【ニナとグレイと綺麗な場所】
修練後の湯上がりの濡れた髪をタオルで拭いながら、私は脱衣所をあとにした。
火照った肌に触れる風が心地いい。けれど、胸の奥にある重たいものは消えてくれなかった。
グレイの立ち回りは相変わらず厄介だし、ジノの剣速も日に日に鋭さを増している。ふたりに追われる焦りが、私の足取りを少し重くさせていた。
廊下を歩いていると、曲がり角から同世代の女性剣士数人が現れた。
「あ、ニナ! お疲れ様」
「お疲れ。みんなも風呂上がり?」
「うん。……ねえニナ、最近どうなの?」
話しかけてきた一人が、悪戯っぽく口元を緩めて距離を詰めてきた。何かを探るような視線に、私は首を傾げる。
「何が?」
「何がって、グレイ君よ、グレイ君」
「グレイがどうしたのよ」
不意に出てきた名前に身構えると、周りの女子たちが楽しそうに顔を見合わせた。
「最初は外から来た人だから警戒してたけど、他の男子と違って剣に人一倍真摯だし、私たちが話しかけてもしっかり答えてくれるでしょ?」
「そうそう! アイシャちゃんをすごく大事にしてる姿も好感持てるし、最近人気急上昇なのよ」
「そ、そうなの……?」
言われてみれば、最近は他の門下生と気さくに話す彼の姿をよく見かける。
戸惑う私をよそに、1人がニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。
「で? ニナはグレイ君狙いなんでしょ?」
「なっ……! そんなわけないでしょ! ただグレイには学ぶことが多いだけよ!」
「アイシャちゃんの防御がある中で、一番距離が近いのはニナでしょ? みんなのもっぱらの噂よ」
変な噂を立てられてたまるかと、私は逃げるようにその場を去った。
けれど、火照った顔はちっとも収まらない。
(あいつのどこがそんなにいいのよ)
心の中で毒づきながら、気づけば足は聖地の外れへ向かっていた。
鬱蒼とした木々を抜けた先に広がる高台。眼下には静かな清流が流れている。
心が落ち着かない時に訪れる、私だけの秘密の場所だ。
風に頬を晒そうと一歩踏み出したところで、木陰からふと声をかけられた。
「——あれ、ニナ?」
驚いて目をやると、木陰の岩に腰掛け、水筒を手にしていたのはグレイだった。
「グレイ……!? なんでここに……」
「ここ、最近見つけたんだ。休憩しようと思って歩いてたら、静かでいい場所だなと思って。邪魔しちゃったかな」
困ったように笑う彼を見つめながら、私は小さく息を吐き出した。
「……別にいいわよ。私も心が落ち着かない時に来るの」
気のない仕草で、彼が座る大きな岩の隣へ腰を下ろした。
「……ねえ、最近女の子によく話しかけられてるみたいね」
「ああ……物珍しさだろうね。外から来た人間なんて珍しいだろうし」
水筒の蓋を閉めながら淡々と答えるグレイに、私は膝を抱えたまま少し意地悪く視線を送った。
「そうかしら。少なからず好意はあると思うけど」
「まあ、親切に接してくれるのは感じるけど」
「で、どうなの? 恋人とか欲しいの?」
自分でも少し踏み込みすぎたかと思ったが、グレイは特に慌てる様子もなく、静かに遠くの景色に目を向けた。
「今はアイシャのことが最優先だから、考えてないかな」
「……ふーん、そうなんだ」
期待していたような、どこかホッとしたような。そんな妙な感覚を誤魔化すように、私はさらに言葉を重ねた。
「じゃあさ、好きなタイプはどんな人なの?」
「……ニナみたいな人かな」
「っ!? あ、揶揄ってるでしょ!」
一瞬で顔が爆発しそうになり、私は思わず身を乗り出して彼を指差した。
グレイは肩をすくめ、どこか幼さの残る笑みを浮かべた。少し重めの前髪の間から覗くその表情はどこか弟めいていて、柄にもなく可愛らしく見えてしまう。
「そんなことないよ。……でも、ニナもそういう話に興味あるんだね」
「ま、まあ……少しは……」
しどろもどろになる私を見て、グレイは感心したように頷いた。
「ニナはもっと『剣一筋』って感じだと思ってた。……それなら、ニナのタイプは?」
「私!? ……私、は……」
不意の問い返しに視線が泳ぎ、さっきの女子たちの言葉や目の前の顔が頭をよぎる。私は慌てて咳払いをした。
「……少なくとも、剣に真摯な人かしら」
「そっか。それなら、ここなら選び放題だね」
満足そうに頷くと、グレイはすっと岩から飛び降り、服についた塵を軽く払った。
「そろそろ戻ろっか」
「……ええ」
私も岩から降りて、彼と並んで歩き出す。
自分の気持ちにも、周りの噂にもどこか無頓着なまま、前を見据えて歩くグレイ。
その整った横顔を盗み見ながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
(……恋か)
小さく呟いた心の中の言葉は誰にも届かないまま、ふたりの足音だけが静かな小道に響いていた。
【アイシャの剣の聖地ルーティン】
朝、薄暗い部屋の中に静かな寝息が聞こえていた。
私はそっと布団を抜け出し、隣で眠るグレイお兄ちゃんの顔を覗き込む。
無防備で、少し幼さの残る穏やかな寝顔。しばらくその顔を見つめてから、胸の奥に小さな満足感を抱き、静かに部屋を抜け出した。
給仕室に向かうと、厨房にはもう香ばしい匂いが立ち込めている。
「おはようございます!」
「あらアイシャちゃん、おはよう。今日も早いわね」
挨拶を済ませ、さっそく朝食の準備に取りかかる。
最初は手伝い程度だったけれど、持ち前の手際の良さを買われて、最近では小さな献立や下ごしらえも任せてもらえるようになっていた。
頼りにされるのは誇らしいし、何よりグレイお兄ちゃんに美味しいものを食べてほしい。
朝の準備が整い、門下生たちが食堂に集まり始める。
ジノさんやニナさんが席につくのが見えたけれど、そこにグレイお兄ちゃんの姿はない。
(ふふ、やっぱり)
私はエプロンを外して部屋へと向かった。
部屋を覗くと、案の定グレイお兄ちゃんはまだ布団の中で丸くなっている。剣が関わらないと、びっくりするくらい起きないのだ。
「グレイお兄ちゃん、朝だよ。起きて」
肩をゆさゆさと揺らすと、お兄ちゃんは重そうに瞼を開けて上体を起こした。
まだ意識が微睡みの中にあるのか、頭には立派な寝癖がついている。
普段は頼もしくて格好いいお兄ちゃんだけれど、この寝起きの一瞬だけ見せてくれる可愛らしさに、思わず口元が緩んでしまう。
手早く寝癖を撫でつけ、腕を引っ張って立たせてあげる。
「着替えもしよっか?」
「あ、それだけは駄目だよ……自分でやるから」
服に手をかけようとすると、お兄ちゃんは急に目を覚まして慌てて断る。
これだけは一度も手伝わせてくれない。
少し残念に思いながらも、身支度を整えたお兄ちゃんの手を引いて食堂へ向かった。
食堂ではジノさんとニナさんが待っていてくれて、四人で並んで朝食を囲む。
賑やかで温かい、大好きな時間だ。
昼になり、お兄ちゃんが道場で稽古をしている間は、部屋の掃除や道場周りの清掃に精を出す。
今日がお兄ちゃんの休養日なら、稽古はお休み。ふたりで部屋にこもり、おしゃべりをしたり静かに過ごしたりする。
私にとっては何よりのご褒美だ。
夕方が近くなれば、再び給仕室へ向かい、夜ご飯の用意を手伝う。
包丁を使う手つきもすっかり慣れて、手際よく作業を進めていく。
「アイシャちゃんは本当に気が利くわねぇ」
給仕のお姉さんたちに褒められながら仕事を終えると、今度はみんなと一緒に大きな浴場でお風呂に入る。
剣の聖地の女性陣はみんな私に優しくて、親切にしてくれる。
温かいお湯に浸かりながら話す時間は、なんだか少し大人になった気分になれて誇らしかった。
お風呂から上がれば、あとは寝るまでの幸せな時間。
お部屋に戻れば、お兄ちゃんを独占できる。
二人で並んで座り、文字の読み書きを教えてもらったり、聖地にある数少ない本を一緒に読んだりする。
お兄ちゃんの優しい声を聞きながらページをめくる時間が、たまらなく好きだった。
今日という一日が無事に終わり、お兄ちゃんの隣で横になる。
(明日も、お兄ちゃんの役に立てますように)
そう心の中で祈りながら、私は静かに目を閉じた。