高瀬が戻ってきたとき、玲は窓の外を眺めていた。
連邦生徒会の庁舎は高い。今いる三階という数字だけを聞けば、それほどでもないように思えるが、各階の天井が広く取られているため、窓から見下ろす街並みは、黎明高等学校の屋上から眺める景色よりもずっと遠くまで続いていた。行き交う車両、歩道を埋める人々、隣接する建物の屋上に設けられた庭園。そのどれもが春の陽光を受けて輝いており、玲はしばらく、眼下に広がるキヴォトスの風景に見入っていた。
もちろん、ただ景色を楽しんでいたわけではない。
窓硝子に映る自分の姿も、少しばかり気にしていた。
銀白の髪が肩に流れ、紫の瞳が遠い街並みを見つめている。背筋は伸びているが、肩には余計な力が入っていない。片手には閉じた手帳を持ち、もう一方の手は窓枠に軽く添えていた。
実に、それらしい。
何がそれらしいのかと問われれば、玲にも明確な答えはない。ただ、誰かがこの姿を見たなら、きっと何か重大なことを考えている少女に見えるだろう、という確信だけはあった。
実際に考えていたことといえば、帰りにどこかで昼食を取るべきか、という程度なのだが。
「月白会長。お待たせいたしました。」
背後から声が掛かり、玲はゆっくりと振り返った。
急いで振り向いてはいけない。こういう場面では、相手の声が届いてから、ほんの一拍だけ間を置くのがよい。
以前、真帆の前で同じことをしたところ、「聞こえてるなら早く返事して。」と言われたが、ここには真帆はいない。
「……いえ。お気になさらず。」
玲は静かに微笑んだ。
高瀬の隣には、もう一人の職員が立っていた。長い髪を後ろでまとめ、薄型の端末を抱えた少女で、年齢は玲とそう変わらないように見える。高瀬より幾分落ち着いた雰囲気をまとっているが、目元にはやはり疲労が滲んでいた。
「こちら、財務室で計画変更案件を担当している三枝です。今回の申請について、少し詳しく確認させていただきたいとのことで。」
「三枝と申します。お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
玲は窓際から離れ、二人に席を勧められるまま腰を下ろした。
その間、三枝は一度だけ、玲が立っていた窓の方へ視線を向けた。
高瀬から聞いていたのは、黎明高等学校という小規模な学園の生徒会長が、予算変更の相談に来ているという話だった。提出された資料は丁寧に整理され、申請の経緯も明確である。高瀬によれば、本人は審査の遅れを責めることもなく、むしろ現在の手続きで何が可能なのかを知りたがっていたらしい。
その少女が、窓の向こうを見つめていた。
慌ただしい庁舎の中で、そこだけ時間の流れが違うように見えたのは、銀白の髪が春の光を受けていたせいかもしれない。
もっとも、三枝はそうした印象をすぐに頭の片隅へ追いやった。
今は仕事中である。
「まず、黎明高等学校の申請についてですが、設備更新の必要性は、こちらでも確認できています。ただ、施設維持費からの振替を伴うため、最終的な承認はまだ下りていません。」
「はい。先ほど高瀬さんから伺いました。」
「そのうえで、月白会長は、承認までの間に進められる準備を確認したいとお考えなのですね。」
「ええ。私たちの学校には、あまり余裕がありませんので。」
玲は、机に置いた資料へ目を落とした。
「八人の新入生を迎えられたことは、本当に嬉しいんです。ただ、人数が増えたからこそ、今まで見過ごせていた不便も、そのままにはできなくなりました。」
三枝は頷いた。
「事情は理解しています。ですが、現状では、予算の執行を認めることはできません。」
「承知しています。」
玲の返事は、あっさりしたものだった。
三枝は、少し意外そうに目を上げた。
「……よろしいのですか。」
「はい。認められていないものを、無理に認められたことにはできませんから。」
玲は穏やかに答えたが、内心では少々困っていた。
ここで食い下がっても、状況が変わるとは思えない。それに、真帆からは、何ができて何ができないのかをきちんと確認してくるよう言われている。
ただし、学校へ戻って「何もできませんでした。」と報告するのも、できれば避けたい。
それでも真帆は責めないだろう。
責めないだろうが、あの何とも言えない顔で「そっか。じゃあ、次を考えよう。」と言うに違いない。
それはそれで、少し悔しい。
玲は資料の一枚を取り出した。
「……ところで、三枝さん。一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「はい。」
「私たちが今回、使わないことにした予算は、今も施設維持のために確保されている、という理解でよろしいですか。」
「そうなります。変更が承認されるまでは、当初の用途が有効です。」
「では、その予算を使わずに待つこと自体は、問題ありませんね。」
「施設の安全確保に支障がない範囲であれば、直ちに支出する義務はありません。」
「ありがとうございます。」
玲は頷いた。
そこまでは、先ほども聞いた話だった。
ただ、どうにも気になっていることがある。
「……少し、不思議ですね。」
三枝が顔を上げた。
「何がでしょう。」
「私たちの学校では、使う予定だったお金を、使わずに待つことができます。でも、そのお金を必要としている理由は、もう変わっているんです。」
玲は、窓の外へ一度だけ目を向けた。
「古い建物を直すために取っておいたお金が、今は、新しく入ってきた生徒たちのために必要になっている。けれど、手続きの上では、まだ古い建物のためのお金なんですね。」
「……はい。」
「建物は、誰も使わないまま待っていられます。でも、生徒たちは、そうはいきません。」
その言葉に、高瀬が小さく息を呑んだ。
玲は気づかなかった。
というより、今の言い回しが思いのほか綺麗にまとまったことに、少し満足していた。
建物は待てるが、生徒は待てない。
うむ。
これは、なかなかよい。
しかも、ちゃんと実情に即している。
「……月白会長。」
三枝の声に、玲は顔を戻した。
「おっしゃりたいことは分かります。ただ、予算の用途を変更するには、それに応じた審査が必要です。必要性が変わったからといって、担当者の判断だけで資金を移すわけにはいきません。」
「ええ。ですから、動かしてほしいとお願いしているわけではないんです。」
玲は少し考え、それから続けた。
「……動かせないものと、動かしてはいけないものは、同じではないのでしょう?」
三枝の指が止まった。
玲は、その反応に気づいて、わずかに首を傾げた。
今のは、少し分かりにくかっただろうか。
「つまり、私たちの学校では、承認を待たなければ予算を使えません。でも、承認を待つ間に、何も考えてはいけないわけではありませんよね。」
「……ええ。」
「だったら、先に決められることは決めておきたいんです。必要な設備の仕様や、導入する順番、それから、もし申請が認められなかった場合の別の方法も。」
玲は、少しだけ笑った。
「私たちは小さな学校ですから、何かが決まってから慌てて動くより、できる準備をしておく方が、きっと向いているんですよ。」
三枝は、しばらく黙っていた。
その沈黙を、玲は自分の説明が足りなかったためだと考えた。
もう少し具体的に言った方がよいだろうか。
そう思って口を開きかけたところで、三枝が静かに尋ねた。
「……月白会長。先ほど、動かせないものと、動かしてはいけないものは違う、とおっしゃいましたね。」
「はい。」
「それは、今回の予算だけについてのお話でしょうか。」
玲は瞬きをした。
……ん?
質問の意味が、よく分からない。
今回の予算について話していたのだから、当然、そのつもりだった。
しかし、三枝の表情は真剣である。
玲は、少し考えた。
ここで「そうです。」と答えるのは簡単だ。
けれど、せっかく相手が何か深い意味を見出してくれているらしいのに、それを否定するのは、何となく惜しい。
いや、待て。
こういうときこそ、ミステリアスな少女の出番ではないだろうか。
玲は、ゆっくりと目を伏せた。
「……さあ。どうでしょう。」
沈黙が落ちた。
高瀬が、わずかに姿勢を正した。
三枝は玲を見つめたまま、何も言わない。
玲は、内心で歓喜していた。
――よし。
今のは、かなりそれらしい。
質問に直接答えず、かといって相手を拒絶するわけでもない。少しばかり余韻を残し、考える余地を与える。
これぞ、謎めいた少女の振る舞いである。
真帆がここにいたら、きっと「知らないなら知らないって言いなさい。」と言うだろう。
だが、幸いにも真帆はいない。
一方、三枝は別のことを考えていた。
月白玲は、今の連邦生徒会について何か知っているのだろうか。
もちろん、そんなはずはない。
この少女が口にしたのは、学校の予算に関する、ごく一般的な話である。
それでも、今の財務室にとって、その言葉は妙に引っかかるものだった。
決裁が進まない。
だから、何も動かせない。
それが、このところ室内に広がっていた空気だった。
だが、本当にそうなのだろうか。
承認が必要な行為と、既存の権限で進められる確認は、そもそも同じものではない。
予算の用途変更を認めることはできなくても、すでに完了した審査結果を整理し、申請者へ伝えることまで禁止されているわけではない。
そして、今回のように複数の用途が関係する申請では、最終的な承認を待つ間にも、個別の確認事項を整理しておくことに意味がある。
三枝は、端末へ視線を戻した。
少なくとも、財務室の中で、もう一度確認しておく価値はありそうだった。
ただし、これは月白玲が制度の抜け道を発見したという話ではない。
既存の規定をどう運用するかという、実務上の問題である。
それを、今まで見落としていたわけでもなかった。
正確には、通常の手続きが滞っていることで、普段なら自然に進んでいた作業まで、ひとまとめに保留するようになっていたのだ。
そして、その不自然さを、小さな学園の生徒会長が、自分たちの事情から言葉にした。
三枝は、少しだけ息を吐いた。
「……高瀬。後で、確認済み事項の通知について、現行の取り扱いを調べておいてもらえる?」
「はい。過去の事例も確認します。」
「それから、最終承認を待っている案件のうち、事前確認が完了しているものを、いくつか抽出しておいて。」
「承知しました。」
玲は、二人のやり取りを聞きながら、少しだけ驚いていた。
どうやら、何かの検討が始まったらしい。
自分が何か役に立つことを言ったのだろうか。
……いや、さすがにそれは考えすぎか。
財務室の職員なのだから、もともと考えていたことを確認しているだけなのだろう。
玲は、そう納得した。
それにしても、連邦生徒会の仕事は大変そうだ。
前世では、ゲームの中で書類仕事に追われる登場人物を見て、随分と苦労しているものだと思っていた。
だが、こうして実際にその現場へ来てみると、画面の向こうで眺めていた忙しさとは、また違った重みがある。
誰かが決めなければならないこと。
誰かが確認しなければならないこと。
そして、その誰かがいないために、先へ進めなくなっていること。
玲は、ふと、原作のことを思い出した。
連邦生徒会長。
彼女が姿を消したことで、キヴォトスの秩序は大きく揺らぐ。
そして、その混乱の中へ、一人の大人がやって来る。
先生。
自分がよく知っているはずの物語は、もう始まっているのだろうか。
それとも、まだ、その少し手前なのだろうか。
玲には分からなかった。
ただ、少なくとも、この庁舎に漂う慌ただしさは、原作で描かれた出来事と無関係ではないと確信できた。
玲は、机の上に置かれた端末へ目を落とした。
そこには、いくつもの申請番号が並んでいる。
どの番号にも、その向こうに学校があり、生徒がいる。
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
「……月白会長?」
三枝の声に、玲は顔を上げた。
「失礼しました。少し、考え事を。」
「いえ。こちらこそ、お待たせしてしまって。」
「お気になさらず。」
玲は微笑んだ。
そして、何気なく口にした。
「……人がいなくても、残るものはあるんですね。」
三枝の表情が、ほんのわずかに変わった。
高瀬も、玲へ視線を向ける。
玲は、その反応に気づかなかった。
彼女の頭に浮かんでいたのは、昨年度末に卒業した、黎明の前生徒会長のことだった。
あの人が残してくれた書類や、校内の決まりごと。自分たちが今も使っている資料の中には、卒業した先輩たちが整えてくれたものが少なくない。
人がいなくなっても、その人がしてきた仕事は残る。
それは、学校という場所の、少し不思議で、少し温かなところだと思う。
「……いなくなった人の席を、誰かがすぐに埋められるとは限りません。でも、その人が残したものを、次の誰かが使うことはできるのでしょう。」
玲は、穏やかな声で続けた。
「……そうして、場所というものは続いていくのかもしれませんね。」
言い終えた玲は、内心で小さく頷いた。
うむ。
今のも、なかなかよい。
少し感傷的だが、決して悪くない。
前生徒会長への敬意も込められているし、黎明という学園の歩みにも通じている。
何より、少し謎めいている。
これで、今日の自分は十分に仕事をしたと言ってよいのではないだろうか。
しかし、三枝は笑わなかった。
高瀬も、すぐには言葉を返さなかった。
玲は、ようやく二人の沈黙に気づいた。
……あれ。
もしかして、重すぎた?
いくら何でも、行政手続きの相談中に、卒業した先輩の話を持ち出すのは唐突だったかもしれない。
いや、そもそも、先輩の話だと説明していなかったか。
これでは、何を言っているのか分からないではないか。
玲は、少し慌てた。
「あの、今のは……。」
「……月白会長。」
三枝が、静かに口を開いた。
「差し支えなければ、一つ伺ってもよろしいでしょうか。」
「はい。」
「今のお話は、どなたかを思い浮かべておっしゃったのですか。」
玲は、わずかに目を見開いた。
鋭い。
実際、前生徒会長のことを考えていたのだから、当然といえば当然だ。
しかし、ここで素直に「卒業した先輩です。」と答えると、せっかくの余韻が消えてしまう気がした。
……いや、待て。
またしても、謎めいた少女として振る舞う絶好の機会ではないか。
玲は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……どうでしょうね。」
三枝の指先が、端末の縁で止まった。
「ただ、その人が何を残したのかは、きっと、そこにいる人たちが一番よく知っているのでしょう。」
玲は、静かに微笑んだ。
完璧である。
これ以上ないほど、それらしい。
少なくとも、玲自身はそう思った。
三枝は、何も言わなかった。
高瀬も、ただ黙っていた。
その沈黙が、玲には心地よい余韻に感じられた。
だが、二人の職員にとっては、決してそうではなかった。
連邦生徒会長が姿を見せなくなっていることは、一般の学園へ公表されていない。
庁舎の内部でも、事情を詳しく知る者は限られている。
三枝が把握しているのも、通常の決裁経路に変更が生じ、一部の案件について上位の判断を待っているということまでだった。
それでも、月白玲の言葉は、あまりに現在の状況と重なっていた。
いなくなった人。
埋められない席。
残されたもの。
そして、それを使って場所を続けていく人々。
偶然だろう。
おそらく、偶然に違いない。
しかし、三枝は、その偶然をすぐには忘れられそうになかった。
目の前の少女は、連邦生徒会の事情を探ろうとはしない。
ただ、何かを知っているような言葉を残し、その意味を尋ねられると、曖昧に微笑む。
まるで、こちらが何を考えているのかを、最初から承知しているかのように。
もっとも、玲が実際に考えていたのは、別のことだった。
――ふふ。
今日の私は、少し格好よすぎるのではないだろうか。
帰ったら真帆に話してみようか。
いや、やめておこう。
きっと、「仕事の話はどうなったの。」と聞かれる。
それでは、せっかくの余韻が台無しである。
♢
相談が終わったのは、それから十分ほど後のことだった。
三枝は、確認済みの事項と今後の取り扱いについて、改めて玲へ説明した。予算の執行を伴わない準備は進めて構わないこと、正式な承認が下りるまでは購入契約を結ばないこと、そして、財務室内で確認が必要な事項については、後日、連絡するという内容だった。
玲は一つ一つを手帳へ書き留め、最後に資料を揃えた。
「本日は、お忙しいところありがとうございました。」
「こちらこそ。丁寧にご説明いただき、助かりました。」
三枝は、玲が鞄へ書類を収める様子を見つめた。
机の上には、真帆が作成した概要資料と、栞がまとめた会計報告が、最後まで整然と並んでいた。
資料の質は高い。
だが、それ以上に印象に残ったのは、月白玲が、その書類を自分一人の成果であるかのように語らなかったことだった。
質問に答える際にも、何度か「副会長が確認してくれました。」「会計担当がまとめてくれた数字です。」と説明していた。
学校の規模は小さい。
しかし、その中で、それぞれが自分の役割を果たしているのだろう。
三枝は、ふと思った。
この少女は、学校を大きく見せようとはしていない。
自分自身についても、何か特別な能力があると主張することはない。
それなのに、時折、妙に遠くを見ているような言葉を口にする。
不思議な生徒会長だった。
「……月白会長。」
帰り支度を終えた玲へ、三枝が声を掛けた。
「はい。」
「最後に、一つだけ。」
「何でしょう。」
三枝は、少し迷ってから尋ねた。
「今回、わざわざお一人でこちらへいらしたのは、何か理由があったのでしょうか。」
玲は瞬きをした。
理由?
もちろん、ある。
真帆と栞には学校の仕事があるし、そもそも生徒会長としての相談なのだから、自分が行くべきだと思ったのだ。
それに。
――原作の舞台を、自分の目で見てみたかった。
という、非常に個人的な理由もある。
むしろ、後者の割合が少なくないことについては、あまり深く考えないことにしている。
玲は、少しだけ微笑んだ。
「……誰かに任せることも、できたのでしょうね。」
三枝は黙って聞いていた。
「でも、自分の目で確かめなければ、分からないこともありますから。」
玲は、静かに続けた。
「……それに、いつまでも誰かの背中を追いかけているわけには、いきません。」
その言葉を口にした瞬間、玲は、ほんの少しだけ胸が熱くなった。
前世では、画面の向こうにいた人々。
自分は、彼女たちの物語を知っていた。
けれど、今は違う。
ここには、自分の学校がある。
守りたい日常があり、力になりたい友人たちがいる。
原作の登場人物たちに会うことは、もちろん楽しみだ。
しかし、ただ物語を眺めるだけでは、もう満足できない。
玲は、自分自身の足で、この世界を歩いてみたかった。
その思いが、自然と先ほどの言葉になったのだった。
三枝は、玲を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうですか。」
その表情は、どこか複雑だった。
玲は、相手が何を考えているのか分からなかったが、これ以上説明する必要もないように思えた。
最後にもう一度礼を述べ、相談室を後にする。
扉が閉まる直前、高瀬が小さく頭を下げるのが見えた。
それを見て、玲も静かに微笑みを返した。
♢
廊下へ出ると、庁舎の空気は相変わらず慌ただしかった。
資料を抱えて歩く職員、端末を耳に当てて誰かと話す少女、壁際に立って連絡を確認している生徒。先ほどまでは、その忙しさを少し遠いものとして眺めていたが、今は、その一つ一つに、誰かの学校や生活が関わっているのだろうと思える。
玲は、手帳を開いた。
今日確認できたことを、もう一度読み返す。
設備更新の必要性は確認済み。
予算の振替は承認待ち。
契約を伴わない準備は進められる。
追加の連絡は後日。
悪くない。
少なくとも、何も分からないまま帰ることにはならなかった。
真帆にも、胸を張って報告できるだろう。
玲は端末を取り出し、短い連絡を送った。
『相談、無事に終わったよ。今から帰るところ。』
少しして、返信が届く。
『お疲れさま。ちゃんと用事は済んだ?』
『うん。いろいろ確認できた。』
『よかった。帰り道、迷わないでね。』
玲は、画面を見つめた。
……どうして、そうなる。
確かに、行きの乗り換えでは少し迷った。
しかし、あれは案内表示が分かりにくかっただけである。
決して、方向音痴というわけではない。
玲は、少しだけ不満を覚えながら返信した。
『大丈夫。道は覚えてる。』
すると、すぐに返事が来た。
『そう言って、去年も反対方向の電車に乗ったよね。』
玲は、静かに端末を伏せた。
過去の失敗をいつまでも覚えているのは、友人としてどうなのだろう。
もっとも、そのとき真帆に電話して助けてもらったのだから、強くは言えないのだが。
玲は小さく息を吐き、端末を鞄へしまった。
そして、何事もなかったように歩き始めた。
銀白の髪を揺らし、落ち着いた足取りで廊下を進む少女の姿は、傍目には、用事を終えて帰路につく生徒会長そのものだった。
少なくとも、本人が乗り換え案内をもう一度確認しようか迷っていることまでは、誰にも分からなかった。
♢
一方そのころ、相談室では三枝が、玲の残した申請資料を改めて確認していた。
高瀬は隣の席で、過去の類似案件を調べている。
「……三枝さん。」
「何?」
「あの方、少し不思議でしたね。」
三枝は、端末から顔を上げなかった。
「そうね。」
「何というか……時々、こちらが聞いていないことまで分かっているような話し方をされるので。」
「……ええ。」
「でも、専門的なことを説明すると、普通に質問されるんですよね。」
三枝は、思わず小さく笑った。
「そこが、かえって不思議なのよね。」
月白玲は、制度の細部を理解しているわけではない。
実際、財務室の説明を聞いて、何度か考え込んでいた。
それなのに、時折、妙に核心へ近づくような言葉を口にする。
そのうえ、問い返すと、答えを明確にしない。
あれが意図的なものなのか、単にそういう話し方をする少女なのか、三枝には判断できなかった。
ただ、一つだけ気になることがある。
「……高瀬。」
「はい。」
「月白会長が、誰かの不在について話していたときのこと、覚えている?」
「ええ。『いなくなった人の席を、誰かがすぐに埋められるとは限らない。』というお話ですよね。」
「そう。」
三枝は、少し考えた。
「あれは、学校のことだったのかしら。」
「……どうでしょう。」
高瀬も、すぐには答えられなかった。
黎明高等学校は、今年度、新しい生徒を迎えたばかりである。
卒業した生徒もいるだろうし、学校の運営を引き継いだ経験があっても不思議ではない。
普通に考えれば、そうした話なのだろう。
だが、三枝の頭には、別の光景が浮かんでいた。
上位の判断を待つ書類。
いつもより静かな執務区画。
そして、誰も詳しく説明しようとしない、現在の決裁の遅れ。
あの少女は、何を見ていたのだろう。
窓の外か。
それとも、もっと別の何かか。
三枝は、小さく首を振った。
考えすぎだ。
ただの申請相談である。
玲が何を知っているのか、確かめようもない。
それより、今は目の前の仕事を進めるべきだった。
「……とにかく、確認済み事項の通知について、財務室内で検討しましょう。今回の申請だけでなく、同じ状況の案件にも関係するかもしれないから。」
「はい。」
高瀬は頷いた。
三枝は、端末に新しい検討記録を作成した。
件名は、保留案件における確認済み事項の通知について。
参考資料として、黎明高等学校の申請番号を添える。
そして、備考欄に、申請者の名前を記した。
月白玲。
その名前を入力したところで、三枝は、ふと手を止めた。
あの少女は、最後にこう言っていた。
いつまでも誰かの背中を追いかけているわけにはいかない、と。
それは、小さな学園を背負う生徒会長としての決意だったのだろう。
そう考えれば、何も不思議なことはない。
しかし。
――誰の背中を、追いかけていたのだろう。
三枝は、そんな疑問を抱いた。
そして、その疑問に答えが出ないまま、端末を閉じた。
♢
玲が足を止めたのは、階段へ向かう途中のことだった。
廊下の壁に、連邦生徒会の組織図が掲げられていた。
財務室、統括室、そして、いくつもの部署の名称。
その最上部に記されているのは、連邦生徒会長という役職だった。
玲は、何気なく、その文字を見つめた。
前世では、何度も目にした役職。
物語の始まりに深く関わりながら、その姿を直接見る機会は限られていた人物。
連邦生徒会長。
彼女は今、どこにいるのだろう。
玲には分からない。
原作の知識があるとはいえ、すべての出来事を正確に覚えているわけではないし、この世界が、記憶の中の物語と寸分違わず進んでいる保証もない。
ただ、今の連邦生徒会に、何かが起きていることだけは確かなようだった。
玲は、組織図の最上部へ視線を向けたまま、しばらく考えた。
自分は、何をするべきなのだろう。
原作を知っているからといって、すべてを変えられるわけではない。
けれど、知っているからこそ、手を伸ばせる場面もあるはずだ。
少なくとも、目の前で困っている人を見たときに、何もしない理由にはしたくなかった。
玲は、静かに息を吐いた。
「……空席、か。」
思わず、声が漏れた。
その瞬間だった。
「……何か、気になることでも?」
背後から、落ち着いた声が掛かった。
玲は、ゆっくりと振り返った。
そこには、連邦生徒会の制服を着た、一人の少女が立っていた。
玲は、その顔を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、息を止めた。
――あ。
記憶の中にある姿と、目の前の少女の姿が重なった。
見覚えがある。
それも、ただの見覚えではない。
玲は、思わず相手の名前を口にしそうになった。
しかし、寸前で思いとどまった。
まだ、相手は名乗っていない。
ここで突然名前を呼べば、いくら何でも不自然だろう。
玲は、できるだけ自然な表情を作った。
「……いえ。少し、考え事をしていただけです。」
少女は、玲の視線の先にある組織図へ目を向けた。
それから、静かに玲を見た。
「そうですか。」
その声は、落ち着いていた。
玲は、胸の奥で、少しずつ高まっていく鼓動を感じていた。
連邦生徒会。
原作の登場人物。
そして、目の前にいる少女。
どうやら、今日という日は、まだ終わらないらしい。