地獄のような極寒の空、視界を奪う白竜の姿。
剣一本で挑んだ死線の果て、グレイは竜の体から虚空へと投げ出された。
(……アイシャ)
上下の感覚もなく落下する意識の中で、ただ一人の少女の名を呼ぶ。
どうやって着地したのかは分からない。
激痛に耐えながら瀕死の体を引きずり、執念だけで即席のかまくらへと辿り着いた。
入り口の氷を砕き、中を覗き込む。
「……アイシャ、お待たせ——」
その瞬間、グレイの全身から血の気が引いた。
中にいた少女は、スノウベアの毛皮に包まれたまま、ピクリとも動かなかった。
その肌は雪のように白く、触れた指先には、温もりなど欠片も残っていない。
守れなかった。
師匠の宝を、あの小さな命を。
己の無力さへの絶望が胸を締め付ける。
グレイは口を開いたが、「……っ、……ぁ……っ!」と喉を激しく震わせるだけで、声にならない悲鳴しか上げられなかった。
——その瞬間、世界が反転した。
「……ッ、ハぁっ!」
荒い息と共に、グレイは跳ねるように目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない木造の高い天井だった。
(……夢、か……)
心臓が早鐘のように脈打ち、全身から嫌な汗が噴き出している。
ふと、視線を感じて横を向いた。
寝台の脇に、濃紺の髪をした見知らぬ少女が座っていた。彼女の手には、濡れたタオルが握られている。
グレイと目が合うと、少女はハッとしたように目を見開き、すぐに立ち上がって部屋から走り去ってしまった。
(……誰だ? ……ここは……?)
状況を把握しようと体を動かそうとしたが、凄まじい激痛が全身を走った。
腕を上げようとすれば、そこには包帯がぐるぐると重々しく巻き付けられている。
起き上がることすら叶わず、グレイは再び寝台に沈み込んだ。
ドタバタと、廊下から複数の足音が近づいてくる。
部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、見慣れた赤い髪の少女——アイシャだった。
「グレイお兄ちゃん!」
その声を聞いた瞬間、グレイの胸から全ての緊張が抜け落ちた。
(……あぁ、よかった。……ちゃんと、送り届けられたんだな)
夢の中の冷たい彼女ではない。
生きて、動いて、自分を呼んでいる。
その事実だけで、今のグレイには十分だった。
アイシャの後ろから、大柄な男が部屋に入ってきた。
見るからに強靭な肉体。纏う空気は、ひりつくほどに鋭い。
本物の「強者」だけが持つ圧。
男は寝台の近くに腰を下ろすと、睨みつけるような眼光でグレイを見下ろした。
「……喋れるか」
「……あ、……はい。なんとか……」
グレイは掠れた息を整え、どうにか声を絞り出した。
男はニヤリと、猛獣のような笑みを浮かべた。
「ここは剣神流の総本山、『剣の聖地』だ。俺は当代の剣神、ガル・ファリオン。さっきの青い髪のガキは、俺の娘だ」
剣神。
まさか、世界最高峰の剣士の本拠地に辿り着いていたとは。
「……すいません。重傷で……まだ、動けそうになくて」
「だろうな。……普通のガキなら即死だ」
ガルは品定めするようにグレイの体を一瞥すると、無造作に問いかけた。
「嬢ちゃんから大体の話は聞いてる。お前、ランクはなんだ?」
「……中級、です」
グレイが答えると、ガル・ファリオンは一瞬呆け、次の瞬間、腹を抱えて爆笑した。
「ギャハハハハッ! 中級ゥ!? 中級のガキが幼女背負って雪山越えたのか! 面白い、傑作だッ!」
ひとしきり笑った後、剣神はギラついた鋭い眼光をグレイに向けた。
「……お前の剣に興味が出てきた。傷が癒えたら見せてみろ。……それ次第じゃ、中級なんてケチな位階、すぐに上級、聖級まで引き上げてやるよ」
ガル・ファリオンはそう言い残し、部屋を去ろうとしたが、ふと足を止めた。
「そうそう、お前を最初に見つけたのは、ジノって言うここの門弟だ。動けるようになったら礼の一つぐらい言っとけ」
そう言い捨てて、ガルはドカドカと足音を響かせて部屋を出て行った。
◇
部屋の扉が閉まると、先ほどまでの荒々しい気配が嘘のように消え去った。
格子窓からは、静かに差し込む柔らかな陽光が幾筋もの光の帯となって落ちている。
部屋の中でゆっくりと舞う小さなチリすらも、金色にきらめいて見えた。
残されたのは、グレイとアイシャの二人だけ。
一歩、また一歩。
静寂を破るように、アイシャが寝台へと近づいてくる。
小刻みに震えるその唇。今にも弾け飛びそうな大きな瞳には、一筋の光を湛えた涙が静かに溜まっていた。
「……アイシャ。……元気だったか?」
グレイが弱々しく口角を上げると、アイシャの溢れそうだった涙が、ぽろりと頬を伝って落ちた。
床板に小さな染みを作る。
「はい。……はいっ。皆さん、すごく良くしてくれて……」
アイシャは小さな両手で胸元を固く握りしめ、溢れ出る感情を必死に抑え込もうと息を詰めた。
けれど、グレイの優しい眼差しと声に触れた瞬間、ついに限界が訪れる。
「私、……っ、私が起きてから3日も寝てて……もう起きないんじゃないかって……っ」
そこまで言うと声が掠れ、言葉が途切れた。
アイシャの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、留まることなく落ちていく。
どれほど心細く、どれほど一人で恐怖と戦っていたのか。
小さな肩をヒックヒックと激しく揺らし、溢れる雫が床板にポタリ、ポタリと小さな染みを作っていった。
「……怖くてっ、怖くて……! グレイお兄ちゃんに、もう会えなくなるんじゃないかって……っ!」
堰を切ったように残りの言葉を叫ぶと同時に、アイシャは寝台の上へと身を投げ出した。
ぎゅっと、痛むグレイの胴体に小さな身体を擦り寄せてくる。
アイシャの身体は、確かな温もりを持っていた。
その温もりに触れた瞬間、グレイの中に残っていた悪夢の冷気が、ゆっくりと溶けていく。
グレイの目からも、静かに涙がこぼれた。
重く重なり合った包帯の隙間から、痛む腕をゆっくりと持ち上げる。
か細く繊細なアイシャの首筋、そして柔らかくあたたかな頬へと、震える指先で静かに触れた。
「怖い思いをさせてごめん。……もう大丈夫。もうアイシャに、こんな思いはさせないから」
触れられた指先から伝わるグレイの温度に、アイシャはハッと息を飲んだ。
そして、その小さな両手でグレイの手を包み込むと、愛おしそうに、すがるように、己の頬へ深く、深く押し当てた。
「……うん。……ずっと、近くに……っ」
窓から差し込む優しい木漏れ日が、寄り添う二人の影を優しく包み込んでいく。
少女の小さな囁きは、どこまでも澄んだ光の中に溶けていき、二人の胸の中に消えることのない温かな絆を刻み込んだのだった。