執政に転生って…そりゃないよ… 作:おーまいぐっどねす
最初に違和感を覚えたのは、鼓動が聞こえないことだった。
胸の奥にあるはずの規則正しい振動がない。息を吸おうとしても、肺が膨らむ感覚すら曖昧だった。それなのに苦しくはなく、身体の隅々まで意識が行き届いている。眠りから覚めたばかりのはずなのに、頭だけは奇妙なほど冴え渡っていた。
ゆっくりと目を開く。
そこは見知らぬ場所だった。
白とも銀ともつかない床が、遠くまで続いている。天井を支える柱はあるものの、その先は霞んでいて見通せない。空間全体が淡い光に満たされており、窓らしいものがないにもかかわらず、影は不自然なほど薄かった。
何よりおかしいのは、その光景に見覚えがあることだった。
いや、正確には違う。
見た記憶などない。それでも、ここが何のための場所で、どのような存在が立ち入ることを許されるのか、考えるより先に理解できてしまう。
(……何だ、ここ)
立ち上がろうとして、ようやく自分が最初から立っていたことに気付いた。足元を見下ろすと、黒を基調とした見慣れない衣装が視界に入る。薄い布地が幾重にも重なり、わずかな動きに合わせて静かに揺れていた。
そして、その下にある脚が妙に細い。
違和感を覚えて両手を持ち上げる。ほっそりとした指先、長い爪。腕は黒に近い色を帯び、皮膚には赤い眼を思わせる紋様が浮かんでいた。
「……は?」
声が出た。
自分の知るものとは、まるで違う声だった。低く落ち着いた響きを持ちながら、明らかに女性の声だ。
慌てて喉へ手を当てる。もう一度声を出すと、今度は少し高くなった。発声に伴う喉の振動は感じられるのに、どこか他人の声を聞いているようで気味が悪い。
「いや、待て。ちょっと待て……」
言葉とは裏腹に、頭の中は妙に静かだった。
本来ならもっと取り乱してもおかしくない。知らない場所で目覚め、身体が女性になっている。それだけでも十分に異常なのに、呼吸も心拍も必要としていないらしい。
なのに、混乱の一方で、もう一つの思考が淡々と身体の状態を確認している。
呼吸機能に異常なし。生命活動にも支障なし。そもそも、この身体に人間の生命活動を維持する必要はない。
そこまで理解してから、思わず顔をしかめた。
(……生命活動を維持する必要がない? どういうことだよ)
確かめようと視線を動かすと、磨き上げられた床に自分の姿が映り込んでいた。
長く豊かな白い髪。金色の瞳。その瞳孔には、花弁を重ねたような独特の模様がある。黒を基調とする衣装も、腕の赤い紋様も、どこかで見た覚えがあった。
記憶の奥から、一つの名前が浮かび上がる。
ロノヴァ。
その瞬間、周囲の空気が変わったように感じられた。
否。空気など変わっていない。名前を認識したことで、これまで曖昧だった情報が、一斉に意味を持ち始めたのだ。
死の執政。
天理によって生み出された四つの影の一柱。
テイワットにおける死の法則を司る存在。
「…………」
もう一度、床に映る自分を見下ろした。
記憶にある原神の登場人物と、そこに映っている女性の特徴が一致する。認めたくなくて視線を逸らしても、身体の奥から湧いてくる知識が、その結論を否定させてくれなかった。
「……よりによって、ロノヴァかよ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
七神でもなければ、名もない魔神でもない。
天理の影。
しかも、死を司る執政。
転生先としては、あまりにも規模が大きすぎた。
落ち着いて状況を整理しようとしたのは、それからしばらくしてのことだった。
まず前世の記憶を確かめる。
自分は日本で暮らしていた、ごく普通の男性だった。仕事をして、帰宅して、食事をして、空いた時間にはゲームを楽しむ。そんな生活の中で『原神』も遊んでいたし、気に入ったキャラクターの背景設定や世界観について調べることもあった。
少なくとも、神になりたいと願った覚えはない。
まして、女性の神になりたいと思ったことなど一度もなかった。
(最後、何してたっけな……)
記憶を辿る。
昨日の出来事は思い出せる。部屋の様子も、手にしていたスマートフォンも、画面に映っていたゲームも覚えている。だが、そこから現在へ至る過程だけが、ひどく曖昧だった。
交通事故に遭った記憶はない。病院のベッドも、死の間際に見るような光景も思い出せない。
単に記憶が欠けているのか、それとも何の前触れもなくこの存在になったのか。
答えは出なかった。
代わりに、別の記憶が自然と浮かび上がってくる。
天理。
世界に敷かれた法則。
生と死の境界。
死した魂が辿る道筋。
その一つ一つが、長い年月をかけて身につけた知識のように馴染んでいた。
奇妙なのは、それらを知っているという事実に違和感がないことだった。
前世の自分が知らなかったはずのことまで、今の自分には当然のように理解できる。まるで生まれた時から知っていたかのように、必要な情報だけが意識の表層へ浮かび上がってくる。
そして、それを扱うことに抵抗もなかった。
目を閉じ、意識を内側へ向ける。
すると、自分という存在の奥深くに、途方もない力が横たわっていることを感じ取れた。
力と呼ぶのも正確ではない。
何かを破壊するためのエネルギーではなく、世界の仕組みに触れるための権限。それが自分の内側に組み込まれている。
例えるなら、目の前の扉を壊す力ではなく、扉が開くか閉じるかを決める仕組みに手を伸ばせるようなものだった。
(……なるほど。そりゃ執政って呼ばれるわけだ)
試しに指先へ意識を集中させる。
黒い指先に走る赤い紋様が、わずかに明滅した。
それだけで、何かが応じようとする感覚があった。
慌てて意識を引っ込める。
「危な……」
具体的に何が起こるのか、十分に把握していない。にもかかわらず、その力は自分の意思に従おうとしていた。
手足の動かし方を確かめるような気軽さで扱っていいものではない。
さらに厄介なのは、この身体が単なる借り物ではなさそうなことだった。
ロノヴァの知識には、長い歳月の中で培われた判断基準や価値観まで含まれている。人の死を特別な悲劇としてではなく、世界を循環させるために必要な現象として捉える感覚も、その一つだ。
前世の自分なら到底受け入れられなかった考え方が、今は妙に自然に理解できる。
無論、だからといって人が死ぬことを喜ばしく思うわけではない。
ただ、死そのものを否定しようとすることが、どれほど危険な行為なのかは分かってしまう。
(……これ、放っておいたらどっちが本当の自分なのか分からなくなりそうだな)
ふと、そんな不安が胸をよぎった。
前世の自分がロノヴァへ変わったのか。
ロノヴァの中に前世の自分が混ざったのか。
それとも、最初から区別できないほど深く融合しているのか。
今のところ、確かめる方法はない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
自分はもう、人間ではない。
女性になったことへの戸惑いは確かにある。だが、その問題に向き合うより先に、考えなければならないことが山ほどあった。
死の執政となった以上、何も知らずに振る舞えば、自分以外の誰かにまで影響が及ぶ。
それだけは避けたかった。
テイワットを観測する方法は、探すまでもなく理解できた。
正確には、以前から知っている動作を思い出したような感覚だった。
意識を広げる。
すると、閉じていた視界の向こうに、別の光景が重なっていった。
最初に見えたのは雲だった。
白く広がる雲海を抜けると、遥か下方に大地が現れる。山脈が幾重にも重なり、川が谷を縫って流れている。広大な森林の向こうでは、巨大な建造物を囲むように集落が点在していた。
見慣れた地形に似ている。
けれど、同じではなかった。
ゲームの画面越しでは、もっとずっと狭く感じられたはずの世界が、途方もない広がりを持っている。
道なき山々の奥にも人の営みがある。地図に表示されなかった小さな村があり、名も知らない河川のほとりには、見たこともない農地が広がっていた。
そこに暮らす人間たちは、当然ながら自分の視線など気にしていない。
荷物を背負って街道を歩く男。
川辺で洗濯物を叩く女。
焚き火の周りに集まって食事をする子供たち。
遠くでは、武器を手にした集団が何かを争っている。
どれも、原神のゲーム画面には存在しなかった光景だった。
「……広いな」
思わず呟く。
ゲームの世界が、現実の大きさを持ってそこに存在していた。
知っている地名もある。見覚えのある建造物も、いくつか見つけられた。だが、そこにあるものの大半は自分の知らないものだった。
そして、観測を続けるうちにもう一つ気付く。
今は、原作が始まる遥か以前の時代らしい。
前世の知識とロノヴァ自身の時間感覚を照らし合わせる限り、後に七国を治める神々の顔ぶれも、まだ定まっていない。
魔神たちが各地に勢力を築き、人間はそれぞれの神の庇護の下で生きている。争いの絶えない時代だ。
どこかで国が生まれ、別の場所では集落が滅ぶ。
観測できる範囲を少し広げただけでも、人間たちの生活が決して穏やかではないことが分かった。
(魔神戦争の頃か……)
どうやら原作開始までは、数千年単位の時間が残されているようだった。
その事実に、奇妙な高揚を覚える。
かつて画面越しにしか見ることのできなかったテイワットが、今は目の前にある。
モンドの風。
璃月の山々。
稲妻の海。
まだ訪れたことのない場所も、ゲームで何度も歩いた土地も、すべてがこの世界のどこかに存在している。
神になったことへの不安とは別に、それらを自分の足で歩いてみたいという気持ちが湧いてきた。
その考えに気付いたところで、表情が曇る。
「……いや、駄目だろ」
自分の正体を思い出す。
ロノヴァ。
天理の四つの影の一柱。
その存在が、観光気分で地上へ降りる。
考えるまでもなく、面倒なことになりそうだった。
もちろん、降臨するだけで世界が壊れるわけではない。今の自分にも、姿や力を抑える方法はある。
だが、執政としての本質までは簡単に消せない。
何より問題なのは、自分自身の行動だった。
(……絶対、余計なことするだろうな)
前世の原神知識がある。
誰がどこで死ぬのか。
どの事件が後世まで影響するのか。
その全てを覚えているわけではないにしても、重要な出来事についてはある程度知っている。
そんな状態で地上を歩けば、どうなるか。
目の前に、将来死亡することを知っている人物が現れる。
その人物が危険な状況に置かれる。
放っておけば死ぬ。
そして自分には、その死に干渉できる力がある。
そこまで考えて、深いため息をついた。
「……無理だな」
見殺しにできる自信がなかった。
たとえ、その人物の死が後の歴史に大きな意味を持つとしても、実際に顔を合わせてしまえば考えが揺らぐだろう。
そして、自分が下手に介入すれば、将来のテイワットがどうなるか分からない。
原作知識があるからこそ、それが恐ろしかった。
自分の知る未来が、必ずしも唯一正しい未来だとは思わない。
だが、その未来には少なくとも、世界がどのように危機を乗り越えていったのかという情報がある。
それを自分の気まぐれで失うのは、あまりに危険だ。
(どうしたものかな……)
視線を地上から外す。
せっかくテイワットに来たのだ。
このまま何千年も、天上から眺めているだけというのは、さすがにつまらない。
とはいえ、本体が直接降りるのは危険すぎる。
ならば、どうするか。
しばらく考え込んでいたところで、一つの発想が浮かんだ。
「……そうか」
思わず顔を上げる。
自分が強すぎるなら、弱くすればいい。
本体が危険なら、本体でなければいい。
「分身……いや、独立した端末を作ればいいのか」
口にした途端、ロノヴァとしての知識が、その方法を組み立て始めた。
神格を持つ存在が、自らの力を分け与えること自体は不可能ではない。まして自分は執政だ。制約を設けた器に、人格と権能の一部を移すことも、理論上は実現できる。
ただし、完成したものがどのような存在になるのかは、設計次第だった。
本人と常に繋がった単なる人形にするのか。
自律的に判断する存在にするのか。
あるいは、本体とは異なる人生を歩めるほどの独立性を持たせるのか。
主人公は、少し考えてから最後の方法を選んだ。
現地調査をするなら、その場で判断できる方がいい。
人間と接するなら、感情も必要になる。
何より、何千年ものあいだ一つ一つ指示を出し続けるなど、考えただけで面倒だった。
「……よし。案外いけそうだな」
そう言って、主人公は分身の設計に取り掛かった。
後になって思えば、この時点で一つ、大きな勘違いをしていたのだろう。
力を制限することと、行動を制限することは、まったく別の問題だった。
分身の作成には、予想していた以上に細かな調整が必要だった。
まず、執政としての権限を大幅に削る。
天理の影として世界の法則に直接干渉する力は、ほぼ持たせない。死に関する権能も、ごく限定的な範囲に絞る。
分身に与えるのは、魔神と呼ばれる存在に相当する力。
それでも人間から見れば十分すぎるほど強大だが、執政とは比較にならない。
少なくとも、気まぐれ一つで世界規模の死を操作できるような存在にはならない。
(……戦闘能力も抑えた方がいいな。下手に強すぎると魔神戦争に首を突っ込みかねない)
ただ、弱くしすぎれば、それはそれで危険だった。
この時代のテイワットは、決して安全な世界ではない。
人間の国家が生まれては滅び、魔神同士の争いが絶えない。調査を目的としている以上、分身が危険な地域へ足を踏み入れることもあるだろう。
だから、自衛に必要な力は残す。
ただし、周囲の魔神を一方的に圧倒できるほどではない。
次に、知識を制限する。
ここは特に慎重になった。
ロノヴァとしての知識をすべて与えてしまえば、分身が執政の権限や天理の仕組みを理解しすぎる。仮に本人に悪意がなくても、知っているというだけで危険な行動へ繋がりかねない。
そこで、地上で生活するための知識を中心に残すことにした。
言語や一般的な常識。
この世界の地理に関する大まかな認識。
危険な魔神や災害を避けるための最低限の情報。
そして、前世の人間としての記憶。
原神の具体的な展開については、ほとんどを除外する。
(七国とか七神くらいは知っててもいいか。どうせ今の時代じゃ、まだ役に立たない情報も多いしな)
未来の死亡者や、原作における重要事件の細部は持たせない。
分身が歴史を壊す原因になるとすれば、まず原作知識による意図的な介入だと思ったからだ。
そして最後に、本体との接続を切り離す。
常時記憶が同期される状態では、分身が見聞きしたものを通して、本体が地上へ干渉しているのと変わらない。
それでは意味がない。
独立した人格を持たせ、本体が直接命令しなくても活動できるようにする。
ただし、完全に無関係な存在になるわけでもない。
分身に異常が発生した場合、ある程度の兆候を本体側で察知できる余地は残しておく。
観測によって地上の存在を探し出すことも可能なはずだった。
もっとも、その安全策は万能ではない。
分身が完全に破壊されれば、同期されていない記憶は失われる。地上で何を見て、誰と会い、何を経験したのか。そのすべてを本体が知ることはできなくなる。
自分の一部を切り離して、別の人生を歩ませる。
改めて考えれば、随分と大それたことをしようとしていた。
「……まあ、そこは本人にも説明しておくか」
設計を一通り確認し、主人公は小さく頷いた。
強さは魔神級。
死の権能は最低限。
原作知識はほぼ封印。
本体との常時同期もなし。
ここまで制限すれば、たとえ分身が多少好き勝手に動いたところで、世界の根幹に影響するような事態にはならないはずだ。
ただ、一つだけ悩ましい問題が残っていた。
人格である。
調査用の端末なのだから、余計な感情は削った方が安全かもしれない。
しかし、感情のない存在に人間社会を観測させて、どこまで意味のある情報が得られるだろうか。
そもそも、前世の自分は人間だった。
その経験を持っているからこそ、人間の考え方を理解できる。
分身を作る目的は、地上を知ることだ。
ならば、むしろ人間としての感覚は残した方がいい。
ロノヴァとしての神性は抑える。
だが、前世の人格は可能な限りそのまま残す。
自律的に考え、判断し、人間たちと自然に関われる存在にする。
(……うん。それが一番合理的だろ)
何度か設計を見直したが、大きな問題は見つからなかった。
そこで、ようやく実行に移る。
自分の内側にある力の一部を、慎重に切り離していく。
身体から何かが失われるような感覚があった。
痛みではない。
むしろ、長年持ち続けていたものを、初めて手放す時のような感覚だった。
赤黒い光が、目の前に集まっていく。
最初は輪郭すら曖昧だったそれが、少しずつ人の形を取り始めた。
長い白髪。
金色の瞳。
ほっそりとした手足。
顔立ちは本体とほとんど変わらない。ただ、纏っている衣装は簡素で、背後にある神性の気配も遥かに薄かった。
最後に、人格を定着させる。
集まっていた光が収束し、目の前に一人の女性が立った。
しばらく、その女性は動かなかった。
やがて、ゆっくりと瞼が開く。
金色の瞳が、正面にいるロノヴァを捉えた。
「…………」
「…………」
互いに顔を見合わせる。
最初に口を開いたのは、分身の方だった。
「……これ、成功した?」
ロノヴァは一瞬返答に詰まった。
声が、自分とほとんど同じだったからだ。
「ああ。少なくとも、外見と人格の定着は問題なさそうだ」
「そっか」
分身は自分の手を持ち上げ、指を何度か開閉した。
続いて腕を動かし、足元を確かめるように数歩歩く。どこかぎこちない動作ではあったが、身体の操作に大きな問題はないらしい。
やがて、分身はロノヴァへ向き直った。
「……で、私は何をすればいい?」
「まずは状態の確認だ。自分が何者か分かるか?」
「ロノヴァの分身。地上を観測するために作られた独立端末、だろ?」
「そうだ。元の人格については?」
「覚えてるよ。日本人だったことも、原神を遊んでたことも。でも、何が起こるかまではほとんど分からないな」
分身は軽く眉を寄せ、何かを思い出そうとする。
「七国とか、七神の名前はある程度分かる。ただ、話の細かいところは妙にぼやけてる。意図的に削った?」
「ああ。未来を知っているせいで、余計なことをしないようにな」
「なるほどね」
分身は納得したように頷いた。
少なくとも、知識の制限は成功している。
続いて権能の確認を行う。
分身は指先へ意識を集中させ、試すように小さな光を生み出した。赤みを帯びたそれは、しばらく指先で揺れた後、何事もなく消えていく。
「……うわ、出力低いな」
「当然だ。お前には執政としての権限をほとんど渡していない」
「それは分かるけどさ。元の感覚があるから、ちょっと気持ち悪い」
「慣れろ。地上ではその状態が基本になる」
「はいはい」
返事が随分と軽かった。
ロノヴァは、わずかに眉を動かす。
自分自身の人格を元にしているのだから、こういう反応が出ることも想定していなかったわけではない。
ただ、目の前にいるのがほとんど自分と同じ顔の女だと思うと、何とも言えない気分だった。
「それから、死の権能は極力使うな。お前に与えたのは限定的なものだ。死にかけた対象の状態を保つことはできても、傷や病そのものを治すことはできない」
「つまり、死ぬのを少し遅らせるだけ?」
「そうだ。しかも永続的ではない。使うほど痕跡も残るし、対象の状態によっては維持できる時間も変わる」
「万能じゃないわけね」
「当然だろう。万能だったら制限した意味がない」
分身は少し考え込んだ後、素直に頷いた。
「分かった。必要以上に使わない」
「それと、他の魔神に喧嘩を売るな。特に大規模な争いには関わるなよ」
「売らないって。何のために地上へ行くと思ってるんだ」
「観測と調査だ」
「だろ? 分かってるよ」
分身は肩をすくめ、少しだけ笑った。
その仕草があまりに自然で、ロノヴァは思わず黙り込む。
自分も、少し前までああいう話し方をしていたのだろうか。
いや、今でも気を抜けば似たような反応をする。
ただ、ロノヴァとしての知識が馴染むにつれて、物事を考える時の視点が少しずつ変わっていることも感じていた。
目の前にいる分身は、その変化が比較的少ない。
同じ記憶から生まれたはずなのに、わずかな違いが既に現れている。
そして、その違いは恐らく、地上で生活するにつれて大きくなっていくだろう。
「……一つ聞いていい?」
不意に、分身が口を開いた。
「何だ?」
「本体は、地上に降りないの?」
思いがけない質問だった。
ロノヴァは少しだけ目を伏せる。
「今のところ、そのつもりはない」
「ふうん」
「何だ、その反応は」
「いや、せっかく来たのに勿体ないなって」
分身は何でもないことのように言った。
ロノヴァは返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
確かに、勿体ないとは思っている。
前世では画面越しに眺めることしかできなかった世界だ。自分の足で歩いてみたいという気持ちは、今でも残っている。
ただ、それ以上に危険を理解してしまった。
「……私が直接動くと、面倒なことになる可能性が高い」
「だから私を作った?」
「ああ」
「じゃあ、私が代わりに楽しんでくるよ」
あまりにもあっさりした返答だった。
分身は悪びれた様子もなく笑っている。
その表情を見ているうちに、ロノヴァは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「……遊びに行くんじゃないからな」
「分かってるって。観測と調査、だろ?」
「ならいい」
そこで分身は、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、名前は?」
「名前?」
「地上で何て名乗ればいいんだ? ロノヴァってそのまま名乗るのはまずいんだろ?」
「……確かにな」
執政の名を地上で不用意に使わせるわけにはいかない。
だが、別の名前を与えるとなると、何がいいのか。
しばらく考えた末、ロノヴァは小さく首を振った。
「好きに決めろ」
「え、適当だな」
「現地で名乗りやすい名前を選べばいい。国によって言語や文化も違うんだ。無理に一つへ固定する必要もないだろう」
「なるほど。じゃあ、地上に着いてから考えるか」
分身はあっさりと納得した。
ロノヴァは、その様子を見ながら最後の確認を行う。
人格に異常はない。
権能の制限も正常。
本体との記憶同期は停止している。
独立した存在として行動するための機能も整っていた。
これ以上、必要な調整は思いつかなかった。
「……さて」
意識を向けると、二人の前に光の通路が開いた。
その先には、遥か下方へ広がるテイワットの大地がある。
分身は興味深そうに通路へ近づいた。眼下の風景を覗き込み、遠くに連なる山々を眺めている。
「おお……本当に降りられるんだな」
「当然だ。そのために作ったんだから」
「いや、そうなんだけど。実際に見ると結構すごいな」
分身はしばらく地上を眺めていた。
その横顔を見ながら、ロノヴァは最後の注意を口にする。
「いいか。何度も言うが、歴史への過剰な介入は避けろ。特に魔神同士の争いや、人間の国家に関わるようなことは慎重にな」
「分かってる」
「お前に渡した力は小さくないが、無敵ではない。完全に消滅した場合、こちらへ記憶が戻る保証もない」
「それも理解してる。死んだら終わり、ってことだろ?」
「ああ。だから、自分の命も大事にしろ」
その言葉に、分身は少しだけ目を丸くした。
やがて、表情を和らげる。
「……了解。気をつけるよ」
ロノヴァは小さく頷いた。
そこで、もう一つ言っておくべきことを思い出す。
「それと、困っている人間を見つけたからといって、何でも首を突っ込むなよ」
分身が振り返った。
「……何で?」
「何で、じゃない。お前は私の人格を元にしているんだぞ」
「ああ、そういうことね」
分身は少し笑った。
その笑い方が妙に気に障った。
「何がおかしい」
「いや、自分で自分のことをよく分かってるなと思って」
「……だからこそ心配なんだ」
「大丈夫だって。私だって、世界を壊したいわけじゃないし」
分身はそう言って、再び地上へ目を向ける。
少なくとも、その言葉に嘘はない。
本人も本気でそう考えているのだろう。
ロノヴァも、それ以上は何も言わなかった。
目の前にいるのは、限界まで力を制限した自分自身だ。
原作知識も削った。
執政の権能も封じた。
自由に行動するための人格は残したが、それでも世界を根底から変えるような力はない。
何より、分身自身にそんなことをするつもりがない。
これなら、多少予想外の行動をしたところで、大事にはならないだろう。
「……よし。行ってこい」
「了解」
分身は一歩踏み出しかけ、そこで立ち止まった。
「そうだ。本体」
「何だ?」
「もし地上が面白かったらさ、いつかそっちも来ればいいよ」
ロノヴァは思わず瞬きをした。
「……考えておく」
「うん。じゃあ、またいつか」
軽い調子でそう言うと、分身は光の通路へ足を踏み入れた。
白い髪が揺れ、細い背中が光の向こうへ消えていく。
ロノヴァは、その姿が見えなくなるまで黙って見送っていた。
やがて通路が閉じる。
再び、静寂が戻ってきた。
分身との記憶同期は、既に停止している。
今この瞬間から、あちらは本体とは別の時間を生き始めることになる。
「……まあ、大丈夫だろ」
ロノヴァは小さく呟いた。
設計に問題はなかった。
制約も十分に設けた。
何より、自分自身の人格を元にしている以上、考え方もある程度予測できる。
多少の寄り道くらいはするかもしれないが、それも現地調査の一環だと思えばいい。
執政としての務めに戻ろうと踵を返しかけ、ふと地上へ視線を向ける。
今頃、分身はどの辺りまで降りただろうか。
あちらから何が見えるのか、少しだけ興味があった。
だが、せっかく独立させたのだ。
最初から細かく監視していては意味がない。
ロノヴァは観測を切り上げ、静かに歩き出した。
地上へ送り込んだもう一人の自分が、これから何を見て、何を感じ、どのような人生を送るのか。
それを知る日は、まだ遥か先だった。