※原作のネタバレに関する注意
本作は、執筆にあたりアニメだけでは補完しきれない設定や情報について、原作小説なども参考にしながら構成しています。
また、今後の展開を見越して原作の設定や人物関係を取り入れているため、アニメ未視聴範囲の内容や、先の展開に関するネタバレにつながる要素が含まれる場合があります。
ネタバレを避けたい方は、あらかじめご了承ください。気になる方は、ここでブラウザバックしていただくことをおすすめします。
引き続き、本作を楽しんでいただければ幸いです。
南へ向かって歩みを進める足取りは、刻一刻と重さを増していた。 スノウベアから剥ぎ取った厚手の毛皮のおかげで、背中に負うアイシャの体温はしっかりと保たれている。しかし、それを支えるグレイの肉体は、とっくに限界を超えて悲鳴を上げていた。
グレイの意識が途切れそうになるたび、背後からアイシャが必死に声をかけてくる。 ブエナ村で食べた料理のこと、家族と過ごした日々の記憶。彼女なりにグレイを眠らせまいと、必死に健気な話題を探しては絶え間なく語りかけているのだと分かっていた。そのけなげな声援だけが、凍えかけるグレイの意識をかろうじて繋ぎ止めている。
道中、魔物の気配を察知するたび、グレイは即座に簡易的なかまくらを作り、アイシャを中に押し込んでは単身で剣を抜いた。度重なる死闘。そのたびに疲弊しきった身体へ容赦なく鞭を打ち、ただひたすらに前だけを見て雪を踏みしめてきた。
そうして歩みを進めるうち、猛吹雪が不意に収まり、白銀の視界が開けた。その先に、一軒の古びた木こりの小屋がぽつりと佇んでいるのが見えた。
「……小屋だ。アイシャ、少し休もう」
中に滑り込むと、屋根の一部に穴が空いてはいたものの、吹き荒れる寒風を凌ぐには十分すぎる場所だった。 グレイは土魔術を行使し、床に簡易的な土台を作り上げると、その上にスノウベアの毛皮を敷き詰めた。
腰を下ろし、ふと師であるパウロから与えられた剣を引き抜く。 度重なる激闘の果て、刃はズタズタにこぼれ、刀身のヒビはいつ折れてもおかしくないほどに深く刻み込まれていた。もう、次の戦闘には耐えられない。グレイは静かにその剣を鞘に納めると、実の父から譲り受けたもう一振りの剣を引き寄せた。
(……戦えるのは、もうこれ一本だけか)
ベッドは一台分しか作れなかったため、アイシャをそこに寝かせ、自分は壁に背を寄せて座ったまま眠ろうとした。だが、その腕を小さな手がキュッと掴む。
「グレイお兄ちゃん……一緒に、寝てほしいです」
不安に揺れるアイシャの瞳を見つめ、グレイは静かに頷いた。 狭い毛皮の上に潜り込み、震える彼女の肩を優しく抱き寄せる。
「大丈夫……大丈夫だからな」
何度も、何度も優しく囁いた。 それは怯えるアイシャを安心させるための言葉であり、同時に、いつ折れてもおかしくない自分自身の心を奮い立たせ、大丈夫だと強く言い聞かせるための言葉でもあった。
グレイの腕の中で、張り詰めていた緊張の糸が切れたようにアイシャは規則正しい寝息を立て始めた。その温もりを感じながら、グレイもまた久しぶりに横になり、泥のような深い眠りへと落ちていった。
◇
翌朝。
目を覚ましたグレイは、己の身体に起きた明確な変化に息を呑んだ。 限界まで追い詰められた肉体の奥底から、熱く滑らかな『何か』が全身の筋肉へ脈々と巡り渡っている。
(……これが、闘気……?)
かつてパウロが口にしていた、強者が全身に纏う高密度の魔力。極限の死線を潜り抜け続けたことで、グレイの体内で眠っていた力が芽吹いたのだ。全身を満たす、これまでとは次元の違う万全な感覚。
どこへ向かえば助かるのか、ゴールなど分からない。それでも、この先にあるかもしれない人里を目指し、少しでも早く過酷な極寒地帯を抜け出さなければならなかった。
(これなら、もっと速度を上げられる)
グレイはアイシャの身体に負担がかからないギリギリの速度を見極めながら、雪原を疾走した。
だが——世界はどこまでも残酷だった。
数日後。
歩みを進めていたグレイは、突如として皮膚を刺すような強烈な悪寒に足を止めた。
見上げれば、はるか上空の雲の流れがおかしく、冷や汗が噴き出すような尋常ではない圧迫感が頭上から降ってきていた。今まで出会ったどの魔物とも違う、絶対的な死の気配。
「……まじかよ……っ」
グレイの口から、引きつった呟きが漏れ出た瞬間だった。
ドドォンッ……!!
頭上の雲を突き破り、大地を激しく揺らす凄まじい衝撃と共に、グレイたちのすぐ目の前に『それ』は降り立った。
吹き荒れる大雪原を揺らし、目の前に着地したのは、白銀の鱗をギラギラと輝かせる巨大な影——白竜だった。
スノウベアなど比ではない。目の前に立ちはだかった瞬間、全身の産毛が逆立ち、心が折れそうになるほどの圧倒的な「絶対的な死」がそこに存在していた。
遭遇した直後、グレイは一瞬の躊躇もなく行動を起こした。 腰から引き抜いたのは、パウロから貰い、すでに限界を迎えていたボロボロの剣。それを全身の力を込めて、目の前の白竜の顔面へ向けて激しく投擲した。
標的を完全に自分一人のみに絞らせるためだ。
ガキィンッ! とけたたましい金属音が響き、剣が見事に白竜の目を掠めて突き刺さる。ほんの一瞬生まれた隙を見逃さず、グレイは土魔術で傍らの巨岩の陰にかまくらを作り上げた。
「グレイお兄ちゃ——」
「入ってろ!」
声をかけようとしたアイシャを強引にかまくらの中へ押し込み、土で入り口を完全に閉ざす。
振り向いた瞬間、グレイは体内に巡る闘気を一気に鋭く練り上げ、密度を高めた。
白竜を殺せるなどとは到底思えない。そんな風に思い上がれるほど、自分はまだ強くない。 狙うは一つ。スノウベアの時と同じだ。「この獲物を食うのは割に合わない」と、目の前の化け物に判断させること。
「死ねるか……こんな所で……ッ!」
踏み込んだ足場を凍土に蹴りつけ、グレイは一気に地を駆けた。 手にあるのは、実の父から託された唯一の愛剣。鋭く踏み込み、白竜の足へ向けて一閃を放つ。
——カァンッ!
固い。あまりにも固い。 分厚い白銀の鱗に遮られ、手応えすら残せない。だが、グレイは距離を取らなかった。離れればブレスを吐かれる。ブレスの威力が背後のかまくらに届いてしまえば、アイシャの命はない。それだけは絶対に避けねばならなかった。
白竜の巨体が繰り出す凄まじい踏みつけ、薙ぎ払い。 グレイは紙一重でそれらを交わし続けた。闘気を覚醒させた今の身体なら、不思議と白竜の攻撃の予備動作が読める。
苛立ちを募らせた白竜が、大きく翼を羽ばたかせ、グレイを振り払おうと上空へ飛翔しようとした。 グレイは隙を逃さず、離れまいと白竜の足元からその巨躯へと飛び移った。
鬱陶しい虫を払い落とそうと、白竜は激しく体を揺らしながら、一気に上空へと飛翔する。
「ぐっ……ぅあッ!?」
凄まじい上昇負荷と風圧がグレイを襲う。 グレイは手に持っていた剣の柄を固く口にくわえると、空いた両手を伸ばし、白竜の分厚い鱗の隙間に指先を強引にねじ込んだ。爪が剥がれそうなほどの痛みが走るが、絶対に離さない。
白竜は高度を上げながら、旋回し、体を反転させ、振り落とそうと暴れ狂う。 空中での激しい揺れに体が浮きかけるたび、グレイは筋肉がちぎれんばかりの力で指を引っ掛け、足の爪先を鱗の段差に引っ掛けて耐え凌いだ。
高度が上がるにつれ、氷点下の冷気が刃物のように皮膚を削り、体温を奪っていく。視界が白く霞み、感覚が麻痺しそうになる。
(離すな……絶対に、手放すな……!)
グレイは歯を食いしばり、口に咥えた剣を落とさないよう注意しながら、這うようにしてゆっくりと、一歩一歩白竜の背を登っていった。 首筋の長い鱗を掴み、猛烈な向かい風に耐えながら、狂暴に揺れ動く頭部へと肉薄していく。
荒い息を吐き出しながら、口に咥えていた父の剣を右手で握り直した。
「うあああぁぁぁぁぁッ!!」
渾身の咆哮と共に、グレイは白竜の残されたもう片方の目へ向けて、剣を深く突き立てた。
グゴオオオオオオンッ!!
白竜が狂ったような激痛の叫びをあげ、空中で激しく暴れ狂う。その凄まじい狂乱の揺れに耐えきれず、グレイの体は手掛かりを失い、遥か上空へと弾き飛ばされた。
遠ざかる竜の影。重力に引き寄せられ、体が真っ逆さまに落下していく。
その瞬間、思考と感覚が狂気的なまでに研ぎ澄まされた。
周りの景色が、まるで凍りついたかのように速度を失っていく。吹き荒れる風の音も、体中の肉が悲鳴を上げる激痛すらも遠のき、世界から音が消え去った。
視界が極限まで遅延する世界の中で、風に煽られて揺れる胸元のお守りだけが、ゆっくりと、恐ろしいほど鮮明に目の前へ立ち上ってきた。
(……あぁ……)
時間の流れすら停止したかのような静寂の中で、グレイはお守りを見つめた。
『怪我だけは絶対にしないでね』
脳裏に蘇るのは、優しかった母の温もりと声。
『グレイ、何年かかってもいい、絶対に帰ってくると約束しておくれ』
そして、自分を送り出してくれた父の力強い言葉。
(誓ったんだ……生きて帰ると……! ブエナ村に、みんなの元へ、絶対に帰るんだろ……!!)
引き伸ばされた一瞬が終わりを告げ、世界に爆発的な時間が戻ってくる。
父から受け取り、生きて帰ると誓った剣はもう手元にはない。グレイは空中でもがきながら必死に体勢を立て直そうと身をよじらせた。目の前に、白銀の地面が恐ろしい速度で迫ってくる。
◇
「……ぁ……あ……っ」
激しい衝撃と雪の冷たさで、グレイは目を覚ました。 奇跡的に深い新雪がクッションとなったのか、命は繋ぎ止められていた。それでも全身が痛みに叫びを上げ、落下のショックで視界は不鮮明に揺れていた。
それでも、膝を折り、荒い呼吸を整えながら、グレイは立ち上がった。
「ア……アイシャ……」
足をもつれさせながら歩き出す。ここがどこなのか、かまくらがどちらにあるのかすら分からない。ただ、研ぎ澄まされた己の直感とアイシャを守らねばという執念だけを信じて雪を蹴った。
どれほど歩いただろうか。ただひたすら歩みを進めた視界の向こうに、小さく盛り上がったかまくらが見えた。
グレイは震える手で入り口の土と雪を叩き割った。 中から、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたアイシャが飛び出してくる。目が合った瞬間、彼女は泣きじゃくりながら縋りついてきた。
「グレイお兄ちゃん! よかった、よかった……っ!」
「……乗れ」
グレイはアイシャを安心させるように努めながらも、深くしゃがみ込み、背中を見せた。
「でも、そんな怪我じゃ……!」
「いいから……っ! 白竜が、また来るかもしれない……だから……!」
グレイの尋常ではない切迫感と余裕のなさに気圧され、アイシャは溢れる涙を拭いながら背中にしがみついた。
グレイはアイシャをしっかりと背負い直し、再び歩き出した。 背後でアイシャが何度も何度も自分の名前を泣きながら呼んでいる。
(聞こえてる……聞こえてるから……)
声が出ない。吹雪の止んだ静寂の雪山を、霞む視界を頼りにただ前へ、前へと足を進めた。
どれほど歩いただろうか。 グレイの眼下に、雪の中に建つ巨大な建造物が飛び込んできた。木こりの小屋などとは比べものにならない、重厚で大きな屋敷——人里の気配。
(人里……か。頼む……そうであってくれ……)
最後の力を振り絞り、建物へ近づく。その敷地の入り口付近に、こちらへ向かって歩いてくる人影が見えた。
人が、いた。 その圧倒的な安息の事実に、グレイの膝から一気に力が抜けた。アイシャをかばうように雪の上へ膝をつく。
(つな、がった……)
張り詰めていた糸が切れ、グレイの視界は真っ暗な闇へと落ちていった。
◇
数時間後。
大きな屋敷の一室で、グレイとアイシャは温かい布団に寝かされ、介抱されていた。二人を運んだ大人たちが部屋を出て行き、静けさが戻る。
残された一人の少年が、静かに寝息を立てる二人をじっと見つめていた。そして、誰もいなくなった部屋で、ポツリと独り言を呟いた。
「本当に、北から人が来た……『神様』の言ってた通りだ。」