Cyberpunk: After Glow — Short Stories 作:AfterGlow
『リリィ、聞こえる?』
ノヴァの明朗な声が、ホロコール越しにリリィの頭に反響した。
「ええ、聞こえています」
『よかった!んじゃ、いっちょお願いしまーす!』
黒、金、真紅。色とりどりの光が、リリィの右目を突き刺した。天井に吊るされたシャンデリアはまるで品性を誇示しているかのようで、かえって下品な輝きを撒き散らしている。
その入口、カジノに隣接するAVの発着場に、リリィは立っていた。深いパープルを基調としたイブニングドレス。左眼にはドレス用に仕立てた黒い眼帯。右耳にはいつもの金のピアス。普段なら腰に佩いているErrataは、今回は身につけていない。武装はドレスの内側に隠した愛銃Nue。それと、その両腕に仕込まれたMantis Bladesのみだった。
ノース・オークカジノ&カントリークラブ。それが、今回のギグの舞台だった。コーポの重役、資産家、著名人が集う、社交場であり欲望の坩堝。
始まりは、とあるコーポからアフターグロウへの依頼だった。
競合企業の重役が、このカジノで定期的に巨額の負けを出している。しかし、その損失を本人の資産から補填した記録がない。
依頼人が知りたいのはただ一つ。
その負債を、誰が肩代わりしているのか。
カジノが保有する非公開VIP精算記録を抜き、該当する一件を持ち帰る。それが今回のギグだった。
『めんどくさいな……ノヴァがメインシステムに侵入できてりゃ、それで終わったのに』
ホロコール越しに、アレックスの愚痴が聞こえてくる。
『なにそれ!?あたしのせいって言いたいわけ!?』
『そうは言ってないだろ!』
ぎゃあぎゃあといつものように喧嘩を始める二人に内心頭を抱えながら、リリィはカジノへと進む。
「坊ちゃん、お静かに。VIP精算記録は外部ネットワークから完全に隔離されています。ノヴァですらおいそれと侵入はできません」
口に出さずにアレックスを諌める。
『……わかってるってば。だからわざわざリリィ一人で潜入して、オーナーからアクセスキーかっぱらおうってんだろ』
『おおー、よく勉強したね。えらいぞ坊ちゃん』
『しばくぞ』
ノヴァとアレックスは地下駐車場にマッキノーを停め、待機。サポートと万一の時に備える算段だ。
そうこうしているうちに、リリィはカジノの玄関口へ辿り着くと、守衛からIDスキャンを受ける。もちろん、ノヴァ謹製の偽造IDである。
『……リリィ』
いつになく神妙なアレックスの声。
「どうかされましたか?」
『いや、その……なんだ』
「?」
歯切れの悪いアレックスに、リリィは怪訝そうに眉根を寄せた。
「……なんかあれば全部ぶっこわすから、早めに言ってよ」
不安そうな声色とは裏腹に、物騒なことを言う少年に、リリィは吹き出すのを堪えた。
「ええ、その時は……」
スキャンが完了した。守衛の男はリリィに恭しく頭を下げると、片手をあげて行き先を指し示した。
「大変お待たせ致しました、ミス。こちらへ」
「……お願いします」
リリィは、ヒールの音を響かせて、カジノの奥へと入っていった。
◇
「もし、ミス。シャンパンはいかがですか?」
「ええ……頂きます」
銀色に輝く顔をしたウェイターからシャンパンを受け取ると、リリィはカジノを歩いていく。フロアの一角では、生バンドが低くジャズを奏でていた。ピアノとベース、乾いたドラムの音が、ざわめきとチップの触れ合う音の隙間を縫って流れていく。その凛とした立ち姿と美しい容姿は、嫌でも衆目を集める。その視線を意にも介さずに、リリィは高額バカラのテーブルへ座った。
「はぁ〜、リリィ綺麗だね。ため息出ちゃうよ」
マッキノーの車内で、共有されたリリィの視界を分析しながらノヴァは独りごちた。
「……別に、いつも通りだろ」
現時点ですることが無く、手持ち無沙汰なアレックスは車のシートを倒しながら不機嫌な声を出していた。
「あれ?アレックスもしかして妬いてんの?」
「……妬いてない」
「『僕のリリィ取らないで〜!』って?」
「……お前、本当に後でしばくからな……」
ノヴァを殴る決意を固めるアレックスを他所に、リリィはチップを数枚、無造作に前へ滑らせた。勝つ。次は負ける。もう一度張る。そうして数ゲーム参加するうちに、妙なことに気づく。ディーラーがカードを開く前に、一瞬だけ視線を動かす。高額の勝負になると、シューの挙動が変わる。特定の客が大金を張った時だけ、ディーラーの判断に妙な確信がある。
リリィは通信越しにノヴァへ尋ねた。
「ノヴァ。このテーブルから、何か通信が出ていませんか?」
『え、通信?ちょっと待ってね。え〜っと……』
ノヴァの目が橙に光る。リリィから共有された視覚情報へ、スキャンが重なった。
『あ〜、ビンゴ。リリィ冴えてるね』
スキャンの結果、テーブル内部からカジノ専用ネットワークへ極細の通信が出ていた。
最高額テーブルには、カジノ側だけが使えるイカサマシステムが存在していた。カードに仕込まれた識別情報をシュー内部で読み取り、数枚先までの並びを把握。オーナー側には勝敗予測が送られる。普段は使わない。だが、絶対に負けたくない勝負では使う。
『あ〜、そういう仕組みね。オッケーオッケー』
それを聞くと、リリィは薄く微笑んだ。
「はい。……どうせなら、美味しく使わせて頂きましょう」
◇
リリィは静かに、取り分を増やしていく。配られたカード、ディーラーの癖、テーブルの流れ。リリィはそれらを一つずつ頭の中へ積み上げていく。分の悪い勝負では張りを落とし、僅かでも傾けば少し増やす。
そして数ゲーム後、リリィはそれまでとは桁の違うチップを前へ滑らせた。賭け先は、プレイヤー側。
シューから出たカードが並べられる。プレイヤー8、バンカー5。ナチュラルでプレイヤーの勝ち。
次の数ゲームでは、また張りを落とす。そして、もう一度、今度はバンカー側へ大きく張る。
——勝つ。
ディーラーの視線が、一度だけリリィへ向いた。
周囲の客も、いつの間にか彼女の賭け先を気にし始めている。
さらに数ゲーム。
リリィが再び高額のチップを前へ滑らせると、近くにいた客の何人かが、つられるように同じ側へ張った、その時だった。
「ミス、随分強気だな」
いつから座っていたのか、隣には見覚えのない男がいた。
「……ええ」
リリィは傍らの男へ妖しい微笑みを浮かべた。
「今夜は私、ツイていますので」
勝負は、またリリィの側へ転がった。
増えたチップを受け取ると、リリィは手元のシャンパンへと口をつけた。
「いや、恐れ入ったよ。ミス、あなたは美しさだけで無く、強運も兼ね備えているらしい」
男が舌を巻いた様子で話しかけてきた。
「失礼。……どこかでお会いしたことが?」
男は四十代くらいだろうか。洗練されたフォーマル・スタイル。人当たりもよく、下品な成金ではない。顔には趣味のいい高級クロームがいくつか入り、その表情からは嫌味のない自信とプライドが見てとれた。
「あぁ、こちらこそ失礼。私はジェームズ・アンソニー。当カジノを所有させてもらっている。……名前を聞いても?」
「オードリー・シンクレアです。よろしく、ミスター」
——釣れた。
リリィは、作り慣れた上品な笑みを浮かべながら、再びシャンパンを口に運んだ。
「随分と、私の店から持っていく」
アンソニーはバーボンのグラスを回しながらリリィへと視線を向ける。
「まだまだ。……夜は長いですからね」
そういうと、残ったシャンパンを一息に飲み干し、ほう、と熱っぽい吐息を放った。
「飲みっぷりもいい。バーボンはいかがかな?もちろん、私の奢りだ」
「ええ、頂こうかしら」
そう言ってグラスを受け取る折、その白い指が、僅かにアンソニーの指先へ触れた。リリィはその顔を上げると数秒だけ、じっとアンソニーの顔を見つめた。やがて、微笑みながら視線を切ると、グラスへと口をつける。
「ふふっ。面白い方だな、貴女は」
アンソニーの目線が、リリィの全身を見つめた。
その一方で通信越し、マッキノーの車内では憮然とした表情のアレックスが腕を組んでいた。
『アレックス?』
『何?』
『いや。静かだなって』
『悪いかよ』
『べっつにー』
通信越しに聞こえる応酬を無視しながら、リリィはオーナーの胸元へと視線を落とした。オーナーが持っている黒いチップ。今夜、どのテーブルでも黒いチップなど見たことがなかった。
「ミスター。その黒いチップは……?」
「ああ、これかね……。まぁ、お守りのようなものだ」
「ノヴァ、スキャンを」
歯切れの悪い口ぶりに違和感を覚えたリリィは、即座にノヴァへ合図を送る。
『オーキードーキー』
すぐさま、スキャン結果がリリィの視界UIへと表示された。この黒いチップは、カジノ内部のVIP保管区画へ入るための物理認証トークンだった。
『ビンゴ!……だけどこれ、ただのアクセスキーじゃないね。オーナー個人の認証情報まで入ってる。失くしたら、相当ヤバいやつだよ』
「……なるほど」
リリィは黒いチップから視線を外すと、グラスの縁を指先でなぞった。
アンソニーの視線がまだ自分から離れていないことを確かめると、今度は真正面からその目を見つめ返す。
「もし、ミスター。よければ、私と一勝負……いかがですか?」
その言葉を聞いたアンソニーは、目を見開いた。
「勝負、私と……か?」
これまで自分に勝負を挑んでくる女などいなかった。ますます、リリィに興味をそそられる。
「駄目でしょうか……?」
「いや、別に構わないさ。ミス・シンクレア」
そういうとアンソニーは指を鳴らし、部下にチップを持って来させる。
「申し訳ないが、私も忙しい身でね……。3ゲームのみの勝負ということで構わないかな?」
「ええ……構いませんよ」
そういうと、通信越しのノヴァに合図を送る。
「……ノヴァ」
『よっしゃ。やったるでぇー!』
ディールが始まる、まさにその直前。ノヴァがカジノの不正システムへ侵入した。
『フンフフンフーン♪……ありゃ?』
「ノヴァ?」
完全には掌握できない。想像以上に分厚いICEだった。
『ごめんリリィ。何秒かしか深く干渉できないかも。予測本体だけじゃなくて、侵入対策までガッチガチ。ほんっと性格悪いシステムだなぁ、これ』
『……使えねー』
『うるせぇ!』
あからさまに不機嫌なアレックスに煽られ、怒りを剥き出しにするノヴァを尻目に、リリィは至って冷静だった。
「十分です……。合図を送りますので、とっておきはその時に」
『合点承知!』
1ゲーム目が始まった。まずは腹の探り合い。目の前の女がどれほどの玉なのか。それを確かめるために、アンソニーは今までのリリィの賭けより、少々多めに張った。賭け先はプレイヤー。
「まぁ……。大胆ですね」
「言ったろう、3ゲームしかない。それに、細々と張るのはどうも性に合わなくてね」
リリィは手元のチップに手を添えると、アンソニーと同額をバンカー側へと張った。
「張るべき時に張れる……。そんな殿方は嫌いではありませんわ」
カードが配られる。プレイヤー3、バンカー7。バンカーの勝利。
リリィの手元へ倍になったチップが戻ってくる。それを見て、アンソニーは笑った。
「なるほど。ツイているというのは本当のようだ」
「ええ」
2ゲーム目が始まる。
アンソニーは、まだチップへ手を伸ばさない。
ディールを前に、密かにイカサマを起動する。
アンソニーの視界UIには、プレイヤー4、バンカー8。バンカー勝利の予測が示された。
それを確認してから、アンソニーは先ほどよりさらに賭け金を釣り上げ、バンカー側へチップを滑らせた。
「少々、熱くなっているのでは無くて?」
「そんなことはないさ……。君はよくこういった場には来るのかな?」
「ええ、たまに。父の仕事の付き合いですが、この熱気は病みつきです」
事前に用意した答えを返しながら、アンソニーの目を見つめ返す。そして、視線を胸元の黒チップへと滑らせ、すぐに外す。
その一瞬を、アンソニーは見逃していなかった。
「私は、少々熱くなってまいりました」
リリィは迷いなく、タイへチップを滑らせた。
「くくっ……。本当に面白い女性だな。君は」
くぐもった笑い声を上げながら、アンソニーはリリィをじっと観察する。何を目的としてこの賭場にいるのか。それだけが、百戦錬磨のアンソニーの目にもどうしても見えて来なかった。
ただの金持ちの娘ではない。それだけは、もう確信していた。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
ディーラーの視線が、ほんの一瞬だけ横へ流れた。
シューが微かな駆動音を立てる。
リリィは何も言わず、グラスへ口をつけた。
カードが配られる。結果は、4対8のバンカー勝利。それは、アンソニーにとって当たり前の結果だった。
「……ふふ。私にも、どうやらツキが残っているようだ」
そう言って、自分の手元にチップを引き寄せる。この勝負だけではない。この賭場で、自分の思い通りにならないことなど、何一つなかった。
アンソニーの誤算はただ一つ。この結果が、リリィにとっても当たり前のものであったこと。ただそれだけだった。
「さぁ、いよいよラストゲームだ。楽しもうじゃないか」
そんな白々しいアンソニーの言葉を聞きながら、リリィは少しだけ瞳を潤ませた。賭場の熱に当てられた女を演出しながら、アンソニーへ熱い視線を投げかける。
「金銭だけでは、少々つまらなくなってまいりました」
「……と、言うと?」
「また。わかっているくせに……」
そう言って、オーナーの胸元、黒いチップを見据える。
「もしかして……これか?申し訳ないが、これは換金不可だ。賭けても、貴女の利益にはなり得ない」
「ええ、ですが……」
リリィは、グラスに残ったバーボンを飲み干す。
「私、人が大切にしているものが欲しくてたまらない……。性分ですの」
その言葉を聞いたアンソニーは口の端を持ち上げた。
本来なら、賭けの俎上に載せるような代物ではない。
黒チップを失えば、保管区画に何者かが侵入した責任は、すべて自分へ返ってくる。そこに眠る記録の中には、表へ出れば自分の首では済まないものもある。
だが——負けるはずがない。
何より、目の前の女が欲しかった。
「いいだろう。なら、私が勝利した暁には……そうだな。一晩相手をしてもらおうか」
アンソニーは黒いチップをテーブルに置く。
「それで、構いません」
最後のゲームが始まった。
◇
『は?はぁぁぁぁあ!?』
『落ち着け』
リリィの発言に、演技だとわかっていても動揺するアレックスの絶叫がリリィの耳を貫いた。
「坊ちゃん、お静かに」
『お静かにってお前……。俺はそんなこと許可してないぞ!』
『だから落ち着けって』
「大丈夫です。こちらにはノヴァがついています……必ず勝ちますので」
『必ずって、万が一のことがあるだろ!』
『万が一も億が一もないっての。少しは信用しなよ』
いきり立つアレックスをノヴァが抑えると、勝負が始まった。
「緊張してきましたわ。負けられない勝負って、ゾクゾクしますのね」
少しだけ前に屈んだリリィはアンソニーの目元を見た。そんなリリィの思惑をすかすように、アンソニーはほくそ笑んだ。
——バカめ。私に負けはない。何せ、勝負が始まる前から結果がわかっているのだ。負けるはずもない。
アンソニーの視界UIに勝負の結果が表示される、その瞬間。
「……今です」
『了解!』
リリィの合図で、ノヴァがシステムに侵入する。その時、表示が一瞬揺らぐ。
「……?」
アンソニーの視界UIの隅に、赤い警告が走った。
EXTERNAL WRITE DETECTED
外部から、予測データへの書き込みを検知したという警告だった。
同時にリリィの視界の隅に、ノヴァから一件の情報が届く。リリィは一瞥しただけで、それを閉じた。
アンソニーの眼前に示された勝負の結果は、バンカー勝利。
「私にはね、見えるんだよ。賭場の流れ、勝負の天運ってやつがね」
芝居がかった言動で、リリィを見下ろした。リリィは何も言わずに、ただアンソニーを見ている。
『おい……大丈夫か?大丈夫なんだろうな!?』
『……』
そうして、悠々とバンカー側にベットしようとした。
——だが。
「……っ?」
バンカー側には、既にリリィのチップが置かれていた。
「あら、ベットなされないのですか?」
リリィは余裕綽々といった面持ちで、アンソニーへ視線を投げる。バンカー側にチップをオール・インしていた。
——なるほど。
アンソニーは、視界の隅で明滅する赤い警告へと目を向けた。
このシステムには、外部から予測データへの干渉を検知した際、予測表示を本来とは逆の結果へ切り替える対ランナー用のフェイルセーフが組み込まれている。
オーナーであるアンソニーだけが知る、最後の保険だった。
つまり、今表示されているバンカー勝利は——デコイ。
本来の予測は、プレイヤー。
そこまで考えて、アンソニーは目の前の女を見た。
いくらなんでも、こんな額を平然と賭けられるほどのコーポ家系など限られている。ましてや、自分の身体を明け渡すような勝負だ。だというのに目の前の女の顔にはあまりにも警戒の色がなさすぎる。
ましてや、オール・インだと?
——イカサマ返しか。
この女。どうやったかはわからないが、こちらの予測システムへ侵入したのだ。
そして、偽の予測を本物と信じている。
でなければ、この反応はありえない。
そもそも、思い返してみればこの女の言動には違和感があった。他人のものが欲しい?この一見なんの価値もないチップが?
バカを言え。こんなチップに価値を見出す女が、ただの客であるはずがない。誰かの差し金か。あるいは、この店に別の目的がある。
いずれにせよ——最初から、自分に近づくつもりだったのだ。
瞬時にそこまで考え尽くしたアンソニーは、リリィの顔を見て穏やかに微笑んだ。
そして、黒チップを含めた全てのチップをプレイヤー側に叩きつける。
『おい!やばいんじゃないのか!?バレてる!』
『黙ってて!』
「悪いな、お嬢さん」
——決めた。こいつは命も尊厳も全て奪い去った上で、パシフィカの海にでも投げ捨ててやる。
「あんたの策は、実を結ばなかった」
リリィは何も言わない。
ゆっくりと、最後のカードが配られた。
吹き出すアドレナリンとドーパミンに、ケレズニコフを使用したわけでもないのに、まるで世界がスローモーションになったように感じられた。
プレイヤー3、バンカー5。
バンカー側の勝利だった。
「は?」
汗が噴き出る。胃が捩れ、世界がぐにゃりと波打った。自身の敗北を理解できないまま、アンソニーはその場に尻餅をついた。
「はっ?はっ?……はあああああああ!?」
『え!?なんで!?』
ホロコール越しに、アレックスも一緒になって驚愕している。
「ありがとうございました。では、こちらは頂いていきますね」
そういうと、テーブルの上の黒チップを手に取り、そのままその場を立ち去ろうとした。
アンソニーの顔から、一瞬で血の気が引いた。
金を失ったからではない。
あのチップの先にあるものを、誰よりもよく知っていたからだ。
あれが他人の手に渡ったと知られれば、自分がどうなるか。想像する必要すらなかった。
「まっ……待て!」
アンソニーの声に、リリィがぴたりと足を止める。
「……なぜ!なぜだ!ハッキングして、結果を逆にしたんじゃないのか!?」
「あら、そんなことはしておりませんわ」
「はっ?」
「言ってたでしょう?私、ツイていますので」
そのまま踵を返すと、リリィはテーブルを後にした。
◇
『あたし、結局予測結果は一文字もいじってないよ。ICEが硬くてできなかったもん』
『?……?』
車内で頭の上に疑問符を浮かべ続けるアレックスへ、リリィは足を止めないまま口を開いた。
「ええ。ですので、書き換えませんでした」
『は!? じゃあなんで勝てたんだよ!?』
「あのシステムには、侵入を検知した際に偽の予測を掴ませる仕組みがありました。でしたら、それが作動したと思わせればよいだけです」
客席を離れ、上層階のバックルームへ続くエレベーターに乗り込む。
「彼には、最後までご自分のシステムを信じていただきました」
『本物の予測は最初からバンカー。あたしが弄ったのは警告だけ。あいつは勝手に、今見えてるバンカーが偽物だって思ってプレイヤーに張ったってわけ』
エレベーターが開き、無機質なバックルームの通路に出る。その先に、目的のVIP保管区画があった。黒チップで認証をパスし、中へ入る。厳重に管理された保管棚には、今回の目的である競合企業重役の精算記録を収めた暗号化データシャードが物理保管されていた。
『……よくわかんないけど、つまり、上手いこと騙くらかしたってこと?』
「……そういうことです」
説明を諦めたリリィが、データシャードを手に取ったその瞬間、照明が落ちた。
扉がロックされ、スピーカーからアンソニーの声が響く。
『残念だよ……。ミス・シンクレア。まさか、あなたがそんな目的で近づいてきていたとは……』
先ほど見せた醜態をなかったことにするかのような、極めて慇懃な声だった。
「あら、見当はついていたのではなくて?」
そんなアンソニーの思惑を見透かしたように、リリィは不敵に笑った。
『……まぁ、データシャードを置いて投降するなら、許しても構わない。その暁には私のドールにしてやろう。どうかな。この上なく名誉なことだぞ?』
「お断り致します」
短く断ったリリィにさらにプライドを傷つけられたのか、アンソニーの怒りは頂点に達した。
「……そうか、では死ね!」
遠くから、シャッターの落ちる音が聞こえる。
「ノヴァ」
『あー、うん。もう向かってるよあいつ。その部屋は開けといたからなるはやで合流してね』
「……ありがとうございます」
リリィは僅かに頬を緩ませると、入り口の扉を開けた。
◇
バックルームの通路に出ると、前方から数名の警備員たちがリリィへ襲いかかる。
リリィは太ももにつけたホルスターのNueを抜くと、的確に警備員たちの額を撃ち抜いた。
額から赤い線が走り、警備員たちは糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
エレベーターへ駆け込むと、下層へ向かうボタンを連打する。
エレベーターが開くと、賭場は大混乱に陥っていた。正面から、華やかなフロアに似つかわしくない物々しい武装の警備員たちがリリィへ銃口を向けた。
『あいつだ!』
複数の銃口が、一斉に持ち上がった。客が逃げ、チップが宙を舞い、ルーレット盤に弾痕が走る。
リリィは側方へ駆けだすと、そのすべてを躱し、すぐ横の柱の陰へと滑り込む。
銃声と悲鳴の中でも、撤収命令も出されないまま、哀れなバンドマンたちは演奏を続けていた。鳴りやまないジャズが、場違いな旋律を奏でていた。
銃弾の雨はやまない。柱の陰から顔を出すと、リリィはNueを発砲した。
一発、二発。
弾丸は二人の警備員の額に吸い込まれるように命中する。二人はその場で絶命した。包囲網に穴が開く。
それを見るやいなや、リリィはSandevistanを起動した。
世界が急速にその歩みを緩慢なものにする。リリィは脱兎の勢いで包囲網を潜り抜け、信じられない速度で出口へとひた走る。
出口のドアへ手をかけようとした瞬間、緩慢な世界は速度を取り戻した。
その瞬間、両脇から二人の敵が飛びかかる。手にはNCPDが使うような電気バトン。出口の前、柱の陰で張っていたのだろう。
——間に合わない。
「「死ねぇっ!」」
思考が巡るよりも早く、リリィは両腕のMantis Bladesを展開した。そのまま両側の敵へ寸分たがわぬ速度で唐竹に斬りつける。
「……」
男たちは、その場で時間が凍り付いたように動かなくなった。
リリィは両腕のMantis Bladesを収納すると、出口を抜けてなおも走った。
「追えっ!」
先ほどまで銃を乱射していた部隊が、ようやくリリィを追いかけ始めた。彼らが出口へ手をかけたその時、硬直していた二人の男たちの身体に薄い一本の線が走った。
その身体が血の雨をまき散らしながら半分に分かれ、ずり落ちていく。部隊の最後の一人が扉を通るころ、二人の男は、地面に崩れ落ちた。
◇
エレベーターにたどり着いたリリィは、中へ滑り込むと地下階のボタンを押した。
反応はない。カジノ側に制御を切られたらしい。
リリィは天井へ向けてNueを発砲した。
天板を留めていたビスが弾け飛ぶ。
リリィはそのまま天井を押し上げ、エレベーターの上部へ躍り出た。
両腕からMantis Bladesを展開すると、ワイヤーを一息に断ち斬った。
次の瞬間、足元が消えた。
「……っ!」
エレベーターが、凄まじい轟音を立てながらシャフトを落下していく。
リリィは身を屈めると、片腕のMantis Bladeを足元の天板へ深く突き立て、身体をエレベーターに固定した。そして、もう片方のMantis Bladeをシャフトの壁へ突き立てる。
耳をつんざく金属音が響き渡る。刃と壁が激しく擦れ合い、赤橙色の火花が飛沫のように舞い散った。
全身が引き裂かれそうなほどの衝撃が、両肩から背中へと突き抜け、エレベーターの落下速度が僅かずつ削られていく。
エレベーターが最下部へ叩きつけられる瞬間、リリィは強化腱を起動し、両脚で最後の衝撃を受け流した。
「……っ」
身体中の骨が軋み、肺から強制的に息が押し出された。
それでも、泣き言を言っている暇はない。
リリィはMantis Bladesを引き抜くと、天板からエレベーター内部へ飛び降りた。鋼鉄の扉を斬り裂き、開いた隙間へ身体を滑り込ませる。
前を向き、また走った。
背後で、業務用エレベーターの扉が開く音がした。別系統から回り込んできた警備隊が、通路へなだれ込んでくる。
「いたぞ!」
後ろから、敵の声と銃声が響く。駐車場の入り口まで、あと三十メートルもない。
二十メートル、十メートル。
ようやく、出口までたどり着いたリリィ。扉を開けようとした、その目の前に、シャッターが滑り落ちてきた。慌てて手をひっこめた。
「くっ……」
三度Mantis Bladesを展開し、シャッターを斬りつけた。だが、斬撃はシャッターの壁に薄い線傷を作るだけだった。
「残念だったな、ミス・シンクレア」
振り向いたリリィの目の前、警備隊の先頭に、アンソニーが立っていた。別系統の業務用エレベーターで回り込んできたのだろう。肩で息をしている。
「もう一度言うが……おとなしく投降するなら、悪いようにはしないが?」
アンソニーは勝ち誇った笑みを浮かべながら、手を挙げる。その手が降ろされたとき、リリィへの集中砲火が始まることは明らかだった。
——絶体絶命。
自身の命の灯を吹き消さんと息巻く敵の只中で……。
リリィは笑った。
「……お断りいたします」
アンソニーの眉が、ピクリと動いた。
「私、往生際の悪い男性には魅力を感じませんの。……もう、かっこ悪くって」
「そうか……」
アンソニーの腕に、力が籠る。
「さらばだ、ミス・シンクレア」
その手が、振り下ろされた。
瞬間。
ドゴォン!
雷鳴のような音が聞こえ、リリィは思わず振り返った。見ると、シャッターから見慣れた異物が突き出していた。
それは、二本のGorilla Arms。
アンソニーも、警備隊も事態が呑み込めずに固まっている。
「……ふんっ!」
べきべきと音を立てながら、二つの腕が上下に開いていく。まるで粘土細工でもちぎる様に、シャッターがひしゃげていく。
その奥から、アレックスが姿を現した。
「っふう~。」
「なっ…なんだ貴様は!」
アレックスは答えない。まだ固まっている敵の眼前で、アレックスはリリィをひょいと抱えると、何かをアンソニーに投げてよこした。
思わず受け取るアンソニー。
「それ、あげるよ。地獄に持っていきな」
そう言うと、シャッターの穴から駐車場へ飛び出した。
「な、なにをやっている!さっさと……!」
アンソニーはようやく我に返ると、檄を飛ばしながら自分の手の中を見た。
ピンを抜かれた、グレネードが入っていた。
「ひっ……」
廊下が、爆炎に包まれた。
「出せ!」
「あいあい!」
アレックスとリリィが転がり込んだ瞬間、ノヴァはマッキノーを走らせる。
そのまま、夜のノースオークに飛び出した。
◇
夜の海辺の景色が、後方へと流れていく。打って変わって静寂に包まれる車内で、ノヴァが口を開いた。
「アレックスやりすぎ。他の車にも引火してたよ」
「……ちょっと火薬詰めすぎたかも」
いつもの会話に、早鐘を打つ心臓がようやく落ち着きを取り戻していく。
「いや~、でも今回はちょっとヒヤっとしたね。リリィも怖かったんじゃない」
「いえ、坊ちゃんが助けに来てくれるのはわかっていました」
アレックスはいつも通りの仏頂面で鼻を鳴らす。しかし、その耳が少し赤くなっていた。
「それに……」
「それに……?」
バックミラーをのぞき込むノヴァに、リリィはとびきりの笑顔を見せた。
「私、ツイていますので」