執政に転生って…そりゃないよ… 作:おーまいぐっどねす
ヤンが自分の足で寝台から降りられるようになったのは、あの騒動から二十日ほど経った頃だった。
傷口はようやく塞がり始めていたものの、長く寝込んでいたせいで足腰はすっかり弱っていた。薬師の老女から無理をするなと再三言い聞かされていたにもかかわらず、本人は娘の前で格好をつけたかったらしく、立ち上がった途端に膝を折りかけ、慌てて分身に支えられる羽目になった。
「……何やってんだか」
「いや、面目ない……」
「婆さんにも言われただろ。まだ無理するなって」
「分かってはいるんだがなあ」
情けなさそうに笑う父親の横で、リンが頬を膨らませていた。
「お父さん、言うこと聞かないんだもん!」
「はは……すまん、すまん」
「笑ってごまかさない!」
随分としっかりした娘である。
分身はそのやり取りを眺めながら、少しだけ口元を緩めた。父親の命が危ぶまれていた頃には泣いてばかりだった少女も、今ではすっかり元気を取り戻している。
もっとも、ヤンが少しでも無理をしようとすると、こうして真っ先に叱りつけるようになっていた。父親としての威厳は、あの怪我を境に随分と怪しくなってしまったらしい。
「まあ、歩けるようになったのはいいことだよ。ただ、傷が落ち着くまでは荷車なんて引かないこと」
「……分かった」
「本当に?」
「本当だとも」
分身が疑わしげに見つめると、ヤンは困ったように笑った。
その隣でリンが大きく頷く。
「大丈夫! 私が見てるから!」
「……それは頼もしいな」
思わず笑ってしまった。
こんな会話を交わすようになるとは、少し前までは思ってもいなかった。あの山道で出会った時には、二人の名前すら知らなかったのだ。
それが今では、すっかり顔馴染みになっている。
分身はヤンの傷の経過を確かめる傍ら、薬師の老女から様々なことを教わるようになっていた。最初は怪我の手当てについて尋ねる程度だったが、興味の赴くまま質問を重ねているうちに、いつしか薬草の採取や調合まで手伝うようになっていたのである。
もちろん、数週間で一人前になれるほど簡単なものではなかった。
似たような形の草を取り違え、採取した葉を捨てられたこともあった。薬草を乾燥させる時期を誤って叱られたこともあるし、傷口を見て顔をしかめたところを、そんな顔をするなら外へ出ていろと追い払われたこともある。
それでも、不思議と嫌にはならなかった。
知らないことを知るのは面白い。
何より、覚えた知識がそのまま誰かの役に立つというのは、思っていた以上に気分がよかった。
「……あんた、本当に変わってるねえ」
ある日の午後、薬草を仕分けていた分身に向かって、老女がそんなことを言った。
「何が?」
「その歳で、あれだけ力があるんだ。わざわざこんな婆さんの仕事を覚えなくても、食うには困らんだろうに」
「まあ、そうかもね」
「じゃあ、どうして毎日来るんだい?」
分身は手元の薬草を見下ろした。
乾燥させた葉を種類ごとに分け、状態の悪いものを取り除いていく。少し前までは全部同じように見えた草も、今では匂いや葉脈の違いである程度判別できるようになっていた。
「……次に誰か怪我した時、何もできないのは嫌だからかな」
考えた末、そう答えた。
老女はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「だったら、手を止めるんじゃないよ。そっちの籠も片付けておくれ」
「はいはい」
「返事は一回!」
「はい!」
思わず背筋を伸ばす。
その様子を見ていた老女が、ほんの少しだけ笑った。
死の執政の分身が、人間の薬師に叱られながら薬草を仕分けている。
本体が見たら、何と言うだろうか。
そんなことを考えたが、分身はすぐに作業へ意識を戻した。
そもそも、今の自分は地上を観測するために作られた存在なのだ。現地の暮らしを学ぶことだって、立派な仕事の一つだろう。
少なくとも、本人はそう思っていた。
季節が一つ巡る頃、ヤンは再び荷車を引けるようになった。
以前ほど重い荷物を運ぶことは難しくなったものの、商いを続けるには十分だったらしい。傷痕の残る腕を大事そうに動かしながら、彼は少しずつ仕事を再開していった。
リンも父親の手伝いをするようになっていた。
もっとも、本人にとっては荷物の整理より、道端の花を摘んだり、珍しい石を拾ったりする方が楽しいようだったが。
「お姉ちゃん!」
ある朝、集落を出ようとした分身の背後から声が掛かった。
振り返ると、リンが小さな包みを抱えて走ってくる。
「これ!」
「ん?」
「お弁当!」
差し出された包みの中には、焼いた穀物を丸めたものと、干した果物が入っていた。
分身が目を丸くすると、リンは少し得意そうに胸を張った。
「お父さんと作ったの!」
「へえ。ありがとう」
「ちゃんと食べてね!」
「うん。大事に食べるよ」
包みを受け取ると、少女は満足そうに笑った。
その背後から、ヤンがゆっくりと歩いてくる。
「もう行くのか?」
「うん。いつまでも厄介になるわけにもいかないしね」
「厄介なんて思っちゃいないさ。婆さんだって、あんたがいなくなると寂しがるだろう」
「……どうだろ。むしろ静かになって喜ぶんじゃない?」
「はは、それはあるかもしれん」
ヤンが笑う。
分身もつられて笑った。
実際、集落での生活は思いのほか楽しかった。
しかし、ここに留まり続けるわけにもいかない。
まだ見たことのない土地がある。知らない人間も、文化も、山ほど存在しているはずだった。
そもそも、地上へ降りた本来の目的は世界を知ることだ。
一つの集落だけで満足してしまうのは、さすがに早すぎるだろう。
「また来るよ」
何気なくそう告げると、リンがぱっと顔を上げた。
「本当!?」
「もちろん。ここ、結構気に入ったし」
「いつ?」
「うーん……」
分身は少し考え込んだ。
魔神である自分にとって、数年程度はそれほど長い時間ではない。気になる場所を回り、少し寄り道をすれば、あっという間に過ぎてしまうだろう。
しかし、目の前の少女にとっては違う。
数年もあれば背が伸び、顔つきも変わる。
昨日より今日、今日より明日と、確実に成長していく。
「……なるべく早く、かな」
「なるべくって、いつ?」
「難しい質問するなあ」
困ったように笑うと、リンは不満そうに頬を膨らませた。
その様子を見ていたヤンが、そっと娘の肩へ手を置く。
「リン。旅をする人には、旅をする人の都合があるんだ」
「……でも」
「また来ると言ってくれたんだ。楽しみに待っていよう」
少女はしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
分身はその頭を軽く撫でる。
「次に来る時は、何か面白いものでも持ってくるよ」
「ほんと?」
「うん。約束」
リンはようやく笑顔を見せた。
その顔を眺めながら、分身は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
名前も知らなかった人間たち。
たまたま出会い、たまたま助けた親子。
それだけの縁だったはずなのに、別れ際には少し寂しくなっている。
(……こういうのも、悪くないな)
分身は二人へ手を振り、街道へ向かって歩き始めた。
背後ではリンが、姿が見えなくなるまで何度も手を振っていた。
それから、三年が過ぎた。
分身が再び集落へ姿を現した時、最初に彼女を見つけたのは、入口で荷物を運んでいた一人の少女だった。
「……あれ?」
少女は抱えていた籠を下ろし、こちらをじっと見つめる。
分身も足を止めた。
「……ん?」
見覚えがあるような、ないような。
以前よりも背が伸び、顔つきも随分と大人びている。長かった髪は後ろでまとめられ、日に焼けた頬には健康的な赤みが差していた。
しかし、その金色がかった瞳には見覚えがあった。
「……リン?」
そう呼び掛けた瞬間、少女の顔が輝いた。
「お姉ちゃん!」
次の瞬間、籠を放り出して駆け寄ってくる。
「うわっ!」
勢いよく抱きつかれ、分身は思わず一歩後ずさった。
「ちょ、危ないって!」
「本当に来た!」
「いや、来るって言ったじゃん」
「だって、全然来ないんだもん!」
少女は分身の服を掴んだまま、なかなか離れようとしなかった。
どうやら随分と待たせてしまったらしい。
分身は苦笑しながら、その頭を撫でる。
「ごめんごめん。ちょっと遠くまで行っててさ」
「三年も?」
「……うん、まあ」
人間の三年がどれほど長いのか。
分身は、その時初めて実感した。
自分にとっては、数々の土地を巡り、知らないものを見聞きしているうちに過ぎた時間でしかない。
しかし、リンは違った。
幼かった少女は成長し、父親の仕事を手伝えるほどになっている。
以前は荷車の傍らで遊んでいるばかりだったのに、今では荷の値段を覚え、簡単な計算もできるようになったという。
ヤンも少し年を取っていた。
顔に刻まれた皺が増え、負傷した腕の動きは以前よりぎこちない。それでも商人としての威勢は変わらず、久しぶりに現れた分身を見るなり、豪快に笑って出迎えてくれた。
「よう! 元気だったか!」
「そっちこそ。腕はどう?」
「見ての通りだ。重い荷はリンに手伝ってもらってるがな」
「……父親として、それでいいの?」
「いいんだよ。娘が頼もしく育ってくれてるんだから」
そう言って笑うヤンの横で、リンが得意そうに胸を張る。
三年前と変わらないやり取りだった。
だが、少しずつ何かが変わっている。
家の壁には新しい棚が増え、荷車も以前とは別のものになっていた。老女の薬師は相変わらず口が悪かったが、以前よりも長く休憩を取るようになっていた。
そして、自分だけは何も変わっていない。
背丈も、髪も、顔立ちも。
地上へ降りたあの日と、まったく同じ姿のままだった。
その事実が、この時になって少しだけ奇妙に思えた。
十年。
二十年。
時間は、思っていたよりも静かに流れていった。
分身は旅を続けた。
山を越え、川を渡り、時には人間の集落に滞在しながら、各地の暮らしを見て回った。
魔神の庇護を受ける豊かな土地もあれば、争いに巻き込まれ、明日の食事にも困るような集落もあった。商人たちが行き交う街道では新しい文化が生まれ、山奥の村では数百年変わらない暮らしが続いている。
その一つ一つが興味深かった。
ある土地では薬師の手伝いをした。
別の土地では鍛冶師から道具の扱い方を教わり、また別の場所では、古くから伝わる仙術について話を聞いた。
もちろん、すべてを習得できたわけではない。
むしろ、学べば学ぶほど、自分が知らないことの多さを思い知らされた。
それでも構わなかった。
必要になった時、何を知らないのか分かるだけでも大きな違いがある。
誰かが倒れた時に、ただ死を保留するだけではなく、何が起こっているのか考えられるようになった。自分で処置できない時は、どんな知識を持つ者に頼るべきなのかも、以前より判断できる。
そうした経験を重ねながら、分身は時折、ヤンたちの暮らす集落へ戻った。
最初は三年。
次は五年。
その次は、もう少し短い間隔で。
戻るたびに、何かが変わっていた。
ある時には集落の柵が新しくなり、別の時には道沿いに新しい家が建っていた。子供だった者が大人になり、見覚えのない子供が増えている。
かつて薬草の仕分けを教えてくれた老女も、やがて仕事の大半を弟子へ任せるようになった。
分身はその変化を眺めながら、少しずつ人間の時間というものを理解していった。
彼らは変わる。
そして、自分は変わらない。
少なくとも、身体だけは。
それでも、彼らと一緒に過ごした時間が無意味だったとは思わなかった。
むしろ逆だった。
同じ場所を訪れるたび、以前とは違う景色がある。
その変化を知ることが、いつしか旅の楽しみの一つになっていた。
分身が地上へ降りてから、二十年以上が過ぎた頃だった。
「……結婚?」
思わず聞き返すと、リンは少し照れくさそうに頷いた。
「うん。来月」
「へえ……」
分身は目の前の女性をまじまじと見つめた。
以前は自分の腰ほどの背丈しかなかった少女が、今ではすっかり大人になっている。父親譲りの気の強さは相変わらずだが、表情には落ち着きが生まれ、商いの話をする時にはヤン以上に厳しい顔をすることもあった。
そんな彼女が、結婚するという。
「……そっか。おめでとう」
「ありがとう」
「相手は?」
「隣の集落で商いをしてる人。お父さんとも昔から付き合いがあるの」
「へえ……どんな人?」
「真面目で、ちょっと口下手かな。でも優しい人だよ」
リンはそう言って、小さく笑った。
その表情を見て、分身は少しだけ安心した。
どうやら、本人が納得して選んだ相手らしい。
「……何だか感慨深いなあ」
「何それ」
「いや、だってさ。初めて会った時、あんなに小さかったのに」
分身が腰の辺りへ手をかざすと、リンが眉を寄せた。
「そんなに小さくなかったと思うけど」
「小さかったよ。お父さんの服掴んで、わんわん泣いてた」
「もう! 昔の話はやめてよ!」
頬を赤くするリンを見て、分身は声を上げて笑った。
その様子を、少し離れた場所からヤンが眺めていた。
かつて負傷した腕は、今でも完全には元に戻っていない。長年の商いで鍛えられた身体も、少しずつ衰えが見え始めていた。
それでも、娘の結婚が決まったことは心から嬉しいらしい。
分身が視線を向けると、ヤンは少し照れくさそうに笑った。
「……早いもんだな」
「本当にね」
「ついこの前まで、俺の後ろをついて回ってたと思ったんだが」
「うん」
「気付けば、俺より商売が上手くなってる」
その言葉に、分身は苦笑した。
実際、リンの商売の腕はかなりのものだった。
父親から教わった知識だけでは満足せず、各地の物価や交易路について自分なりに調べ、商売の仕組みを改善していた。怪我人や病人を運ぶ際には荷車を貸し出すこともあり、そのための費用を普段の売上から少しずつ積み立てているという。
最初にその話を聞いた時、分身は少し驚いた。
「……随分と変わったことするね」
そう尋ねると、リンは不思議そうな顔をした。
「だって、怪我した人がいても、運べなかったら困るでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「お父さんだって、あの時お姉ちゃんがいなかったら助からなかったんだから」
リンは何でもないことのように言った。
分身は返す言葉を失った。
自分が救った一つの命。
その経験が、少女の中に残っていた。
そして今、その経験が別の誰かを助けるための仕組みに変わろうとしている。
それは死の権能とは何の関係もない、ただの人間が考えた小さな工夫だった。
しかし、分身には妙に嬉しく思えた。
「……いいと思うよ」
そう告げると、リンは満足そうに笑った。
「でしょ?」
その笑顔は、昔と少しも変わっていなかった。
さらに年月が流れた。
リンは結婚し、やがて子供が生まれた。
ヤンは孫を抱くようになり、商いの大半を娘夫婦へ任せるようになった。
荷車を引いて遠くまで旅をすることも、以前ほど多くはなくなった。代わりに集落で若い商人たちへ道の選び方や荷の扱い方を教え、時折、古い知り合いと酒を酌み交わしている。
分身が訪ねると、ヤンはいつも嬉しそうに迎えてくれた。
ただ、ある頃から変わったことがあった。
「……お前さん、本当に年を取らんな」
ある日の夕暮れ。
家の前に並んで腰掛けていたヤンが、そんなことを呟いた。
分身は隣へ視線を向ける。
ヤンの髪には白いものが混じり、顔には深い皺が刻まれている。若い頃の逞しさは残っているものの、背中は少し丸まり、立ち上がる時には膝へ手を添えるようになっていた。
それに対し、自分は何も変わっていない。
長い白髪。
金色の瞳。
地上へ降りた日のままの姿。
「……まあね」
分身は曖昧に笑った。
「色々と事情があってさ」
「だろうな」
ヤンはそれ以上、追及しなかった。
以前から薄々察していたのだろう。
そもそも、初めて会った時から分身の力は人間離れしていた。
魔神が実在する世界だ。
普通の人間ではないことくらい、とっくに理解していてもおかしくない。
「……あんたは、この先もずっと旅を続けるのか?」
ヤンが尋ねた。
「そうだね。まだ見たいものも多いし」
「そうか」
「……どうしたの?」
「いや、何でもない」
ヤンは遠くの山々へ視線を向けた。
夕日が稜線を赤く染め、集落には夕餉の煙が立ち上っている。
しばらくして、彼は小さく笑った。
「……羨ましいと思うこともあるんだ」
「私が?」
「ああ。あんたなら、俺が行けなかった土地にも行けるだろう。まだ見たことのない景色も、これからいくらでも見られる」
分身は黙って耳を傾けた。
ヤンは自分の手を眺めながら続ける。
「若い頃は、いつかもっと遠くへ行ってみたいと思ってたんだ。山を越えて、海を見て、知らない国の連中と商売して……そういう暮らしに憧れてた」
「……今からでも行けばいいじゃん」
分身がそう言うと、ヤンは声を上げて笑った。
「ははっ、今の俺にそんな元気があると思うか?」
「荷車くらいなら引っ張ってあげるよ」
「それじゃあ、あんたの旅になっちまう」
ヤンは笑いながら首を振った。
「……まあ、いいんだよ」
その声音は、どこか穏やかだった。
「俺には俺の人生があった。リンがいて、孫もできた。昔は考えもしなかったくらい、賑やかな毎日だ」
分身は黙って頷いた。
「あの日、山道で死んでたら、何一つ見られなかった」
ヤンは遠くへ視線を向けたまま、静かに続ける。
「だから、十分なんだ」
その言葉を聞いた時、分身は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
ヤンは満足している。
少なくとも、今の生活を幸せだと思っている。
それは嬉しいことだった。
だが同時に、彼の残された時間が少なくなってきていることも、分身には分かっていた。
死の執政の分身である自分には、生命の衰えが普通の人間以上にはっきりと感じられる。
まだ今日明日の話ではない。
それでも、確実に近づいている。
あの山道で初めて出会った時とは違う。
今度は怪我でも、魔物でもない。
長い年月を生きた肉体が、少しずつ終わりへ向かっているのだ。
「……そうだね」
分身は小さく答えた。
ヤンは隣にいる彼女へ目を向ける。
「お前さんは、何だか寂しそうな顔をするな」
「……そう?」
「ああ」
ヤンは少し笑った。
「俺は幸せだって言ってるんだぞ」
「……うん」
「だったら、そんな顔しなくていい」
分身は何も答えなかった。
ただ、夕日に染まる集落を見つめながら、しばらくヤンと並んで座っていた。
その冬、ヤンが床に伏した。
最初は軽い疲れだと思われていた。
年を取れば、以前のように動けなくなることもある。寒さの厳しい時期には体調を崩す老人も多く、集落の人々も最初はそれほど心配していなかった。
しかし、春が近づいてもヤンの体力は戻らなかった。
食事の量が減り、起き上がる時間も短くなっていく。
薬師の弟子だった者が何度も診察し、身体を温めたり、食事を工夫したりと手を尽くしたものの、目立った改善は見られなかった。
分身が集落へ戻ったのは、そんな頃だった。
知らせを受けて家へ向かうと、リンが入口で待っていた。
すっかり大人になった彼女の顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。
「……来てくれたんだ」
「うん。ヤンは?」
「奥にいる」
短いやり取りを交わし、家へ入る。
薄暗い部屋の寝台には、かつて逞しかった男が横たわっていた。
頬は痩せ、腕も細くなっている。
分身の姿に気付くと、ヤンはゆっくりと目を開いた。
「……おお」
かすれた声だった。
「来たのか」
「うん」
分身は寝台の傍らへ腰を下ろす。
「……随分と痩せたね」
「はは……歳には勝てんな」
ヤンは力なく笑った。
分身はそっとその手を取る。
乾いた皮膚。
弱い脈。
そして、肉体と魂の結びつき。
あの山道で感じたものと、似ているようで違っていた。
今度は、身体の一部が壊れているわけではない。
長い年月を生きた肉体そのものが、少しずつ役割を終えようとしている。
傷を塞いでも、元には戻らない。
死を保留すれば、しばらくは生き続けられるかもしれない。
だが、それは衰えた身体を若返らせることとは違う。
根本的な解決にはならなかった。
「……どうだ?」
ヤンが尋ねた。
「何が?」
「俺の身体だよ。お前さんなら、分かるんじゃないか?」
分身は返事を躊躇った。
何と答えるべきだろう。
今の自分には、あの日よりも多くの知識がある。
医療についても、仙術についても、多少は学んできた。
だが、それでも老いた人間の身体を根本から若返らせる方法など知らない。
「……あんまり、よくない」
結局、正直に答えた。
ヤンは小さく頷いた。
「そうか」
「……ごめん」
「何で謝る?」
「いや……」
分身は言葉を探した。
あの日は助けられた。
傷を負い、死にかけていたヤンを、自分の力と薬師の知識で救うことができた。
なのに今は、何もできない。
その事実が、妙に悔しかった。
「……また、助けられたらいいんだけど」
思わず零れた言葉に、ヤンは目を細めた。
「……お前さんは、本当に変わらんな」
「……そう?」
「ああ。昔からそうだった」
ヤンはゆっくりと息を吐く。
「俺が死にかけた時も、随分と必死になってくれたらしいな。リンから何度も聞いたよ」
「……まあ、あの時はね」
「おかげで、ここまで生きられた」
ヤンは天井へ視線を向けた。
「四十年以上、か……」
分身は黙って頷く。
地上へ降りてから、それだけの年月が流れていた。
しかし、自分の身体には何の変化もない。
目の前の男だけが、長い人生を歩んできた。
「……なあ」
ヤンが静かに呼び掛けた。
「もし、あの時みたいにできるとしても……今度は、無理しなくていいぞ」
分身は顔を上げた。
「……え?」
「分かるんだよ。もう、昔みたいには戻れん」
「でも――」
「いいんだ」
ヤンは穏やかに言った。
そこに諦めの色はなかった。
ただ、自分の人生を振り返った者だけが持つ、静かな満足があった。
「俺は十分生きた。リンが大人になって、孫まで抱けた。商売も、まあ悪くなかった」
少し笑う。
「欲を言えば、あと何年かは生きていたいがな。でも、誰だっていつかは終わる」
分身は俯いた。
頭では分かっている。
人間は老いる。
病気にもなる。
そして、いつか死ぬ。
それは世界の仕組みであり、今の自分が司る領域でもある。
だが、実際に親しくなった人間が、その終わりへ近づいている。
そうなると、頭で理解していたはずの理屈が、ひどく頼りなく感じられた。
「……怖くないの?」
小さく尋ねる。
ヤンはしばらく考え込んだ。
「……怖くないと言えば、嘘になるな」
その答えに、分身は顔を上げる。
「ただ、昔ほどじゃない」
「……どうして?」
「一人じゃないからだろうな」
ヤンは静かに笑った。
「リンがいる。孫もいる。俺が死んでも、あいつらは生きていく」
分身は黙って聞いていた。
「俺がいなくなっても、あの荷車は誰かが引く。畑だって、家だって、誰かが使う。俺が知らないところで、色んなものが続いていくんだ」
そこでヤンは、握られていた手をわずかに動かした。
「……お前さんもな」
「……私?」
「ああ」
ヤンは分身を見つめる。
「俺を助けてくれたこと、忘れないでくれよ」
その言葉に、分身は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
忘れるはずがない。
地上へ降りて初めて助けた人間。
初めて、自分の権能では治療できないことを思い知った相手。
初めて、人間の技術と協力して一つの命を繋ぎ留めた相手。
その男が、今、目の前にいる。
「……忘れないよ」
分身は静かに答えた。
ヤンは安心したように笑った。
「そうか」
それから、目を閉じる。
分身はしばらく手を握ったまま、何も言わなかった。
部屋の外では、リンが家族と話す声が聞こえていた。
誰かが薪を運び、鍋に水を注いでいる。
いつもと変わらない生活の音だった。
しかし、その音が妙に遠く感じられた。
数日後。
ヤンの容体はさらに悪化した。
意識がはっきりしている時間は短くなり、呼吸も弱くなっていく。
分身には、その変化が手に取るように分かった。
死が近づいている。
あの山道で感じた時と同じように、肉体と魂の結びつきが薄れていた。
ただし、今度は違う。
傷を塞げば助かるわけではない。
血を止めれば持ち直すわけでもない。
老いた身体が、長い年月をかけて役割を終えようとしているのだ。
分身は寝台の傍らに座り、ヤンの手を握っていた。
傍らにはリンと、その家族がいる。
誰も大きな声を出さなかった。
時折、リンが父親へ声を掛ける。
ヤンはその度に薄く目を開き、わずかに頷いた。
そして、夕暮れが近づいた頃だった。
分身は、彼の命がいよいよ終わろうとしていることを感じ取った。
身体の奥で、死の権能が静かに応じる。
使おうと思えば、使える。
ほんの少しだけ、終わりを遅らせることはできるだろう。
数時間。
状態によっては、もう少し。
だが、その先に何があるのか。
分身には分かっていた。
ただ、苦しい時間が延びるだけかもしれない。
本人も、もう望んでいない。
あの日、山道で出会った時とは違う。
あの時のヤンは、まだ生きたかった。
幼い娘を残して死ぬことを恐れ、必死に魔物へ立ち向かっていた。
だから助けた。
自分にできることがあるなら、何とかしたかった。
しかし今は。
ヤンは長い人生を歩み、自分の意思で終わりを受け入れようとしている。
それでも、分身の中には迷いがあった。
本当に、何もしなくていいのだろうか。
自分には、死へ干渉する力がある。
その力を使わずに見送ることは、助けられる命を見捨てることにならないだろうか。
考え込んでいると、握っていた手がわずかに動いた。
「……おい」
かすれた声。
分身は顔を上げた。
「……ヤン?」
「……そんな顔、するな」
ヤンは薄く目を開いていた。
分身は何も答えられなかった。
彼は弱々しく笑う。
「……俺は、幸せだったぞ」
その言葉に、胸の奥が締め付けられる。
「……うん」
「……ありがとうな」
分身は小さく頷いた。
「……こちらこそ」
ヤンの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
呼吸が浅くなった。
しばらくして、もう一度だけ大きく息を吸い込む。
そして、静かに吐き出した。
それが最後だった。
分身には、はっきりと分かった。
肉体と魂の結びつきが、ゆっくりとほどけていく。
それは、あの山道で見た急激な崩壊とはまるで違っていた。
穏やかだった。
長い時間をかけて役割を終えたものが、静かに本来の場所へ還っていく。
そんな感覚だった。
分身は、何もしなかった。
ただ、最後までその手を握っていた。
やがて、リンが父親の名を呼んだ。
返事はなかった。
もう一度呼ぶ。
それでも返事はなかった。
そして、彼女は静かに泣き始めた。
分身は目を伏せた。
自分の手の中には、もう温もりの薄れ始めた手がある。
あの日、死にかけていた男を救った手。
その手が、今は静かに動かなくなっていた。
(……そうか)
不思議と、後悔はなかった。
悲しくないわけではない。
むしろ、思っていた以上に寂しかった。
だが、あの日助けたことを後悔していないのと同じように、今、見送ったことも間違いだったとは思えなかった。
もし、あの日に戻れるとしても。
きっと、同じように助けるだろう。
そして、今日に戻ってきたとしても。
きっと、同じように手を握って見送るだろう。
それでいい。
分身は、ようやくそう思えた。
葬儀は数日後、集落の外れで行われた。
ヤンと付き合いのあった商人たちが集まり、古い友人や親族が別れを告げた。大きな儀式ではなかったが、参列者は予想以上に多かった。
分身も、その中にいた。
白い髪を風に揺らしながら、静かに人々を見守っていた。
泣いている者もいれば、懐かしい思い出を語り合う者もいる。
誰かがヤンの失敗談を口にすると、周囲から小さな笑いが起こった。
その笑い声を聞きながら、分身は不思議な気持ちになった。
人が死んだのに、笑っている。
しかし、それを不謹慎だとは思わなかった。
むしろ、ヤンが生きていたことを思い出しているのだと感じた。
彼は確かに死んだ。
けれど、彼が生きていた時間は消えていない。
リンがいる。
孫がいる。
彼から商いを学んだ若者たちがいる。
そして、自分もいる。
彼を知る者たちの中に、その人生が残っていた。
葬儀を終えた後、リンが分身へ近づいてきた。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「これ、持っててほしいの」
差し出されたのは、小さな木製の札だった。
表面には、荷車の車輪を模した素朴な印が刻まれている。その片隅には、細い草の葉のような模様が添えられていた。
「……これは?」
「お父さんが、昔から荷物に付けてた印」
リンは少し笑った。
「最初はただの車輪だったんだけどね。あの怪我の後から、葉っぱも付けるようになったの」
「……葉っぱ?」
「うん。お姉ちゃんが薬草を覚え始めたのを見て、思いついたんだって」
分身は木札を見下ろした。
粗末な作りだった。
特別な力が宿っているわけでもなく、魔神の目から見れば何の変哲もない木片でしかない。
だが、その表面には長年使われてきた痕跡があった。
角が擦り減り、紐を通す穴の周囲には細かな傷が残っている。
「……これ、私が貰っていいの?」
「うん。お父さんが、もし何かあったら渡してくれって」
リンは頷いた。
「それと……お父さん、最後までお姉ちゃんのこと心配してたよ」
「……私を?」
「うん。あの人、ずっと旅をしてるから、ちゃんとご飯食べてるかなって」
分身は目を瞬かせた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……何それ」
「おかしいでしょ?」
「うん。すごく」
食事など必要ない。
少なくとも、今の自分は食べなくても生きていける。
それなのに、ヤンはそんなことを心配していたらしい。
分身は木札を握りしめた。
「……ありがとう。大事にするよ」
リンは静かに頷いた。
その顔には、まだ悲しみが残っていた。
それでも、分身が初めて出会った頃の泣き虫な少女とは違う。
父親を失った悲しみを抱えながらも、これからの生活を続けていく強さがあった。
「……また、旅に出るの?」
リンが尋ねた。
「うん。そろそろね」
「そっか」
少し寂しそうに笑う。
分身は彼女の顔を見つめた。
あの時と同じだ。
初めて集落を離れる時も、リンはこうして見送ってくれた。
ただ、今はもう子供ではない。
分身は小さく笑い、彼女の肩へ手を置いた。
「……また来るよ」
「うん」
「今度は、あんまり待たせないようにする」
リンは少し驚いたように目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……約束だからね」
「うん。約束」
分身は手を振り、集落を後にした。
背後では、リンがいつまでも見送っていた。
あの日のように。
ただし、今回は泣いていなかった。
集落を離れてしばらく歩いたところで、分身は足を止めた。
見晴らしのよい丘だった。
眼下には川が流れ、その向こうには人々の暮らす集落が見える。
最初に地上へ降りた頃と、風景はそれほど変わっていない。
だが、そこに暮らす人間たちは大きく変わっていた。
子供が大人になり、大人が老人になり、老人がこの世を去る。
そして、新しい命が生まれてくる。
その繰り返し。
分身は手の中の木札を眺めた。
小さな車輪。
細い草の葉。
特別な意味などない、素朴な印。
それでも、そこにはヤンの生きた時間が詰まっているように感じられた。
(……人間って、すごいな)
自分は、この先も生き続けるだろう。
魔神としての肉体は簡単には老いない。
多少の怪我や病で死ぬこともない。
長い時間を生きることができる。
それに比べ、人間の寿命はあまりにも短い。
数十年。
長くても百年に届くかどうか。
だが、その短い時間の中で、人間たちは様々なものを生み出していく。
家族。
仕事。
文化。
思い出。
そして、次の世代へ受け継がれるもの。
自分があの日助けたのは、ただ一人の男だった。
けれど、その男が生き延びたことで、一つの家族が続いた。
リンが育ち、結婚し、子供が生まれた。
彼女は父親の経験を受け継ぎ、怪我人を運ぶための仕組みまで考えた。
そして、その仕組みは今も集落で使われている。
自分が知らないところで、誰かの命を助けているかもしれない。
(……そっか)
分身は、ゆっくりと息を吐いた。
死を止めることだけが、救うということではない。
誰かが生きられる時間を少しでも増やすこと。
その時間の中で、本人が何かを見つけ、誰かと出会い、何かを残していくこと。
それもまた、一つの救済なのだろう。
そして、死そのものが必ずしも間違っているわけではない。
ヤンは、最後まで自分の人生を生きた。
だからこそ、自分もその終わりを受け入れることができた。
もちろん、すべての死を同じように受け入れられるとは思わない。
まだ生きたいと願う者。
理不尽に命を奪われる者。
助けを求めながら、誰にも手を差し伸べられない者。
そういう人間を目の前にしたら、きっと自分はまた助けようとするだろう。
たとえ本体から叱られるとしても。
たとえ、少しばかり面倒なことになるとしても。
「……まあ、いいか」
分身は小さく笑った。
地上へ降りる前、本体は言っていた。
歴史へ過剰に介入するな。
世界を壊すようなことはするな。
その言葉を忘れたわけではない。
今でも、世界を壊したいなどとは思っていない。
ただ。
目の前で誰かが死にそうになっている時、助けられる力があるのに何もしないという選択肢は、どうしても自分には合わなかった。
世界のために何が正しいのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。
あの日、ヤンを助けてよかった。
その気持ちに、嘘はなかった。
分身は木札を大切に仕舞い、再び歩き始めた。
これからも、多くの人間と出会うだろう。
その中には、助けられる者もいれば、助けられない者もいるはずだ。
それでも構わなかった。
自分にできることを、一つずつ増やしていけばいい。
「……次は、もう少し上手くやれるといいな」
独り言のように呟く。
そして分身は、遠くに連なる山々へ向かって歩き出した。
その先で、自分が何を見つけるのか。
誰と出会い、誰を救い、どのような歴史を残していくのか。
今の彼女には、まだ何も分からなかった。
ただ、旅は始まったばかりだった。
長い、長い時間が過ぎた。
山々の形が変わるほどではなくとも、その麓に暮らす人々の営みは幾度となく姿を変えた。
集落は町となり、町は都市へと発展する。
国が生まれ、滅び、また新しい国が築かれていく。
神々の争いはやがて終息し、七つの国がそれぞれの歴史を歩み始めた。
幾度もの災厄。
数え切れないほどの出会いと別れ。
そして、数千年。
地上へ降りた一人の女が、その長い年月をどのように過ごしていたのか。
それを知る者は、ほとんどいなかった。
少なくとも、天上にいる本体ロノヴァは、まだその全容を知らなかった。
静寂の中で、金色の瞳がゆっくりと開かれた。
「……そろそろか」
ロノヴァは小さく呟いた。
長い年月が過ぎていた。
地上では数え切れないほどの人間が生まれ、死んでいった。かつて争い続けていた魔神たちの時代も遠い過去となり、今では七国がそれぞれの神の名の下に存在している。
その変化を、ロノヴァはおおむね把握していた。
死の執政としての役割を果たす以上、世界の変化に無関心でいるわけにはいかない。大規模な災厄や死の法則に関わる異常については、これまでも幾度となく観測してきた。
ただし、地上のすべてを見ていたわけではなかった。
人間一人ひとりの生活を、何千年にもわたって追い続けるなど現実的ではない。
国が変わり、人が入れ替わり、無数の小さな出来事が積み重なる。
そのすべてを記録し続ける必要もなかった。
何より、長い時間を生きるうちに、ロノヴァ自身の時間感覚も少しずつ変わっていた。
前世では一年が長く感じられた。
しかし今では、数十年程度なら驚くほど短く思える。
それだけの年月を重ねてきたのだ。
(……それにしても、長かったな)
ロノヴァは意識を地上へ向けた。
かつては魔神たちが争っていた大地。
今は七つの国が広がっている。
モンド。
璃月。
稲妻。
スメール。
フォンテーヌ。
ナタ。
そして、スネージナヤ。
名前を一つずつ思い浮かべるたび、前世の記憶が刺激された。
ゲームとして遊んでいた頃には、何度も訪れた場所だ。
懐かしい。
それと同時に、不思議な気分でもあった。
前世では画面の向こうに存在していた世界が、今では自分の管理する法則の内側にある。
それも、数千年もの間。
「……さて」
ロノヴァはゆっくりと立ち上がった。
そろそろ、原作の物語が動き始める頃だった。
双子の旅人。
天理の調停者。
長い眠り。
そして、失われた片割れを探す旅。
自分の記憶が正しければ、まもなく蛍がモンドへ向かって歩み始めるはずだ。
それを思うと、胸の奥に小さな期待が生まれた。
あの少女がこれからどのような旅をするのか。
ゲームで見た出来事が、実際にはどのように起こるのか。
気にならないと言えば嘘になる。
何より、数千年前からずっと考えていたことがあった。
自分が知っている原作と、今のテイワットはどこまで一致しているのだろうか。
大きな歴史の流れは、おおむね記憶通りだった。
魔神戦争は終わった。
七神体制も成立した。
五百年前には、あの大災厄も起こっている。
いくつか気になる点はあったものの、世界の根幹が大きく変わるような事態は、少なくとも観測してきた範囲では起きていなかった。
だから、基本的には原作と似た未来へ進んでいるのだと思っていた。
(……まあ、ゲームで描写されてない部分も多いしな)
ロノヴァはそう考えながら、意識をモンド方面へ向けた。
まずは原作開始の舞台となる地域から確認しておこう。
そう思ったのだ。
風に守られた自由の国。
モンド。
その都市を中心に、周辺の集落や街道へと観測を広げていく。
見覚えのある建造物があった。
前世で何度も訪れた場所も、今では現実の大きさを持って存在している。
ロノヴァは少しだけ目を細めた。
(……懐かしいな)
ゲームの画面越しに見た風景。
そこに暮らす人々。
まだ会ったことのない登場人物たち。
その存在を確かめるだけでも、少し楽しかった。
だが、観測を続けているうちに、ふと目に留まるものがあった。
「……ん?」
モンドの交易路に関する古い記録だった。
そこには、複数の地域を繋ぐ商人たちの活動が記されている。
当然ながら、ゲームでは描かれていなかった情報も多い。
しかし、ロノヴァが気になったのは、そこに記されていた一つの印だった。
荷車の車輪。
その片隅に添えられた、小さな葉の模様。
「…………」
どこかで見た覚えがあるような気がした。
だが、すぐには思い出せない。
前世のゲーム知識に、こんな印があっただろうか。
少なくとも、記憶にはない。
ただ、ゲームに登場しなかった商人や家系など、いくらでも存在するはずだった。
だから、最初はそれほど気にしなかった。
しかし、その印を持つ商人たちの歴史を調べていくうちに、別の奇妙な事実が見つかった。
同じ印が、異なる地域の古い交易記録にも残されている。
時代も違う。
場所も違う。
しかも、それぞれの記録には、ある共通した逸話があった。
困窮した旅人を助けた商人。
傷ついた者を運んだ荷車。
そして、白髪の旅人に助けられたという古い言い伝え。
「……白髪?」
ロノヴァは小さく呟いた。
妙に引っ掛かる。
もちろん、白い髪を持つ人間など珍しくはあっても存在する。
それだけで何かを判断することはできない。
しかし、次の記録を見つけた時、ロノヴァの表情が少し変わった。
古い旅商人の手記。
既に原本は失われ、後世に写された断片しか残っていない。
そこには、遠い昔の出来事として、一人の女について記されていた。
長い白髪。
金色の瞳。
年を取らないように見える、不思議な旅人。
そして、死にかけた者を助けたという話。
「…………」
ロノヴァは黙り込んだ。
何とも言えない予感が、胸の奥で膨らんでいく。
(……いや、待て)
念のため、記録の年代を確認する。
随分と古い。
原本が書かれた時代まで遡れば、まだ魔神戦争が続いていた頃の話になる。
だが、それだけではない。
似た特徴を持つ女の記録が、別の時代にも残っていた。
数百年後。
さらに数百年後。
地域はまったく異なる。
名前も一致しない。
それなのに、人物の特徴だけが妙に似通っている。
長い白髪。
金色の瞳。
そして、時折現れる、死にかけた者を助ける謎の女。
「……おい」
思わず声が漏れた。
ロノヴァは、ゆっくりと目を細める。
そんな人物を、自分は知っている。
いや、知っているどころではない。
自分自身が作った存在だ。
数千年前、魔神級まで格を落として地上へ送り込んだ分身。
原作知識を削り、執政としての権能を制限し、独立した人格を与えた存在。
その姿が、記録に残る女と酷似していた。
(……まさか)
ロノヴァは、しばらく考え込んだ。
分身が地上で人間と交流すること自体は、最初から想定していた。
観測と調査が目的なのだから、むしろ当然だ。
多少の人助けをすることも、予想していなかったわけではない。
何しろ、元になった人格は自分自身なのだ。
困っている人間を見て、何もしないとは考えにくい。
だが。
数千年にわたり、異なる地域の記録へ何度も登場しているとなると、話は別だった。
しかも、その逸話の多くが、死にかけた者を助けたという内容なのだ。
「…………」
ロノヴァは静かに息を吐いた。
いくら何でも、偶然が重なりすぎている。
思い返せば、地上へ送り込む直前にも似たような話をした気がする。
『困っている人間を見つけたからといって、何でも首を突っ込むなよ』
あの時、分身は何と言っていただろうか。
『大丈夫だって。私だって、世界を壊したいわけじゃないし』
「…………」
ロノヴァは片手で額を押さえた。
確かに、世界を壊したいとは言っていなかった。
歴史に一切介入しないとも言っていなかった。
そもそも、あの性格を元にしているのだから、何かあれば首を突っ込むに決まっている。
そこまで考えて、嫌な予感がさらに強くなった。
(……いや、でも)
まだ決まったわけではない。
人助けをした程度で、原作の歴史が大きく変わるとは限らない。
実際、七国は成立しているし、五百年前の災厄も起こっている。
大まかな歴史は、自分の記憶と一致しているのだ。
少しくらい分身が寄り道していたとしても、致命的な問題にはなっていないはずだった。
……はずだった。
ロノヴァは改めて、古い記録の年代を確かめた。
最も古いものは、分身を地上へ送り込んだ直後の時代にまで遡る。
そして、最も新しいものは。
「…………え?」
思わず声が出た。
つい最近だった。
正確には、人間の感覚で言えば少し前の出来事だが、ロノヴァにとってはほとんど昨日のようなものだった。
しかも、そこに記されていた女の特徴は、古い記録とほとんど変わっていない。
長い白髪。
金色の瞳。
そして、妙に人間臭い言動。
ロノヴァはゆっくりと顔を上げた。
「……お前」
数千年前に送り出した、もう一人の自分。
あの時は、魔神級まで格を落としておけば大丈夫だと思っていた。
原作知識を削れば、未来への意図的な介入も防げると考えていた。
そして、本体との記憶同期を切ることで、天理への不要な干渉も避けられるはずだった。
理屈としては、今でも間違っていないと思う。
少なくとも、設計上は。
だが、目の前の記録は別の事実を示している。
分身は、数千年間にわたって地上を旅していた。
そして、何度も人々の命を救っていた。
それがどこまで歴史に影響したのかは、まだ分からない。
分からないからこそ、恐ろしかった。
ロノヴァはしばらく沈黙した後、ゆっくりと目を閉じる。
そして、今度は地上の現在へ意識を向けた。
古い記録ではなく、今この瞬間のテイワット。
数千年もの間、自分の分身が歩き続けた世界。
その全貌を、初めて本気で調べようとしていた。
「……ちょっと待てよ」
静かな空間に、低い声が響く。
「……お前、この数千年間……」
そこで言葉が途切れた。
ロノヴァは、ゆっくりと息を吸う。
そして、先ほどよりもさらに深く、地上へ観測の目を向けた。
かつて、自分が送り出した分身。
力を削り、知識を削り、歴史への過剰な介入を避けるよう念を押した存在。
その女が、数千年もの時間をかけて何を積み重ねてきたのか。
今さらながら、確かめなければならなかった。
ロノヴァは額を押さえたまま、小さく呟く。
「……頼むから、大したことしてないでくれよ」
その願いに応える者は、どこにもいなかった。