執政に転生って…そりゃないよ… 作:おーまいぐっどねす
地上編 土の匂い
足の裏に、確かな感触があった。
柔らかな土を踏みしめると、靴底の下で小石がわずかに沈む。山肌を渡ってきた風が白い髪を揺らし、湿った草木の匂いを運んできた。遠くからは水の流れる音が聞こえ、頭上では見慣れない鳥が甲高い声で鳴いている。
「……おお」
思わず声が漏れた。
見上げれば、どこまでも青い空が広がっていた。白い雲がゆっくりと流れ、その向こうには眩しい太陽が輝いている。少し目を細めると、頬に当たる陽光の温かさまで感じられた。
分身はしばらくその場に立ち尽くしていた。
本体だった頃も、テイワットの風景を見ることはできた。高い場所から世界を見渡し、望めば地上の人々の営みを観測することも可能だった。
だが、それだけだ。
どれほど鮮明に観測しようと、風が肌を撫でる感触も、土の匂いも、足元の小石が転がる音も、自分自身の経験にはならなかった。
「……全然違うな」
しゃがみ込み、足元の草を指先で摘まんでみる。
細い葉は思ったより硬く、引っ張ると小さな抵抗を残して千切れた。指に残った青臭い匂いを確かめてから、分身は何となく空を見上げる。
つい先ほどまで、あの遥か上にいたのだ。
正確には、本体がいた場所と今いる場所の関係を、単純な上下で表現するのは適切ではない。それでも人間だった頃の感覚では、天上から地上へ降りてきたという認識が一番しっくりきた。
「さて……まずは現在地か」
立ち上がり、周囲を見渡す。
背後には険しい山並みが連なり、前方には緩やかな丘陵が広がっていた。遠くの谷間には川が流れ、その周囲にまばらな樹木が生えている。
璃月と呼ばれることになる土地の一角。
それくらいは分かる。
しかし、具体的にどの山の麓なのかと聞かれると、途端に自信がなくなった。
「……地図、欲しいな」
当然ながら、ゲームのような便利な地図画面は表示されない。冒険者協会のワープポイントも、七天神像も、今の自分にとっては気軽に利用できる移動手段ではなかった。
そもそも、知っている地名がこの時代にも存在するとは限らない。
魔神戦争の只中にあるテイワットは、分身の記憶に残る世界とは随分と違うはずだった。
もっとも、それは最初から分かっていたことだ。
地上へ降りた目的は、現地を観測し、そこに暮らす人々を知ること。
ならば、まずは人里を探すのが妥当だろう。
「……歩くか」
そう呟いて、一歩踏み出す。
数歩進んだところで、ふと思い立って立ち止まった。
目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んでみる。
肺が膨らみ、冷たい空気が胸の中へ流れ込んでくる。生命維持のためには必要のない動作だったが、身体は人間とほとんど変わらない反応を返してきた。
そのまま大きく息を吐く。
「……うん。悪くない」
少し笑ってから、分身は再び歩き始めた。
前方の谷間には、細い煙が立ち上っている。
どうやら、最初の目的地は見つかったらしい。
人里へ近づくにつれ、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
人の手で切り開かれた畑が現れ、川沿いには踏み固められた道が続いている。道端には粗末な木柵が設けられ、ところどころに魔物を警戒するための見張り台が建てられていた。
やがて、小さな集落が見えてきた。
木と石を組み合わせた家々が十数軒ほど並び、その周囲を簡素な柵が囲んでいる。入口には槍を持った男が二人立っており、行き交う人々の荷物を確認していた。
集落と呼ぶには少し大きく、町と呼ぶにはまだ小さい。
そんな場所だった。
(……思ったより普通だな)
もっとも、何をもって普通とするかは難しい。
服装は前世の日本とはまったく違う。建物も粗末で、道は舗装されていない。遠くでは大きな獣に荷車を引かせている男がおり、家々の間には乾燥させた薬草や薪が積み上げられていた。
それでも、人々の様子は意外なほど見慣れたものだった。
荷物の値段を巡って言い争う商人。
子供を叱る母親。
仕事を終えて腰を伸ばす老人。
仲間同士で笑い合う若者たち。
神々が争う時代であっても、そこに暮らす人間の営みは大きく変わらないらしい。
「そこの娘、止まれ」
入口へ近づいたところで、見張りの男に呼び止められた。
「ん?」
「どこから来た。見ない顔だな」
男は槍を構え直し、分身の姿を上から下まで眺めた。
警戒されるのも無理はない。
長い白髪に金色の瞳。黒を基調とした衣装も、この辺りの人間が着ているものとは明らかに異なっている。
何より、旅人にしては荷物が少なすぎた。
「あー……山の向こうから」
「山の向こう?」
「うん。旅をしてるんだ」
「一人でか?」
「そうだけど」
男の眉間に皺が寄った。
「護衛もなく、こんな時期に?」
隣にいた見張りも、不審そうな顔をしている。
分身はそこで、ようやく自分の返答があまり適切ではなかったことに気付いた。
この時代の街道には魔物が出る。魔神同士の争いも続いているのだから、若い女が一人で山を越えてきたと言われても、簡単には信用できないだろう。
(……これ、最初から失敗してないか?)
何か言い訳を考えようとした、その時だった。
背後から、激しい物音が響いた。
「おい! そっち押さえてくれ!」
振り返ると、荷車の車輪が石に乗り上げ、片側へ大きく傾いていた。積んであった木材が崩れかけ、男が二人がかりで支えている。
周囲の人間が慌てて駆け寄った。
分身も何となくそちらへ視線を向ける。
車輪の軸が歪んでいるらしく、人手だけで持ち上げるのは難しそうだった。
「……あれ、手伝えばいい?」
「は?」
見張りの男が呆気に取られる。
分身は返事を待たずに荷車へ向かった。
「ちょっと失礼」
崩れかけた荷の下に手を入れ、ゆっくりと力を込める。
重い。
人間なら、まず一人では持ち上がらない重さだろう。
だが、今の自分には大した負担ではなかった。
少し持ち上げると、荷車が軋みを上げながら傾きを戻していく。
「……よいしょ」
車体を支えたまま、分身は近くの男に声を掛けた。
「今のうちに車輪、直せる?」
「お、おう!」
男たちは慌てて車輪の下へ木片を差し込み、外れかけていた軸を元に戻し始めた。
その間、分身は荷車を持ち続ける。
数分後。
作業を終えた男が、恐る恐る顔を上げた。
「……もう大丈夫だ」
「了解」
静かに車体を下ろす。
荷車は何事もなかったように地面へ収まった。
周囲が妙に静かだった。
分身が顔を上げると、集まっていた人々が揃ってこちらを見ている。
「…………」
「…………」
(……あ、やったな)
今さらながら、力加減を間違えたことに気付いた。
魔神としては大した力ではない。
しかし人間からすれば、女一人が荷車を持ち上げる光景など、そうそう見られるものではないだろう。
最悪、魔神と疑われるかもしれない。
そう考えて身構えたが、予想していた反応は返ってこなかった。
「……すげえな、嬢ちゃん!」
荷車の持ち主らしい男が、満面の笑みで近づいてきた。
「助かった! あのまま倒れたら、荷が全部駄目になるところだった!」
「……ああ、うん」
「腹は減ってないか? 礼くらいさせてくれ!」
分身は一瞬考えた。
腹が減る必要はない。
食べなくても活動できるし、今のところ空腹らしい感覚もない。
だが、目の前の男は本当に嬉しそうだった。
それに、せっかく地上へ降りたのだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
そう答えると、男は豪快に笑った。
「よし! ついて来い!」
分身は促されるまま歩き出す。
背後では先ほどの見張りたちが何やら話し合っていたが、結局それ以上呼び止められることはなかった。
どうやら、最初の関門は無事に突破できたらしい。
案内されたのは、集落の中央にある小さな食事処だった。
木製の卓と椅子が並び、奥では大きな鍋が火に掛けられている。店内には煮込んだ野菜の匂いが漂い、客たちは木椀を手に談笑していた。
分身が席に着くと、ほどなくして温かな粥と、香草を加えた肉の煮込みが運ばれてきた。
「遠慮せず食ってくれ。うちの婆さんの料理は、この辺じゃ評判なんだ」
荷車の男が笑う。
「へえ……」
分身は木製の匙を手に取り、まず粥を一口食べてみた。
熱い。
次に、穀物の柔らかな甘味が広がる。
噛みしめると、わずかな塩気と香草の香りが混ざり合い、舌の上に残った。
「……美味しい」
思わず呟く。
それを聞いた男が、満足そうに頷いた。
「だろう?」
「うん。これ、何が入ってるの?」
「粟と豆だな。あとは干した山菜を少し。肉は朝方、猟師が持ってきたやつだ」
「へえ……」
もう一口食べる。
決して豪華な料理ではない。
前世の日本なら、もっと手の込んだ食事をいくらでも食べられただろう。
だが、不思議と満足感があった。
温かいものを口にし、それを誰かと一緒に食べる。
ただそれだけのことが、妙に懐かしかった。
(……そういえば、こういうのも久しぶりだな)
ロノヴァとして覚醒してから、どれほど時間が経ったのか。
本体の時間感覚に引きずられていたせいか、正確には分からない。
ただ少なくとも、誰かと同じ卓を囲んで食事をするという経験は、こちらへ来て初めてだった。
「それにしても、嬢ちゃんはどこから来たんだ?」
男が尋ねる。
「山の向こう」
「随分と広い答えだな」
「……まあ、色々あって」
「訳ありか?」
「そんなところ」
男は少し考えた後、肩をすくめた。
「まあ、誰にだって事情はあるさ。悪さしなきゃ構わん」
それ以上は追及してこなかった。
分身としては、ありがたい。
その後も男は、集落のことを色々と教えてくれた。
近くの山では時折魔物が出ること。
この辺りは大きな神の領地から少し離れているため、集落同士で助け合わなければ生きていけないこと。
季節によっては交易路が途絶え、食料の確保に苦労すること。
そして、時には魔神同士の争いが遠くの土地まで飛び火してくること。
どれも、分身にとっては興味深い話だった。
ゲームで語られる魔神戦争は、壮大な神々の争いとして描かれることが多い。
しかし、その時代に生きる人間たちにとっては、もっと身近で切実な問題なのだ。
畑を守る。
食料を蓄える。
子供を育てる。
明日も無事に朝を迎える。
それだけのことが、決して当たり前ではない。
「……大変なんだな」
何気なく呟くと、男は不思議そうな顔をした。
「大変ってほどでもねえさ。昔からこういう暮らしだ」
「そうなの?」
「ああ。もちろん、もっと安全な土地へ行きたいと思うこともあるがな」
男は木椀を傾け、残った汁を飲み干した。
「それでも、ここには家族がいる。畑もある。簡単には捨てられねえよ」
分身は、その言葉を聞きながら小さく頷いた。
彼らにとって、この土地は単なる地図上の一点ではない。
生まれ育った場所であり、生活そのものなのだ。
その後、日が傾くまで集落を歩いて回った。
子供たちが川辺で遊んでいる。
老人が木材を削っている。
家々の間を、煮炊きの煙が漂っていた。
どれも何気ない光景だったが、分身は飽きることなく眺め続けた。
夕方になると、荷車の男が空いた物置を貸してくれた。
寝る必要があるのかは分からない。
それでも、せっかくなので横になってみることにした。
粗末な寝台へ身体を預けると、乾いた藁の匂いが鼻をくすぐる。
窓の向こうでは、虫が鳴いていた。
(……悪くないな、こういうの)
目を閉じる。
天上にいた頃には、静寂しかなかった。
だが、ここには様々な音がある。
人の話し声。
風。
遠くで吠える犬。
薪の爆ぜる音。
そして、自分とは違う誰かが、すぐ近くで暮らしている気配。
それらを聞きながら、分身はゆっくりと意識を落としていった。
翌朝。
分身は集落の人々に礼を告げ、再び旅へ出た。
荷車の男からは、保存の利く食料を少し持たされた。食べなくても問題ないと説明するわけにもいかず、ありがたく受け取っている。
集落を出る時には、見張りの男が声を掛けてきた。
「山道を行くなら気をつけろよ。最近、魔物が増えてる」
「うん。ありがとう」
「見たところ腕は立つみたいだが、油断するなよ」
「分かった」
そう答えて手を振る。
歩き出してしばらくすると、集落は背後の丘に隠れて見えなくなった。
街道は緩やかな坂道へ変わり、やがて山裾に沿って伸びる細い道となる。
分身は周囲の景色を眺めながら、のんびりと歩いていた。
時折、道端に生えている植物を観察してみる。
前世では見たことのない花もあれば、どこか似たような形の薬草もあった。
植物の種類については、ロノヴァとしての知識よりも前世の常識の方が役に立ちそうだった。
もっとも、食用かどうかも分からない草を片っ端から口にするわけにはいかない。
自分が平気でも、人間にとって有害な可能性があるからだ。
「……こういうの、ちゃんと覚えた方がいいな」
地上で暮らす以上、知識はいくらあっても困らない。
そう考えながら道を進んでいた時だった。
遠くから、甲高い悲鳴が聞こえた。
「――っ!」
分身は足を止めた。
声は、道の先から聞こえてきた。
子供の声だ。
続いて、何かが壊れるような大きな音が響く。
獣の唸り声。
人間の叫び。
分身の表情が変わった。
(……魔物か?)
一瞬だけ迷った後、地面を蹴る。
次の瞬間、身体が勢いよく前へ飛び出した。
人間なら数分かかる距離を、わずかな時間で駆け抜ける。
曲がりくねった山道を越えたところで、ようやく状況が見えた。
道の脇に、荷車が横倒しになっている。
車輪は一つ外れ、積んであった布や木箱が周囲へ散乱していた。
その傍らに、幼い少女が立ち尽くしている。
少女の前には一人の男。
片手に短い槍を握り、もう片方の腕から血を流していた。
そして、その二人へ迫っているのは、岩のように硬い背を持つ大型の魔物だった。
魔物は低く唸りながら、男を睨みつけている。
男の足元には、折れた槍の穂先が転がっていた。
どうやら一度は応戦したらしい。
だが、その身体は既に限界に近かった。
「逃げろ、リン!」
男が叫ぶ。
「でも、お父さん!」
「いいから行け!」
少女は泣きながら首を振った。
その瞬間、魔物が地面を蹴った。
巨体が男へ迫る。
男は槍を構え直そうとしたが、負傷した腕が思うように動かない。
間に合わない。
分身はそう判断すると、速度を落とさず踏み込んだ。
魔物と男の間へ滑り込み、迫ってきた角を横から掴む。
凄まじい衝撃が腕へ伝わった。
だが、身体はびくともしなかった。
「……おっと」
分身はそのまま魔物の頭を押し下げる。
抵抗する巨体を地面へ叩きつけ、もう片方の手で首元を押さえ込んだ。
硬い岩のような皮膚。
並の武器では傷を付けるのも難しそうだった。
しかし、今の分身にとっては大きな障害にならない。
魔物はなおも暴れようとしたが、次の瞬間、首を押さえる手に力が込められる。
鈍い音がした。
巨体から力が抜ける。
分身はしばらく様子を確かめ、魔物が完全に動かなくなったことを確認してから手を離した。
「……よし」
立ち上がる。
そこで、背後の二人が呆然とこちらを見ていることに気付いた。
男は口を半開きにしたまま固まり、少女も涙を流した顔で瞬きを繰り返していた。
(……あー、またやったか)
昨日の荷車の一件を思い出す。
どうにも、力加減が難しい。
「……怪我は?」
気を取り直して声を掛ける。
男はようやく我に返ったらしく、慌てて頭を下げようとした。
「あ、ああ……助かった。あんた、いったい……」
「それは後でいい。怪我、見せて」
分身は男へ近づき、血の流れている腕を確認する。
上腕には大きな裂傷があった。
魔物の角で引き裂かれたらしく、衣服は血で濡れ、傷口からはまだ出血が続いている。
かなり深い。
少なくとも、放置していい状態ではなかった。
「……結構ひどいな」
「だ、大丈夫だ。このくらい――」
男はそう言いかけて、ふらついた。
膝が折れかける。
分身は慌てて身体を支えた。
「おっと。無理しない」
「……すまん」
男の顔色は悪かった。
唇からは血の気が引き、額には冷たい汗が浮かんでいる。
出血が続いているのだから当然だ。
だが、分身が本当の危険に気付いたのは、その直後だった。
男の身体に触れた瞬間、奇妙な感覚が指先へ流れ込んできた。
薄い。
何かが、薄くなっている。
それが何なのか、分身にはすぐ理解できた。
肉体と魂の結びつき。
生きている存在が死へ移行する、その境界に生じる変化。
ロノヴァとしての権能が、目の前の男に迫る死を捉えていた。
(……まずい)
男の身体の状態が、これまでとは違う形で認識される。
生命を維持する働きが弱まり、魂が肉体から離れようとしている。
このままでは長く保たない。
分身は反射的に傷口へ手を伸ばした。
だが、その直前で動きを止める。
頭の中に、本体の言葉が浮かんだ。
『死の権能は極力使うな』
『歴史へ過剰に介入するな』
分身は一瞬、男の顔を見た。
名前も知らない。
原作に登場する人物なのかどうかも分からない。
そもそも、こんな時代の行商人について、前世の知識に残っているはずがなかった。
ならば、この男を助けたところで、未来が大きく変わるとは考えにくい。
そこまで思考を巡らせたところで、少女の声が聞こえた。
「お父さん……?」
振り返る。
少女は震える手で、父親の服を掴んでいた。
「お父さん、血が……」
「……リン、大丈夫だ」
男は苦しそうに笑う。
だが、その声には力がなかった。
分身は二人を見比べた。
泣きそうな少女。
必死に笑おうとする父親。
そして、確実に近づいている死。
(……いや)
何を考えているのだろう。
原作がどうとか、歴史がどうとか。
そんなものを判断する以前に、目の前にいるのは死にかけた人間ではないか。
分身は小さく息を吐いた。
「……ごめん。ちょっと痛いかもしれない」
男にそう告げ、傷口の上から衣服を強く押さえた。
出血を減らすためだ。
それから荷車の布を裂き、傷口を圧迫するように巻き付けていく。
前世で知っていた応急処置を思い出しながら、手を動かした。
しかし、男の状態は思ったほど改善しなかった。
既に失われた血液が多すぎる。
出血を抑えても、衰弱した身体がすぐに回復するわけではない。
男の瞼が重そうに下がっていく。
「……おい、寝るな」
分身が呼び掛ける。
「……すま、ん……」
「謝らなくていいから。私の声、聞こえる?」
返事はなかった。
男の意識が遠のいていく。
その瞬間、分身は理解した。
もう、時間がない。
「……仕方ないな」
傷口を押さえていた手に、わずかな赤い光が灯る。
力を込めるのではない。
目の前の男に訪れようとしている終わりへ、ほんの少しだけ干渉する。
肉体から魂が離れる、その移行を遅らせる。
ただ、それだけ。
分身は意識を集中させた。
(……まだだ)
男の生命が、細い糸のように感じられる。
今にも千切れそうなその糸へ、そっと指を添える。
(まだ、死ぬな)
赤い光が、一瞬だけ強くなった。
次の瞬間、男の身体に生じていた変化が鈍くなる。
魂が肉体から離れようとする動きが、わずかに押し留められた。
成功した。
少なくとも、今すぐ死ぬことはない。
分身は小さく息を吐き、傷口から手を離した。
「……よし」
ところが、その表情はすぐに曇った。
「……あれ?」
出血は続いている。
傷口もそのままだ。
男の顔色は悪く、呼吸も弱い。
死へ移行する感覚だけが鈍くなっている。
それ以外、何も変わっていなかった。
(……そうか)
本体の説明を思い出す。
死を保留することはできる。
だが、傷を治すことはできない。
知識として理解していたつもりだった。
しかし、実際に目の前で使ってみると、その意味は想像以上に深刻だった。
(これ……時間を稼いでるだけじゃないか)
死亡への移行を一時的に抑えても、身体そのものは傷ついたままだ。
失った血は戻らない。
傷口も塞がらない。
原因を取り除かなければ、力を解いた瞬間に再び死へ向かい始める。
そして、この状態をいつまでも維持することはできない。
分身は唇を噛んだ。
「……くそ、どうする」
目の前には意識を失った男。
その傍らでは、少女が泣いている。
周囲を見渡す。
山道。
壊れた荷車。
魔物の死骸。
そして、少し離れた先に見える集落の柵。
分身は顔を上げた。
(……あそこだ)
昨日泊まった集落。
まだ、それほど離れていない。
あそこなら、怪我人を診られる人間がいるかもしれない。
「リン、だったよね?」
分身は少女へ声を掛けた。
「……う、うん」
「これからお父さんを運ぶ。ちゃんと治療してもらわないといけないから」
「お父さん、死んじゃうの……?」
少女の声が震える。
分身は一瞬、返答に迷った。
大丈夫だと断言することはできない。
自分の力は、今すぐ死ぬことを少し遅らせているだけだ。
それでも、何もしなければ確実に死ぬ。
ならば、やることは一つだった。
「……まだ分からない。でも、助けるためにできることはある」
少女は涙を拭いながら頷いた。
分身は男の傷口を再び確認し、布を強く巻き直す。
圧迫が緩まないことを確かめてから、男の身体を抱え上げた。
人間一人の重さなど、今の自分には問題にならない。
ただし、乱暴に扱えば怪我を悪化させる可能性がある。
そのため、身体が大きく揺れないよう気をつけながら抱え直した。
「リン、私の服を掴んで」
「……うん」
「絶対に離さないでね」
少女が頷く。
分身は速度を調整しながら、集落へ向かって走り始めた。
腕の中にある男の身体からは、まだ血の匂いが漂っている。
死の気配も消えていない。
それでも、分身は走り続けた。
今はただ、間に合わせるしかなかった。
「誰か! 怪我人を診られる人はいないか!」
集落の入口へ駆け込むと、分身は大声で叫んだ。
見張りの男たちが驚いて振り返る。
「な、何だ!?」
「昨日の嬢ちゃんか!? どうした!」
「魔物に襲われた! この人、血を流しすぎてる!」
男たちの表情が変わった。
状況を理解すると、一人がすぐに集落の奥へ走っていく。
「薬師を呼んでくる! そいつをこっちへ!」
案内されたのは、集落の端にある小さな家だった。
中には薬草の匂いが漂い、壁際には布や木製の器が並べられている。
分身が男を寝台へ下ろすと、ほどなくして一人の老女が入ってきた。
背は低いが、足取りはしっかりしている。
老女は状況を確かめると、無駄な言葉を口にすることなく男の腕へ視線を向けた。
「……ひどいね」
布を外し、傷口を確認する。
老女の眉間に深い皺が刻まれた。
「これだけ血を失って、よくここまで運べたもんだ」
「……助かる?」
分身が尋ねる。
老女はすぐには答えなかった。
傷口を慎重に調べ、男の呼吸や脈を確かめる。
その表情は険しかった。
「まだ分からん。まず血を止めなきゃ話にならない」
「……何をすればいい?」
「湯を沸かしておくれ。それから、そこの布を取って」
分身はすぐに動いた。
老女の指示に従い、必要なものを運ぶ。
傷口を洗うための湯。
清潔な布。
薬草。
細い糸と針。
そして、傷の奥から続く出血を止めるための道具。
老女は手際よく処置を進めていった。
分身はその傍らで、言われた通りに手を動かす。
魔神の力であれば、重いものを持ち上げることなど簡単だった。
だが、今必要とされているのは、そういう力ではない。
傷口のどこを押さえるべきなのか。
どの程度まで血を止めればいいのか。
どうすれば、傷ついた血管を処置できるのか。
分身には、その判断ができなかった。
「そっち、しっかり押さえな!」
「あ、うん!」
「力を入れすぎるんじゃないよ! 潰しちまう!」
「ご、ごめん!」
老女に叱られながら、分身は必死に手を動かす。
傷の奥からの出血を止めるため、老女が細い糸を使い、慎重に血管を処置していく。
分身はその様子を見ながら、男の状態を確かめていた。
死の気配は、まだそこにある。
権能によって移行を遅らせてはいるが、男の身体が限界に近いことは変わらない。
力を維持し続けるほど、分身自身にも負担が掛かっていた。
身体が疲れるというより、意識の一部を無理に引き伸ばしているような感覚だった。
(……長くは保たないな)
分身は奥歯を噛みしめる。
それでも、老女の手は止まらなかった。
処置を進めるごとに、傷口からの出血が少しずつ減っていく。
やがて老女は、最後の布を巻き終えると大きく息を吐いた。
「……ひとまず、血は止まった」
「本当?」
「ああ。ただし、もう失った血は戻らない。今夜を越えられるかどうかは、この男の身体次第だよ」
分身は男の顔を見る。
相変わらず血の気はない。
呼吸も浅い。
だが、出血は確かに止まっていた。
そこで、分身は慎重に権能を弱めてみる。
男の生命が、再び死へ向かおうとする。
しかし先ほどほど急激ではなかった。
傷から血が失われ続けるという最大の危険が、取り除かれていたからだ。
(……まだ駄目か)
すぐに力を戻す。
老女は男の様子を確かめながら、寝台の傍らへ腰を下ろした。
「……あんた、何かしてるね」
不意に、そんな言葉が飛んできた。
分身は思わず顔を上げる。
「え?」
「この男、本当ならとっくに死んでてもおかしくない。脈も呼吸も弱いのに、妙に踏みとどまってる」
老女は分身を見た。
鋭い目だった。
「何者なんだい、あんた」
分身は一瞬、言葉に詰まった。
正体を明かすわけにはいかない。
しかし、誤魔化しきれるとも思えなかった。
「……ちょっと、人とは違うだけだよ」
曖昧な返答だった。
老女はしばらく分身を見つめていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「まあ、いいさ」
「……いいの?」
「人間だろうが魔神だろうが、怪我人を連れてきたことに変わりはないだろ」
老女はそう言って、男の額に浮かんだ汗を拭った。
「それに、あんたが何かしてるんだったら、勝手にやめるんじゃないよ。この男が自分の力で持ち直すまではね」
分身は目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
「……分かった」
老女はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、男の呼吸を確かめながら、必要な処置を淡々と続けていった。
夜になった。
集落の外では虫が鳴き、時折、見張りの男たちが交代する声が聞こえてくる。
薬師の家の中には、かすかな灯りが残っていた。
分身は寝台の傍らに座り、男の様子を見守っていた。
少女――リンは、別の寝台で眠っている。
泣き疲れたのだろう。
父親が助かると聞いても不安が消えなかったらしく、眠る直前まで何度も男の名前を呼んでいた。
男の名は、ヤンというらしい。
交易をしながら各地を回り、娘と二人で暮らしているのだという。
妻は数年前に亡くなった。
その後は男手一つでリンを育ててきたらしい。
そんな話を、薬師の老女から聞いた。
(……そうか)
分身は男の顔へ視線を戻す。
名前を知ったところで、何かが変わったわけではない。
原作に登場する人物でもなければ、後世に名を残す英雄でもない。
ただの行商人。
そして、幼い娘を持つ父親だ。
だが、その事実だけで、分身には十分だった。
「……ふう」
小さく息を吐く。
男の生命は、依然として不安定だった。
死の権能を維持し続けるには限界がある。幸い、出血が止まったことで身体は少しずつ持ち直し始めていたが、完全に安心できる状態ではない。
分身は何度か権能を弱め、その都度慎重に様子を確かめていた。
無理に力を使い続けても、身体そのものが回復するわけではない。
そこが難しい。
(……本体の言ってたこと、こういう意味だったんだな)
知識としては分かっていた。
死の権能は治療の代わりにならない。
しかし、実際に経験するまで、その言葉の重さを理解できていなかった。
もし近くに集落がなければ。
もし薬師がいなければ。
もし、あの老女が傷口を処置できなければ。
自分がいくら死を保留したところで、この男を救うことはできなかっただろう。
死の執政の分身。
魔神級の力を持つ存在。
そんな大層な肩書きがあっても、目の前の人間一人を治すことすらできない。
(……情けないな)
そう思いかけて、分身は首を振った。
違う。
そもそも、全部を一人でやろうとすることが間違っていたのだ。
自分には死を遅らせる力がある。
薬師には傷を治療する知識がある。
どちらか一方だけでは足りなかった。
だから、二人でやった。
それだけのことだ。
しばらくして、寝台の上で男が小さく身じろぎした。
「……ん……」
分身は顔を上げる。
「……ヤン?」
返事はなかった。
だが、男の呼吸は先ほどより落ち着いている。
死の気配も、少しずつ薄らいでいた。
分身は慎重に権能を弱める。
今度は、先ほどのような急激な変化が起こらなかった。
肉体と魂の結びつきが、弱々しいながらも自力で保たれている。
(……いけるか?)
さらに少しだけ力を緩める。
男の呼吸は続いている。
脈も、まだ弱いものの安定し始めていた。
分身はしばらく様子を見守り、ようやく権能を完全に解いた。
赤い光が、指先から静かに消える。
男は死ななかった。
自分の力で、呼吸を続けている。
「…………」
分身は長い間、その顔を見つめていた。
まだ予断を許さない。
傷が悪化するかもしれないし、明日になって容体が急変する可能性もある。
それでも、確かに一つの危機は越えたのだ。
その時、背後から声がした。
「……どうだい?」
振り返ると、薬師の老女が立っていた。
分身は小さく頷く。
「……今は、自分の力で生きてる」
老女は男の脈を取り、呼吸を確かめる。
しばらくして、ようやく表情を緩めた。
「……そうかい」
それだけ言うと、老女は椅子へ腰を下ろした。
疲れたように肩を回し、湯の入った器を手に取る。
「まだ安心するには早いけどね。今夜を越えられれば、助かる見込みも出てくる」
「……うん」
「それにしても、あんたも物好きだねえ」
老女は湯を一口飲み、分身を見た。
「自分とは何の関係もない男だろう?」
「……まあ、そうだね」
「それを、ここまで必死になって助けるとは」
分身は少し考え込んだ。
なぜ助けたのか。
そう聞かれると、改めて説明するのは難しかった。
原作への影響を考えなかったわけではない。
自分の立場を忘れていたわけでもない。
ただ、目の前に死にかけた人間がいて、その傍らで子供が泣いていた。
それを見た時、何もせず立ち去るという選択肢が、どうしても受け入れられなかった。
「……助けられそうだったから、かな」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
老女は目を細める。
「それだけかい?」
「うん。それだけ」
「……そうかい」
それ以上、老女は何も言わなかった。
ただ、どこか満足そうに笑っていた。
分身は寝台の上の男へ視線を戻す。
ヤンは眠っている。
その傍らでは、リンも静かに寝息を立てていた。
二人とも、まだ何も知らない。
自分が死の執政の分身であることも、この世界の未来について少しだけ知っていることも。
そんなものは、彼らにとってどうでもいいことなのかもしれない。
今この場所で大切なのは、父親が生きているという事実だけだった。
(……まあ、いいか)
分身は小さく笑った。
本体に知られたら、何と言われるだろう。
歴史への介入だと叱られるかもしれない。
もっと慎重に行動しろと説教されるかもしれない。
それでも、今回のことを後悔する気にはなれなかった。
少なくとも、目の前の二人を見ている限りは。
翌朝、ヤンは無事に目を覚ました。
もちろん、すぐに動ける状態ではない。出血によって衰弱した身体を回復させるには、まだ長い時間が必要だった。
それでも、意識ははっきりしていた。
リンが寝台へ駆け寄り、父親の手を握る。
「お父さん!」
「……リン」
ヤンは弱々しく笑った。
「心配、かけたな……」
その言葉を聞いた途端、リンの顔がくしゃりと歪んだ。
少女は父親の胸へ顔を埋め、声を上げて泣き始める。
ヤンは困ったように笑いながら、無事な方の腕で娘の頭を撫でていた。
分身は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
昨日までなら、ただの行商人の親子だった。
名前も知らなかった。
自分が関わらなくても、世界は何事もなかったように続いていただろう。
しかし、今は違う。
少女が泣いている。
父親が笑っている。
その光景を見ていると、胸の奥に温かなものが広がっていくようだった。
「……あんた」
ヤンがこちらへ顔を向けた。
「娘から、話を聞いた。本当に……何と礼を言えばいいか……」
「いいよ、礼なんて」
分身は軽く手を振った。
「それより、しばらく大人しくしてなよ。傷、結構ひどかったんだから」
「ああ……そうする」
ヤンは小さく頷いた。
その横で、リンが涙を拭いながら顔を上げる。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
少女は何度も瞬きをしながら、そう言った。
分身は少しだけ目を丸くした。
それから、自然と笑みがこぼれる。
「……どういたしまして」
リンはもう一度父親へ抱きついた。
分身はその様子を見守った後、静かに部屋を出た。
外には朝日が差し込んでいる。
集落の人々は既に動き始めており、あちらこちらから仕事の声が聞こえていた。
昨日と変わらない朝だった。
だが、分身にとっては少し違っていた。
この集落には、自分が命を救った人間がいる。
そして、その人間が今日も生きている。
その事実が、不思議と嬉しかった。
「……さて」
分身は小さく伸びをした。
地上へ降りて、まだ二日ほどしか経っていない。
それなのに、随分と色々なことがあった気がする。
本体から与えられた使命は、観測と調査。
その目的を忘れたわけではない。
ただ、少しだけ考えが変わった。
世界を知るためには、そこに暮らす人間を知る必要がある。
そして人間を知るためには、遠くから眺めているだけでは足りない。
昨日の薬師の老女のように、誰かを助けるための知識を持っている人間もいる。
自分が知らないことを、当たり前のようにできる人間がいる。
(……もっと覚えないとな)
分身は自分の手を見下ろした。
昨日、この手で魔物を倒した。
死にかけた男の命を繋ぎ留めた。
だが、実際に男を生かしたのは、この手だけではなかった。
老女の知識。
集落の人々の協力。
そして、ヤン自身の生きようとする力。
それらが揃って、ようやく一人の人間が助かったのだ。
「……よし」
分身は顔を上げた。
今日は、あの薬師に薬草のことを聞いてみよう。
傷の手当てについても、もう少し詳しく教えてもらいたい。
せっかく地上へ降りたのだから、覚えられることは覚えておきたい。
そう考えながら、分身は薬師の家へ歩き出した。
自分の足元から、遥か未来へ続く道が伸びていることなど、まだ想像もしていなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
昨日、死ぬはずだった男が、今日も生きている。
分身にとっては、それだけで十分だった。