの教室にいる生徒のほんの一部にすぎない人数だろう。
しかし、黎明にとっては違う。
昨年の学校説明会で、初めて訪れた生徒たちの顔を見たときのことを、玲は今でも覚えている。あのときは、実際に何人が入学してくれるのか分からなかった。年末になっても進学先を決めかねている生徒がいて、春を迎えるまで、期待と不安が入り交じった日々が続いていた。
その結果として、八人が入学してくれた。
それは、単なる数字ではなかった。
「ただ、その分だけ、これまでの設備では足りないところも出てきまして。」
玲は、資料の次のページを示した。
「学校としては、使われていない建物を急いで修繕するより、今いる生徒たちの学習環境を整えることを優先したいと考えています。」
「なるほど……。」
高瀬は、資料を読み進めた。
その間、玲は相手の邪魔をしないよう、静かに待った。
やがて、高瀬が端末へ視線を戻した。
「ご事情は理解できました。ただ、こちらの申請については、少し複雑な点がありまして。」
「と、おっしゃいますと?」
「今回の変更は、単純な購入申請ではないんです。もともと施設維持を目的として計上されていた支出を、別の用途へ振り向ける計画になっていますよね。」
「はい。」
「そのため、学習設備の更新が必要かどうかという判断だけではなく、当初の施設維持計画を変更してよいかという確認も必要になります。」
玲は頷いた。
そこまでは、真帆から説明を受けていた。
問題は、その確認がどこで止まっているのか、ということだった。
「その二つは、同じ部署で審査されるのでしょうか。」
「いえ。設備更新の必要性については、こちらの担当部署で確認します。ただ、施設維持計画の変更に関しては、別の部署の審査が必要です。」
「では、設備更新の方は、すでに確認が済んでいるのですか?」
高瀬は端末を操作した。
画面を見つめる時間が、少し長くなった。
「……必要性についての一次確認は、済んでいますね。ただ、正式な処理は、計画変更の承認後という扱いになっています。」
玲は、少し考えた。
「つまり、設備更新の必要性は認められていても、そのための予算を使えるかどうかは、まだ決まっていないということですね。」
「そういうことになります。」
「分かりました。」
玲は、手元の資料へ目を落とした。
ここまでは、予想していた範囲の話だった。
むしろ、設備更新の必要性について、すでに一次確認が済んでいると分かっただけでも収穫である。
真帆に報告すれば、少しは安心してくれるだろう。
しかし、玲が次の質問を考えていると、高瀬が続けた。
「それから、もう一点。現在、計画変更に関する案件の一部は、確認手順の見直しが行われておりまして……。」
高瀬は、そこで言葉を選ぶように一度口を閉じた。
「通常より、判断に時間がかかっている状況です。」
「……そうですか。」
玲は、それ以上すぐには尋ねなかった。
確認手順の見直し。
実に便利な言葉である。
間違ってはいないのだろうが、具体的に何が起きているのかは、ほとんど分からない。
連邦生徒会長の失踪が関係しているのかもしれない。
けれど、それは玲の推測にすぎなかった。
高瀬が説明できる範囲にも、限界があるのだろう。
玲は、少しだけ視線を落とした。
さて、どうしたものか。
ここで「いつ承認されますか。」と尋ねても、答えはおそらく変わらない。
ならば、別の角度から考えた方がよさそうだった。
「高瀬さん。一つ、確認してもよろしいでしょうか。」
「はい、どうぞ。」
「今回の申請について、私たちが提出した計画の内容そのものに、不備はありますか?」
高瀬は端末を見直した。
「現時点では、資料の不足や記載内容の不備は確認されていません。」
「では、追加で説明すべきことがあるわけでもないのですね。」
「はい。少なくとも、こちらの担当部署からは、追加資料の提出をお願いしておりません。」
「ありがとうございます。」
玲は、ゆっくりと頷いた。
書類に不備はない。
設備更新の必要性についても、一次確認は済んでいる。
それでも、計画変更の判断が下りない。
つまり、黎明側でできることは、ほとんど終わっているということだ。
それは安心できる話であると同時に、少々困った話でもあった。
自分たちに問題があるなら、直せばいい。
けれど、相手の事情によって止まっているのであれば、こちらから動かせる部分は限られてしまう。
玲は、窓の外へ目を向けた。
遠くに見える街並みは、午前の光を受けて明るく輝いている。
その下で、いくつもの学園が、それぞれの事情を抱えながら日々を送っているのだろう。
そして、この建物には、その学園たちから寄せられる相談や申請が集まってくる。
玲は、ふと思った。
もし、同じような状況に置かれている学校が、ほかにもあるとしたら。
自分たちと同じように、何もできないまま待っている学校があるのだとしたら。
それは、随分と困ったことではないだろうか。
♢
「……少し、変わったことをお尋ねしてもよろしいでしょうか。」
玲がそう言うと、高瀬は顔を上げた。
「はい。何でしょう。」
「今回の申請は、施設維持計画の変更が認められなければ、学習設備の更新も進められないというお話でしたね。」
「はい。」
「では、施設維持計画の変更が認められなかった場合、私たちの学校は、どうなるのでしょうか。」
高瀬は、少し意外そうな表情をした。
「どうなる、というのは……?」
「申請が却下された場合、ということです。そのとき、私たちは当初の施設維持計画に従って支出を進めることになるのでしょうか。それとも、別の計画を提出し直すことになるのでしょうか。」
高瀬は、しばらく考えた。
「原則としては、当初の計画が有効なままです。ただし、実際の施設状況や予算の執行状況によっては、別途、変更の申請をしていただくこともあります。」
「なるほど。」
玲は頷いた。
つまり、今回の申請が認められなければ、古い計画が残る。
しかし、その古い計画を、そのまま実行できるとは限らない。
交流棟の修繕を延期したのには理由がある。限られた予算を、今必要なものへ回すためだ。
それなのに、変更が認められないからといって、使われていない建物の修繕へ予算を投じるのは、どうにも納得がいかない。
玲は、手元の資料を見つめた。
「……では、もう一つだけ。」
「はい。」
「計画の変更が認められるまで、当初の計画に従って支出する義務はあるのでしょうか。」
高瀬は、すぐには答えなかった。
端末の画面を切り替え、いくつかの規定を確認している。
「義務、ということでしたら……必ずしも、そうではありません。施設の安全確保に必要な支出などは別ですが、計画に記載された支出を、すべて予定どおり実行しなければならないわけではありませんので。」
「そうですか。」
玲は、少しだけ安堵した。
それなら、少なくとも、不要な修繕を急いで進める必要はない。
しかし、学習設備の更新は、相変わらず止まったままである。
玲は、資料の端を指でなぞった。
このままでは、学校のために用意した予算が、学校のために使えない。
それが、どうにも歯がゆかった。
高瀬は、玲の様子を見て、申し訳なさそうに口を開いた。
「ご不便をおかけしていることは、こちらも承知しております。ただ、現在の状況では、どうしても……。」
「いえ。高瀬さんを責めているわけではありません。」
玲は、静かに首を振った。
「むしろ、こうして詳しく説明していただけて、助かっています。」
「……ありがとうございます。」
高瀬は、わずかに表情を和らげた。
玲は、その顔を見ながら、少し考えた。
連邦生徒会の職員たちは、きっと、今の状況を何とかしようとしている。
目の前の高瀬も、ただ規則を読み上げているだけではない。玲の質問に答えるために、何度も資料を確認し、説明の仕方を考えてくれている。
それでも、組織としての判断が下りなければ、できることには限界がある。
玲は、ゆっくりと口を開いた。
「……判断を待つというのは、難しいことですね。」
高瀬が顔を上げた。
「え?」
「いえ。私たちの学校でも、似たようなことがありましたので。」
玲は、少し微笑んだ。
「誰かが決めてくれるのを待っている間にも、時間は進んでしまいます。けれど、だからといって、何もかも自分たちだけで決めてしまうわけにもいかない。」
そこまで言って、玲は少し考えた。
なかなか、よい話の流れではないだろうか。
せっかくなら、ここで一つ、印象に残る言葉を添えてみたい。
玲は、窓から差し込む光へ目を向けた。
「……ただ、私は思うんです。」
声を少しだけ落とす。
「誰かが答えを出してくれるまで、私たちの時間まで止めておく必要はないのでしょうとね。」
言い終えてから、玲は内心で満足した。
悪くない。
実に、悪くない。
何より、今回の相談内容にも合っている。
もちろん、少し格好をつけた自覚はあった。
しかし、こうした場面で自然に言葉を選べるようになったのは、生徒会長として成長した証拠かもしれない。
玲は、そんなことを考えていた。
一方、高瀬は、すぐには返事をしなかった。
その視線は、玲の顔ではなく、机の上に広げられた運営計画へ向けられている。
やがて、高瀬は静かに尋ねた。
「……月白会長は、今回の申請について、どのような結論をお望みですか?」
玲は、少し意外に思った。
「結論、ですか?」
「はい。もちろん、計画変更の承認を希望されていることは分かっています。ただ、それ以外に、何かお考えがあるのではないかと思いまして。」
玲は、しばらく考えた。
承認してほしい。
それは当然だ。
しかし、今日ここへ来たのは、単に承認を急がせるためではなかった。
何が止まっているのかを知り、その間に何ができるのかを考えるためである。
「……そうですね。」
玲は、資料を一枚めくった。
「私たちの学校は、今、少しずつ変わろうとしています。新しい生徒を迎えて、これまで使っていなかった教室にも人が戻ってきました。けれど、その変化に、設備が追いついていないところもあります。」
高瀬は、黙って聞いていた。
「ですから、できるだけ早く環境を整えたいんです。ただ、そのために、連邦生徒会の方々へ無理をお願いしたいわけではありません。」
玲は、少しだけ言葉を選んだ。
「……私たちが知りたいのは、何を待つ必要があって、何なら今から始められるのか、ということです。」
高瀬の指が、端末の上で止まった。
「何を待つ必要があって、何なら始められるのか……。」
「はい。例えば、予算を動かすことはできなくても、設備の選定や、導入の準備は進められます。逆に、今は進めない方がいいこともあるでしょう。そうしたことを、きちんと区別しておきたいんです。」
玲は、そこで小さく笑った。
「せっかく学校が賑やかになったのに、私たちが書類の前で立ち止まっていては、少しもったいないですから。」
高瀬は、玲の言葉を聞きながら、再び資料へ目を落とした。
その表情には、先ほどまでとは違う、考え込むような色が浮かんでいた。
玲は、それに気づいたが、特に不思議には思わなかった。
おそらく、こちらの希望が伝わったのだろう。
そうであれば、ありがたい。
玲は、次に確認したい項目を頭の中で整理した。
しかし、高瀬は、しばらく資料を見つめた後、思いがけないことを口にした。
「……月白会長。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
「はい?」
「確認したいことがございます。今回の申請について、上席のものにも相談させていただきたいのですが。」
玲は、少し驚いた。
上席のもの。
それは、何か問題が見つかったということだろうか。
真帆が整理してくれた資料に、不備があるとは思えない。
それに、先ほど高瀬自身が、資料の不足は確認されていないと言っていた。
玲は、わずかに首を傾げた。
「……何か、気になる点がありましたか?」
「いえ。不備があるということではありません。」
高瀬は、すぐに答えた。
「ただ、少し確認してみたいことがありまして。」
その口調には、どこか慎重な響きがあった。
玲は、相手の様子を見つめた。
どうやら、単純な書類の確認では済まない話になってきたらしい。
とはいえ、ここで慌てても仕方がない。
「分かりました。お待ちしています。」
玲が答えると、高瀬は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。少々お待ちください。」
そう言って、高瀬は資料の一部を端末に表示させたまま、席を立った。
玲は、その背中を見送った。
そして、静かに息をついた。
……さて。
何か、まずいことを言っただろうか。
思い返してみる。
申請の内容を確認した。
計画変更の扱いについて尋ねた。
今できることを知りたいと伝えた。
それから、少しばかり格好のよいことを言った。
うむ。
特に問題はないはずである。
玲は、机の上の資料を揃えた。
高瀬が戻ってくるまで、少し時間がかかりそうだった。
窓の外には、明るい春の空が広がっている。
玲は、その景色を眺めながら、次に何を尋ねるべきかを考え始めた。
♢
財務室の奥にある執務区画では、高瀬が上席の職員に声を掛けていた。
「少し、相談してもいいですか。」
声を掛けられた職員は、端末から顔を上げた。
「どうしたの?」
「黎明高等学校の計画変更申請についてなんですけど……。」
高瀬は、玲から預かった資料を示した。
相手は画面を覗き込み、申請番号を確認する。
「ああ、施設維持費の振替を伴う案件ね。まだ止まってるんだっけ。」
「はい。ただ、申請者の方とお話ししていて、少し気になることがありまして。」
「不備?」
「いえ、そうではなくて……。」
高瀬は、説明の仕方を考えた。
月白玲という少女は、特別に難しいことを言ったわけではない。
むしろ、相談の内容は明快だった。
承認が必要な部分と、今から進められる部分を区別したい。
それだけである。
しかし、高瀬が気になったのは、その質問が向けられた先だった。
現在、連邦生徒会では、一部の決裁手順が通常どおりに進んでいない。
そのため、申請の内容に問題がなくても、最終的な処理を保留せざるを得ない案件がある。
だが、保留になっている案件の中には、最終的な予算執行の承認とは別に、事前の確認や条件整理を進められるものも存在するはずだった。
高瀬自身、それは理解していた。
問題は、そうした作業をどの範囲まで進めてよいのか、現場の担当者が判断しにくくなっていることだった。
通常であれば、上位の決裁へ進める過程で、必要な確認も順に行われる。
しかし、その流れが滞っている現在、どこまでを通常業務として進め、どこからを判断待ちとするのかが、案件ごとに曖昧になっていた。
玲の申請は、その曖昧さを、思いがけず分かりやすい形で示していた。
施設維持計画の変更は、まだ承認できない。
しかし、学習設備の必要性については、すでに一次確認が済んでいる。
そして、当初の施設維持計画に従った支出を、直ちに実行する義務があるわけでもない。
ならば、最終的な承認を待つ間に、学校側が進められる準備について、もう少し具体的な案内ができるのではないか。
それは、連邦生徒会の権限を超える判断ではない。
むしろ、既存の規定に従って、申請者が不必要に立ち止まらずに済むようにするための確認だった。
「……なるほどね。」
説明を聞いた職員は、資料へ目を落とした。
「ただ、それなら、案内を追加するだけでもよさそうだけど。」
「そうなんです。でも……。」
高瀬は、少し考えた。
「今、同じような理由で保留になっている案件って、ほかにもありますよね。」
「あると思うけど。全部を確認するとなると、かなりの数になるよ。」
「はい。ですから、全部を一度に見直すという話ではなくて……。」
高瀬は、玲の資料に記された項目を示した。
「こういうふうに、最終承認を待っている部分と、すでに確認が済んでいる部分が、申請の中ではっきり分かれている案件から、扱いを確認できないでしょうか。」
職員は、しばらく黙って画面を見つめた。
そして、別の資料を開いた。
「……少し待って。似たような案件、確か先週もあったはず。」
二人は、端末に表示された申請履歴を確認し始めた。
♢
その頃、相談室の窓際では、玲が鞄から取り出した小さな手帳に、真帆へ報告する内容を書き留めていた。
設備更新の必要性については、一次確認済み。
施設維持計画の変更は、審査待ち。
当初計画に従った支出は、必ずしも直ちに必要ではない。
玲は、そこまで書いて、少しだけ満足した。
今日ここへ来た甲斐は、十分にあったと思う。
少なくとも、これまで分からなかったことが、いくつか明らかになった。
あとは、高瀬が戻ってきたら、今後の見通しについて、もう少し詳しく尋ねてみよう。
玲は、手帳を閉じた。
その表情は、落ち着いていた。
もっとも、内心では、少しだけ別のことも考えていた。
――そういえば。
連邦生徒会の庁舎へ来たというのに、まだ原作の登場人物には一人も会っていない。
もちろん、会える保証などないのだから、当然といえば当然である。
しかし、せっかくここまで来たのだ。
七神リン首席行政官の姿くらい、遠くからでも見られないものだろうか。
そんなことを考えた自分に、玲は小さく苦笑した。
学校の用事を済ませに来たのだから、余計な期待はしない方がいい。
そう自分に言い聞かせながらも、廊下を誰かが通るたび、つい視線を向けてしまう。
その姿は、窓際に静かに座る、物思いに耽った銀白の少女そのものだった。
少なくとも、遠くから見れば。
玲は、何事もなかったように姿勢を正し、再び窓の外へ目を向けた。
春の光が、磨かれた床の上をゆっくりと移っていた。