(……これで、三体目)
グレイは絶命したスノウベアの巨躯から、剣を引き抜いた。 全身の筋肉が断裂したかのように熱く、激しく波打っている。呼吸は浅く荒い。
残った二体のスノウベアが、低く唸りながらグレイを囲む。 だが、グレイは逃げなかった。剣を構えて立ち上がり、ただ無言で残りの獲物を睨みつけた。 その瞳には、死線の中で研ぎ澄まされた凄まじい殺気と、「生」への執着が宿っていた。人間離れしたその眼光に、魔物であるスノウベアたちが一瞬、気圧されたように動きを止める。
……グルル。
一体が後ずさりし、それに続くようにもう一体も踵を返した。
野生の直感が告げていた。この手負いの人間は危険すぎる。これ以上戦えば、自分たちも命を落としかねない。
二体の巨躯が吹雪の彼方へ消えていく。
「……ハぁ、ハぁ、ハぁ……ッ」
その場に崩れ落ちそうになる体を、精神力だけで支えた。 今すぐにでも雪の中に倒れ込み、意識を失いたかった。だが、まだ終わっていない。かまくらで待つアイシャに、食糧と暖を届けなければならない。
(……動け。肉と、皮だ)
グレイは震える手でナイフを取り出すと、スノウベアの死体に向かった。 感覚の無くなりかけた手で、どうにか皮を剥ぎ、肉を切り出していく。
脳裏に、かつて叩き込まれた稽古の風景が蘇る。
『師匠、解体なんてする機会あるんですか?』
『あるに決まってるだろ。剣を志すなら、いずれこの村を飛び出して行くんだ。その時に野営することは必ず来る。それに……こういう技術は学べる時に学んどけば、いつか役に立つんだよ』
毛皮の簡単ななめし方や、肉の解体。パウロからサバイバルの基礎として教わった記憶。かつては煩わしいと思っていたその稽古が、今、自分たちの命を繋いでいる。皮肉なものだと、口の中でかすかに自嘲した。
十分な量の肉と、血を簡単に拭い去った厚手の毛皮を担ぎ、グレイは崖を登り始めた。
だが、数歩進んだところで、足が雪に取られた。
「っ……!」
踏ん張ろうとした足に力が入らない。体が傾き、背負った荷物ごと崖下へ引きずられそうになる。とっさに手を伸ばし、岩の出っ張りを掴んだ。
しばらく、そのまま動けなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、グレイは震える腕に力を込める。
(……まだだ。アイシャが待ってる)
指先に力を込め、どうにか体を引き上げる。
一歩ずつ。何度も足を滑らせながら、それでもグレイは登り続けた。
——かまくら。
入り口を蹴り崩すと、中からアイシャが飛び出してきた。
「グレイお兄ちゃん……! よかった、よかった……っ!」
泣きじゃくりながら縋りついてくるアイシャ。その体には、返り血と泥にまみれたグレイの姿はどう映っていただろうか。グレイはアイシャを心配させまいと、引きつる顔にどうにか笑みを浮かべた。
「……お待たせ。食糧取ってきたから食べようか」
背負っていた荷を下ろし、すぐに火を起こす。 切り出したばかりのスノウベアの肉を火にかけ、焼ける香ばしい匂いが狭いかまくらに充満していく。同時に、毛皮からは獣特有の生臭い臭いが立ち上った。
グレイは眉をひそめながらも、その温かい毛皮をアイシャに手渡す。
「臭くてごめんね。でも、これで凍えることはないから」
「……うん。ありがとう、グレイお兄ちゃん」
アイシャは毛皮を受け取り、愛おしそうに体に纏った。
焼けた肉をアイシャに渡し、自分も焼けた肉を口に運ぶ。喉を通る熱と栄養が、死にかけていた体に再び生命力を灯していく感覚があった。
(……生き、た……)
一息つき、ふと傍らに置いた師からもらった剣に目をやった。スノウベアの脂と返り血に汚れ、刃こぼれもひどい。刀身にも、いくつもの細かなヒビが入っていた。剣神流「中級」の技と、ルーデウスの魔術を組み合わせた泥臭い戦い。それはグレイを強くしたが、同時に彼の剣を確実に削り、破壊していた。
(……この剣、いつまで持つか……)
愛剣のボロボロになった姿を見つめながら、拭いきれない不安を胸の奥底に静かに沈める。
食事が終わり、焚き火の勢いが少し落ち着いた頃、二人はかまくらの奥に並んで腰を下ろした。
厳しい寒さを凌ぐため、スノウベアから剥ぎ取ったばかりの大きな毛皮を一緒に肩からかぶり、寄り添うようにして丸まる。
生臭さはまだ残っていたが、毛皮の内側に閉じ込められたお互いの体温と肉を食べたことで灯った熱が、かじかんでいた体をじわじわと温めていった。
パチ、と薪が爆ぜる音だけが響く静寂の中、グレイの肩に重みを預けていたアイシャが、ふと火を見つめながら口を開いた。
「グレイお兄ちゃん、もしブエナ村に帰ったら何がしたいですか?」
グレイは、揺れる焚き火を見つめながら、ふと家族の顔を思い浮かべた。
「……そうだなぁ。俺は、母さんのスープが飲みたいなぁ」
「私も、お母さんのご飯が食べたいです」
「リーリャさんのご飯は美味しいもんな」
「グレイお兄ちゃん、ウチで食べるときはいっぱいおかわりするもんね!」
「だって、本当に美味しいからな」
小さな冗談に、アイシャの顔にわずかな笑みが戻る。だが、彼女はすぐに膝を抱え込み、ぽつりと呟いた。
「みんな、大丈夫かな……」
「大丈夫だよ、みんなきっと」
「そうだよね。絶対大丈夫だよね……」
自分に言い聞かせるように呟くと、旅の疲労が押し寄せてきたのか、アイシャは毛皮にくるまったまま静かに瞼を閉じた。規則正しい寝息が、かまくらの中に響き始める。
一人残されたグレイは、眠るアイシャの頭をそっと撫でた。
(……俺が手を取ったから、この子はここにいるんだ)
あの日、いつもより早く家を訪ねたのは、ただの気まぐれだった。
もし、いつも通りの時間に来ていたら。
もし、あの時、彼女の手を取っていなかったら。
脳裏に浮かぶ無数の「もしも」が、冷え切った胸の底を抉る。あの眩い光がすべてを飲み込んだ瞬間、もし別の時間が流れていたなら、この子の隣には違う誰かがいて、こんな過酷な凍土の地を彷徨うことなどなかったはずだ。
自分の勝手な選択が、この子から平穏な日常を奪い去ってしまったのではないか。
拭い去れない重苦しい自責の念が、凍えた心身を内側から締め付ける。
分かっている。過去を悔やんでも仕方のないことだと、頭では理解している。それでも、幼い寝息を立てるアイシャを見るたび、胸の疼きは増すばかりだった。
ならば、せめて。
この罪の代償として、自分が彼女の盾にならなければならない。
「……絶対に、連れて帰るから」
その誓いは、誰かに命じられたものではない。自分で選び、この手を取ってしまったからこそ、最後まで果たさなければならない責任だった。
グレイはもう一度、アイシャの頭を優しく撫でた。
この子を守るためなら、自分の命など惜しくはない。あたたかな場所から連れ出してしまったからこそ、この子にはいつか、必ず幸せな道を歩ませてあげたい。
(アイシャが、いつか誰かと笑い合える未来のために——)
ボロボロになった愛剣を強く握りしめたグレイの瞳の奥には、アイシャの未来を絶対に守り抜くという、静かで強い覚悟の炎が灯っていた。