雪山は、極寒の一言だった。
吹き荒れる猛吹雪の中、グレイはただ北へと歩いていた。 視界を覆い尽くす白銀の世界。
一歩踏み出すたびに膝まで雪に埋もれ、体力が削り取られていく。どれだけ足を前へ出しても、目指すべきゴールなど影も形も見えなかった。
歩き続けることは不可能だ。グレイは一定の間隔ごとに土魔術を引き出し、固いかまくらを作り出しては身を潜めた。
かまくらの中、二人は身体を寄せ合い、グレイが掌に灯した小さな火の玉に当たって暖を取る。 体力の消費は激しかった。だがそれ以上に、致命的な問題が二人の前に立ちふさがっていた。
食糧がない。
何度目かのかまくらの中。ゆらゆらと揺れる小さな熱源を囲み、二人は黙って身を寄せていた。 息を吐くだけで体力が削られていくような感覚の中、アイシャがぽつりと口を開いた。
「……グレイお兄ちゃん。私、歩きます。背負ってもらってばかりじゃ……」
「……ダメだ」
グレイの返答は短かった。 空腹と全身の痛みに削られ、口数が減っている。 アイシャの体力を残すためにも、この極寒の中で彼女を歩かせるわけにはいかなかった。
限界が近い。水は雪を溶かせばどうにかなるが、食わなければ身体が持たない。不発に終わる魔術、動かなくなる指先。死がじわじわと背中に迫っているのを肌で感じていた。
無言で思考を巡らせていた、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ……。
風の吹き荒れる音に混じり、かすかな足音が耳に届いた。それも、複数。 グレイの眼光が鋭く光る。 無言のままアイシャを制し、かまくらの壁に小さな穴を開けて外を覗き込んだ。
かまくらを築いた場所は、ちょうど切り立った崖の上だった。 その崖下を、白い毛並みに覆われた巨体がゆっくりと移動している。
スノウベアの群れだ。数は、計5体。
肉だ、と直感的に思った。 5体という数は絶望的だが、今のグレイにとってそれは恐れるべき死ではなく、喉から手が出るほど欲しい食糧に見えていた。
崖の高さは……降りられない高さじゃない。 低く呟いたグレイに、危険を察知したアイシャが青ざめた顔で縋りついてきた。
「ダメです、グレイお兄ちゃん! あんなにたくさん……! お願いです、行かないで……っ」
恐怖で声を震わせるアイシャ。だが、グレイは静かに彼女の手を包み込み、握りしめられた指を優しくほどいた。安心させるように微笑みを浮かべながら──
「……待ってて」
「グレイお兄ちゃん……!」
「……必ず、帰るから」
それだけ短く告げると、グレイは腰に下げた鉄の剣の柄を握り直し、かまくらを飛び出した。
吹雪の中、崖の縁から眼下の群れを見下ろす。 深呼吸を一つ。吐き出した白煙が横合いからの強風にさらわれ、消えていく。 脳の奥が、冷たく澄み渡っていく感覚があった。余計な雑念、恐怖、疲労感すらも綺麗に削ぎ落とされる。
次の瞬間、グレイは躊躇なく崖の縁を強く蹴りつけた。
身体が浮き上がり、重力に引かれて落下が始まる。 ──その瞬間、世界から音が消え、流れが極限まで遅くなった。
荒れ狂っていた吹雪が、まるで水の中に潜ったかのように静まり返る。 視界を掠める雪のひと粒ひと粒。その不揃いな結晶の形までもが、驚くほどはっきりと目に映り込んだ。頬に当たる雪片の、冷たく微かな衝撃の記憶。 落下する自分の呼吸の音、肺が膨らみ縮む
音。
眼下でゆっくりと首を持ち上げようとする、先頭のスノウベア。その白い毛並みの一本一本が風に揺れ、瞳が自分を捉えようと開かれていく微細な動きまでが、止まったかのような刻の中で手に取るように理解できた。
死線の極致で目覚める、グレイの「野性の勘」。
(──そこだ)
空中で姿勢を固定し、鞘から引き抜いた刃の先を、寸分の狂いもなく狙い定める。 感じる時間の流れが正常な速度を取り戻した瞬間、落下速度をそのまま乗せた一撃が、先頭の首元へ深く深く突き立てられた。
絶命の叫びすら上げる隙を与えず、巨大な躯が静かに雪上へ倒れ込む。
即座に剣を引き抜き、残る4体を見据えた。 視線が交差する。
咆哮と共に、スノウベアが一斉に襲いかかってきた。
グレイは仕留めた獲物の背を足場にして跳んだ。 一体が丸太のような腕を振り下ろしてくる。グレイは剣を縦に振り下ろし、肉を断つ感覚と共に傷を負わせた。だが、残る三体が間髪入れずに迫る。後方へ跳んで距離を取ろうとするも、深い雪に足を取られて踏み込みが浅い。思い通りに距離が稼げなかった。
一発でももらえば、それで終わる。
本来、スノウベアは複数体であれば熟練の冒険者パーティーが挑むような大型の魔物だった。 独学とパウロからの稽古で剣神流、水神流共に「中級」に到達したばかりの今のグレイにとっては、明らかにキャパシティを超えた過酷すぎる相手だ。 ましてやここは、膝まで埋もれる深い雪の中。踏み込みは殺され、足元は滑る。剣神流の真骨頂である初撃の爆発的な威力が不完全にしか使えなかった。
重い。速い。冗談じゃないぞ、と脳内で冷酷に現状を弾き出す。 正面から打ち合えば、一撃で骨を砕かれて終わるだけだ。
「……ッ、ハぁっ!」
腹の底から短く声を張り上げると、全身の重心を極限まで低く落とした。 突進してくる巨大な爪が、頭上の空気を激しく切り裂いていく。
迫る死線のギリギリまで引きつけ、雪に足を取られながらも泥臭く体を横滑りさせて回避した。すれ違いざま、渾身の力で相手の膝裏へ剣を叩き込む。
グァァァッ、と悲鳴を上げるスノウベア。 だが、肉が厚すぎる。浅い。致命傷には程遠かった。
すかさず別の二体が左右から挟み込むように巨躯を躍らせてくる。 余裕など欠片もなかった。格好いいフォームも、美しい流派の型もそこにはない。
かわして、突く。そして──足場を作る。
回避の瞬間、ルディから教わった土魔術で足元の一点だけを瞬時に硬化させた。 雪を踏み抜くはずだった足裏に、確固たる土の手応えが戻る。
踏み込める。
グレイは固めた土を強く蹴り、スノウベアの爪先が届かない絶妙な位置へと跳んで、一瞬だけ一定の距離を取った。
ぴんと張りつめた間合いの中、残されたスノウベアたちの黄色い瞳と、グレイの視線が正面からぶつかり合う。
──グゥ……ッ。
突進しかけていたスノウベアの巨体が、ピクリと動きを止めた。 喉の奥から漏れ出たのは、猛威を振るう捕食者の声ではなく、戸惑いを含んだ低吟。
目の前に立つ、小さく傷だらけの人間。 つい先ほどまで狩る対象でしかなかったはずの小柄な獲物から、桁違いに鋭く、氷のように研ぎ澄まされた威圧感が立ち昇っていた。 傷を恐れず、ただ生き残るために命を刈り取りに来る──本物の捕食者の眼光。 野生の生存本能が警鐘を鳴らし、巨大な魔物たちが一瞬だけ息を呑み、圧されて身を竦ませた。
シュッと空気を切り裂く刃。 研ぎ澄まされた集中力の中、力強く踏み込んだ瞬間、再び世界の流れが引き伸ばされたように遅くなっていった。
死線の極致。 極寒、空腹、激痛、そして崖の上で自分を待つ幼い少女の存在。その極限状態が、グレイの中に眠っていた剣士としての才覚を強烈に引きずり出していく。
型通りの稽古では決して得られなかった、実戦の泥臭い応用と勘。 パウロに叩き込まれた剣術の理が、ルディの魔術という補助線を得て、グレイの中で急速に噛み合っていく。
速く、もっと深く。守りに回ったら殺される。
威圧に呑まれた一瞬の隙を見逃さず、グレイは硬化した土を踏みしめて跳んだ。 襲い来る爪を紙一重でかわし、体勢を崩しながらも目くらましの雪煙を魔術で巻き上げた。 視界を奪われたスノウベアの隙を突き、首筋の薄い皮膚へ向けて、無言のまま刃を深く突き立てる。
激痛と疲労で意識が飛びそうになりながらも、グレイの鋭い眼光だけは死んでいなかった。 死線をくぐり抜けるたび、彼の剣は、思考は、より泥臭く、より苛烈に研ぎ澄まされていった。