剣神流道場の静かな一室。
温かい布団の中で、二人の少年少女が静かに眠り続けていた。
部屋の隅では、十歳の少年ジノ・ブリッツが、二人の様子をじっと見つめていた。
(本当に……来たんだ)
数日前、夢の中に現れた『ヒトガミ』と名乗る神様。
『北から二人の男女が訪ねてくる。助けてあげておくれ』
そう言われ、言いつけどおり北門の清掃をしていたところ、吹雪の向こうから本当に二人の姿が現れたのだ。
背中に少女を負った少年は、ひどい怪我をしていた。
ジノと目が合った瞬間、少年はほっとしたような表情を浮かべ、そのまま雪の上に倒れ込んだ。
すぐに大人たちを呼び、二人は道場の医務室へ運ばれた。
その際、幼い少女が泣きじゃくりながら少年の名前を呼び、必死に縋りついていたという。引き離すのにも、ずいぶん苦労したらしい。
(あの子、ずっとお兄ちゃんのことを呼んでたな……)
ジノは、眠り続ける少年の顔を見つめた。
一体、どれほど苦しい思いをしてきたのだろう。
そんなことを考えていると、部屋の扉が静かに開いた。
「ジノ、まだ目は覚めないか」
入ってきたのは、叔父であり『剣神』でもあるガル・ファリオンと、従姉妹のニナだった。
「ガル様。はい、まだ目が覚めません」
「お父さん、この子達、本当に北の山から来たんですか?」
ニナが不思議そうに首を傾げる。
ガルは腕を組み、布団の中で静かに息をする二人を見下ろした。
「やって来た方角からすりゃ、そう考えるしかねえな。詳しいことは、目を覚ましてから聞けばいい」
それだけ言うと、ガルは入口へと向かった。
「お前ら二人で交代して見張ってろ。目を覚ましたら報告しろ」
「「分かりました」」
二人の声が重なる。
大人たちが去り、再び静けさを取り戻した部屋で、ジノはもう一度、眠り続ける少年に目を向けた。
(早く、元気になるといいな)
そう思いながら、ジノは少年の寝顔を見守り続けた。
◇
その夜。
ジノは再び、あの真っ白な空間にいた。
どこまでも続く白い世界。
その中央に、顔の定まらない人影が佇んでいる。
『やあ、ジノ。久しぶりだね』
親しげな声が、直接頭の中に響いた。
「お久しぶりです、神様」
『二人は訪ねてきたかい?』
「はい! 神様の言ったとおり、北から二人が来ました。怪我をしていて、今は寝ています」
『それはよかった。ジノも僕のお願いを聞いてくれてありがとう』
「いえ、そんな……」
ジノは少し照れくさそうに頬を掻いた。
神様に頼まれたことをしただけだ。それでも、こうして褒めてもらえるのは嬉しかった。
「あの……神様」
『ん? どうしたんだい?』
「二人は、一体誰なんですか?」
気になっていた疑問だった。
あんな小さな女の子を背負って、あの吹雪の中を歩いてきた少年。普通なら、とっくに命を落としていてもおかしくない。
『魔力災害に巻き込まれて、遠くへ飛ばされてしまったんだよ。他にも、同じように転移してしまった人たちがいるみたいだけどね』
「……そうだったんですね」
ジノは神妙な顔で頷いた。
あの二人は、好きであんな場所にいたわけではないのだ。
「神様、僕はこれからどうすればいいですか?」
『そうだね……』
ヒトガミは、少し考えるような間を置いた。
『ジノ。あの二人と仲良くしてあげておくれ。特に、男の子の方だ。彼は君にとって、大切な存在になるかもしれない』
「大切な存在……?」
『うん。きっと君のためになるよ』
ジノは首を傾げた。
まだ名前も知らない相手だ。仲良くなれるかどうかも分からない。
それでも、神様がそう言うのなら。
「……うまくできるか分からないですけど、やってみます!」
『ありがとう、ジノ。君なら大丈夫さ』
「はい!」
素直に頷く少年の姿が、白い空間からゆっくりと薄れていく。
やがてジノの意識が完全に遠ざかり、白い世界にはヒトガミだけが残された。
◇
(……まったく。直接手を出せないというのは、面倒なものだね)
先ほどまでの親しげな雰囲気は、もうない。
ヒトガミは、うんざりしたように思考を巡らせていた。
そもそも、グレイに助言を与えたのは、最初から何かを企んでいたわけではなかった。
あの大規模な転移が起きた瞬間、ヒトガミは二つの異なる波を感じ取った。
一つは、ひときわ大きな波紋を広げる存在。
ルーデウス・グレイラット。
そして、もう一つ。
その傍らで、不気味に明滅する小さな波。
グレイ・カーティス。
初めてグレイの未来を覗いた時、そこには自分の助言に従い、都合よく動く少年の姿があった。
少なくとも、その時点では利用できる存在だと思っていた。
だが、時間が経つにつれて、少しずつ様子が変わり始めた。
グレイの未来は、ひどく不安定だった。
未来を覗くたび、その姿は揺らぎ、時には何の前触れもなく、まったく異なる可能性が浮かび上がる。
そして、ついには。
(……僕の使徒を殺している未来まで見えるようになったか)
ヒトガミは目を細めた。
単に行動が読めないだけなら、まだいい。
だが、グレイは自分の計画を妨げるだけでなく、実際に手駒を失わせる存在になるかもしれない。
しかも、未来の映像には、自分に明確な敵意を向けるグレイの姿まで混じっていた。
(厄介なことになったね)
グレイ自身の未来が不確定であること。
自分の使徒を殺す未来があること。
そして、もう一つ。
ヒトガミは、ルーデウスの未来を覗く中で見た光景を思い返した。
ルーデウスの子供と、グレイの子供。
二つの家系が結びつき、新たな子孫を残す未来。
その先に何が生まれるのか、すべてが明確に見えているわけではない。
それでも、その未来は無視できるものではなかった。
グレイの存在は、単に未来が読みにくいというだけではない。
ルーデウスの血筋と結びつくことで、将来的に自分自身を脅かす可能性まで秘めている。
どれか一つだけなら、ここまで気にする必要はなかったかもしれない。
だが、これらが重なっているとなれば話は別だ。
もっとも、今すぐグレイを排除する必要があるかといえば、そうでもない。
ヒトガミには、もっと優先して対処すべき相手がいた。
ルーデウス・グレイラット。
あちらへの対処がうまくいけば、グレイを取り巻く未来も変わるかもしれない。
ただし、何も備えずに放置するのも危険だった。
(万が一ということもあるからね)
ヒトガミの脳裏に、先ほどの少年の姿が浮かんだ。
ジノ・ブリッツ。
剣神流の血を引き、将来は剣神に届くほどの才能を秘めた少年。
それでいて、今はまだ幼く、自分の才能をどう使うべきかも知らない。
何より、こちらの言葉を素直に聞き入れてくれる。
(都合のいい子だ)
最初から無理に何かをさせる必要はない。
今はただ、助言を与え、信頼を積み重ねていけばいい。
頼まれたことをすれば褒められる。
迷った時には、答えを教えてくれる。
そうしてジノにとって、自分が当たり前に頼れる存在になればいいのだ。
やがてジノが成長し、グレイと肩を並べるようになった時。
二人の間に何が生まれるのか。
ジノがグレイを友人として認めるのか、それとも自分の力を試す相手として見るようになるのか。
あるいは、グレイの存在がジノの心に何かを生じさせるのか。
今の段階では、まだ分からない。
だが、それでいい。
ジノの中に眠る様々な感情も。
それらは、いずれ本人が成長する中で形を変えていくだろう。
その時に少しだけ背中を押してやればいい。
強くなりたいと思うように。
自分の力を証明したいと思うように。
そして、いつか自分の助言が必要になるように。
焦る必要はない。
ルーデウスへの対処を進めながら、ジノをゆっくりと育てていけばいい。
グレイが本当に脅威となった時、ジノがどちらを向くのか。
それを決めるのは、まだ先の話だ。
(さて……どう芽吹いてくれるかな)
白い空間の中で、ヒトガミは楽しげに口元を歪めた。
ジノ君かわいい