目覚めてから二週間。
瀕死の重傷を負っていたグレイの身体は、驚異的な回復力で、万全ではないものの、日常の動作ができるまでに戻っていた。
雪がしんしんと舞い落ちる縁側に立ち、グレイは遠くの白銀の山々を眺めていた。
北国の冷たい風が吹き抜け、グレイの髪を優しく撫で上げていく。
そんな彼の背後を、道場を行き交う門弟たちが遠巻きに覗き込み、ひそひそと囁き合っていた。
「……あり得ねえだろ、あのガキ」
「ああ、運ばれてきたときは骨も内臓もボロボロだったはずだぞ……」
門弟たちの視線を気に留める様子もなく、グレイが息を吐いていると、後ろから温かな気配が近づいてきた。
アイシャが毛布のような羽織を一枚抱え、心配そうに駆け寄ってくる。
「グレイお兄ちゃん、本当に大丈夫なんですか? まだ風に当たると怪我に触りますよ」
甲斐甲斐しく羽織を肩に掛けてくれるアイシャに、グレイは振り向いて笑顔を向けた。
「大丈夫だよ。アイシャが毎日、看病してくれたからさ」
「……もう、茶化さないでくださいっ」
ぷっと頬を膨らませるアイシャ。
そんな二人の穏やかな時間の間に、控えめな声が割り込んできた。
「す、すいません……」
二人が振り返ると、そこには気まずそうに佇む一人の少年が立っていた。
アイシャがハッとして声を上げる。
「あ! ジノさん、おはようございます!」
「おはよう、アイシャちゃん」
少し気恥ずかしそうに返事をする少年を、グレイは黙って見つめた。
アイシャが慌てて二人の間を取り持つ。
「グレイお兄ちゃん、この人はジノ・ブリッツさんと言って、私たちを最初に見つけてくれた人ですよ!」
「君が……」
「初めまして。ジノ・ブリッツです」
「グレイ・カーティスです。……よろしく。ありがとう、君が助けてくれたんだね」
「僕は、最初に見つけただけだよ」
「それでも、君が見つけてくれたから早く運んでもらえたんだろ? だから感謝してる」
照れたように鼻の頭をかくジノだったが、思い出したように手を打った。
「そんな……あ、そうだ。剣神様が君を呼んでくるようにって。案内するからついてきて」
「分かった。……アイシャ、行ってくるね」
どこか張り詰めた空気を感じ取ったのか、アイシャが心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか? グレイお兄ちゃん……」
「大丈夫だよ。取って喰われたりはしないだろうから」
グレイはアイシャを安心させるように微笑むと、ジノの後を追って歩き出した。
◇
長い廊下を二人で並んで歩く。
先に沈黙を破ったのはジノだった。
「グレイ君でいいかな。歳はいくつなの?」
「10歳だよ」
「同い年なんだ!」
驚いたように目を見張るジノに、グレイも親近感を覚えて問いかける。
「そうなんだ。ジノ君はずっとここにいるの?」
「同い年だから敬語じゃなくていいよ。呼び捨てでいいし。僕は生まれた時からずっと、剣の聖地にいるよ」
「分かった。それなら、ジノは強いんだな」
「同い年くらいの子の中なら……強いかな?」
謙遜しつつも瞳に自負を覗かせるジノ。
やがて二人は本堂へと辿り着いた。
ジノが重厚な木扉を押し開ける。
「ガル様、グレイ・カーティスを連れてきました」
高座に腰を下ろすのは、当代の『剣神』ガル・ファリオン。
「来たか、ガキ。傷は癒えたか?」
グレイは前へ歩みながら周りを見渡した。
ふと、周りの門弟のひとり――濃紺の髪色の少女・ニナと目が合う。
しかし、ニナは気まずそうにフッと素早く目を逸らした。
グレイは立ち止まり、深く頭を下げた。
「今回の治療、ありがとうございます」
「そんなのはいい。傷が癒えたなら、お前の剣を見せてみろ」
「は、はい、えっと……」
突然の要求にグレイが戸惑っていると、ガルは豪快に立ち上がった。
「おい、ニナ。2本投げろ」
「は、はい!」
ニナが慌てて壁の木剣を2本外し、投げ渡す。
ガルは1本をグレイへ放り投げた。
「打ってみろ」
側に座ってい剣士が慌てて声を上げる。
「け、剣神様! 剣神様がわざわざ手合わせなど……!」
「うるせぇ! 俺がこいつの剣に興味があるんだよ!」
一喝して黙らせると、グレイは渡された木剣を軽く振るう。
自身の体の調子を確かめるように。
(万全じゃないけど……これなら)
久しぶりに握る柄の感触。
胸の奥から自然と笑みが溢れ出す。
(やっぱり俺……剣が好きなんだな)
「どうした? 安心しろ、初めの方は反撃しねぇよ」
ガルの言葉に、グレイは木剣を構え、体勢を低く沈めた。
次の瞬間、少年らしさが一変して吹き飛び、目つきと闘気が鋭利に研ぎ澄まされる。
周りの剣士たちも、空気が変わったのを肌で感じ取った。
「――では、行きます」
踏み込む。
床板が激しい音を立てて割れるほどの踏み込み。
飛び上がったグレイは、ガルの正面から木剣を振り下ろした。
木剣同士が重くぶつかり合うが、ガルは木剣で易々と受け止め、そのまま横へと薙ぎ払う。
グレイは間一髪で距離を取った。
「どうした? ここは雪山じゃねえぞ。力を込めすぎたか?」
(ずっと足場が悪かったから、感覚が……)
グレイは小さく息を吐き、再び飛び出した。
今度は床を割ることなく、先ほどよりも速い。
ガルの周りを高速で移動しながら隙を窺うが、どこを見ても隙がない。
踏み込めばやられるという警鐘が脳裏で鳴り響く。
「おい、お前の剣を見せろと言ったはずだ。さっさと来い!」
ガルの荒々しい叱咤を合図に、グレイはガルの死角である後方へと回り込み、横薙ぎに振るう。
しかし、ガルは見えているかのようにそれを受け止める。
グレイは弾かれた瞬間に位置を変え、四方から連続で剣を振るう。
だが――ガルはその全てを、一歩も動かずに捌き切った。
フェイントも、死角も、全て見抜かれている。
これが剣神――!
その時、ガルが不敵に口角を上げた。
「――もう十分だ」
グレイの全身に激しい悪寒が走る。
直後、絶大な衝撃が全身を襲い、グレイの体は本堂の扉を派手に突き破って外へと吹き飛ばされた。
雪の上に打ち付けられ、自分が何をされたかも分からないまま手元を見ると、握っていた木剣は無残に折れていた。
扉の向こうから、ガルが雪の上に倒れたグレイを見下ろしながら呟く。
「……見えてたわけじゃねえな。俺の体の動きと闘気の高まりを、直感で感じ取ったか?」
ガルは満足そうに息を吐くと、扉の縁に腕を組んで言い放った。
「合格だ。いきなり聖級にとは出来ねえが……この地で剣を磨け。聖級になったら、俺が直接鍛えてやるよ」
しかし、そう告げられたグレイは、折れた木剣を握ったまま静かに首を横に振った。
「……嬉しい申し出ですが、俺は残れません」
「……なんだと?」
ガルの眉間がわずかに険しくなる。
周囲の門弟たちが息を呑む中、グレイははっきりと言葉を続けた。
「傷を手当してくれたことは本当に感謝しています。ですが、俺は早くアイシャを家族の元へ送り届けなければならないので」
「バカ言え。お前らを保護した身として、そのまま突っ込ませるわけにはいかねぇよ」
ガルは鼻で笑い、鋭い眼光でグレイを見据えた。
「理由は単純、お前がまだ未熟だからだ。あの雪山を超えてきたからって、外の世界でも生き残れるなんて甘い幻想は捨てな。お前はあの嬢ちゃんを安全に送り届けたいんだろ? なら、道中で誰が来ても叩き伏せられるくらいに強くなれ。まぁ、とりあえず成人まではここで様子見だな」
「それなら、せめて手紙だけでも――!」
引き下がらぬグレイに対し、ガルは腕を組み、呆れたように顎をしゃくった。
「フィトア領の転移事件に関してはこの聖地まで情報が回って来てねぇよ。シャリーアの街まで降りれば何かしらの情報が転がってるかもしれねぇから、ここの誰かに情報を探らせてやる。そのあとでいいだろ?」
逃がす気のない剣神の圧倒的な威圧感に、グレイは一瞬言葉を詰まらせた。
だが、アイシャの安全と情勢を探ってくれるという提案を受け止め、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……はい。それなら……よろしくお願いします」
決心したグレイを見て、ガルは短く息を吐くと、傍らに立つ娘へ視線を向けた。
「ニナ! グレイを医務室まで連れてけ」
「えっ……ど、どうして私が……!?」
突然指名されたニナが目を丸くして戸惑う。
「いいから連れてけ!」
ガルの短気な一喝に、ニナは肩を跳ね上がらせると、不満そうに口を尖らせながらも頷いた。
「……わかりました」
ニナは雪の上に立つグレイの方へと歩み寄り、どこか気まずそうに顔を背けながら言った。
「……こっちよ。ついてきて」
「は、はい……」
◇
壊れた本堂を背に、静かな廊下を二人は並んで歩く。
先ほどの手合わせの余韻と、どこか打ち解けきれない空気が漂う中、前を歩いていたニナが不意に足を止めた。
ニナはゆっくりと振り返ると、両手を後ろで静かに組み、首を少しだけ傾げてグレイを見た。
束ねられた濃紺の美しい髪が、彼女の華奢な肩からふわりと滑り落ち、滑らかな頬を撫でる。
「……ねえ。やっぱりあなた、中級なんかじゃないわよね?」
「え……? いや、転移前よりは強くなった自覚がありますけど、一応『中級』ですよ」
正直に答えるグレイに対し、ニナは納得のいかない様子で眉を寄せる。
「嘘よ。中級クラスが、父さんの手加減した『光の太刀』を受けられるわけがないじゃない。……どうやって受けたの? 何かコツでもあるの?」
ニナの真っ直ぐな瞳には、悔しさと、それ以上に剣士としての強い探究心が宿っていた。
グレイは少し首をかしげ、己の感覚を言葉にしようと思考を巡らせる。
「コツ、ですか……。昔から勘が良いって言われてて……」
「勘……?」
「うーん、勘というより……『直感』ですかね。危険が迫ってくるのが感覚で分かるというか。あとは相手の筋肉の動きや重心の傾きを見ると、次にどう動くか予測が立つので……それを直感的にやってる感じですかね」
さらりと語られた言葉の意味を反芻し、ニナは息を呑んだ。
(体の動きを見てから、瞬時に予測して避ける……!?)
それは、気の遠くなるような実戦経験か、あるいは天性の才能がなければ不可能な芸当だ。
ニナは改めて目の前に立つ自身より年下であろう少年をまじまじと見つめ直した。
「……あなた、グレイって呼ぶわね」
「あ、はい」
「その予測の仕方、私にも教えなさいよ! 方法を感覚的なことでもいいから言ってもらえれば、きっと違うはずだから。……あと、その敬語はいらないわ」
ニナの気圧されるほどの迫力に、グレイは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「分かったよ。えっと……上手く伝えられるか分からないけど、よろしく、ニナさん」
「ニナでいいってば!」
その言葉に、グレイは返事を忘れ、ほんの一瞬だけその横顔を見つめていた。